契約結婚の裏側で

riiko

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11 現在の二人は

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 タクシーの中で、潤は過去の苦しかったこと、嬉しかったことを思い出していた。一通り彼との思い出を辿ると、意識がやっと現在に戻ってくる。

 先ほどは、健吾の「俺、結婚する」という言葉に潤は頭が働かず、逃げるようにホテルを出てタクシーに乗り込んだ。少しだけ苦くて甘い初体験を思い浮かべると懐かしさで笑ってしまう。

 素直に「愛してる」と、そう思えたあの頃から、潤はずっと健吾だけを見てきた。

 二十歳の時に健吾と恋人になり、あれから十年が経過していた。もちろんそれなりに喧嘩をしたし、熱い夜を数えきれないほど過ごしてきた。どれもいい思い出だったが、今回のことはさすがに思い出で片付けられない。

 健吾は兄として、相変わらず父の家に三人で暮らしている。

 十年前は縋ってしまい、この家から出るということを考えられなかった。それほどまでに健吾に依存していた子どもだった。しかし、今はもう大人であり、彼がいなくても一人で生きていくことは可能だ。ただ男一人に依存する何も知らない大学生の時とは違う。それにもう縋れるほどのものが潤にはなかった。

 弟という甘えられる身分でも、社会人になっていない世間知らずでもない。

 健吾は三十五歳という若さですでに会社の重役になっていた。潤は父である五井園健介の秘書をしている。

 この家は歴代、当主と長男家族が住むと決まっている。しかし長男の健吾は結婚もしていなければ、子どももいない。だから潤は、いつまでもこの家で暮らせている。長男に家庭ができたら、次男は家を出る。古くから、そういう決まりらしいので二世帯が暮らせるように、若夫婦家族は二階を使い、一階は先代が使用できるように、完全分離のできる家だった。

 三人家族の今は、みな仲がいいので食事や団らんは家族そろってしている。二世帯という仕組みではなく一つの家族として過ごしていた。

 家長の健介は一階でしか過ごさない。書斎もダイニングも、健介の私室も全てが一階に備わっていた。二階には、ゲストルームやバスルームもあったので、二人は夜になると自室の二階へ行く。そしていつも二人きりで過ごしていた。

 そういう作りの家なので、健吾と潤が十年も恋愛感情込みの付き合いをしていることを、健介には知られていなかった。

 家に帰宅すると潤はすぐに行動した。帰るなり急いで簡単なモノだけボストンに詰めて一階へ降りると、そこに父がいた。

「潤、帰ったのか?」
「あ、お父さん、ただいま」

 健介は少しだけいぶかしげな顔をする。

「今日は接待で遅くなるから、健吾と近くのホテルでそのまま泊まるんじゃなかったか?」
「う、うん、早く終わったから、帰ってきちゃっ、う、うう」

 父の顔を見たら安心してか、潤は涙が出てきた。先ほどいろんなことを思い出していたので感極まる。もちろん父親の愛情も潤の中にはいい思い出として残っていたので、父に甘える自分が蘇ってしまった。

 一生懸命に、外で泣かないように頑張ってきたがダメだった。昔からとても優しく自分を守ってくれる父の前では、潤は相変わらずの甘えん坊だ。今はもうすでに成人して、五井園の会社に入れてもらい、秘書として会社で真面目に働いている分、家ではしっかりできないのを健介も知っていて甘やかしてくれる。

「潤……すまないな」

 潤が泣いている姿を見て、なぜか父が謝罪をしてきた。しかし、その言葉の意味を理解する前に、大好きな父に縋りつきたかった潤は泣きつく。

「う、うう、う、お、お父さん!」
「こっちに来なさい」

 辛そうな顔をする父は、潤の持っているボストンバックに目をやり、それをそっと受け取ると、潤を抱き寄せた。

「お、お父さん?」
「お前がこんな荷物を持つなんて……」

 なぜか父が苦しそうに言う。息子たちの事情など知らないはずだし、潤が出ていくことを想定していたとは思えないのだが、何かを知っているかのような言葉だった。

「僕、この家を出ていくから」
「健吾の結婚が、そんなに許せないことだったか?」
「え」

 父はすでに健吾の結婚を知っている。もしかして、今日潤がそれを聞かされることも知っていたのだろうか。潤は抱きしめられて胸に埋めていた顔を上げ、父を見る。

「お腹の子どものこともある。どうしても、健吾には結婚してもらって、彼女を守ってもらわないと困るんだ」
「お腹……子ども……もうそんな状態なの?」

 先ほど別れ話をされた時よりも、もっと衝撃が酷かった。

 健吾は潤しかいらないと言いながら、裏では女を抱いていた。そもそも健吾はもともと女性と付き合っていた。それに男の潤とは違って、彼が以前から彼女を抱いていたなら妊娠をしていてもおかしくはない。

 そこまでの仲の女性がいながら、潤はそのことに全く気が付かなかった。それなのに、彼とこれまでも何度も体を交えてきたことが信じられない。

「ちょっと順番が違うとは思うが、せっかく宿った命だ。どうか、受け入れてくれないか?」
「お、お父さん……」

 健介は、潤が潔癖でこの結婚を受け入れていないとでも思ったのだろうか。入籍よりも妊娠が先なんて、よくある話だ。息子たちの関係を父は知らない。そして今の潤の状態から、ふしだらな兄に怒って家を出ていくとでも思ったのだろうか。

 潤は、もう今は何も考えたくなかった。先ほど終わった恋人関係だが、まだ失恋しきれていない。

 潤はタクシーの中で、彼との始まりを思い出していた。そして確信した。どんなに裏切られていたとしても、潤の心は彼を愛していると。

 しかし健吾はもうすでに結婚すると決めていた――それが答えだ。今は離れるしかない。心が穏やかに健吾のことを思える日まで、愛さなくなるまで会わないことがいいに決まっている。なにより、健吾の愛した女性を見るのも、彼の子どもを見ることも、今の潤にはできるはずがなかった。

 彼を奪った女性を許せるはずがない。いや「契約」と言っていたから、奪ったという表現はおかしいかもしれない。だが潤は、どんな事情があろうとも健吾が抱いた女をこの目に入れたくなかった。

「お父さん、やっぱり僕この家を出ていくよ。結婚したら、この家にはお嫁さんや子どもが住むでしょ。だから僕がいつまでもこの家にいるのはおかしいよ」
「ああ。確かに結婚したらこの家に息子たちがいつまでもいるのは、おかしいのか? しかしこういった広い家なら同居くらいよくある話じゃないか?」

 なぜか父と話がかみ合わない気がした。

「と、とにかく、僕は出ていく。お父さんのことは毎朝ちゃんと家まで迎えに来るから!」

 潤は健介の秘書として、毎日行動を共にしていた。たまに健吾に付き合わされて接待という名目で、この家を空けることがあるが、基本は常に父と一緒の生活だった。

「落ち着きなさい。結婚といっても、まだもう少し先だ。とにかく今は今後のことを話し合おう」
「や、やだよ! 僕はその人には会わない、そんなのヤダ! そんなの認められない! だから僕は出ていく」

 健介は悲しそうな顔をする。たしかに弟が兄の結婚を許さずに、その嫁と子どもを受け入れないのでは家庭が円満とはいえない。これまで養ってもらい育ててきてもらった恩を、潤は酷い形で裏切っていることになる。

「潤、そんな悲しいことを言わないでくれ。お父さんは、潤と離れたくない。潤は彼女がこの家にくることは反対なのか?」
「……」

 ただの弟が反対するのはおかしい。父は潤と健吾の関係性をただの兄弟と思っている。潤は三十になる男だ。兄が好きだから結婚しないでほしい、などと言えるわけもない。そんなブラコン今時いない。
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