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第五章

糸のはじまり

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 優人が目を覚ますと、部屋の中は静まり返っていた。見慣れない部屋の外にも人々が動き回る音は聞こえず、皆が寝静まった夜であることがわかる。優人はあのまま、丸一日眠っていた。ぼんやりと覚醒した今も、少し長く瞼を閉じればまた眠りに落ちてしまいそうに眠かった。
 それでも優人が再び眠りにつかなかったのは、その部屋の雰囲気が、香りが、あまりにも懐かしく感じられ、それを不思議に思ったからだ。
「……アイシャさん?」
 優人が眠るベッドのすぐ横に、椅子に腰掛けながら眠る女性がいた。アイシャだった。ベッドサイドのテーブルには、水を張った桶と柔らかな布地、飲み水などが置いてある。優人の額に乗せてあった濡れた布は、清潔でまだ少しだけ冷たく、つい先ほどまで彼女が看病してくれていたことが窺い知れる。
 優人が思わずあげた小さな呼び声で、彼女はふっと目を覚まし、意識を取り戻した優人を見て安心したように微笑んだ。中で炎がゆらゆらと揺れる、やわらかな灯りランプに照らされた彼女の微笑みは、優人は知らぬはずの母親というものを思わせた。
「気がついたのですね、よかった」
「……ずっと見ていてくれたんですか」
「いいえ、日中は他のお仕事もありましたから。夜更け前までは、他の方々も入れ替わり立ち替わり、来てくれていたのですよ」
 聞けば、エリーやシンシア、それにカミーユも優人の様子を見に来てくれていたのだという。カミーユは他の怪我人の治療に奔走しつつ優人にも回復魔法をかけていき、エリーとシンシアは宿の仕事を手伝いながらもずっと手を取っていてくれたらしい。
 他の三人の様子を聞いて、優人は安心した。自分のやれることをこなしていくことで精一杯で周りが見えておらず、三人は怪我などしていないのか知らなかったからだ。
「……よい仲間に出会えたのですね」
「はい」
 安堵からつい口元が緩んでいた優人を見て、アイシャもまた笑った。
「あの人も、そうでした」
 優人はその言葉に少しハッとしたが、何の話かと聞き返すほど鈍感ではなかった。もしかして、と思っていたことは事実なのだと、その言葉が肯定していた。優人はどう返事をしたものか、言葉が見つからなかった。
「……あの、僕は」
 言葉を探しながら話し始める優人を、アイシャはただ黙って待っていてくれる。
「僕は、父とあまり多くは会話をしてきませんでした。仲が悪いということではなかったんですが……父は、どんな人でしたか」
 優人は敢えて隠すこともないと思い、素直にそう話した。アイシャは優人のその言葉を聞き、少し驚いた顔を見せたが、すぐにそうでしたか、と小さくこぼした。
「……とても、長い話になります」
「聞かせてください」
 ひとつ頷くと、ちょっと待っていて、と言いアイシャは部屋を出た。少し待った後に戻ってきたその手には、温められたミルクが入ったカップがある。アイシャはそれを優人に手渡すと、元の椅子に静かに座り直す。

 そしてぽつりぽつりと、昔の話を聞かせてくれた。




 ジュジの町は、貧しかった。砂漠の中にぽつんとある、小さな集落だった。当時は人口もさほど多くなく、魔物の被害こそ多くはないものの、作物の実りも少なく、細々と民たちは暮らしていた。
 アイシャは、そんなジュジで生まれ育ったひとりの普通の娘だった。魔力の強い家系であったが、両親は早くに病気で他界した。年老いた祖母が世話をしてくれていたが、素朴ながら優しかった祖母もまた、アイシャが九つのときに亡くなった。身寄りのない少女は、生前父が親しくしていた宿屋の主人に引き取られ、そこで働きながら暮らすことになる。そこが、今のアイシャが営む宿屋である。
 幼いアイシャは真面目でよく働いたが、物静かで内向的な娘だった。宿屋の夫婦は少女を可愛がったものの、少女が夫婦を親と思えることは終ぞなかった。間も無く夫婦に一人娘が誕生し、アイシャはよく世話をしたが、姉妹のようにはなれなかった。
 アイシャの孤独感が拭えることはなかったが、生活に不自由はなかった。貧しい町ながら交易は途絶えなかったため、宿は常に仕事が安定してある状態にあり、食うに困ることもなく、学びが足りぬこともなかった。


 やがて大人の女性へと育ったアイシャは、同じ学び舎で過ごした青年と結ばれた。その男との出会いは、アイシャに恋を教え、愛を与え、初めて幸せというものに触れられたものであった。男は真面目で誠実で、惜しみなく彼女に愛を注いだ。愛を知らないアイシャの不器用ささえも、受け入れ慈しんだ。
 婚儀を済ませ夫婦となった二人。そしてその二人の間に子ができる。孤独だった女が、初めて満たされていた。何もかもが順調に進んでいった日々、その終わりは唐突にやってきた。
 突然の魔物の群れの襲来であった。比較的魔力の強い一族が住まう土地ではあったが、何の前触れもなく嵐のように訪れた飛竜の群れに、人々はおおいに動揺した。
 夫は優秀な魔法使いだった。力の弱い人や子供たちを何人も救った。けれど、人々を守りながら戦うことは、困難を極めた。ついに、逃げ遅れた子供を助けるためにその身を投げ出し、その命を落としたのだった。
 優しい人だった。愛しい人だった。過去の人になどしたくはなかった。誰のことを憎むこともできず、アイシャは自分ばかりを責めた。既に多くの血を流し助かる見込みのなかった夫に、自らも疲弊しきっていたというのに、治癒魔法を施し続けた。
「アイシャ、彼はもう助からないんだ。堪えておくれ。おまえが体に無理をかければ、お腹の子にも差し支えよう」
 周りはアイシャを必死で止めた。お腹の子、と聞けば、アイシャもその手を止めざるを得なかった。力なく降ろされるその手で、新しい命の宿る腹を撫でる。我が子は、生まれる前にして父を失ったのだ。
 そしてさらに良くないことに、宿屋の夫婦までもが被害に遭った。主人は足を失い、その妻は視力を失った。アイシャは、ああ、これからどうしよう、と途方に暮れる。夫を亡くした身重の若い女がひとり、まだ十の小さな義妹と各々枷を背負った夫婦を支えながら働くことなどできるものか。家の外も家族を亡くした者たちばかりで、頼れるものはなかった。彼女の身にのしかかる重責は、どんどんと心を蝕んでいった。


 それでも無情に時は流れるもので、子は無事に産まれた。夫の忘れ形見である娘は、それはそれは愛しい子であった。けれどそれ以上に、日々の生活の目まぐるしさや、魔物の被害を受けてからのより一層の町自体の貧しさ、そして何より最愛の夫を亡くした悲しみにより、彼女は日に日に心を閉ざしていった。
 生まれた子に、名をつけることさえできなかった。生前夫と名を考えていたような気もするが、壊れた心では思い出すことも叶わなかった。
「私はこの子に、父も名も、残してやることができなかったのか」
 私は母親を名乗れない。そう思ってしまうアイシャ。自分を責め続け、病んでいく彼女を止められる人さえ、彼女の周りには居なかった。


 その日は、やけに外が騒がしかった。まだ魔物の被害による傷跡も残る頃のある日、ジュジの町は活気付いていた。
「この町に、救世主様御一行がいらっしゃるのだ」
 救世主というのは、アイシャも聞いたことがあった。なんでも、魔力は持たないが魔物を完全に消し去ることのできる力を持つ人物なのだという。ジュジの町にも王族信仰があり、王族の一人を引き連れているという救世主の来訪は、沈んだ町への数少ない吉報であった。
 アイシャにとっては、特に喜ばしいこととは思えなかったが、町が活気づくことはよいことだ、という程度の心持ちであった。吉報が耳に届いてはいたものの、子や妹、家族の世話に、山積みの仕事でそれどころではなかったのだ。
「ごめんください、部屋をひとつ、借りられるかな」
 救世主なんて仰々しい呼び名に似つかわしくなく、柔和で穏やかそうな男だと、アイシャはそう思った。救世主一行はその一見ひ弱そうな男がひとり、その男に比べるべくもなく大柄な男がひとり。それからやけに美しいまだ幼い少年と、どこかキザな髪の長い男。そんなちぐはぐな四人組だった。救世主と呼ばれた男はその中で一番気弱そうな印象を受けたものの、しっかりと先頭に立ち皆を率いていた。
 アイシャとまだ幼い夫婦の子供のふたりで切り盛りする宿に泊まった一行は、ふたりにとても良くしてくれた。救世主は泊まった部屋や食堂を入る前よりも綺麗に磨き上げ、ブラッドリーと名乗った大男は手先が器用で食事の下ごしらえをこなし、小さな魔法使いの少年は壊れた備品などを修繕し、キザな男は赤子や妹、足と目が不自由な夫婦の面倒をよく見てくれた。
 救世主一行という尊ぶべき者らにこのような厚遇を受けることにアイシャは恐縮したが、救世主は全く気に留めていない様子だった。
「世話になっているんだ、できることをやるのは当たり前だよ」
 そう言って彼はぎこちなく笑った。アイシャの返した笑顔もまた、ぎこちなかった。救世主はユウサクと名乗った。
 ユウサクたちが町に滞在し何をしているのかはわからなかったが、毎日町を見て歩いては宿に戻り難しい顔をしていた。それは同じ繰り返しのように見えたが、ある日からひとり、またひとりと宿へ連れ帰ってくる町の民の数が増えてきたのだった。
「このジュジの町に、畑を作ろう」
 そんな夢物語のような言葉をアイシャが耳にした日には、宿には町の大人たちのほとんどが集まっているような状態だった。小さなテーブルに粗末な椅子、決して広くはない食堂がわりの広間に、みな肩を寄せて集まっていた。狭そうにしていたというのに、誰もが目を輝かせていたのを今も覚えている。やる気に満ち溢れた者もいれば、不安そうにしている者もいた。けれどそこには、間違いなく希望があったのだ。この枯れた土地で何かができるとは到底思えなかったが、その様子に思わず何かが起きる予感を覚えた。この気弱そうな青年には、そう思わせる何かがあったのだ。
 そのユウサクらの言葉から先、ジュジは一変した。細々と静かに暮らしていた民たちが賑やかに働き始めた。ブラッドリーと魔法使いの少年の働きかけにより、一時的にではあるが食糧の供給も確保された。町には食べ物だけでなく、色々な資材が次々と運び込まれた。その大半が石材や工具の類だった。
 町の男たちはそれらをブラッドリーらの指示通りに並べていく。どうやら何かの建物を立てようとしていることはわかったが、アイシャにはまったく完成形が見えなかった。ただ、心優しい青年たちが真剣な眼差しでこの町を変えようとしてくれているのだけは伝わってきた。
「どうして、あなたがたにとっては通り過ぎるだけの町に、こんなに一生懸命になってくれるの?」
 アイシャは一度、毎日へとへとになって宿へ帰ってくるユウサクに聞いたことがある。
 救世主にとっても、その仲間たちにとっても、この町は特に縁もゆかりもない土地だ。広くこの世界を回っているのだという彼らにとって、この町が豊かになることにどれほどの意味があるのだろうと、つい考えてしまったのだ。
 少し卑屈にも取れるアイシャの言葉に、ユウサクはそれを責めるでもなく、そして哀れむでもなく当然のように言葉を返した。
「だって、きみが、きみたちが一生懸命に生きているから」
 その言い分に驚いた。このときアイシャは、この青年にとって、前を向いている者たちに手を貸し共に歩むことは何ら特別なことではなく、むしろ人助けをしているというような意識さえないのだと知った。あくまで彼は、それが自分のすべき当然のことだと思ってやっているのだ。
 生きることで、生活をすることで精一杯だったアイシャにとっては、それはこれまで触れたことのない感覚だった。張り詰めていた心にひとつ風が吹き、優しくほぐれていくような、そんな心地だった。
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