運命だなんて言うのなら

riiko

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記憶喪失編

10 お世話になります

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 食卓で話すことでもないが、エルは神谷に向かって言う。

「つーことで、これから世話になる」
「心配しないで。僕の権力を使ってでも、君の戸籍は調べ上げるからね」

 あの激しい交わりの翌日の朝食時、エルは改めて世話になることに対して、一応礼儀を取った。

「なあ、もし俺が裏社会の人間で犯罪者だったらどうするの? 警察関係者ってさ、あらかじめそういう人が身内にいたらなれないってあるよな。つがいだってそうなんじゃないの? あんたの立場だったら俺みたいな身元不明なオメガ? 拾わないほうがいいんじゃないの?」
「そういう知識はあるんだね。もしエルが人に言えないような人種だったとしても、僕の権力を使って戸籍を消去して新しいモノを用意するから大丈夫だよ。僕の心配までしてくれるなんて、君は天使だ。愛している」

 なぜか神谷はエルの今までの環境すら気にならないくらい、エルのことを気に入っているらしい。つがいとはいったいどんなフィルターがかかるのだと、エルは呆れた。これでも本当に、警察関係者なのだろうかとも不安に思う。

「まあ、エルは何も心配しないでここで自由に生きるといいよ。ただし、僕なしでの外出はだめだけどね」
「え? 俺を監禁でもするつもりか?」
「そうじゃなくて。もし君を知る人が現れて連れ去られてしまったら大変だから。記憶がない今、下手に動かないほうがいい。行きたいところなら僕がどこでも連れて行ってあげるからね」
「そ、そうか」

 自分はどう見ても一般市民っぽい感じだが、オメガだというからには何かしら影があることもあるらしい。オメガは犯罪に巻き込まれやすいと三隅が言っていた。もしかしたらどこかから逃げ出して命からがら生き延びているとか、借金まみれで追われている身だったりしたら大変だと、神谷の言葉に納得した。

 ――この世界、怖い。オメガってなんなんだよ。マジでやばい異世界転生したよ、俺。

 幸か不幸かつがいの近くは安心するし、男に抱かれていても嫌悪感もなければ、むしろ気持ちよすぎてその快楽に飲まれてもいいくらいにしか思えなかった。できればもっと抱いてほしいくらいに、エルは神谷の話す時の男らしいノドぼとけを見て、なぜか欲情しそうになってしまい、慌てて目線を神谷の目にもっていった。

 家や身分、身なりなどから見ても、神谷は相当な金持ちに見える。食べるものに困らないだろう。そして嫌悪感がない今、ここでのんびり過ごすのも悪くないと瞬時に頭の中で組み立てた。

「色々とありがとう、なるべく迷惑かからないようにおとなしくしているよ」
「迷惑なんてないよ。エルはそこにいてくれるだけで僕はたまらなく幸せだから」

 神谷は立ち上がると、エルに軽めのキスをして抱きしめた。

「さっそくだけど、病院に行こう」
「なんで?」
「エルの血液とか歯の治療痕とか色々調べて、該当する人がいないか調べる。まずは犯罪者から当たってみようかなと。それとオメガとして君は以前にも病院にかかっていたはずだから、検査して病院のネットワークから君と同じ年代のオメガのカルテを見つければ君の戸籍にたどり着くかもしれない。あとはアレルギー検査もしないとね。食事に気をつけるものがあるのかを調べないと、ご飯は基本だからね」
「お、おう。なんだか悪いな」

 そういうものなだろうか?

 エルはどう考えても、庶民でそんな高尚な生き物ではない気がする。アレルギーがなんたらなんてそこまで調べるものかと思うくらいに、今言ったセリフがエルからは思いつかないところを見ると、自分は金持ちではないだろうと理解できる。やはりこの体は庶民だと再確認をしていた。

 そして神谷の運転で、大きな総合病院に連れられて色々と検査をした。

 付き添う神谷の仕事は大丈夫なのだろうか。警視正と言われていたが、警視正がなんなのか、そもそも警察官なのかお巡りさんという名称なのか、細かい違いはエルには全くわからなかった。

 連れてこられた病院にしても、エルが想像していた総合病院とは違う。なにか高級ホテルのような感じで、病院らしさがみじんもない。ただ医者と看護師がいるので、衣装的には病院なのだろうけれど、ゆったりとしたソファで、受付嬢のような綺麗な女性が常に飲み物を持ってきてくれる。しかも高級そうなグラスに飲み物が入ってくるから、落としたら大変だと思うと大して飲めなかった。

 エルは思った。いったい、ココハ何処と。やはり異世界……。

 すべてが終わって、神谷はエルにお疲れさまと言うが、エルはただ案内されるままにぽかんとしていたくらいで、医者たちがスムーズに至れり尽くせりな対応をするので、疲れたといえばそれは慣れない気疲れを感じたくらいだった。

「細かい検査結果はまた明日聞くとして、疲れたでしょ? どこかでお茶でもしようか」
「う、うん。そうだな、俺あの有名コーヒーショップのホイップマシマシのドリンク飲みたい」
「ホイップマシマシドリンク?」

 神谷が首を傾げる。

「そう。あの高い飲み物、おごってくれる? ほら、あのなんだっけ、人魚みたいなロゴの店」
「ああ、あそこか。高いって……そんなのいくらでもご馳走するよ。ホテルのラウンジでゆっくりとかじゃなくていいの? あのカフェは人が常に多いような気がしたけれど」

 ホテルのラウンジってなんだろうか。日本語なのだろうかとエルは疑問に思う。神谷といると時々、日本語さえも自分は忘れてしまったのかという錯覚におちいる。きっと自分は庶民、上級国民の言葉を理解する能力がないのだろう。

 エルにはお高いコーヒーのようなイメージのカフェも、神谷にとってはなじみのない庶民の憩いの場に見えたのだろう。というのならそれくらい甘えてもいいだろうという気持ちと、それでもエルにとっては嗜好品であり、高いから迷惑だろうかと控えめな気持ちがあった。しかしそんな気遣いは神谷には無用なものであると、少し恥ずかしくなったエルだった。

 どうやらエルの庶民感は、神谷には理解できない種類だ。

 もしかしたら自分は庶民よりも底辺な人種だったのではないかと、エルは思った。生活レベル以外の記憶がないから何とも言えないが、あのカフェが高くて無理という気持ちがエルの中では大きいのは間違いない。特別なご褒美の時だけ飲めるお洒落なドリンクも、神谷にとっては取るに足らない庶民の飲み物なのだろう。

 神谷が車を走らせていると、ちょうどその大手チェーンのコーヒーショップを見つけ、車を道路脇にあるパーキングに止めた。お洒落な感じで、入った瞬間コーヒーのいい香りがしてきた。エルはその香りを嗅いで懐かしいとふと思った。

「やっぱり混んでいるな」
「そう? じゃあテイクアウトにする?」
「そうだね。こんな人込みの中、可愛いエルをさらしたくない」

 神谷の目は大丈夫だろうかと思う。

 確かに世間一般から見ても、エルは男のわりには可愛い部類だというのはわかるが、神谷ほどの見た目も社会的立場もあらゆる面でスペックの高い男なら、もっと素敵な女性を守るべきではないだろうか。どう見ても庶民感丸出しの可愛い系男子よりも、女がいいに決まっていると思うんだが? 腑に落ちないエルは思考を注文に戻すことにした。

「なんだそれ、とにかく並ぶぞ! それとも恭一の分も買ってこようか? 何がいい?」
「いや、一緒に並ぶ。どこに行けばいい? なぜ列が二列もあるの?」
「はは、お坊ちゃんだよね? こういうところ自分で買ったことないだろ。レジで並んでまずはお会計したら、今度はバーカウンターで並んで、順番にドリンクができるのを待つんだよ」
「なんだ、その二度手間は!?」

 ――面倒くせぇな、知らないよ。そういうシステムなんだからさ。

 エルはそんな神谷の動揺を見て面白くなり、彼の手を取る。

「とにかく、ほら、こっち」
「わっ、エルから手を握った」
「うるさいな、いちいち手ぐらいで。そうしないと恭一、迷子になりそうじゃん」
「そうだな。僕は慣れていない場所で迷子になってしまうかもしれないから、手をずっと繋いでおこう、それがいい」

 ――手ぐらいで動揺するってなんだよ、そんな嬉しそうな顔しやがって。お前はもっと凄いことを散々俺にしたのに。

 神谷の言葉に、調子が狂うエル。

「あっ、順番がきた。恭一は何にする? 甘いの、飲む? それとも見た目通りブラックとかしか飲まないの?」
「あ、ああ。僕はミルクが入ったコーヒーがいいな」
「ん、わかった」

 エルの予想を裏切り、ミルクは必要らしかった。それを聞いて、なんだかほんわりしたエル。神谷はきょろきょろしていてもずっとエルの手をしっかりと握っている。その手を見て、またエルはほんわりとした。

 レジ前で女性店員に「ご注文は?」と聞かれる。

「じゃあ、俺はトールサイズのこの期間限定のやつで、ホイップ多めでお願いします。あとシロップも追加できますか? じゃあそれで。あとはトールサイズのホットコーヒーと、追加でミルクも入れてください。持ち帰りでお願いします」
「僕は頼もしい恋人がいて、助かるよ。注文してくれてありがとう」
「財布は恭一だけどな?」

 レジ前で神谷はエルにくっついて頭を撫でた。「なんだよ、子供のお使いじゃないんだからさ」そんな言葉を脳内でしゃべっていたエルは、記憶をなくしても、こういう普通の生活ができる自分も再度確認ができて、さらには完璧そうなこの美丈夫よりも得意なことが見つかって嬉しかった。
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