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第六章
惹かれあうもの
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町へ近づくほどに、嗅ぎ慣れない潮の香りが強くなっていった。ずいぶん長いこと馬車に揺られて移動して、ようやく次の町が遠くに見えてきた。
そこは海の向こうへと繋がる交易の町。結びの町、セルセラと呼ばれるところだ。
王都やマヒアドから離れて以降、長閑な村や独特の雰囲気や文化のある小さな町が多くあったが、様々な土地の人が行き交う港町らしく、活気があり人が多い町だ。道のあちこちで露店のようなものが並び、客を呼び込む声が響いている。
「流石に、ちょっと疲れたね」
「座りっぱなし、揺られっぱなしでしたものね。怪我には響きませんでしたの?」
「それは大丈夫。アイシャさんとカミーユのおかげで、すっかり痛くないから」
ジュジでの戦いで負った怪我も、二人の治癒魔法により少し違和感がある程度まで良くなっている。無理をして動かなければ問題なかった。
「船にはいつ乗る?エリー」
「そうだな、皆疲れているだろうし、明日以降にしようか。この町でも何かあれば対処が必要だろうし、私も騎士団の集会所へ挨拶くらいはせねばな」
ここから先へ進むには船に乗り海の向こうの大陸へと渡る必要があるのだと道すがら話していた。当然のことだが、船に乗るにはチケットが必要で、それもすぐに予約が取れるものではないのだという。であれば、今日これからいきなり、というわけにもいかない。
「では私もエリー様に同行いたしますわ。セルセラの騎士団の方々とは顔見知りですの」
「おお、では一緒に行こう!わたしは久方ぶりだからな、案内してくれると助かる」
「お任せくださいませ!」
エリーとシンシアは、いまだ少し堅苦しさが抜けないものの、すっかり仲が良さそうだった。その堅苦しさも、二人らしいといえばらしい雰囲気なので、今はもうお互い気にしていないようだった。
賑やかなお喋りの声を響かせながら、二人は集会所の方へ向かっていった。残された男たち、優人とカミーユは二人の背中を見送りながらひととき、ほんの少し気まずい空気を味わった。
優人とカミーユは、いまだ然程仲良しという関係ではない。男同士である、あの二人のようにきゃっきゃと賑やかに会話をするような雰囲気になるはずもなく、かと言って、出会ったばかりの頃のようにカミーユが一方的につんけんとした態度を取り優人が怯えるというようなこともなくなった。
その仲が良くも悪くもない二人が取り残されれば、どうしたらいいのかわからないのは当然だろう。優人が少し困った様子でいると、カミーユも少し迷うような素振りを見せつつも、髪をくしゃくしゃと乱しながら小さくハア、と息を吐く。
「俺らは船の手配でも先に済ませちまおうぜ、ついでに色々と買い出しもある。付き合えよ」
「う、うん、行こう。……ありがとう、カミーユ」
「何の礼だよそれは」
あまり深い人付き合いの経験がない優人にとっては、こんなささやかな気遣いですら、とてもありがたいことのように思える。こういう気遣いをできるところが大人だなと、カミーユを尊敬するところだ。カミーユもそんな優人の心境はわかっているが、やはりどうにも照れ臭く、むず痒いような気分になる。わざと優人のありがとうと言った意味を追求することもなく、そのまま目的地の方へと歩き出したのだった。
船の予約をするカウンターは、海に面した通りの端の方にある。人が行き交う大通りからは外れている町の端、まさにこの大陸の出入り口のすぐそばだった。
カミーユはちょっとここらへんで待ってろ、と優人に言い、手慣れた様子で受付の男性と話し、明日以降の便の空きを確認している。
「流石、旅の先輩だね」
「船なんかは何度も乗ったわけじゃねえけどな。無茶振りだらけの旅だったもんで、勝手がわからんところにズケズケ乗り込んでいく度胸だけはついたよ」
カミーユはかつて教会からその身一つで住んでいた町から放り出され、世界を回る旅をしていたゆえに、多くの苦労や困難があった。所持金もそのとき持っていた僅かな額と、頼りになるのは魔法の力と僧侶という立場だけ。とんでもない修行をさせるものだと当時も今も変わらず思うが、初めてのことにも怖じ気づかない、多少の困難では心を折らないタフさは鍛えられたのだった。
「へえ……僕も見習ったほうがいいのかな……」
「……別にお前まで図太くならなくてもいいけどな」
「そうかな」
「そーだよ」
お前はそのままでいいんだ、と話すカミーユ。それは彼が自分のことを認めてくれているようで、優人は嬉しかった。
「……海、綺麗だ」
「初めてなのか?」
「初めてではないけど、こんなに青い色が綺麗なのは写真でしか見たことないよ」
「しゃしん?」
優人はそれまでこの世界の文化の違いに驚いたりしてはいたが、生活には何かと魔法の力が加えられ便利に過ごせていたので失念していた。この世界には機械と呼べるようなものがほとんどないのだ。当然カメラなどもないのだろう。
「風景とか、人とか、今見えてるものを絵みたいに写して残せるものだよ。小さな紙にして持ち運んだり、複製したりもできるから、どこか遠くの知らない風景も見たりできるんだ」
「なるほどなあ、便利なもんだ」
カミーユは感心したように言う。けれど優人には、この世界をしばらくの間歩いてきて、思うところがある。
「……僕らの世界は便利だけど、そのために自然が壊されたりもしてる。こっちへ来てから、この世界は綺麗なんだなって思うよ」
「……そうか」
目の前に広がる澄み切った青を見ながら、優人はしみじみとそう思った。優人にとっての元の暮らしと、この世界がはっきりと結びついた今、やはりこの世界の出来事は他人事ではないのだと改めて感じている。優人は今でも、この世界は自分が見ている夢なのではないかと思うことがある。けれどこうして見る知らぬ風景も、肌に感じる潮風も、優人の想像力など及ばぬほどにリアルだ。これが、紛れもない現実であることがわかる。それに、優人の決断よりもずっと前から、この選択は運命づけられていたもののようにすら思える。
なればこそ、守らなければと思うのだ。この美しい世界が失われるようなことがあってはいけないと、ここに暮らす人々を失いたくないと、そう思う。
できることは、何だってやろう。出てくる答えはいつもシンプルだ。父の心を挫いたこの先に待つ何かは恐ろしいが、今はそれが何なのか知りたい気持ちが勝っている。
優人とカミーユが港の端から海を眺めているうち、明日の昼の便以降であれば四人乗れる空きがあったとカウンターから声がかかった。一行はその便を仮押さえという形にし、二人は教会や住民への異変などの聞き込み、そして必需品の買い出しも行うことにした。
「あの日誌だけどな……いよいよ腹が立ってくるほど意地の悪い書き方なんだよ」
元々強面のカミーユが薄ら笑いを浮かべてはいるがその苛立ちを隠さないとなるとかなりの迫力がある。カミーユの人となりを理解し、慣れている人でなければ震え上がりそうなその雰囲気に、優人は苦笑いした。
「そ、そんなに……?」
「ああ、書いたマリオンとかいう魔法使いに会ったら一発殴りてえと思うくらいにはな」
王族付きの僧侶になる前はかなりヤンチャをしていたというカミーユが言うと洒落にならない台詞ではあるが、優人は敢えて聞き流すことにする。
「ここは各地から色んなものが集まってくるからな、何かあの日誌を読み解くのに参考になる書物なんかもあるかもしれねえ」
「なるほど、古書があるところ……」
二人は港から町の入り口までの長い通りをびっしりと埋める露店や路面店を覗きながら歩く。しばらく探すと、古びた書物が乱雑に並べてある路面店が目に入ってくる。店内は薄暗く、人々は寄りつかないような雰囲気だった。入ってもいいのかと戸惑うような店構えではあるが、そこは肝の座ったカミーユのことだ、構うことなくその扉を開く。
からんからん、と入り口につけられた小さなベルの音が静かな店内に響く。本棚が所狭しと立ち並んでいて、店の奥にいる店主と思しき老人の姿は注意深く見なければ探せないほどだ。鬱蒼とした森のようで、どこか別世界に来てしまったような雰囲気さえある。
まるで置物のように静かに小さな机に本を並べて読んでいる老人は、それでも来店した二人をちらりと見ると音を立てずにそっと頭を下げた。
「歴史書や伝承に纏わる本なんかはあるか?」
カミーユがそう尋ねると、老人は表情を変えることなくゆったりと伸びた髭を撫でながら、はて、と呟いた。
「元々は、そっちの奥のほうにまとめていたけどね。もう長いこと整理なんかしとらんで、あっちゃこっちゃに入荷した分を空いたところに詰め込んでりゃ、もうどこに何があるかなんて覚えとらんて」
もごもごとした声にクセのある喋り言葉で聞き取りにくいが、要するにわからないということだった。この本の量から目当てのものを探すのは、骨が折れそうだと優人は感じた。カミーユも参ったなと髪をくしゃりとかき乱した。
「しょうがねえ、お前は一応まとまってたらしいあっちの奥でなんか探してみててくれ。俺は向こう端からザッと探してくる」
「わかった」
本がびっしり並んでいるとはいえ、店内はそう広くはない。一見したところ、あまり関係なさそうな本も多くありそうなので、関連しない本を飛ばしていけば目当てのものを見つけ出すことは、丁寧に探していけば無理ではなさそうである。整理されてないことを嘆くことは今しても仕方がない。時間が許す限りは、この本の森を捜索することになったのだった。
ある程度カミーユから読み解いた経過を聞いているとはいえ、優人はその全容を把握しているわけではない。カミーユは何か読み解けている部分でさえ、仲間たちにまだ打ち明けていないこともあるのだろうとその様子から優人は思っていた。まだ確定的ではないからということもあるだろうが、それ以外の理由もあるような気がする。
そんな状況であるから、優人は使えそうな本とはいってもどういうものをカミーユが求めているのかいまいちわからない。速読が得意なカミーユだ、おそらく優人が抜き出した本が山ほどあったとしても、即座にそれが必要か不要か判別してくれるだろうと思う。優人は本棚の端から順にぱらぱらと中を覗いていく。
「……っと、危なかった…。本当に古いものが多いな」
紙が古くなり脆くなっているものも多く、丁寧に扱わなければページやカバーが千切れてしまいそうなものが多い。長く陳列されていたのだろう、殆どが埃を被ってしまっていて、棚から引き抜くたびに埃が舞い、いくつかくしゃみが出る。
薄暗く埃っぽい店内で、本を破損させないよう気を使いながら、旅の疲れも取れていない状態での探し物である。そう長くは集中が続かない。しかし、疲れて顔を上げたその視線の先で、ある物を見つける。
「…………?」
そう目立つ色をしているわけではないが、店内に射し込む僅かな陽の光にあたり、柔らかな布地のようにきらきらと光る背表紙が目に入る。他の本と同じように古く、薄汚れてはいるが、その独特の輝きが妙に目を惹く。綺麗で豪華な装丁の本であれば他にもあるが、不思議と目が奪われるそれに、優人は思わず手を伸ばし、本棚から引き抜いた。
キイイ、と耳鳴りのような甲高い音が僅かに聞こえる。通りの喧騒からは切り離された静けさの中だから気がつける程度に小さく耳に届くそれは、確かに耳鳴りではなく、けれどその場にいる優人にしか聞こえないようなものだった。
手に取ってその表紙の深い赤を指でなぞれば、その音は大きくはならないものの確かなものとなる。ぱらりと中を開いてみれば、それはあの日誌にどこか似た、印字されたものではない、誰かの手で直接書かれた手記のようなものだとわかる。
「カミーユ、来て」
思わず動揺した声をあげてしまったのは、その書かれた文字を見てどきりと心臓が高鳴ったからだ。優人は、この筆跡に覚えがある。
「どうした、何かあったか」
すぐに背後の棚からひょっこりと顔を出したカミーユも、その優人の様子に不思議そうな表情を浮かべる。
「見て」
「なんだ……これも、日記?」
中身を見たカミーユも、すぐに表情を変える。
「……これ、父さんの字だ」
「こいつは……先代の旅の記録か?」
それは、日記と呼んでも良いのかどうかもわからないほどのものだった。日付と、その日にあった出来事と、それに対してどう思ったのか。それぞれの日毎に二、三行程度のメモ書きがされているもの。マリオンの研究日誌と違うのは、父のそれは毎日欠かさず何かしらの言葉が記されているということだ。旅の始まりから、おそらくは終わりまで。
これでいよいよ、先代の救世主ユウサクが優人の父であることが確定することになる。父と交わした言葉は多くはないが、書き残した置き手紙はよく目にした。また留守にする旨を書いたもの、元気でやるようにという激励、土産の置き場所、次に帰る日にち……不器用な父はよくそれらを手紙にして残した。
今となっては懐かしささえ感じるその文字が、この世界で見つかった本に綴られている。人の言葉より記憶より、実際に目にする父がここにいたことを証明する物が手の中にあるのだ。
そのことを受けて、優人はどういう心持ちでいることが正解なのかわからずにいた。ただ規則正しく並ぶ几帳面な文字たちを、じっと見つめる。その様子を、カミーユも何も言わずに見ていた。
そこは海の向こうへと繋がる交易の町。結びの町、セルセラと呼ばれるところだ。
王都やマヒアドから離れて以降、長閑な村や独特の雰囲気や文化のある小さな町が多くあったが、様々な土地の人が行き交う港町らしく、活気があり人が多い町だ。道のあちこちで露店のようなものが並び、客を呼び込む声が響いている。
「流石に、ちょっと疲れたね」
「座りっぱなし、揺られっぱなしでしたものね。怪我には響きませんでしたの?」
「それは大丈夫。アイシャさんとカミーユのおかげで、すっかり痛くないから」
ジュジでの戦いで負った怪我も、二人の治癒魔法により少し違和感がある程度まで良くなっている。無理をして動かなければ問題なかった。
「船にはいつ乗る?エリー」
「そうだな、皆疲れているだろうし、明日以降にしようか。この町でも何かあれば対処が必要だろうし、私も騎士団の集会所へ挨拶くらいはせねばな」
ここから先へ進むには船に乗り海の向こうの大陸へと渡る必要があるのだと道すがら話していた。当然のことだが、船に乗るにはチケットが必要で、それもすぐに予約が取れるものではないのだという。であれば、今日これからいきなり、というわけにもいかない。
「では私もエリー様に同行いたしますわ。セルセラの騎士団の方々とは顔見知りですの」
「おお、では一緒に行こう!わたしは久方ぶりだからな、案内してくれると助かる」
「お任せくださいませ!」
エリーとシンシアは、いまだ少し堅苦しさが抜けないものの、すっかり仲が良さそうだった。その堅苦しさも、二人らしいといえばらしい雰囲気なので、今はもうお互い気にしていないようだった。
賑やかなお喋りの声を響かせながら、二人は集会所の方へ向かっていった。残された男たち、優人とカミーユは二人の背中を見送りながらひととき、ほんの少し気まずい空気を味わった。
優人とカミーユは、いまだ然程仲良しという関係ではない。男同士である、あの二人のようにきゃっきゃと賑やかに会話をするような雰囲気になるはずもなく、かと言って、出会ったばかりの頃のようにカミーユが一方的につんけんとした態度を取り優人が怯えるというようなこともなくなった。
その仲が良くも悪くもない二人が取り残されれば、どうしたらいいのかわからないのは当然だろう。優人が少し困った様子でいると、カミーユも少し迷うような素振りを見せつつも、髪をくしゃくしゃと乱しながら小さくハア、と息を吐く。
「俺らは船の手配でも先に済ませちまおうぜ、ついでに色々と買い出しもある。付き合えよ」
「う、うん、行こう。……ありがとう、カミーユ」
「何の礼だよそれは」
あまり深い人付き合いの経験がない優人にとっては、こんなささやかな気遣いですら、とてもありがたいことのように思える。こういう気遣いをできるところが大人だなと、カミーユを尊敬するところだ。カミーユもそんな優人の心境はわかっているが、やはりどうにも照れ臭く、むず痒いような気分になる。わざと優人のありがとうと言った意味を追求することもなく、そのまま目的地の方へと歩き出したのだった。
船の予約をするカウンターは、海に面した通りの端の方にある。人が行き交う大通りからは外れている町の端、まさにこの大陸の出入り口のすぐそばだった。
カミーユはちょっとここらへんで待ってろ、と優人に言い、手慣れた様子で受付の男性と話し、明日以降の便の空きを確認している。
「流石、旅の先輩だね」
「船なんかは何度も乗ったわけじゃねえけどな。無茶振りだらけの旅だったもんで、勝手がわからんところにズケズケ乗り込んでいく度胸だけはついたよ」
カミーユはかつて教会からその身一つで住んでいた町から放り出され、世界を回る旅をしていたゆえに、多くの苦労や困難があった。所持金もそのとき持っていた僅かな額と、頼りになるのは魔法の力と僧侶という立場だけ。とんでもない修行をさせるものだと当時も今も変わらず思うが、初めてのことにも怖じ気づかない、多少の困難では心を折らないタフさは鍛えられたのだった。
「へえ……僕も見習ったほうがいいのかな……」
「……別にお前まで図太くならなくてもいいけどな」
「そうかな」
「そーだよ」
お前はそのままでいいんだ、と話すカミーユ。それは彼が自分のことを認めてくれているようで、優人は嬉しかった。
「……海、綺麗だ」
「初めてなのか?」
「初めてではないけど、こんなに青い色が綺麗なのは写真でしか見たことないよ」
「しゃしん?」
優人はそれまでこの世界の文化の違いに驚いたりしてはいたが、生活には何かと魔法の力が加えられ便利に過ごせていたので失念していた。この世界には機械と呼べるようなものがほとんどないのだ。当然カメラなどもないのだろう。
「風景とか、人とか、今見えてるものを絵みたいに写して残せるものだよ。小さな紙にして持ち運んだり、複製したりもできるから、どこか遠くの知らない風景も見たりできるんだ」
「なるほどなあ、便利なもんだ」
カミーユは感心したように言う。けれど優人には、この世界をしばらくの間歩いてきて、思うところがある。
「……僕らの世界は便利だけど、そのために自然が壊されたりもしてる。こっちへ来てから、この世界は綺麗なんだなって思うよ」
「……そうか」
目の前に広がる澄み切った青を見ながら、優人はしみじみとそう思った。優人にとっての元の暮らしと、この世界がはっきりと結びついた今、やはりこの世界の出来事は他人事ではないのだと改めて感じている。優人は今でも、この世界は自分が見ている夢なのではないかと思うことがある。けれどこうして見る知らぬ風景も、肌に感じる潮風も、優人の想像力など及ばぬほどにリアルだ。これが、紛れもない現実であることがわかる。それに、優人の決断よりもずっと前から、この選択は運命づけられていたもののようにすら思える。
なればこそ、守らなければと思うのだ。この美しい世界が失われるようなことがあってはいけないと、ここに暮らす人々を失いたくないと、そう思う。
できることは、何だってやろう。出てくる答えはいつもシンプルだ。父の心を挫いたこの先に待つ何かは恐ろしいが、今はそれが何なのか知りたい気持ちが勝っている。
優人とカミーユが港の端から海を眺めているうち、明日の昼の便以降であれば四人乗れる空きがあったとカウンターから声がかかった。一行はその便を仮押さえという形にし、二人は教会や住民への異変などの聞き込み、そして必需品の買い出しも行うことにした。
「あの日誌だけどな……いよいよ腹が立ってくるほど意地の悪い書き方なんだよ」
元々強面のカミーユが薄ら笑いを浮かべてはいるがその苛立ちを隠さないとなるとかなりの迫力がある。カミーユの人となりを理解し、慣れている人でなければ震え上がりそうなその雰囲気に、優人は苦笑いした。
「そ、そんなに……?」
「ああ、書いたマリオンとかいう魔法使いに会ったら一発殴りてえと思うくらいにはな」
王族付きの僧侶になる前はかなりヤンチャをしていたというカミーユが言うと洒落にならない台詞ではあるが、優人は敢えて聞き流すことにする。
「ここは各地から色んなものが集まってくるからな、何かあの日誌を読み解くのに参考になる書物なんかもあるかもしれねえ」
「なるほど、古書があるところ……」
二人は港から町の入り口までの長い通りをびっしりと埋める露店や路面店を覗きながら歩く。しばらく探すと、古びた書物が乱雑に並べてある路面店が目に入ってくる。店内は薄暗く、人々は寄りつかないような雰囲気だった。入ってもいいのかと戸惑うような店構えではあるが、そこは肝の座ったカミーユのことだ、構うことなくその扉を開く。
からんからん、と入り口につけられた小さなベルの音が静かな店内に響く。本棚が所狭しと立ち並んでいて、店の奥にいる店主と思しき老人の姿は注意深く見なければ探せないほどだ。鬱蒼とした森のようで、どこか別世界に来てしまったような雰囲気さえある。
まるで置物のように静かに小さな机に本を並べて読んでいる老人は、それでも来店した二人をちらりと見ると音を立てずにそっと頭を下げた。
「歴史書や伝承に纏わる本なんかはあるか?」
カミーユがそう尋ねると、老人は表情を変えることなくゆったりと伸びた髭を撫でながら、はて、と呟いた。
「元々は、そっちの奥のほうにまとめていたけどね。もう長いこと整理なんかしとらんで、あっちゃこっちゃに入荷した分を空いたところに詰め込んでりゃ、もうどこに何があるかなんて覚えとらんて」
もごもごとした声にクセのある喋り言葉で聞き取りにくいが、要するにわからないということだった。この本の量から目当てのものを探すのは、骨が折れそうだと優人は感じた。カミーユも参ったなと髪をくしゃりとかき乱した。
「しょうがねえ、お前は一応まとまってたらしいあっちの奥でなんか探してみててくれ。俺は向こう端からザッと探してくる」
「わかった」
本がびっしり並んでいるとはいえ、店内はそう広くはない。一見したところ、あまり関係なさそうな本も多くありそうなので、関連しない本を飛ばしていけば目当てのものを見つけ出すことは、丁寧に探していけば無理ではなさそうである。整理されてないことを嘆くことは今しても仕方がない。時間が許す限りは、この本の森を捜索することになったのだった。
ある程度カミーユから読み解いた経過を聞いているとはいえ、優人はその全容を把握しているわけではない。カミーユは何か読み解けている部分でさえ、仲間たちにまだ打ち明けていないこともあるのだろうとその様子から優人は思っていた。まだ確定的ではないからということもあるだろうが、それ以外の理由もあるような気がする。
そんな状況であるから、優人は使えそうな本とはいってもどういうものをカミーユが求めているのかいまいちわからない。速読が得意なカミーユだ、おそらく優人が抜き出した本が山ほどあったとしても、即座にそれが必要か不要か判別してくれるだろうと思う。優人は本棚の端から順にぱらぱらと中を覗いていく。
「……っと、危なかった…。本当に古いものが多いな」
紙が古くなり脆くなっているものも多く、丁寧に扱わなければページやカバーが千切れてしまいそうなものが多い。長く陳列されていたのだろう、殆どが埃を被ってしまっていて、棚から引き抜くたびに埃が舞い、いくつかくしゃみが出る。
薄暗く埃っぽい店内で、本を破損させないよう気を使いながら、旅の疲れも取れていない状態での探し物である。そう長くは集中が続かない。しかし、疲れて顔を上げたその視線の先で、ある物を見つける。
「…………?」
そう目立つ色をしているわけではないが、店内に射し込む僅かな陽の光にあたり、柔らかな布地のようにきらきらと光る背表紙が目に入る。他の本と同じように古く、薄汚れてはいるが、その独特の輝きが妙に目を惹く。綺麗で豪華な装丁の本であれば他にもあるが、不思議と目が奪われるそれに、優人は思わず手を伸ばし、本棚から引き抜いた。
キイイ、と耳鳴りのような甲高い音が僅かに聞こえる。通りの喧騒からは切り離された静けさの中だから気がつける程度に小さく耳に届くそれは、確かに耳鳴りではなく、けれどその場にいる優人にしか聞こえないようなものだった。
手に取ってその表紙の深い赤を指でなぞれば、その音は大きくはならないものの確かなものとなる。ぱらりと中を開いてみれば、それはあの日誌にどこか似た、印字されたものではない、誰かの手で直接書かれた手記のようなものだとわかる。
「カミーユ、来て」
思わず動揺した声をあげてしまったのは、その書かれた文字を見てどきりと心臓が高鳴ったからだ。優人は、この筆跡に覚えがある。
「どうした、何かあったか」
すぐに背後の棚からひょっこりと顔を出したカミーユも、その優人の様子に不思議そうな表情を浮かべる。
「見て」
「なんだ……これも、日記?」
中身を見たカミーユも、すぐに表情を変える。
「……これ、父さんの字だ」
「こいつは……先代の旅の記録か?」
それは、日記と呼んでも良いのかどうかもわからないほどのものだった。日付と、その日にあった出来事と、それに対してどう思ったのか。それぞれの日毎に二、三行程度のメモ書きがされているもの。マリオンの研究日誌と違うのは、父のそれは毎日欠かさず何かしらの言葉が記されているということだ。旅の始まりから、おそらくは終わりまで。
これでいよいよ、先代の救世主ユウサクが優人の父であることが確定することになる。父と交わした言葉は多くはないが、書き残した置き手紙はよく目にした。また留守にする旨を書いたもの、元気でやるようにという激励、土産の置き場所、次に帰る日にち……不器用な父はよくそれらを手紙にして残した。
今となっては懐かしささえ感じるその文字が、この世界で見つかった本に綴られている。人の言葉より記憶より、実際に目にする父がここにいたことを証明する物が手の中にあるのだ。
そのことを受けて、優人はどういう心持ちでいることが正解なのかわからずにいた。ただ規則正しく並ぶ几帳面な文字たちを、じっと見つめる。その様子を、カミーユも何も言わずに見ていた。
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