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第二章
頂の花
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慌ただしくはあったが、一度相手をした魔物である。対応は早かった。しかし険しい山道で立て続けに次々と魔物に襲われて、明らかに三人とも消耗していた。
しばらく登ると、少しなだらかな開けた場所に出た。木々が深く生い繁る場所よりも広く辺りが見渡せるため、少し休憩をしつつ、今の場所を地図で確認することにする。
「今は……この辺りか。まだ山頂までは結構あるな」
「うん……まだ登り始めたばっかりだしね。でも、そんなに大きい山じゃなくてよかった」
村の周りは山々に囲まれていて、採掘場のあるこの山よりもずっと高い山もいくつかあった。もしもあれに登るとなると、もう優人たちの手には負えないことになっていたかもしれない。今登っている山は頂上も目で見える、小さな山だ。今のペースで進めば、昼過ぎには山頂に着くことができるだろう。
「……ところで、匂いの方は大丈夫なのか?カミーユ」
「ああ、なんとかな……多少はするがコレがあるぶん、ずいぶんマシだ」
カミーユは昨日に用意していた細長い布地を、目から下を覆うように巻きつけ、マスクの代わりにしている。さらりとした薄い布地だが、昨日かけていたまじないが効いているのだろうか、見た目よりは効果があるらしい。
「さっきからちょこちょこ外して確認してみてはいるが、確かに麓よりもここのほうが匂いがキツい。……おそらく、だんだんとキツくなってくるんだろうな」
カミーユはうんざりとした顔で呟く。相変わらず優人とエリーは何も感じないが、登り進むごとに匂いは強くなっているのだと言う。
「気になってたんだけど、匂いってどんな匂いなの?」
「なんて言うんだろうな……例えにくいな。焦げ臭いような、ああいうのが近いか。最初は何か燃えてるのかと思ったしな」
なるほど、焦げ臭いような匂いが強くなっていくと思うと、想像しただけで具合が悪くなりそうだ。優人は自分に魔力がなくてよかったと初めて少しだけ思った。
早く進まなければ、小さな山とはいえ日が暮れてしまう。休憩もそこそこに、三人はまた山登りを再開する。
進むほどに、山道は険しさを増した。それに、襲いかかってくる魔物も多くなってきている。
「来るときもすごかったけど、山の中は一段とすごいね……普段はみんな大人しいなんて、ちょっと想像できないな」
「ああ、村もよく無事だったものだ」
最大規模の騎士団があるデアルクスと、強い魔法使いたちが集うというマヒアド、そして高い山々に囲まれたカローナは、普段はこうして魔物が襲いかかってくることもなく、本来とても平和な村なのだという。今の状況からは、とても信じられない。
「まあ、今は星石が山ほど集められていいくらいに思っておけばいいんじゃねーの?」
「はは、そうだね。確かに、もういっぱいだ」
いつもはエリーの腰につけたポーチへと星石はしまっているのだが、もうすでにポーチはいっぱいだ。仕方がないので、別の麻布に包んで保管している。
山登りの最中に魔物が次々と襲いかかってくるのは問題だが、旅の目的は達しているのだから、それはそれでよいことにする。
「それにしても……気のせいか、風も強くなってきたな」
どんどんと登り進めていると、ふとカミーユが呟いた。登り始めたときは肌に少し風を感じる程度だったはずが、今はエリーの髪や優人のコートの裾などがはためくほどの強い風が吹いている。考えてみれば、この村に来てから一番の強風だ。
「……やっぱり、匂いはここからなのかな」
既に、山頂近くまでもう少しというところまで来ている。そこで、エリーがグッと顔をしかめ、うう、と小さく唸った。
「……ああ、ここまで来たらさすがにわたしでもわかる……これは」
「……もしかして」
その手が鼻と口元を覆っているのを見て、優人もカミーユもああ、という顔をした。
「カミーユ…同情するぞ。これはひどい匂いだ…」
「わかってくれるか…エリー…」
エリーも今までわからなかったが、少しは魔力を持っている。普通のヒトではないぶん、鼻はあまり効かないと話していたそのエリーが、今は耐えられないというように俯いている。依然匂いなどは何も感じない優人は意味もなくおろおろとする。
「……ということは、だ。近いぞ」
「うん、探そう」
気を取り直し、先へと進む。ひどい匂いに苦しむことにはなるが、目標がすぐ近くまで来ているということには変わりない。それに、ここまで苦労をしてきた山登りも、無駄足ではなかったということだ。
やっと山頂がすぐそこに見えた。繰り返された戦闘と慣れない山道で、足が棒のようだとはこういうことなのだなと優人は実感していた。
それでも、ここで足を止めるわけにはいかない。目の前に、一目見れば異様だとわかる、怪しげな木が見えているからだ。
「あれか、原因は……!」
「すごく嫌な感じがする……二人とも、大丈夫?」
いつも心配される側の優人が二人に問うのは、より強くなる風に乗って吹きつけられているであろう悪臭のことだ。
「あれをなんとかすりゃいいんだろ、やってやるぜ……」
「ああ、速攻で」
これまではもう笑うしかないという感じだった二人だが、今は何だか怒り顔である。笑いでは済まなかった場合は、怒りが沸いてくるのだろうかと、優人は鬼気迫る二人の迫力に少し怯えながら思った。
辺りの木はまだまだ青々とした葉をつけているというのに、その木だけは葉を落とし枯れていた。何の木なのかはわからない。それは、優人が植物に詳しくないからというだけではなく、そのぐにゃりと禍々しく曲がりくねった枝の木がとても普通の木には見えなかったからかもしれない。
その怪しげな木の周りだけ、植物らしいものは何もなかった。いや、きっともともとは何かしら生えていたのだろう。今となっては何だったのかもわからない、木の根のようなものはそこかしこに見える。
原因は、この風だ。どういう原理なのかはわからないが、怪しげな木を中心に、ものすごい強風が吹いている。気を抜けば足元を掬われてしまいそうな風。こんな風が四六時中吹きつけられていたのなら、すぐ近くの植物たちは引きちぎれてしまったのだろう。
「ひでぇ有り様だ。さて、どうするか……」
まずは木を調べようと一歩踏み出せば、辺りの空気がざわりと変わる。
「動いたよ!」
ぐにゃぐにゃと曲がりくねった枝が、触手のように蠢くのが見えた。やはりこの木は、植物などではない。植物に擬態した魔物なのだ。
「……っ!気をつけろ、来るぞ!」
木の魔物が三人の気配に気がつくと、吹きつける風が一層強くなった。体格のいいカミーユでさえ、踏ん張っていなければ立っていられないほどの風だ。
「くうっ……!」
「エリー!」
体の軽いエリーはその風にあおられバランスを崩した。何とか少し離れた位置にある他の木の幹を盾にしてしがみつき、飛ばされることは回避したようだったが、これでは手も足も出ない状態である。
「すまない、これではとても戦えない……!」
「無理すんな、ここは俺たちが何とかする!できるな、ユウト!」
優人もふらついてはいたが、飛ばされるほどではない。なんとか剣を構え、カミーユの声に頷く。
「うん、いけるよ!」
正直なところあまり自信はなかったが、カミーユの顔色は悪く、無理をしているのがわかる。そしてエリーも戦えないとなっては、できないなどとは言っていられない。やらなくてはならないのだ。
枝はしばらく様子を見るように静まっていたが、優人とカミーユが武器を構えると殺気を感じ取ったのか、また激しく蠢きだした。
太い主要な枝は全部で五本。そこからまた細かく枝分かれしている。しかし、そもそもあまり大きな木ではないため剣で断ち切れないこともなさそうなのが救いだ。
そう観察していると、一本の枝が鞭のようにしなりながらカミーユのほうへ伸びる。思った以上に速い。あっという間もなく、カミーユの体に絡みついた。
「っ!カミーユ!」
考えるよりも先に体が動いていた。すぐにカミーユのほうへ駆け寄り、絡みついた枝を斬り裂く。本体からちぎれた枝は力を失ったようにくたりと地面に落ち、カミーユは解放される。
「すまん、油断した…!」
「ううん、平気。それより……」
枝のほうへ勢いよく飛び込んでいったため、着地するのに少し体勢を崩しかけたが、なんとか急いで魔物のほうへと向き直る。根を張っているため魔物自体が移動しないのはいいが、縦横無尽にかなり素早く動く枝が五つ。断ち斬ったはずが、本数に変化はない。枝の一本ならば切り離すことは優人の力程度でも容易らしいが、どうやらすぐに再生するようだ。
「数を減らそうとしても無駄っぽいね」
「……ああ、再生スピードも大したもんだ」
「前に戦った植物系の魔物は、根が弱点だったよね?」
城を出てすぐの森で出くわした花のような魔物は、根の部分を攻撃して封印できたことを思い出す。同じ植物ならば、育つのに重要な、そして普段は隠している根が弱点というのはありそうなことではないだろうかと考えたのだ。
「アレは根が弱点というか、茎と根を切り離すことが条件だったんだが…同じようにいくかな」
「…だめかな?」
言われてみればそうだったような気もする。あれは細い茎だったから簡単に断ち切ることができたが、今回は大きくはないとは言えそれなりに太い木だ。エリーならまだしも、カミーユの杖や非力な優人の剣で幹を切断することはかなり難しいことのように思える。
「おわっ……!だめとかいいとかってよりも、まず近づけやしねぇよ……!」
「確かに……!」
考えている間にも魔物はどんどんと攻撃を仕掛けてくる。少しでも近づけば、接近してきたものを排除しようとするように枝は蠢く。
「まあでも試してみるか、他にアテもねぇしな」
「うん、隙を作ろう」
魔物の攻撃をかわしつつ隙を窺う。どこかにチャンスはあるはずだと相手の動きに集中する。
……しかし、どうにもつけ入る隙がなかった。こちらは二人も居るのに、とは思うが、魔物の腕とも言える枝は五本もある。
「……ああもう!埒があかねえ!おいユウト!」
カミーユが痺れを切らし、苛立った口調で優人を呼ぶ。
「なに?」
「俺がコイツの注意を引きつけてやる、その隙に全力で本体をぶった斬ってやれ!」
「でも、そんなこと……!」
「できるんだよ!本当はやりたかねぇけどな……」
そう言ってカミーユは、勢いよく身に纏っていたローブを脱ぎ捨てた。
「カミーユ!?」
「いいから集中しろ!」
カミーユは次々とブレスレットやリング、ピアスを外していった。そこで優人はハッとする。そうだ、カミーユのアクセサリーは全部魔除けなのだと言っていた。つまり、それらを外すということは……。
「やれェ!ユウト!」
「はい!」
まじないの力をほぼ半減と言えるほどに装備を外してしまうと、途端に魔物の意識がカミーユのほうへと移っていくのがわかる。全ての枝の先がカミーユへ向いた瞬間に、優人は駆け出した。そして全力で、根元に剣を突き立てる。
「……くっ!」
やはり優人の力では、幹を両断し倒すことは困難だった。そして苦戦している間に、カミーユに注意を向けていた枝が攻撃を受けたほうへと集まってくる。
「クソッだめか!ユウト!」
「……っわあ!」
幹に深く刺さった剣を引き抜くのに手間取った優人を、触手のような枝は素早く捕らえた。そして残りの枝がその身を貫こうと迫ってくる。
そのとき、優人を捕らえ貫こうとする二本以外の枝に、ちらりと白い何かが見える。
「やらせるかよ!」
幹を挟んで反対側に居たカミーユが駆け寄り、全力で優人を掴む枝を杖で叩く。衝撃で掴む力が弛んだところを見逃さず、優人が断ち斬った。解放されるとすぐ、ひとまず魔物とじゅうぶんな距離をとる。視界の端に見えた何かが何だったのか、確かめることはできなかった。
「……は~っ!……意味なしっ!!」
「ご、ごめん……」
「お前の非力は関係ねぇよ。根の近くを攻撃されたところで、何か特別ダメージを受けてるっつー感じじゃなさそうだ。つまり弱点ではねぇってことだよ」
なるほど、確かに弱点近くを攻撃されたならばもう少し違う反応があっても良さそうだが、魔物はただ攻撃されたから反撃しただけのようで、何か変化があるわけでもなく、また問題なく再生している。
「……あのさ、今……どれかの枝に何か見えたんだ。カミーユは気づいた?」
「何かってなんだよ?」
「一瞬だったから、何かはわからなかったんだけど……僕には、花に見えた」
そうだ、小さな花が見えた。こんな枯れた木に、葉ひとつもない木に、白い花が咲いているのが見えたのだ。
「花だぁ?こんな枯れ木に?」
「……僕も見間違いかなと思うんだけど……でも、他に手がかりもないし、確かめてみる」
優人自身にも、とても花が咲いているような木には見えない。そもそもこれは木ではなく魔物だ。花など咲くものか。そう思う。だからこそ、その白い花のような何かが目についたのかもしれない。
しかし相変わらず敵の動きは激しく俊敏で、近づくことさえままならない。優人が一度攻撃してからむしろ警戒が強くなっているように思える。それでも懸命に、近づこうと踏み込んでは攻撃をかわし、様子を窺ってみる。
「おい、ユウト!」
「なに?」
少しの間優人とカミーユが一進一退の攻防をしているうちに、エリーが何かに気がついたように優人に声をかけてくる。間近の木にしがみつきながらも、その視線は優人ではなく、魔物のある一点を見つめていた。
「枝に何かあるというのは当たりかもしれん!」
「ほんと?」
「ああ、さっきから五本のうちの一本だけ、やけに動きが鈍い!さっきユウトが捕まったときも距離が近かったのに、その一本は捕まえにも行かないし、攻撃しようともしなかった!」
離れた場所から見ていたエリーには、全体の動きがよく見えていたのだろう。確かになにかを掴むときは、利き腕か、より掴みたい物に近いほうの腕が出るものだ。
一番距離が近いのに手が出ないのには、何か理由があるはずだ。例えば、何か大事なものを持っているとか。
「……あの枝か!」
指摘されて見てみたら、案外わかりやすい動きをしているものだ。威嚇するような動きを見せる他の枝とは違い、その枝だけはふらふらとさまようような曖昧な動きを繰り返すばかりで、こちらに攻撃しようとはしていない。
「問題は、アレにどうやって近づくか…」
目標は攻撃してこないが、他の枝が素早く攻撃を仕掛けてくるのには変わりはない。それに、攻撃や威嚇をしていないとなると、枝の先端は上の方向を向いたまま、かなり高い位置でふらふらしている。
「……届くかな?」
とても届きそうにはない。優人は多少動けるようになったとはいえ、身体能力が劇的に成長したなどというわけではなかった。長身かつ身の丈ほどの長い杖を持つカミーユならば届くかもしれないが、もしも弱点ならば叩くのは優人でなければ意味がない。
「……一か八かだ、俺がもう一度だけやってやる。俺が捕まったら、その枝を踏み台にしてやれ」
「そんな、無茶だ!」
「だったら、お前が飛べるのか!飛べたとして他の枝に捕まらないで攻撃できるのかよ!方法がねぇんだ、グダグダ言うな」
カミーユの言う通りだった。他に方法なんてなかった。それでも、そんなことをしたらカミーユがどうなってしまうかわからない。そう顔に書いてある優人を見て、カミーユが苛ついた顔のまま、口元だけで笑った。
「お前に心配されるようなヘマはしねーよ。お前は余計なこと考えないであの枝をぶっ叩け」
「………わかった」
決まってしまえば、あとは実行するのみだ。一度はおざなりにまた身につけていたローブやリングなどを次々と外していく。また、ざわりと魔物の枝たちが獲物を見つけたとでもいうように蠢く。
「オラァ、いくぞ!ボサッとしてんじゃねえぞ!」
「うん!」
カミーユは先程よりも多く装備を外しているように思えた。それだけ、今このときに賭けているということだ。チャンスは一度きり、そう何度もカミーユを危険に晒すわけにはいかない。
そう覚悟を決めた優人の心情を読み取ってか、カミーユもひとつ頷き、足を前へと動かす。一歩前へ踏み出せば、もう魔物の枝の届く距離になる。
「行けェ!ユウト!」
カミーユの声に合わせて優人は走り出す。思いきり助走をつけて、優人が走り出したと同時にカミーユの体に絡みついた枝を蹴り、その上に乗りあげた。
いくら魅力的な餌が目の前にあるとはいえ、優人の突然の動きには魔物も動揺していたようだった。それでもご丁寧に目的の枝だけを残してすべての枝がカミーユのほうへと絡みついてくれたおかげで、枝をつたって駆けあがることはそう難しくはなかった。急に崩れ落ちる山道よりはよほど進みやすい。これなら届く、そう思った。
「……見つけた!」
駆けあがる僅かな間にも、優人は目を凝らして枝にあるはずの白い花を探した。戸惑うようにふらふらと揺れ動く枝の先のほうに、ひとつだけ白い何かが見える。どんどんと近づけば、やはりそれは花だとわかる。そして近づくほどに、風が強くなることにも気がつく。この出どころのわからない風は、確かにこの枝、いや、この花から吹きつけられているように思える。
「くっ……」
ほんの少し油断でもしようものなら、そのまま吹き飛ばされてしまいそうだった。それほどに強烈な風だ。こんなにも凄まじい風の中で咲く小さな花など、やはりあるはずがない。そして、それをこんなにも強い風で寄せつけず、攻撃も仕掛けてこようとしないとなれば、考えられることはひとつだった。
「………っ!」
あまりの強風に、優人は声すら上げることが叶わなかった。それでも吹き飛ばされずに、まっすぐに花のほうへと走り、その剣を振るうことができたことは、優人自信も驚いていた。視界の端に、枝に捕まり必死でもがきながらも、優人を信じて見守っているカミーユの姿が見えたからかもしれない。
飛ばされないように低く構えた剣は、きれいに横一線の軌道でその花を捉えた。その花は、こんなにも強い風の中でも散ることもなく咲いていたというのに、優人の一振りで簡単に、儚く散った。同時に、流れ込んでくるいつもの感覚。しかし、今回はいつもと違った。この感情は、なんだ?
優人がそう混乱しているうちに、弱点を貫かれた魔物は強い光に包まれて弾け、その姿を消した。
「……っうわぁ!」
「ユウト!」
魔物が姿を消すその前に、まず強く吹いていた風が花を切り裂くと同時に止んでいた。突然風が止んだために、不安定な木の上で踏ん張っていた優人は大きくバランスを崩してしまう。前のめりに傾いた体を支えようにも、次の瞬間には魔物が消え、足場自体がなくなってしまっていた。
つまり優人は、それなりに高い木の上から、真っ逆さまに落下したのである。それを見たエリーもカミーユも、揃って優人の名を叫んだ。
「ぐえっ」
体に走る衝撃に、呻くような声が出た。しかし、確かに顔から落下したはずの優人は、頭を打ったりはしていなかった。それに、地面に投げ出されたにしてはあまり痛みは感じない。
「……無事か、ユウト」
「う、うん……」
それもそのはずだった。優人は地面に落ちたのではなく、風が止み動けるようになったエリーが駆けつけてくれ、その身を受け止めてくれていたのだった。
「ふう、間に合ってよかった」
体に走った鈍い衝撃は、エリーにぶつかったことによるものだった。エリーはうまく衝撃を和らげ受け止めてくれたので、幸い怪我をするようなことはなかった。
優人の頭の中は、まだ混乱していた。今回の魔物から流れ込んできた感情を、いまだ処理しきれていなかった。いつもならば、ぐっと堪えているうちに二人の声が聞こえて、魔物を封印できたことがわかり、それで誤魔化せるというのに、優人の頭の中はまだぐるぐると目眩を起こしたように回っていた。
この感情の正体が、優人にはわからないのだ。ただ、ひどく強い害意だということはわかる。けれども、今まで流れ込んできた誰かを傷つけたいとか、意地悪な気持ち、誰にでも持ちうるような小狡い気持ちとは、あまりにもかけ離れているのだ。
これは、支配欲というのだろうか。全てを意のままに服従させ、恐怖でもって支配せんとする欲望。これは誰かの胸のうちにある小さな気持ちなどではない。世に渦巻く欲望の成れの果てだ。
「……ユウト?大丈夫か?」
なんだか、本当に目眩を起こしてしまったように視界が歪む。ごくごく普通に生きてきた優人では、到底持つことはなかったような気持ち。それが身体中を巡っている感覚。訳がわからなくて、心が、身体が拒否しているのがわかる。受け止めてくれたエリーに、何か言わなくては。そう思うのに、うまく口が動かない。心の中に容れられる感情の許容量をはるかに越えたものが自分の中で出口を求めて暴れまわり、優人はまた吐き気さえ覚えた。
「……っ!おい、ユウト!しっかりしろ!」
「……ユウト!」
かくん、と優人の体から力が抜ける。固く閉ざした瞼は、簡単に開きそうもない。優人は、受け入れきれない、得体の知れない何かの支配に負け、意識を飛ばしてしまっていた。
しばらく登ると、少しなだらかな開けた場所に出た。木々が深く生い繁る場所よりも広く辺りが見渡せるため、少し休憩をしつつ、今の場所を地図で確認することにする。
「今は……この辺りか。まだ山頂までは結構あるな」
「うん……まだ登り始めたばっかりだしね。でも、そんなに大きい山じゃなくてよかった」
村の周りは山々に囲まれていて、採掘場のあるこの山よりもずっと高い山もいくつかあった。もしもあれに登るとなると、もう優人たちの手には負えないことになっていたかもしれない。今登っている山は頂上も目で見える、小さな山だ。今のペースで進めば、昼過ぎには山頂に着くことができるだろう。
「……ところで、匂いの方は大丈夫なのか?カミーユ」
「ああ、なんとかな……多少はするがコレがあるぶん、ずいぶんマシだ」
カミーユは昨日に用意していた細長い布地を、目から下を覆うように巻きつけ、マスクの代わりにしている。さらりとした薄い布地だが、昨日かけていたまじないが効いているのだろうか、見た目よりは効果があるらしい。
「さっきからちょこちょこ外して確認してみてはいるが、確かに麓よりもここのほうが匂いがキツい。……おそらく、だんだんとキツくなってくるんだろうな」
カミーユはうんざりとした顔で呟く。相変わらず優人とエリーは何も感じないが、登り進むごとに匂いは強くなっているのだと言う。
「気になってたんだけど、匂いってどんな匂いなの?」
「なんて言うんだろうな……例えにくいな。焦げ臭いような、ああいうのが近いか。最初は何か燃えてるのかと思ったしな」
なるほど、焦げ臭いような匂いが強くなっていくと思うと、想像しただけで具合が悪くなりそうだ。優人は自分に魔力がなくてよかったと初めて少しだけ思った。
早く進まなければ、小さな山とはいえ日が暮れてしまう。休憩もそこそこに、三人はまた山登りを再開する。
進むほどに、山道は険しさを増した。それに、襲いかかってくる魔物も多くなってきている。
「来るときもすごかったけど、山の中は一段とすごいね……普段はみんな大人しいなんて、ちょっと想像できないな」
「ああ、村もよく無事だったものだ」
最大規模の騎士団があるデアルクスと、強い魔法使いたちが集うというマヒアド、そして高い山々に囲まれたカローナは、普段はこうして魔物が襲いかかってくることもなく、本来とても平和な村なのだという。今の状況からは、とても信じられない。
「まあ、今は星石が山ほど集められていいくらいに思っておけばいいんじゃねーの?」
「はは、そうだね。確かに、もういっぱいだ」
いつもはエリーの腰につけたポーチへと星石はしまっているのだが、もうすでにポーチはいっぱいだ。仕方がないので、別の麻布に包んで保管している。
山登りの最中に魔物が次々と襲いかかってくるのは問題だが、旅の目的は達しているのだから、それはそれでよいことにする。
「それにしても……気のせいか、風も強くなってきたな」
どんどんと登り進めていると、ふとカミーユが呟いた。登り始めたときは肌に少し風を感じる程度だったはずが、今はエリーの髪や優人のコートの裾などがはためくほどの強い風が吹いている。考えてみれば、この村に来てから一番の強風だ。
「……やっぱり、匂いはここからなのかな」
既に、山頂近くまでもう少しというところまで来ている。そこで、エリーがグッと顔をしかめ、うう、と小さく唸った。
「……ああ、ここまで来たらさすがにわたしでもわかる……これは」
「……もしかして」
その手が鼻と口元を覆っているのを見て、優人もカミーユもああ、という顔をした。
「カミーユ…同情するぞ。これはひどい匂いだ…」
「わかってくれるか…エリー…」
エリーも今までわからなかったが、少しは魔力を持っている。普通のヒトではないぶん、鼻はあまり効かないと話していたそのエリーが、今は耐えられないというように俯いている。依然匂いなどは何も感じない優人は意味もなくおろおろとする。
「……ということは、だ。近いぞ」
「うん、探そう」
気を取り直し、先へと進む。ひどい匂いに苦しむことにはなるが、目標がすぐ近くまで来ているということには変わりない。それに、ここまで苦労をしてきた山登りも、無駄足ではなかったということだ。
やっと山頂がすぐそこに見えた。繰り返された戦闘と慣れない山道で、足が棒のようだとはこういうことなのだなと優人は実感していた。
それでも、ここで足を止めるわけにはいかない。目の前に、一目見れば異様だとわかる、怪しげな木が見えているからだ。
「あれか、原因は……!」
「すごく嫌な感じがする……二人とも、大丈夫?」
いつも心配される側の優人が二人に問うのは、より強くなる風に乗って吹きつけられているであろう悪臭のことだ。
「あれをなんとかすりゃいいんだろ、やってやるぜ……」
「ああ、速攻で」
これまではもう笑うしかないという感じだった二人だが、今は何だか怒り顔である。笑いでは済まなかった場合は、怒りが沸いてくるのだろうかと、優人は鬼気迫る二人の迫力に少し怯えながら思った。
辺りの木はまだまだ青々とした葉をつけているというのに、その木だけは葉を落とし枯れていた。何の木なのかはわからない。それは、優人が植物に詳しくないからというだけではなく、そのぐにゃりと禍々しく曲がりくねった枝の木がとても普通の木には見えなかったからかもしれない。
その怪しげな木の周りだけ、植物らしいものは何もなかった。いや、きっともともとは何かしら生えていたのだろう。今となっては何だったのかもわからない、木の根のようなものはそこかしこに見える。
原因は、この風だ。どういう原理なのかはわからないが、怪しげな木を中心に、ものすごい強風が吹いている。気を抜けば足元を掬われてしまいそうな風。こんな風が四六時中吹きつけられていたのなら、すぐ近くの植物たちは引きちぎれてしまったのだろう。
「ひでぇ有り様だ。さて、どうするか……」
まずは木を調べようと一歩踏み出せば、辺りの空気がざわりと変わる。
「動いたよ!」
ぐにゃぐにゃと曲がりくねった枝が、触手のように蠢くのが見えた。やはりこの木は、植物などではない。植物に擬態した魔物なのだ。
「……っ!気をつけろ、来るぞ!」
木の魔物が三人の気配に気がつくと、吹きつける風が一層強くなった。体格のいいカミーユでさえ、踏ん張っていなければ立っていられないほどの風だ。
「くうっ……!」
「エリー!」
体の軽いエリーはその風にあおられバランスを崩した。何とか少し離れた位置にある他の木の幹を盾にしてしがみつき、飛ばされることは回避したようだったが、これでは手も足も出ない状態である。
「すまない、これではとても戦えない……!」
「無理すんな、ここは俺たちが何とかする!できるな、ユウト!」
優人もふらついてはいたが、飛ばされるほどではない。なんとか剣を構え、カミーユの声に頷く。
「うん、いけるよ!」
正直なところあまり自信はなかったが、カミーユの顔色は悪く、無理をしているのがわかる。そしてエリーも戦えないとなっては、できないなどとは言っていられない。やらなくてはならないのだ。
枝はしばらく様子を見るように静まっていたが、優人とカミーユが武器を構えると殺気を感じ取ったのか、また激しく蠢きだした。
太い主要な枝は全部で五本。そこからまた細かく枝分かれしている。しかし、そもそもあまり大きな木ではないため剣で断ち切れないこともなさそうなのが救いだ。
そう観察していると、一本の枝が鞭のようにしなりながらカミーユのほうへ伸びる。思った以上に速い。あっという間もなく、カミーユの体に絡みついた。
「っ!カミーユ!」
考えるよりも先に体が動いていた。すぐにカミーユのほうへ駆け寄り、絡みついた枝を斬り裂く。本体からちぎれた枝は力を失ったようにくたりと地面に落ち、カミーユは解放される。
「すまん、油断した…!」
「ううん、平気。それより……」
枝のほうへ勢いよく飛び込んでいったため、着地するのに少し体勢を崩しかけたが、なんとか急いで魔物のほうへと向き直る。根を張っているため魔物自体が移動しないのはいいが、縦横無尽にかなり素早く動く枝が五つ。断ち斬ったはずが、本数に変化はない。枝の一本ならば切り離すことは優人の力程度でも容易らしいが、どうやらすぐに再生するようだ。
「数を減らそうとしても無駄っぽいね」
「……ああ、再生スピードも大したもんだ」
「前に戦った植物系の魔物は、根が弱点だったよね?」
城を出てすぐの森で出くわした花のような魔物は、根の部分を攻撃して封印できたことを思い出す。同じ植物ならば、育つのに重要な、そして普段は隠している根が弱点というのはありそうなことではないだろうかと考えたのだ。
「アレは根が弱点というか、茎と根を切り離すことが条件だったんだが…同じようにいくかな」
「…だめかな?」
言われてみればそうだったような気もする。あれは細い茎だったから簡単に断ち切ることができたが、今回は大きくはないとは言えそれなりに太い木だ。エリーならまだしも、カミーユの杖や非力な優人の剣で幹を切断することはかなり難しいことのように思える。
「おわっ……!だめとかいいとかってよりも、まず近づけやしねぇよ……!」
「確かに……!」
考えている間にも魔物はどんどんと攻撃を仕掛けてくる。少しでも近づけば、接近してきたものを排除しようとするように枝は蠢く。
「まあでも試してみるか、他にアテもねぇしな」
「うん、隙を作ろう」
魔物の攻撃をかわしつつ隙を窺う。どこかにチャンスはあるはずだと相手の動きに集中する。
……しかし、どうにもつけ入る隙がなかった。こちらは二人も居るのに、とは思うが、魔物の腕とも言える枝は五本もある。
「……ああもう!埒があかねえ!おいユウト!」
カミーユが痺れを切らし、苛立った口調で優人を呼ぶ。
「なに?」
「俺がコイツの注意を引きつけてやる、その隙に全力で本体をぶった斬ってやれ!」
「でも、そんなこと……!」
「できるんだよ!本当はやりたかねぇけどな……」
そう言ってカミーユは、勢いよく身に纏っていたローブを脱ぎ捨てた。
「カミーユ!?」
「いいから集中しろ!」
カミーユは次々とブレスレットやリング、ピアスを外していった。そこで優人はハッとする。そうだ、カミーユのアクセサリーは全部魔除けなのだと言っていた。つまり、それらを外すということは……。
「やれェ!ユウト!」
「はい!」
まじないの力をほぼ半減と言えるほどに装備を外してしまうと、途端に魔物の意識がカミーユのほうへと移っていくのがわかる。全ての枝の先がカミーユへ向いた瞬間に、優人は駆け出した。そして全力で、根元に剣を突き立てる。
「……くっ!」
やはり優人の力では、幹を両断し倒すことは困難だった。そして苦戦している間に、カミーユに注意を向けていた枝が攻撃を受けたほうへと集まってくる。
「クソッだめか!ユウト!」
「……っわあ!」
幹に深く刺さった剣を引き抜くのに手間取った優人を、触手のような枝は素早く捕らえた。そして残りの枝がその身を貫こうと迫ってくる。
そのとき、優人を捕らえ貫こうとする二本以外の枝に、ちらりと白い何かが見える。
「やらせるかよ!」
幹を挟んで反対側に居たカミーユが駆け寄り、全力で優人を掴む枝を杖で叩く。衝撃で掴む力が弛んだところを見逃さず、優人が断ち斬った。解放されるとすぐ、ひとまず魔物とじゅうぶんな距離をとる。視界の端に見えた何かが何だったのか、確かめることはできなかった。
「……は~っ!……意味なしっ!!」
「ご、ごめん……」
「お前の非力は関係ねぇよ。根の近くを攻撃されたところで、何か特別ダメージを受けてるっつー感じじゃなさそうだ。つまり弱点ではねぇってことだよ」
なるほど、確かに弱点近くを攻撃されたならばもう少し違う反応があっても良さそうだが、魔物はただ攻撃されたから反撃しただけのようで、何か変化があるわけでもなく、また問題なく再生している。
「……あのさ、今……どれかの枝に何か見えたんだ。カミーユは気づいた?」
「何かってなんだよ?」
「一瞬だったから、何かはわからなかったんだけど……僕には、花に見えた」
そうだ、小さな花が見えた。こんな枯れた木に、葉ひとつもない木に、白い花が咲いているのが見えたのだ。
「花だぁ?こんな枯れ木に?」
「……僕も見間違いかなと思うんだけど……でも、他に手がかりもないし、確かめてみる」
優人自身にも、とても花が咲いているような木には見えない。そもそもこれは木ではなく魔物だ。花など咲くものか。そう思う。だからこそ、その白い花のような何かが目についたのかもしれない。
しかし相変わらず敵の動きは激しく俊敏で、近づくことさえままならない。優人が一度攻撃してからむしろ警戒が強くなっているように思える。それでも懸命に、近づこうと踏み込んでは攻撃をかわし、様子を窺ってみる。
「おい、ユウト!」
「なに?」
少しの間優人とカミーユが一進一退の攻防をしているうちに、エリーが何かに気がついたように優人に声をかけてくる。間近の木にしがみつきながらも、その視線は優人ではなく、魔物のある一点を見つめていた。
「枝に何かあるというのは当たりかもしれん!」
「ほんと?」
「ああ、さっきから五本のうちの一本だけ、やけに動きが鈍い!さっきユウトが捕まったときも距離が近かったのに、その一本は捕まえにも行かないし、攻撃しようともしなかった!」
離れた場所から見ていたエリーには、全体の動きがよく見えていたのだろう。確かになにかを掴むときは、利き腕か、より掴みたい物に近いほうの腕が出るものだ。
一番距離が近いのに手が出ないのには、何か理由があるはずだ。例えば、何か大事なものを持っているとか。
「……あの枝か!」
指摘されて見てみたら、案外わかりやすい動きをしているものだ。威嚇するような動きを見せる他の枝とは違い、その枝だけはふらふらとさまようような曖昧な動きを繰り返すばかりで、こちらに攻撃しようとはしていない。
「問題は、アレにどうやって近づくか…」
目標は攻撃してこないが、他の枝が素早く攻撃を仕掛けてくるのには変わりはない。それに、攻撃や威嚇をしていないとなると、枝の先端は上の方向を向いたまま、かなり高い位置でふらふらしている。
「……届くかな?」
とても届きそうにはない。優人は多少動けるようになったとはいえ、身体能力が劇的に成長したなどというわけではなかった。長身かつ身の丈ほどの長い杖を持つカミーユならば届くかもしれないが、もしも弱点ならば叩くのは優人でなければ意味がない。
「……一か八かだ、俺がもう一度だけやってやる。俺が捕まったら、その枝を踏み台にしてやれ」
「そんな、無茶だ!」
「だったら、お前が飛べるのか!飛べたとして他の枝に捕まらないで攻撃できるのかよ!方法がねぇんだ、グダグダ言うな」
カミーユの言う通りだった。他に方法なんてなかった。それでも、そんなことをしたらカミーユがどうなってしまうかわからない。そう顔に書いてある優人を見て、カミーユが苛ついた顔のまま、口元だけで笑った。
「お前に心配されるようなヘマはしねーよ。お前は余計なこと考えないであの枝をぶっ叩け」
「………わかった」
決まってしまえば、あとは実行するのみだ。一度はおざなりにまた身につけていたローブやリングなどを次々と外していく。また、ざわりと魔物の枝たちが獲物を見つけたとでもいうように蠢く。
「オラァ、いくぞ!ボサッとしてんじゃねえぞ!」
「うん!」
カミーユは先程よりも多く装備を外しているように思えた。それだけ、今このときに賭けているということだ。チャンスは一度きり、そう何度もカミーユを危険に晒すわけにはいかない。
そう覚悟を決めた優人の心情を読み取ってか、カミーユもひとつ頷き、足を前へと動かす。一歩前へ踏み出せば、もう魔物の枝の届く距離になる。
「行けェ!ユウト!」
カミーユの声に合わせて優人は走り出す。思いきり助走をつけて、優人が走り出したと同時にカミーユの体に絡みついた枝を蹴り、その上に乗りあげた。
いくら魅力的な餌が目の前にあるとはいえ、優人の突然の動きには魔物も動揺していたようだった。それでもご丁寧に目的の枝だけを残してすべての枝がカミーユのほうへと絡みついてくれたおかげで、枝をつたって駆けあがることはそう難しくはなかった。急に崩れ落ちる山道よりはよほど進みやすい。これなら届く、そう思った。
「……見つけた!」
駆けあがる僅かな間にも、優人は目を凝らして枝にあるはずの白い花を探した。戸惑うようにふらふらと揺れ動く枝の先のほうに、ひとつだけ白い何かが見える。どんどんと近づけば、やはりそれは花だとわかる。そして近づくほどに、風が強くなることにも気がつく。この出どころのわからない風は、確かにこの枝、いや、この花から吹きつけられているように思える。
「くっ……」
ほんの少し油断でもしようものなら、そのまま吹き飛ばされてしまいそうだった。それほどに強烈な風だ。こんなにも凄まじい風の中で咲く小さな花など、やはりあるはずがない。そして、それをこんなにも強い風で寄せつけず、攻撃も仕掛けてこようとしないとなれば、考えられることはひとつだった。
「………っ!」
あまりの強風に、優人は声すら上げることが叶わなかった。それでも吹き飛ばされずに、まっすぐに花のほうへと走り、その剣を振るうことができたことは、優人自信も驚いていた。視界の端に、枝に捕まり必死でもがきながらも、優人を信じて見守っているカミーユの姿が見えたからかもしれない。
飛ばされないように低く構えた剣は、きれいに横一線の軌道でその花を捉えた。その花は、こんなにも強い風の中でも散ることもなく咲いていたというのに、優人の一振りで簡単に、儚く散った。同時に、流れ込んでくるいつもの感覚。しかし、今回はいつもと違った。この感情は、なんだ?
優人がそう混乱しているうちに、弱点を貫かれた魔物は強い光に包まれて弾け、その姿を消した。
「……っうわぁ!」
「ユウト!」
魔物が姿を消すその前に、まず強く吹いていた風が花を切り裂くと同時に止んでいた。突然風が止んだために、不安定な木の上で踏ん張っていた優人は大きくバランスを崩してしまう。前のめりに傾いた体を支えようにも、次の瞬間には魔物が消え、足場自体がなくなってしまっていた。
つまり優人は、それなりに高い木の上から、真っ逆さまに落下したのである。それを見たエリーもカミーユも、揃って優人の名を叫んだ。
「ぐえっ」
体に走る衝撃に、呻くような声が出た。しかし、確かに顔から落下したはずの優人は、頭を打ったりはしていなかった。それに、地面に投げ出されたにしてはあまり痛みは感じない。
「……無事か、ユウト」
「う、うん……」
それもそのはずだった。優人は地面に落ちたのではなく、風が止み動けるようになったエリーが駆けつけてくれ、その身を受け止めてくれていたのだった。
「ふう、間に合ってよかった」
体に走った鈍い衝撃は、エリーにぶつかったことによるものだった。エリーはうまく衝撃を和らげ受け止めてくれたので、幸い怪我をするようなことはなかった。
優人の頭の中は、まだ混乱していた。今回の魔物から流れ込んできた感情を、いまだ処理しきれていなかった。いつもならば、ぐっと堪えているうちに二人の声が聞こえて、魔物を封印できたことがわかり、それで誤魔化せるというのに、優人の頭の中はまだぐるぐると目眩を起こしたように回っていた。
この感情の正体が、優人にはわからないのだ。ただ、ひどく強い害意だということはわかる。けれども、今まで流れ込んできた誰かを傷つけたいとか、意地悪な気持ち、誰にでも持ちうるような小狡い気持ちとは、あまりにもかけ離れているのだ。
これは、支配欲というのだろうか。全てを意のままに服従させ、恐怖でもって支配せんとする欲望。これは誰かの胸のうちにある小さな気持ちなどではない。世に渦巻く欲望の成れの果てだ。
「……ユウト?大丈夫か?」
なんだか、本当に目眩を起こしてしまったように視界が歪む。ごくごく普通に生きてきた優人では、到底持つことはなかったような気持ち。それが身体中を巡っている感覚。訳がわからなくて、心が、身体が拒否しているのがわかる。受け止めてくれたエリーに、何か言わなくては。そう思うのに、うまく口が動かない。心の中に容れられる感情の許容量をはるかに越えたものが自分の中で出口を求めて暴れまわり、優人はまた吐き気さえ覚えた。
「……っ!おい、ユウト!しっかりしろ!」
「……ユウト!」
かくん、と優人の体から力が抜ける。固く閉ざした瞼は、簡単に開きそうもない。優人は、受け入れきれない、得体の知れない何かの支配に負け、意識を飛ばしてしまっていた。
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