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四章 清算
前夜(4)
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一定の間隔で身体から血が滴っている。しんと冷ややかな部屋の中、それが唯一の音だ。
……まさか、死ぬとは思ってなかった。少し前までじりじりと削られていた体力は既に底をつき、今はただじっと、意識を……というか魂を失い、血を垂れ流すだけの自分の身体を見下ろしている。なかなかに凄惨な状態だが、痛みがなかったことと、今の状態がゲームと全く同じであるおかげで俺は冷静だった。
ゲームと同じだからこうなっても怖くない、だなんて、俺もなかなか危ないやつかも。最初は――そして『死亡』状態になるまでは、あれだけビビってたくせに。
とはいえ、身体はどんどん重くなって息が上がるし、強制的に、抗いがたい眠気に誘われるように迎える死という瞬間は、あまり何度も味わいたいものではなかった。これはゲームとは違う部分だし、この世界に来る手順がゲームと同じだったら、安易に行動して今よりももっと恐怖を感じただろうから、事故のような形でこの世界に来たというのは俺にとってはよかったのだろう。フィズィやウィズワルドに『マレビトは死なない』という話を聞いていなければ、もっと安易に死んでいた可能性があまりにも高い。
ともかく。今の状態では死体蹴りが考えにくいこともあるが、それ以上に冷静でいられているのは、死亡判定を食らった状態が『Arkadia』と同じなので多分復帰方法もそうだろうという見込みがあるからだ。実際、復帰するかどうかの選択メニューが表示されている。
『Arkadia』においてHPがゼロになったプレイヤーには
1. アイテムと所持金の半分をロストして体力ジリ貧でこの場で蘇る
2. マレビトに蘇生コマンドで助けてもらう
3. 蘇生薬を持ったNPCを含むパーティメンバーの誰かに助けてもらう
の三つの選択肢がある。
現状、この王都にマレビトが招待されているとはいえ、自分の場所も分からない状態で2は現実的でないし却下。実質の二択。いや、3もない。蘇生薬というのは結構な価値を持つアイテムで、ゲームバランス的にも強力すぎるために入手にはかなりの手間がかかる。大きなクランが細かく仕事を分担して漸く安定供給ができるレベルだ。そしてそれが安価に出回ることはない。
で、結果俺は自力で復活するしか残されていないのだが、そもそもこんなことになった理由から、復帰するタイミングをはかりかねていた。……取りあえずダメ元で試してみるのもアリっちゃアリなんだけど、厄介な人間がいつ来るともわからない、所持金はともかくどのアイテムをロストするかわからないこの状況だと結構な博打だ。
俺をこの状況に相手は魅了のギフト持ち。俺の魅了耐性は高くない。というか対抗できるアイテムやスキルがない状態なら大抵の人間は魅了耐性を持たない。
ギルはよく魅了にかからなかったものだ、と一人霊体で嘆息する。
いつ来るかもわからない厄介な相手とは、アデルベルタ嬢。
俺は、彼女にどうにかして攫われた挙句にどこかも分からない石造りの部屋で殺されていた。
アドルフに跨がり神殿へ駆けつけた俺達は、クレメンテ卿に魔晶石を渡すことはできた。
神殿付近は人で溢れていたが、指揮系統がしっかりしているためか――具体的に言うのであれば、クレメンテ卿を筆頭に今回の大捕物のため動いている勢力がまとまり、正確に現状を把握しようと努め、それが報われているために――人々がパニックに陥り、暴動が起きるような状態ではなかった。
と言っても、それはマレビトを筆頭に、人々がそれぞれに出来ることをしてこの事態の速やかな収束のために尽力している姿が、戦う術を持たない人々の理性をかろうじて恐怖から奮い立たせているに過ぎないことは明白だった。
不安と恐怖が立ちこめる中、魔晶石の引き渡しを終えて直ぐにブルーノとロゼオの姿を探したが、直ぐには見つからなかった。どころか、話を聞いてもそれらしい人を見たという情報さえ出てこない。
もしや道中で何かあったか、はたまたまだクレメンテ卿の屋敷にいるのかと直ぐに探しに出たその先で――俺の意識はふつりと途切れていた。
次に目が覚めたかと思ったら、病院のベッドのようなものの上で四肢を拘束され、不気味なほど美しく、けれどぞっとするほど冷ややかな表情の女性に見下ろされていた。
「気分はどう?」
彼女は俺の目が開くと、小さな声でそう言ってきた。綺麗な声だった。
そして、俺の答えを待たずに続けた。
「マレビトって、どうすれば死ぬのかしらね」
「は……」
「痛みを感じられないようにできるのでしょう? 何人かで試したけれど、痛みのショックで死ぬようなことがないということは……身体をずたずたにすれば確実かもしれないけれど、手間だし、汚そう。現実的じゃないわね」
「き、みは」
不穏な内容に声を上げれば、彼女の俺の見る目に力がこもった。
「今でも、臭くて耐えがたい……どうしてこれで死なずにいられるのかしら……何人見ても慣れないわ」
彼女の言葉に、足下から冷たい物が這い上がる感覚があった。その視線は、ずっと俺の腹に向けられている。
そうして俺が辛うじて頭をもたげると、そこには血に濡れた服と、突き立てられたショートソードが見えた。
「え、あ、」
おかしい。だって、これは俺の身体なのに。
そう思ったが、マレビトは死に瀕すると痛覚がなくなるか鈍くなるようだった。とくとくと、いつも通りの心音を感じ、そしてその音に合わせてじわじわと血が溢れていた。
悲鳴を上げなかったのは、多分、結果として悲鳴にならなかっただけだ。
どうしてこんな状況になっているのか、今は何時なのか、彼女は誰なのか、ここはどこなのか。混乱する俺の頭は、良くも悪くも目の前の光景に塗りつぶされた。
かひゅ、と息が漏れた。自分の発する音が遠い。
痛くはない。痛くはないが、そういう問題じゃないだろ、これは!
「ねえ、あなた。この世界で死んだことはある? 死にかけたことは?」
「……お嬢様、お召し物が汚れます」
「構わないわよ。今更だわ」
そこで初めて、俺は彼女以外にもう一人、男がいることに気づいた。彼女の後ろに影のように控えていた男は帯剣しており、呼び方から関係性が窺えた。
「ですが、」
「いいの。別に……あなたの手を取ったのは、別に逃げたかったからではないし」
――この世界に来てフォーレを出た理由。とある貴族が客人を探している話。シキビから聞いた今回の下手人の、警備兵に紛れていたという男。逃がされた女。
つまり彼女こそ、明日裁判にかけられるはずのアデルベルタ嬢だということだ。
「ねえ、私の質問に答えられる?」
彼女は俺の惨状を気にもせず、俺に語りかけてくる。浅い呼吸を繰り返しながら、俺は首を横に振った。この期に及んで対話ができるとは思わなかったが、これから何をされるのか、見当も付かなかった。
「そう。そうよね。そんなことになっていたら、今そんな風に慌てていないものね。あなたはまだ死んだことがない。マレビトも死ぬのが怖いのね」
彼女は一人納得し、唐突に、俺に微笑みかけた。
「!」
「あなたが死ぬまでもう少し。でもここに居るのは耐えられそうにないわ。気分が悪い。……もっと試してみたかったけれど……もう、タイムリミットかしら」
「ま、」
待て、という声は震えて、自分でさえ聞き取れなかった。女と男の背中が遠ざかっていく。その先に、頼りない光が見えた。ランタンでさえない。ただの松明。炎の揺らぎで照らされたのは古めかしい石造りの壁だった。でも、それ以上のことは分からなかった。
「外の者たちは?」
「まだおります。ギフトの効果も十分かと」
「そう。ではこの客人を殺すよう言っておいて」
霞む視界の中、重々しい扉が閉まる。光源のない部屋の中、彼女たちに替わって近づいてきた気配がそれぞれに自分の獲物を振り上げるのを見て、俺の意識は一度なくなった。
そして、俺はこの世界に来て初めて『死亡』したのだった。
スキル『暗視』があった所為で自分が殺される瞬間が分かってしまって滅茶苦茶怖かったんだよなあ!!!!!!!!
――と、思い出すと身震いしてしまいそうだけど、その身体もない状態の俺はただただ嫌な気持ちになるだけだった。
にしても……まずい。よ、なあ。どう考えても。アズマへチャットを送っておきたいけど、生憎と死亡状態ではできることがほぼない。まあ送れたとて既に王都入りしてるかどうか怪しいけど……いやでも、もう裁判の前日――日付が変わっているのならば当日だ。王都の中にはいなくても周辺にはいるはずだ。騒ぎが大きくなって、耳に入れば俺と連絡がつかないことである程度察してくれる可能性は僅かにはある。
ただ、そこから俺を見つけるとなるとやはり時間がかかるし、先にアデルベルタ嬢が戻ってきて、俺の死体に何かするかも知れない。その時は隙を見て自力で復活、この場から離脱を試みるしかない。ああ、でも自力で復活するのはアイテムのランダムロストがあるからちょっと博打すぎるかも――……。
考えていると、扉の向こうから微かに音が聞こえた。重厚な扉のため外の音は殆ど入ってこない。となると、何かあったのだろうか。残念ながらこの状態でも物理的にすり抜けたりすることはできないので、扉の向こうの様子を見に行くことはできない。
ただ、外が騒がしいと言うことはいずれここにも誰かが入ってくることだろう。それが誰であれ、どういう目的であれ、だ。
俺はじっと扉の様子をうかがった。
鍵を弄るような音が響き、かちゃん、と扉の鍵が反応した直後、重々しい扉は驚くほど勢いよく開かれた。
「ッ、ヒューイ!」
果たして、現れたのはギルだった。血相を変えて、明らかに狼狽している表情で。
「――」
その彼の呼吸が不意に止まった。
酷い有様の死体を凝視して、そして、
「ヒッ……!」
「おいギル、この馬鹿!」
膨れ上がった殺気に、芯から震え上がった。例えそれが俺に向けられたものでなかったとしても、その威圧はジンさえ悠長に構えていられないほどだった。
……後ろにいたシズもギルに気圧されている。その姿が痛ましくて、俺は迷わず自力復帰することを選んだ。
一瞬で視界が変わり、真っ暗になる。
身体の感覚が戻ってくる。痛みはないけど、自分の鼓動が鈍く、息苦しさと身体の重さが戻ってくる。この状態を長時間続けるのはかなりキツいだろう。アデルベルタ嬢が殺害を指示していたのは不幸中の幸いだったかも知れない。
「ギ、ル」
苦しさのなか、喘ぐように口を動かす。ギルは直ぐに俺を見た。殺気は怒気と呼ぶ程度には収まって、瞬きの後更に霧散していた。
「ヒューイ様! 今すぐに治療します! ギル、剣を」
「……」
黙ったままシズの指示に従う。俺の身体に刺さったままの剣の柄を握られた瞬間、体内に、今までの人生で感じたことのない感覚が生まれた。痛みを排除した時って、こんな感じなんだろうか。
ギルは俺が呻いたのに合わせて歯を食いしばると、静かに、けれど素早く剣を引き抜いた。
そこにジンが治療薬のポーションを躊躇いなく振りかけた。
たき火に水を掛けたような音を立てながら、徐々に呼吸がしやすくなる。シズが握ってくれた手から、温かくて心地良い感覚が全身へ広がる。
「シズ、ありがとう」
身体に力を込めると、じくじくと腹が痛んだ。まあでも、あの惨状からすればとんでもなく軽い症状だ。
シズの手に包まれた自分の手を引き抜いて、安心からか涙が伝っていたシズの頬を拭う。
「ギルも」
「ヒューイ、」
「もちろん、ジンも」
「……ウルトラポーションの対価は必要ないぜ。あんたを連れて行かれたのはこっちの落ち度だ」
「はは、助かります」
本当にほっとしてそう返すと、ジンは苦い顔をした。
「悪かった。……お陰で事態は収まったよ。話してやりたいが、ここじゃ寒すぎる。場所を移そう」
その言葉と同時に、シズから回復役を渡される。飲みやすさに特化させたオリジナルブレンドのポーションだ。負傷箇所が腹部で、恐らく内臓を貫通していたはずだから微妙な気持ちになったが、一気に飲み干してしまえば案外暖かさを感じるだけで済んだ。心配そうに俺を見るシズの肩を優しく叩き、笑顔を見せると、強張ったままだったものの、ぎこちない笑みが返ってきた。
「よ、っと、」
自力でベッドから降りても、自分の足で立ち、歩くこともできる。腹に力も入る。
シズもそれを確認して、誰ともなく移動を始めてもなお、俺の側でギルは黙ったままだった。その視線が俺の首に注がれているのを否応なしに感じる。……うーん、まあ、とどめを刺されるのに首をかききられたからなあ……。思わず指先で首を確かめても、痛みはおろか傷のようなものさえ確認できないから、綺麗に消えているはずだ。それでもまあ、ショックだったのかも知れない。
俺よりもずっと過酷な環境にいて、俺が想像するよりもずっと暴力的なことに慣れているはずのギルが言葉もなく俺を見ている。それに違和感を覚えながらも、ひとまずジンの案内に従って、俺は無事――どのアイテムを失ったか確認するのが怖いが――脱出できたのだった。
いつも肝心なところで俺は蚊帳の外だな……。
そう思ったのはジンから話を聞かされた後だった。
アデルベルタ嬢の居所そのものはマレビトにより把握され、王国の憲兵により捕縛されたそうだ。共にいた男はサモン系スキルによって最後まで彼女の居場所を移し替え、撹乱し続けた。そうやってどうにか追っ手をまいて潜伏しようと画策するも、アデルベルタ嬢自身の降伏によって大人しくなったという。城郭の外へ出て行かなかったのは、深夜だということで安全の確保が昼以上に困難であることがあったからか。彼女が高貴な身分の人で、外へ行き夜を明かすことを拒んだか、能力的にできなかったか。彼らの事情は分からないし、そう言った細やかなことはこれから調べられるのだろう。裁判まで時間がない。特殊な方法で行われるもののため、日時の変更がきかないのだそうだ。
一方で、ギルはアデルベルタ嬢が自宅から行方を眩ませたことそのものより、その結果俺が攫われたことに怒りを露わにしていたようだ。俺が攫われたのも、彼女のために動いていた男のスキルによるものだったろうから、防ぐのはまず無理だっただろう。
そして多分、俺でなくてはいけない理由はなかったはずだ。その証拠に、彼女――実行犯たる男は、他の生産職のマレビトも別の場所に攫っていたらしい。それも撹乱のためだったのだろう。攫ったというより、飛ばされただけで、意識はあったらしく自力で脱出できたと言うことだった。
俺みたいな有様になる人が他にもいなくて良かったと思う。同時に、外れくじを引きすぎでは? とも。
ジンからの説明は、なんと王宮で行われた。そこならば特殊な結界があり、万が一もないだろうということだった。俺だけではなく他のマレビトも集められ、客室が半分ほど埋まる程度には人数があったようだ。特に俺は身体を害されたことと、その時点で全治には至らなかったこと、精神的な安心を確保するためという名目で個別に話を聞かれ、また聞かされることになった。
豪奢なベッドにクッションを敷き詰められ、上半身はなんとか起こした状態で寝かされた俺は、シズがなにくれとなく世話を焼いてくれていることもあってかなり楽にさせてもらっていた。部屋の前にアドルフを待機させているから、そう言う意味でも安心感がある。
ジンはいい加減長話が続いて喉が干上がりそうだ、と軽い調子で肩をすくめていたが、表情には疲労が見えた。ベッドと同じく重そうなソファをわざわざ俺の近くへ寄せて、ゆったりと足を組んで座っている姿は悠然としているが、実際のところ、どちらも本当だったのだろう。果実入りの水がチェイサーごと空になる程度には。
「おつかれさまです」
「全くだ。これだから人の情ってのは困る……。アデルベルタ嬢は王宮(ここ)の特殊牢に収まった。開けられるのは身元の確かな一部の人間だけだ。これで脱獄できるなら人の手には負えないが……まあ、恨みを買っているからな。そこにいる男みたいな奴に裁判前に殺されることもないだろうさ」
「……」
――あれから、ギルはずっと黙っている。何を考えているのか全く分からず、かといって何を言っても火に油を注ぎかねないように思えて、何も言えないでいる。
何か、……言葉にしがたい、チリチリとしたもの。不用意なことをすれば直ぐにでも爆発してしまいそうな、そんな不安にも似た感覚が肌にあった。
ギルは部屋の中央に置かれたソファに座ってこそいるが、俺と目を合わせようとしない。それがより一層不穏さを醸し出していた。
「被害者としては色々思うところはあるだろうが、アデルベルタ嬢はどんなに周りをねじ伏せてでも裁判にかけられなければならない。誰がどう思おうと、それが社会的な公平さってもんだし、システム的に禍根を残さないやり方なんだ」
ジンはそんなギルのことも、俺のことも分かった上なのか、ソファにゆったりと腰掛けて、『いつも通り』に振る舞っている。その様子に、俺がもしかしてギルのヘイトを集めるためなのでは? と思い始めた頃、にわかに外が騒がしくなった。
真っ先に反応したのはギルだ。恐らく今一番過敏になっているからだろう。殆ど同じタイミングでジンも口をつぐんだ。
シズが俺の側に控える。でも、俺はそこまで危ないものは感じなかった。部屋の前に待機させているアドルフの威嚇する唸り声もないし、そもそもアドルフを無視して通ってこられるのは俺を知っている人だろうと思っていたからだ。
俺の反応を見るためだろう。二人が俺の顔を振り返り、それに俺が鷹揚に頷くと、僅かに力を抜いてくれた。
「ヒューイ!」
果たして、バン、と盛大に王宮のドアが開け放たれる。おろおろとする女官と、にこにこしているクレメンテ卿を後ろに連れながら大股で入ってきたのは、随分と懐かしい顔だった。
「ああ……こんなに傷ついて……。話は聞いたよ。怖かっただろう」
「フィズィ」
気遣わしげに俺を見る彼は、初めて出会った頃と同じで優しいものだった。まるで肉親にするように、深い後悔を示す姿に声を掛けるより早く、フィズィは悔やむように目を伏せ、眉を寄せた。
「く……遅かれ早かれこんな風になるなら、あの時リスクがあっても君に全て教えるべきだった。君のことを目の届く範囲で匿って、それが無理ならば共にフォーレを出ていれば……」
え?
「君が無事に友人と合流できたと人づてに聞いたんだ。でも、そこで安堵している場合ではなかった」
「いえ、フィズィにはよくしてもらいました。俺の方こそあれから一度も帰らずじまいで、」
「いや、戻ることの危険性はお互いが知っていたことだ。便りを送ること自体も。君の先輩として、自分にできる限りのことをしてあげたかっただけだ」
「……だったら尚のこと、俺のことばかりではいられなかったでしょう。フィズィ、あなただって危なかったはず」
彼の発言で、マレビトだということは確定した。でも、それを置いたとしても、フィズィはいささか俺に対して親切すぎる。
何かあるのだろう。でも、それを今聞くのは憚られた。
「そ、それよりもなんとなくそうかなとは思いましたけど、クレメンテ卿とは面識があったんですか?」
「ああ……当代ではないけれどね。モルゲンシュテルンの家の人間には昔、依頼絡みで少し助力したことがあったんだ」
「フィズィ殿については三代前の当主から言い含められてきたのでね。恩人の助けになれるならば大体のことは手配するさ。……ところで、私も少しばかりここで休息を取らせてもらっても?」
「もちろんです。現場は落ち着きましたか?」
「優秀な部下にあれこれ押しつけてきたよ。君たちのこともあったからね」
随分と率直な言い方に、俺に合わせてもらっているのだと思って曖昧に笑う。体よくサボり……ではないんだろうけど、現場を抜けるのに使われた感じもあるけど、客人として卿の屋敷に滞在していた身――それもマレビトとして――だったのだから、不自然ではないか。
ジンを窺うと苦笑しつつも苦言を呈するわけでもなかったから、俺から敢えて何かを言うこともないだろうと口を閉じたままでいると、クレメンテ卿は慣れた様子で女官に食べ物と飲み物を追加で用意するように伝えてソファへ座った。一人女官が残り、静かに、そして手際よく彼へ紅茶を淹れる。
それを見て、これ以上会話が広がることはないだろうと判断したのか、フィズィはおもむろに鞄から何かを取り出すと、それを俺に握らせた。コルク栓をしたフラスコ瓶の中に、鮮やかな緑色のシロップのような液体が入っている。ほんの僅かとろりとしたそれは、ポーションによく似ていた。
「これ、って……! エリクサーじゃないですか?!」
「ぐ、ぶほっ」
俺が出した声に反応するようにクレメンテ卿が口をつけていた紅茶を噴いた。一切表情の変わらない女官がそのフォローをする。卿の取り乱した様子にジンもぎょっとしていた。
莫大な財がなければ得られず、そもそも金銭で価値を測れないほどの労力がかかる霊薬。
クレメンテ卿が咳き込むのもかまわず、フィズィは真面目な顔を崩さなかった。
「大昔に作ったものだが、品質は保証する。こんな時でもないと使いそうにないから使って欲しい。これで手打ちにして欲しいと言うつもりはないけどね」
「いえいえ、そもそも別にフィズィに何かを要求するつもりなんてありませんよ! 俺だって……その、ホームをかなり好きにさせてもらったし……。何もお礼ができてない」
「言っただろう? 礼なら不要だ。同じように困っている者を見かけたら、同じようにしてやってくれればいい」
俺はそれ以上なんと言って断れば良いのか分からず、エリクサーに目を落とした。
「裁判の日程は変えられない。この日のために多くの者が準備して決めたものだ。ユーディスが降臨する可能性が高いし、場合によっては他の神々が降りてくるかもしれない。只人でなくとも、精神的な負荷はかかるだろう。
で、あるなら……被害者たる君は、せめて身体的にでも健康でなくては」
「……そう言われると……断れませんね」
「遠慮は要らない。さあ」
フィズィは過去にも経験したのだろうか。『Arkadia』では神と対面する機会はとんとなかった。神々の加護を得るイベントでさえ、ユーディスが仲介に入っていたからだ。
……フィズィの言うことはもっともだ。
俺がそっとコルク栓を外して貴重な霊薬を飲もうと瓶を持ち上げると、固唾を呑んで俺の挙動を見つめるクレメンテ卿とジンが視界に入って、良い意味で力が抜けた。
「く、ふふ」
飲む前で良かった。俺の様子を見て心底口惜しそうな顔をするクレメンテ卿と、「仕方ないだろ」と憮然とするジンが面白くて、俺は気易い気持ちでエリクサーを口にすることができた。
常温の、見た目通りややとろみのある液体を嚥下する。香りはよく分からないが、味は仄かに林檎の果汁のような、飲みやすいものだった。
じわ、と飲んだ先から身体が温まる。まるで、肌を優しい風が撫でるような清涼感のあと、自力で上半身を起こそうと力を入れると、物凄く身体が軽いのが分かった。
「うわ、」
その効果も、即効性も、文句なしに素晴らしい。
俺がベッドから降りて身体を動かすのを見ながら、フィズィは満足そうに頷いていた。
「いいね。違和感はないか?」
「痛みとかそういったことは全く! 敢えて言うなら身体が物凄く軽くて、それが違和感と言えば違和感になるでしょうか」
「それはよかった」
俺とフィズィの横で、ジンが「奇跡だ」と呟く。
そう。奇跡のような霊薬だ。傷口に直接かけても効果があるというのだから、どんな手を使っても欲しいと思ってもおかしくはない。
俺は勿論、シズも目を見開いて言葉も出ないようだった。それでも、喜んでくれていることは伝わる。ギルの方を見遣ると、ほんの僅か表情が和らいでいるように見えて、俺は胸をなで下ろした
「ところで、そこにいるギルという人間が、君の奴隷になった経緯を聞いても? 随分と早い段階で出会ったらしいじゃないか」
――かった。心なしかフィズィから圧を感じる。……分かっている。ギルと俺のレベル差や適性を考えれば、俺がギルを力で制圧したわけではないことは自明の理。だから俺とギルの間で『何か』があったことは間違いない。そう、フィズィは思っているのだ。
……全く、一難去ったら暫くの間は穏やかにいさせて欲しい。
……まさか、死ぬとは思ってなかった。少し前までじりじりと削られていた体力は既に底をつき、今はただじっと、意識を……というか魂を失い、血を垂れ流すだけの自分の身体を見下ろしている。なかなかに凄惨な状態だが、痛みがなかったことと、今の状態がゲームと全く同じであるおかげで俺は冷静だった。
ゲームと同じだからこうなっても怖くない、だなんて、俺もなかなか危ないやつかも。最初は――そして『死亡』状態になるまでは、あれだけビビってたくせに。
とはいえ、身体はどんどん重くなって息が上がるし、強制的に、抗いがたい眠気に誘われるように迎える死という瞬間は、あまり何度も味わいたいものではなかった。これはゲームとは違う部分だし、この世界に来る手順がゲームと同じだったら、安易に行動して今よりももっと恐怖を感じただろうから、事故のような形でこの世界に来たというのは俺にとってはよかったのだろう。フィズィやウィズワルドに『マレビトは死なない』という話を聞いていなければ、もっと安易に死んでいた可能性があまりにも高い。
ともかく。今の状態では死体蹴りが考えにくいこともあるが、それ以上に冷静でいられているのは、死亡判定を食らった状態が『Arkadia』と同じなので多分復帰方法もそうだろうという見込みがあるからだ。実際、復帰するかどうかの選択メニューが表示されている。
『Arkadia』においてHPがゼロになったプレイヤーには
1. アイテムと所持金の半分をロストして体力ジリ貧でこの場で蘇る
2. マレビトに蘇生コマンドで助けてもらう
3. 蘇生薬を持ったNPCを含むパーティメンバーの誰かに助けてもらう
の三つの選択肢がある。
現状、この王都にマレビトが招待されているとはいえ、自分の場所も分からない状態で2は現実的でないし却下。実質の二択。いや、3もない。蘇生薬というのは結構な価値を持つアイテムで、ゲームバランス的にも強力すぎるために入手にはかなりの手間がかかる。大きなクランが細かく仕事を分担して漸く安定供給ができるレベルだ。そしてそれが安価に出回ることはない。
で、結果俺は自力で復活するしか残されていないのだが、そもそもこんなことになった理由から、復帰するタイミングをはかりかねていた。……取りあえずダメ元で試してみるのもアリっちゃアリなんだけど、厄介な人間がいつ来るともわからない、所持金はともかくどのアイテムをロストするかわからないこの状況だと結構な博打だ。
俺をこの状況に相手は魅了のギフト持ち。俺の魅了耐性は高くない。というか対抗できるアイテムやスキルがない状態なら大抵の人間は魅了耐性を持たない。
ギルはよく魅了にかからなかったものだ、と一人霊体で嘆息する。
いつ来るかもわからない厄介な相手とは、アデルベルタ嬢。
俺は、彼女にどうにかして攫われた挙句にどこかも分からない石造りの部屋で殺されていた。
アドルフに跨がり神殿へ駆けつけた俺達は、クレメンテ卿に魔晶石を渡すことはできた。
神殿付近は人で溢れていたが、指揮系統がしっかりしているためか――具体的に言うのであれば、クレメンテ卿を筆頭に今回の大捕物のため動いている勢力がまとまり、正確に現状を把握しようと努め、それが報われているために――人々がパニックに陥り、暴動が起きるような状態ではなかった。
と言っても、それはマレビトを筆頭に、人々がそれぞれに出来ることをしてこの事態の速やかな収束のために尽力している姿が、戦う術を持たない人々の理性をかろうじて恐怖から奮い立たせているに過ぎないことは明白だった。
不安と恐怖が立ちこめる中、魔晶石の引き渡しを終えて直ぐにブルーノとロゼオの姿を探したが、直ぐには見つからなかった。どころか、話を聞いてもそれらしい人を見たという情報さえ出てこない。
もしや道中で何かあったか、はたまたまだクレメンテ卿の屋敷にいるのかと直ぐに探しに出たその先で――俺の意識はふつりと途切れていた。
次に目が覚めたかと思ったら、病院のベッドのようなものの上で四肢を拘束され、不気味なほど美しく、けれどぞっとするほど冷ややかな表情の女性に見下ろされていた。
「気分はどう?」
彼女は俺の目が開くと、小さな声でそう言ってきた。綺麗な声だった。
そして、俺の答えを待たずに続けた。
「マレビトって、どうすれば死ぬのかしらね」
「は……」
「痛みを感じられないようにできるのでしょう? 何人かで試したけれど、痛みのショックで死ぬようなことがないということは……身体をずたずたにすれば確実かもしれないけれど、手間だし、汚そう。現実的じゃないわね」
「き、みは」
不穏な内容に声を上げれば、彼女の俺の見る目に力がこもった。
「今でも、臭くて耐えがたい……どうしてこれで死なずにいられるのかしら……何人見ても慣れないわ」
彼女の言葉に、足下から冷たい物が這い上がる感覚があった。その視線は、ずっと俺の腹に向けられている。
そうして俺が辛うじて頭をもたげると、そこには血に濡れた服と、突き立てられたショートソードが見えた。
「え、あ、」
おかしい。だって、これは俺の身体なのに。
そう思ったが、マレビトは死に瀕すると痛覚がなくなるか鈍くなるようだった。とくとくと、いつも通りの心音を感じ、そしてその音に合わせてじわじわと血が溢れていた。
悲鳴を上げなかったのは、多分、結果として悲鳴にならなかっただけだ。
どうしてこんな状況になっているのか、今は何時なのか、彼女は誰なのか、ここはどこなのか。混乱する俺の頭は、良くも悪くも目の前の光景に塗りつぶされた。
かひゅ、と息が漏れた。自分の発する音が遠い。
痛くはない。痛くはないが、そういう問題じゃないだろ、これは!
「ねえ、あなた。この世界で死んだことはある? 死にかけたことは?」
「……お嬢様、お召し物が汚れます」
「構わないわよ。今更だわ」
そこで初めて、俺は彼女以外にもう一人、男がいることに気づいた。彼女の後ろに影のように控えていた男は帯剣しており、呼び方から関係性が窺えた。
「ですが、」
「いいの。別に……あなたの手を取ったのは、別に逃げたかったからではないし」
――この世界に来てフォーレを出た理由。とある貴族が客人を探している話。シキビから聞いた今回の下手人の、警備兵に紛れていたという男。逃がされた女。
つまり彼女こそ、明日裁判にかけられるはずのアデルベルタ嬢だということだ。
「ねえ、私の質問に答えられる?」
彼女は俺の惨状を気にもせず、俺に語りかけてくる。浅い呼吸を繰り返しながら、俺は首を横に振った。この期に及んで対話ができるとは思わなかったが、これから何をされるのか、見当も付かなかった。
「そう。そうよね。そんなことになっていたら、今そんな風に慌てていないものね。あなたはまだ死んだことがない。マレビトも死ぬのが怖いのね」
彼女は一人納得し、唐突に、俺に微笑みかけた。
「!」
「あなたが死ぬまでもう少し。でもここに居るのは耐えられそうにないわ。気分が悪い。……もっと試してみたかったけれど……もう、タイムリミットかしら」
「ま、」
待て、という声は震えて、自分でさえ聞き取れなかった。女と男の背中が遠ざかっていく。その先に、頼りない光が見えた。ランタンでさえない。ただの松明。炎の揺らぎで照らされたのは古めかしい石造りの壁だった。でも、それ以上のことは分からなかった。
「外の者たちは?」
「まだおります。ギフトの効果も十分かと」
「そう。ではこの客人を殺すよう言っておいて」
霞む視界の中、重々しい扉が閉まる。光源のない部屋の中、彼女たちに替わって近づいてきた気配がそれぞれに自分の獲物を振り上げるのを見て、俺の意識は一度なくなった。
そして、俺はこの世界に来て初めて『死亡』したのだった。
スキル『暗視』があった所為で自分が殺される瞬間が分かってしまって滅茶苦茶怖かったんだよなあ!!!!!!!!
――と、思い出すと身震いしてしまいそうだけど、その身体もない状態の俺はただただ嫌な気持ちになるだけだった。
にしても……まずい。よ、なあ。どう考えても。アズマへチャットを送っておきたいけど、生憎と死亡状態ではできることがほぼない。まあ送れたとて既に王都入りしてるかどうか怪しいけど……いやでも、もう裁判の前日――日付が変わっているのならば当日だ。王都の中にはいなくても周辺にはいるはずだ。騒ぎが大きくなって、耳に入れば俺と連絡がつかないことである程度察してくれる可能性は僅かにはある。
ただ、そこから俺を見つけるとなるとやはり時間がかかるし、先にアデルベルタ嬢が戻ってきて、俺の死体に何かするかも知れない。その時は隙を見て自力で復活、この場から離脱を試みるしかない。ああ、でも自力で復活するのはアイテムのランダムロストがあるからちょっと博打すぎるかも――……。
考えていると、扉の向こうから微かに音が聞こえた。重厚な扉のため外の音は殆ど入ってこない。となると、何かあったのだろうか。残念ながらこの状態でも物理的にすり抜けたりすることはできないので、扉の向こうの様子を見に行くことはできない。
ただ、外が騒がしいと言うことはいずれここにも誰かが入ってくることだろう。それが誰であれ、どういう目的であれ、だ。
俺はじっと扉の様子をうかがった。
鍵を弄るような音が響き、かちゃん、と扉の鍵が反応した直後、重々しい扉は驚くほど勢いよく開かれた。
「ッ、ヒューイ!」
果たして、現れたのはギルだった。血相を変えて、明らかに狼狽している表情で。
「――」
その彼の呼吸が不意に止まった。
酷い有様の死体を凝視して、そして、
「ヒッ……!」
「おいギル、この馬鹿!」
膨れ上がった殺気に、芯から震え上がった。例えそれが俺に向けられたものでなかったとしても、その威圧はジンさえ悠長に構えていられないほどだった。
……後ろにいたシズもギルに気圧されている。その姿が痛ましくて、俺は迷わず自力復帰することを選んだ。
一瞬で視界が変わり、真っ暗になる。
身体の感覚が戻ってくる。痛みはないけど、自分の鼓動が鈍く、息苦しさと身体の重さが戻ってくる。この状態を長時間続けるのはかなりキツいだろう。アデルベルタ嬢が殺害を指示していたのは不幸中の幸いだったかも知れない。
「ギ、ル」
苦しさのなか、喘ぐように口を動かす。ギルは直ぐに俺を見た。殺気は怒気と呼ぶ程度には収まって、瞬きの後更に霧散していた。
「ヒューイ様! 今すぐに治療します! ギル、剣を」
「……」
黙ったままシズの指示に従う。俺の身体に刺さったままの剣の柄を握られた瞬間、体内に、今までの人生で感じたことのない感覚が生まれた。痛みを排除した時って、こんな感じなんだろうか。
ギルは俺が呻いたのに合わせて歯を食いしばると、静かに、けれど素早く剣を引き抜いた。
そこにジンが治療薬のポーションを躊躇いなく振りかけた。
たき火に水を掛けたような音を立てながら、徐々に呼吸がしやすくなる。シズが握ってくれた手から、温かくて心地良い感覚が全身へ広がる。
「シズ、ありがとう」
身体に力を込めると、じくじくと腹が痛んだ。まあでも、あの惨状からすればとんでもなく軽い症状だ。
シズの手に包まれた自分の手を引き抜いて、安心からか涙が伝っていたシズの頬を拭う。
「ギルも」
「ヒューイ、」
「もちろん、ジンも」
「……ウルトラポーションの対価は必要ないぜ。あんたを連れて行かれたのはこっちの落ち度だ」
「はは、助かります」
本当にほっとしてそう返すと、ジンは苦い顔をした。
「悪かった。……お陰で事態は収まったよ。話してやりたいが、ここじゃ寒すぎる。場所を移そう」
その言葉と同時に、シズから回復役を渡される。飲みやすさに特化させたオリジナルブレンドのポーションだ。負傷箇所が腹部で、恐らく内臓を貫通していたはずだから微妙な気持ちになったが、一気に飲み干してしまえば案外暖かさを感じるだけで済んだ。心配そうに俺を見るシズの肩を優しく叩き、笑顔を見せると、強張ったままだったものの、ぎこちない笑みが返ってきた。
「よ、っと、」
自力でベッドから降りても、自分の足で立ち、歩くこともできる。腹に力も入る。
シズもそれを確認して、誰ともなく移動を始めてもなお、俺の側でギルは黙ったままだった。その視線が俺の首に注がれているのを否応なしに感じる。……うーん、まあ、とどめを刺されるのに首をかききられたからなあ……。思わず指先で首を確かめても、痛みはおろか傷のようなものさえ確認できないから、綺麗に消えているはずだ。それでもまあ、ショックだったのかも知れない。
俺よりもずっと過酷な環境にいて、俺が想像するよりもずっと暴力的なことに慣れているはずのギルが言葉もなく俺を見ている。それに違和感を覚えながらも、ひとまずジンの案内に従って、俺は無事――どのアイテムを失ったか確認するのが怖いが――脱出できたのだった。
いつも肝心なところで俺は蚊帳の外だな……。
そう思ったのはジンから話を聞かされた後だった。
アデルベルタ嬢の居所そのものはマレビトにより把握され、王国の憲兵により捕縛されたそうだ。共にいた男はサモン系スキルによって最後まで彼女の居場所を移し替え、撹乱し続けた。そうやってどうにか追っ手をまいて潜伏しようと画策するも、アデルベルタ嬢自身の降伏によって大人しくなったという。城郭の外へ出て行かなかったのは、深夜だということで安全の確保が昼以上に困難であることがあったからか。彼女が高貴な身分の人で、外へ行き夜を明かすことを拒んだか、能力的にできなかったか。彼らの事情は分からないし、そう言った細やかなことはこれから調べられるのだろう。裁判まで時間がない。特殊な方法で行われるもののため、日時の変更がきかないのだそうだ。
一方で、ギルはアデルベルタ嬢が自宅から行方を眩ませたことそのものより、その結果俺が攫われたことに怒りを露わにしていたようだ。俺が攫われたのも、彼女のために動いていた男のスキルによるものだったろうから、防ぐのはまず無理だっただろう。
そして多分、俺でなくてはいけない理由はなかったはずだ。その証拠に、彼女――実行犯たる男は、他の生産職のマレビトも別の場所に攫っていたらしい。それも撹乱のためだったのだろう。攫ったというより、飛ばされただけで、意識はあったらしく自力で脱出できたと言うことだった。
俺みたいな有様になる人が他にもいなくて良かったと思う。同時に、外れくじを引きすぎでは? とも。
ジンからの説明は、なんと王宮で行われた。そこならば特殊な結界があり、万が一もないだろうということだった。俺だけではなく他のマレビトも集められ、客室が半分ほど埋まる程度には人数があったようだ。特に俺は身体を害されたことと、その時点で全治には至らなかったこと、精神的な安心を確保するためという名目で個別に話を聞かれ、また聞かされることになった。
豪奢なベッドにクッションを敷き詰められ、上半身はなんとか起こした状態で寝かされた俺は、シズがなにくれとなく世話を焼いてくれていることもあってかなり楽にさせてもらっていた。部屋の前にアドルフを待機させているから、そう言う意味でも安心感がある。
ジンはいい加減長話が続いて喉が干上がりそうだ、と軽い調子で肩をすくめていたが、表情には疲労が見えた。ベッドと同じく重そうなソファをわざわざ俺の近くへ寄せて、ゆったりと足を組んで座っている姿は悠然としているが、実際のところ、どちらも本当だったのだろう。果実入りの水がチェイサーごと空になる程度には。
「おつかれさまです」
「全くだ。これだから人の情ってのは困る……。アデルベルタ嬢は王宮(ここ)の特殊牢に収まった。開けられるのは身元の確かな一部の人間だけだ。これで脱獄できるなら人の手には負えないが……まあ、恨みを買っているからな。そこにいる男みたいな奴に裁判前に殺されることもないだろうさ」
「……」
――あれから、ギルはずっと黙っている。何を考えているのか全く分からず、かといって何を言っても火に油を注ぎかねないように思えて、何も言えないでいる。
何か、……言葉にしがたい、チリチリとしたもの。不用意なことをすれば直ぐにでも爆発してしまいそうな、そんな不安にも似た感覚が肌にあった。
ギルは部屋の中央に置かれたソファに座ってこそいるが、俺と目を合わせようとしない。それがより一層不穏さを醸し出していた。
「被害者としては色々思うところはあるだろうが、アデルベルタ嬢はどんなに周りをねじ伏せてでも裁判にかけられなければならない。誰がどう思おうと、それが社会的な公平さってもんだし、システム的に禍根を残さないやり方なんだ」
ジンはそんなギルのことも、俺のことも分かった上なのか、ソファにゆったりと腰掛けて、『いつも通り』に振る舞っている。その様子に、俺がもしかしてギルのヘイトを集めるためなのでは? と思い始めた頃、にわかに外が騒がしくなった。
真っ先に反応したのはギルだ。恐らく今一番過敏になっているからだろう。殆ど同じタイミングでジンも口をつぐんだ。
シズが俺の側に控える。でも、俺はそこまで危ないものは感じなかった。部屋の前に待機させているアドルフの威嚇する唸り声もないし、そもそもアドルフを無視して通ってこられるのは俺を知っている人だろうと思っていたからだ。
俺の反応を見るためだろう。二人が俺の顔を振り返り、それに俺が鷹揚に頷くと、僅かに力を抜いてくれた。
「ヒューイ!」
果たして、バン、と盛大に王宮のドアが開け放たれる。おろおろとする女官と、にこにこしているクレメンテ卿を後ろに連れながら大股で入ってきたのは、随分と懐かしい顔だった。
「ああ……こんなに傷ついて……。話は聞いたよ。怖かっただろう」
「フィズィ」
気遣わしげに俺を見る彼は、初めて出会った頃と同じで優しいものだった。まるで肉親にするように、深い後悔を示す姿に声を掛けるより早く、フィズィは悔やむように目を伏せ、眉を寄せた。
「く……遅かれ早かれこんな風になるなら、あの時リスクがあっても君に全て教えるべきだった。君のことを目の届く範囲で匿って、それが無理ならば共にフォーレを出ていれば……」
え?
「君が無事に友人と合流できたと人づてに聞いたんだ。でも、そこで安堵している場合ではなかった」
「いえ、フィズィにはよくしてもらいました。俺の方こそあれから一度も帰らずじまいで、」
「いや、戻ることの危険性はお互いが知っていたことだ。便りを送ること自体も。君の先輩として、自分にできる限りのことをしてあげたかっただけだ」
「……だったら尚のこと、俺のことばかりではいられなかったでしょう。フィズィ、あなただって危なかったはず」
彼の発言で、マレビトだということは確定した。でも、それを置いたとしても、フィズィはいささか俺に対して親切すぎる。
何かあるのだろう。でも、それを今聞くのは憚られた。
「そ、それよりもなんとなくそうかなとは思いましたけど、クレメンテ卿とは面識があったんですか?」
「ああ……当代ではないけれどね。モルゲンシュテルンの家の人間には昔、依頼絡みで少し助力したことがあったんだ」
「フィズィ殿については三代前の当主から言い含められてきたのでね。恩人の助けになれるならば大体のことは手配するさ。……ところで、私も少しばかりここで休息を取らせてもらっても?」
「もちろんです。現場は落ち着きましたか?」
「優秀な部下にあれこれ押しつけてきたよ。君たちのこともあったからね」
随分と率直な言い方に、俺に合わせてもらっているのだと思って曖昧に笑う。体よくサボり……ではないんだろうけど、現場を抜けるのに使われた感じもあるけど、客人として卿の屋敷に滞在していた身――それもマレビトとして――だったのだから、不自然ではないか。
ジンを窺うと苦笑しつつも苦言を呈するわけでもなかったから、俺から敢えて何かを言うこともないだろうと口を閉じたままでいると、クレメンテ卿は慣れた様子で女官に食べ物と飲み物を追加で用意するように伝えてソファへ座った。一人女官が残り、静かに、そして手際よく彼へ紅茶を淹れる。
それを見て、これ以上会話が広がることはないだろうと判断したのか、フィズィはおもむろに鞄から何かを取り出すと、それを俺に握らせた。コルク栓をしたフラスコ瓶の中に、鮮やかな緑色のシロップのような液体が入っている。ほんの僅かとろりとしたそれは、ポーションによく似ていた。
「これ、って……! エリクサーじゃないですか?!」
「ぐ、ぶほっ」
俺が出した声に反応するようにクレメンテ卿が口をつけていた紅茶を噴いた。一切表情の変わらない女官がそのフォローをする。卿の取り乱した様子にジンもぎょっとしていた。
莫大な財がなければ得られず、そもそも金銭で価値を測れないほどの労力がかかる霊薬。
クレメンテ卿が咳き込むのもかまわず、フィズィは真面目な顔を崩さなかった。
「大昔に作ったものだが、品質は保証する。こんな時でもないと使いそうにないから使って欲しい。これで手打ちにして欲しいと言うつもりはないけどね」
「いえいえ、そもそも別にフィズィに何かを要求するつもりなんてありませんよ! 俺だって……その、ホームをかなり好きにさせてもらったし……。何もお礼ができてない」
「言っただろう? 礼なら不要だ。同じように困っている者を見かけたら、同じようにしてやってくれればいい」
俺はそれ以上なんと言って断れば良いのか分からず、エリクサーに目を落とした。
「裁判の日程は変えられない。この日のために多くの者が準備して決めたものだ。ユーディスが降臨する可能性が高いし、場合によっては他の神々が降りてくるかもしれない。只人でなくとも、精神的な負荷はかかるだろう。
で、あるなら……被害者たる君は、せめて身体的にでも健康でなくては」
「……そう言われると……断れませんね」
「遠慮は要らない。さあ」
フィズィは過去にも経験したのだろうか。『Arkadia』では神と対面する機会はとんとなかった。神々の加護を得るイベントでさえ、ユーディスが仲介に入っていたからだ。
……フィズィの言うことはもっともだ。
俺がそっとコルク栓を外して貴重な霊薬を飲もうと瓶を持ち上げると、固唾を呑んで俺の挙動を見つめるクレメンテ卿とジンが視界に入って、良い意味で力が抜けた。
「く、ふふ」
飲む前で良かった。俺の様子を見て心底口惜しそうな顔をするクレメンテ卿と、「仕方ないだろ」と憮然とするジンが面白くて、俺は気易い気持ちでエリクサーを口にすることができた。
常温の、見た目通りややとろみのある液体を嚥下する。香りはよく分からないが、味は仄かに林檎の果汁のような、飲みやすいものだった。
じわ、と飲んだ先から身体が温まる。まるで、肌を優しい風が撫でるような清涼感のあと、自力で上半身を起こそうと力を入れると、物凄く身体が軽いのが分かった。
「うわ、」
その効果も、即効性も、文句なしに素晴らしい。
俺がベッドから降りて身体を動かすのを見ながら、フィズィは満足そうに頷いていた。
「いいね。違和感はないか?」
「痛みとかそういったことは全く! 敢えて言うなら身体が物凄く軽くて、それが違和感と言えば違和感になるでしょうか」
「それはよかった」
俺とフィズィの横で、ジンが「奇跡だ」と呟く。
そう。奇跡のような霊薬だ。傷口に直接かけても効果があるというのだから、どんな手を使っても欲しいと思ってもおかしくはない。
俺は勿論、シズも目を見開いて言葉も出ないようだった。それでも、喜んでくれていることは伝わる。ギルの方を見遣ると、ほんの僅か表情が和らいでいるように見えて、俺は胸をなで下ろした
「ところで、そこにいるギルという人間が、君の奴隷になった経緯を聞いても? 随分と早い段階で出会ったらしいじゃないか」
――かった。心なしかフィズィから圧を感じる。……分かっている。ギルと俺のレベル差や適性を考えれば、俺がギルを力で制圧したわけではないことは自明の理。だから俺とギルの間で『何か』があったことは間違いない。そう、フィズィは思っているのだ。
……全く、一難去ったら暫くの間は穏やかにいさせて欲しい。
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