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三章 訪れる人々
小さな同居人(4)
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まだ工房の景色にさえ慣れていないだろう猫を連れ出すのは躊躇われたが、かと言って工房もいろんな道具があって危ないと思い、俺はそっと猫を抱えてダイニングへ向かった。ギルの持って来てくれた誰かの装備一式はインベントリにしまい、状態を保存しておく。猫が触ると危ないし。
猫は賢そうな顔立ちを裏切らず、腕の中で大人しくしてくれ、ダイニングの椅子へ下ろすと、なぁん、と一つ鳴いた。
ダイニングには既にシズの用意してくれた餌があり、温度も調節したのか、丁度良さそうな暖かさだった。
「シズ、ありがとう。ドゥーンとバァーンもね」
「お任せください」
はにかむシズを椅子に座らせて、その膝の上に猫を移動させる。深い傷は表面が塞がっただけでまだ完治には至っていない。柔らかな真皮に触れれば痛みがあるだろう。
「猫さんだ」
「猫さんケガ痛そう」
シズの座る隣の椅子によじ登って、妖精たちがひそひそ声で呟く。そんな二人の頭をそっと撫でて、シズと目を合わせた。
「シズ、暫く撫でて癒してやってくれ」
「もちろんです」
両手でそっと猫に触れ、頭や目元、顎の下や首周り、うなじへと徐々に触れる範囲を広げていく。
シズの『癒し手』は外傷も癒せるが、筋肉疲労や凝りも回復させられるのがとても魅力的だ。朝お世話になって効果を痛感している身として、その力はよく分かっている。
猫も徐々にリラックスしはじめたのか、シズの手が背中や尻尾を過ぎて足や腹部に移動しても、気持ち良さそうに目を閉じて、喉を鳴らしていた。
それを見ながら、シズが作ってくれた餌の入った皿と、まだ熱さの残る鍋を確認する。肉はよくふやけていて、野菜も小さく刻まれていて、一度茹でた後出来るものは網で漉したのか、ペースト状になっていた。
「猫には勿体無い餌だな」
「味つけはしてないはず……うん、塩が欲しくなる」
鍋の方に小さなスプーンを入れて少し味見をすると、物足りないが素材の風味が分かる。ギルも俺に倣うようにして俺の手からスプーンを抜き去った。少し口に含み、僅かに顔を顰める。出汁も取っていない上に薄すぎるからだ。
小さくも確かに顔を歪めたギルを見てふふっと笑っていると、シズに怒られた。
「こら。全部食べないでくださいよ?」
「流石にそこまで夢中にはなれないよ、この味」
俺の言葉に、ギルが頷く。
「肉が食いたい。ヒューイも出るならついでに適当に猪でも狩るか」
「あー……じゃあ牡丹鍋がいいかな。確か三日前ギルが取ってきてくれた猪肉がそろそろ食べごろだし。入れ替えで使おう。っていうか俺、猪肉はそれしか食べ方知らない」
「任せる。新しく狩った猪の処理は俺がやる」
「了解」
牡丹鍋とはつまり猪鍋だ。出汁に赤味噌を溶かし、クレソンやごぼうと一緒に煮込んで食べる。煮込めば煮込むほど美味いから、最初に入れられるだけ全部肉を入れる。……俺、クレソンよりネギの方が好きだしここは何食わぬ顔でネギを用意するか。
「ヒューイさま、今日はお出かけですか?」
「ああ、ちょっとその子を拾った場所に誰のか分からない装備品が落ちてたらしくて。ギルが回収してくれたんだけど、現場を見に行こうと思ってね」
「なるほど……じゃあ、僕はその間に下準備だけでもしておきましょうか? この子も凄く大人しいですし、戸締りには気をつけますから問題ないかと」
「ん、じゃあ出る前に作り方教えとく。猪肉は煮込めば煮込むほど美味しいから、肉は先に入れておいても大丈夫」
「はい」
すき焼きみたいに溶き卵に出汁を少し混ぜると美味しいんだ。生ものはインベントリに入れるようにしてあるから食べる直前に出そう。あとは……山椒……は工房のプランターにあったな。味噌も前任が実験的に作っていたらしいのを納屋で見た。梅干しとか梅酒とか醤油とか、同郷かと勘ぐりたくなるものも揃っていたが……まあ、ここは先人の遺物をありがたく使わせてもらおう。最初に色々と見て回ってなにがあるかを確認した時、一緒に鑑定もしておいたからざっとした作り方はわかる。『調理』スキルもあるし。
猫が元気よくなうなう鳴き始め、シズが用意した餌もぺろりと食べきったため、俺たちは改めてほっと息をついた。
ドゥーンとバァーンにお菓子と紅茶を振舞った後、俺はシズに猪鍋に必要な材料と下準備の仕方を教えてからギルとリビングで問題の場所を確認した。リビングの机は魔力認証することにより森の地図がホログラムのように浮かび上がり、俺の『マッピング』とリンクする。
この道具は森に対して害となる存在があった場合、およそ2スタンディオンごとに区切られた区画が赤く光り、警告音を発する。裏を返すまでもなく、ここに異常が浮かばなければどんな不可思議で奇妙な出来事があったとしても問題はない、ということだ。
何せこの森には多くの妖精と幻獣たちが住んでいて、気まぐれで人の都合など関係ない彼らによって惑わされたり、何処かへ飛ばされたり、場合によっては『過ぎた悪戯』で殺されることもある。このシステムは、そう言った事例は拾わないようになっている。古い昔にこの森を愛した学院創設者の意を汲んでいるそうだが――それはともかく。
改めて地図上に問題が発生していないことを確かめて、アドルフとともに件の場所へ向かった。
≪妖しの森≫の敷地は、とある地点から「ここから見える景色全部」とまではいかないが、それでも二つの山を内包するほどには広い。山とその麓は全て木々で覆われており、その先にマギがある。位置はマギからは南東で、街道とは真逆。人が立ち入るとすれば何かの目的か、事情がある場合だけだ。それも学院の許可があれば先立って一報が入る。
立ち入ることそのものを制限しているわけではないが安全は保証されないし、管理人、つまり俺の判断で殺されたところで文句は言えない。まあ管理人として選ばれる方も随分考えに考え抜かれて、血の気が多かったり、殺人に対して抵抗がなさすぎたりする者は弾くそうだが。
渓流を抜け、アドルフを先頭に川を上って行く。その先には滝があって、なかなか壮観な眺めだ。
猫は、その付近で倒れていたらしい。
猫の傷は刃物で切られたような綺麗さはなかった。モンスターは動物を襲うことはほとんどない。たまに家畜などが巻き添えを食らう形で死ぬ位だ。
猫は単に縄張り争いに敗れたのだろうか。だとすれば、その場にあったという装備一式は誰の物だ?
「そこだ」
ふつふつと湧き上がる疑問を抑え、ギルが示した先を見遣る。大きく平らな岩にはぞっとするほどの量では無いものの、かなりしっかりと赤い血がついていた。あの猫のもの……だろうか。泥もついているが、乾ききってない。
「……本当に、争った感じじゃないな。何処かで傷ついてここまで逃げて来た……とか」
じっくりと周囲を見渡し、人の気配がないかを自分の目で確認して行く。
周囲は争った形跡はなく、土や苔が踏み荒らされた様子もなければ、木々が傷ついた風もなかった。
『マッピング』があるから迷う心配はない。ギルと一緒に必要最低限残された痕跡を辿ることにしたが、人の足跡は確認出来なかった。ただ、目印にしようとしたのか同じ模様が木に刻まれていることがあったのと、石や木の根についた赤黒い血は随所で見ることができた。
木の傷はともかく、血はあの猫のものなのだろうか。だったら、傷だらけの猫とともに何者かがここへ入ってきたということなのか。
疑問に思いながらギルが既に見つけて来ていた痕跡を辿って行くと、そのまま森を抜けてしまった。その後も少し歩いてみたが、血痕はそのまま続いていたから、ここを通ったのは間違いない。
「……森に入ったのか、出たのか。どっちだろう」
「入って出たのかもしれねえだろ」
「そうだけど」
理由も何もかも分からない。
ただ、森の中で何かが乱獲された様子はなく、ギルやアドルフが狩りをしていた際にも、特にそう言った気配や鳴き声は感じられなかったらしい。
「とりあえず戻ろう。俺たちが注意を払うべきなのは森の中だ。対処も、森の中に入られてからじゃないと動けない」
ギルが頷き、来た道を引き返す。
「……血は乾いてなかったし、猫が入ってから時間はそこまで経ってないはず。……それでもギルとアドルフが見つけた時点で人の気配がなかったと考えると……猫とは別で考えた方がいいのかな。どういう経緯で装備だけ置いて行ったのかは分からないけど、捨てたのならともかく、事情があったんだとしたら、もしかしたらまたやって来る可能性もある。俺が預かってるわけだから、家の方まで来るかもしれない」
考えをまとめるために口に出して行く。
冒険者なら、装備を放り出すだなんて命からがら逃げる時か、その装備がもはや使い物にならなくなったかのどちらかくらいのものだ。武器や道具の値段は馬鹿にならない。
だが、ギルの拾ったものはそこまでするほど致命的に壊れていたわけではなかった。
「まさか猫があそこまで引きずってきたわけじゃないだろうし」
理由はともかく。
軽い気持ちで言ったものの、ギルは静かな表情で何かを考えているような沈黙を引き寄せた後、不意に俺を見つめた。
「なにがあったかを探っても仕方が無い。装備の匂いを嗅がせて、アドルフに追わせることはできるのか?」
「多分。……やってみたりはしなかった?」
「アドルフが猫を気にしてたからな。咥えさせて先に帰した」
「ああ、そっか」
そうだった。
納得し、インベントリから問題の装備を取り出し、アドルフの鼻先へ差し出し、匂いを嗅がせてみる。
「この匂い、追跡できそうか?」
アドルフは尻尾を振りつつ、わふんと鳴いた。それからやけにはっきりした足取りで歩き始める。頼もしい限りだと思いつつ、遺体を見ることになるかもしれないと今から心の準備をしておく。
「……アドルフが動くってことは、幻獣や妖精に連れて行かれたってわけでもなさそうだな」
アドルフを追いかけながら呟いたギルに、その可能性もあったねと答える。
「むしろ手を出された結果があれだったとか」
妖精たちは決して人の味方ではない。攻撃的な存在もいるし、どうしようもない『やんちゃ』もいる。……『Arkadia』のクエストで妖精を追いかけて捕まえるってのがあったけど、あれはなかなか骨が折れた。報酬がレアリティの高いステータスアップの装備品じゃなければ絶対やってなかった。妖精は空中を飛び回れるし、そうでなくともすばしっこい。彼ら固有の特殊な魔法も使えるのだ。そういった魔法で強制的に違う場所へ飛ばされるケースというのも確認されている。
「……あれ? 家に戻ってない?」
ふと意識を周囲へ移すと、歩き慣れた場所へと出ていた。森の景色をちゃんと把握できるのは、フォーレでエルフとともに過ごしたことや『マッピング』があればこそだ。
「そうだな。このままいけばそうなる」
ギルは落ち着いているが、俺は俄かに焦りを感じた。
今までギルやアドルフに見つからずにいられるほど隠れて動ける者だとして、そいつは戦いの心得があることは間違いない。もし置き去りにしていた装備を探して家を様子を窺っているなら――シズが危ない。
「――っ」
どくん、と大きく心臓が動いた気がした。
『隠密』を発動し、玄関を過ぎて裏手の畑の方へ回るアドルフの後を追う。
「あ、おい待てヒューイ!」
ギルの制止の声にも止まれなかった。
『気配感知』でなにも拾えなくても、学院のシステムとリンクしている『マッピング』に何の異常もなくても、ギルとアドルフが落ち着いていても、過った事態を否定しきれるほどの自信なんてこれっぽっちもない。
「待てって」
畑の傍を通り過ぎ、勝手口から器用に中に入っていくアドルフの後に続くより先に、ギルの腕が俺の肩を掴み、体術よろしく拘束された。俺の焦燥を包み込むように抱き込まれて、拒絶に強張った身体が弛緩していく。
「落ち着け」
低く穏やかな声が鼓膜を震わせた。
「シズが心配だよ」
「何かあっても気が動転しているお前よりアドルフの方が上手く仕留めだろうよ」
酷い言われようだ、と思うが、多分その通りなのだろう。もしギルの言う通り何かあったとして、下手に刺激させてしまって逆にシズを危険に晒してしまうかもしれない。
「俺が気配を握れない程の手練れかもしれねえって気持ちはわかるが、だったらお前じゃ余計に手に余るだろうが」
腕が緩み、鼻を摘ままれる。
「分かってるのか」
「たった今分かりました」
鼻声でそう答えると、ギルは満足そうに鼻で笑って、俺を放してくれた。瞬間、家の中からアドルフの鳴き声が響く。
攻撃的な吠え方ではないことに安堵しつつもどきどきしながら家の中へ入ると、アドルフが尻尾を振りながら俺の元へやってきた。……猫を咥えて。
「……アドルフ?」
首根っこを咥えられて暴れることも出来ない猫の傷口はシズのおかげで随分癒えているようで、流石に毛が生えるほどでは無いものの、丸見えになっている皮膚の状態は家を出る前に確認した時よりも綺麗に見えた。
アドルフは俺の前で猫を放すと、猫の身体を何度か舐めてからわふ、と俺を見上げた。
どう? どう? 褒めて? と言わんばかりに尻尾が揺れている。
これは……。
当の猫は俺を気にするでもなく、逃げ出すでもなくアドルフに構ってほしそうに前足でちょんちょんとアドルフの太い前足をつつき、デンプシーロールよろしく八の字に動いて身体を擦り付けていた。
アドルフの向こう、先ほどまで猫の相手をしていたのだろうシズが、何事かときょとんとした顔をしている。俺はアドルフを褒めるべきなのか叱るべきなのか途方に暮れた。
「……あの、ヒューイ様? この子がどうかしたんですか?」
それはこっちが知りたい。
猫は賢そうな顔立ちを裏切らず、腕の中で大人しくしてくれ、ダイニングの椅子へ下ろすと、なぁん、と一つ鳴いた。
ダイニングには既にシズの用意してくれた餌があり、温度も調節したのか、丁度良さそうな暖かさだった。
「シズ、ありがとう。ドゥーンとバァーンもね」
「お任せください」
はにかむシズを椅子に座らせて、その膝の上に猫を移動させる。深い傷は表面が塞がっただけでまだ完治には至っていない。柔らかな真皮に触れれば痛みがあるだろう。
「猫さんだ」
「猫さんケガ痛そう」
シズの座る隣の椅子によじ登って、妖精たちがひそひそ声で呟く。そんな二人の頭をそっと撫でて、シズと目を合わせた。
「シズ、暫く撫でて癒してやってくれ」
「もちろんです」
両手でそっと猫に触れ、頭や目元、顎の下や首周り、うなじへと徐々に触れる範囲を広げていく。
シズの『癒し手』は外傷も癒せるが、筋肉疲労や凝りも回復させられるのがとても魅力的だ。朝お世話になって効果を痛感している身として、その力はよく分かっている。
猫も徐々にリラックスしはじめたのか、シズの手が背中や尻尾を過ぎて足や腹部に移動しても、気持ち良さそうに目を閉じて、喉を鳴らしていた。
それを見ながら、シズが作ってくれた餌の入った皿と、まだ熱さの残る鍋を確認する。肉はよくふやけていて、野菜も小さく刻まれていて、一度茹でた後出来るものは網で漉したのか、ペースト状になっていた。
「猫には勿体無い餌だな」
「味つけはしてないはず……うん、塩が欲しくなる」
鍋の方に小さなスプーンを入れて少し味見をすると、物足りないが素材の風味が分かる。ギルも俺に倣うようにして俺の手からスプーンを抜き去った。少し口に含み、僅かに顔を顰める。出汁も取っていない上に薄すぎるからだ。
小さくも確かに顔を歪めたギルを見てふふっと笑っていると、シズに怒られた。
「こら。全部食べないでくださいよ?」
「流石にそこまで夢中にはなれないよ、この味」
俺の言葉に、ギルが頷く。
「肉が食いたい。ヒューイも出るならついでに適当に猪でも狩るか」
「あー……じゃあ牡丹鍋がいいかな。確か三日前ギルが取ってきてくれた猪肉がそろそろ食べごろだし。入れ替えで使おう。っていうか俺、猪肉はそれしか食べ方知らない」
「任せる。新しく狩った猪の処理は俺がやる」
「了解」
牡丹鍋とはつまり猪鍋だ。出汁に赤味噌を溶かし、クレソンやごぼうと一緒に煮込んで食べる。煮込めば煮込むほど美味いから、最初に入れられるだけ全部肉を入れる。……俺、クレソンよりネギの方が好きだしここは何食わぬ顔でネギを用意するか。
「ヒューイさま、今日はお出かけですか?」
「ああ、ちょっとその子を拾った場所に誰のか分からない装備品が落ちてたらしくて。ギルが回収してくれたんだけど、現場を見に行こうと思ってね」
「なるほど……じゃあ、僕はその間に下準備だけでもしておきましょうか? この子も凄く大人しいですし、戸締りには気をつけますから問題ないかと」
「ん、じゃあ出る前に作り方教えとく。猪肉は煮込めば煮込むほど美味しいから、肉は先に入れておいても大丈夫」
「はい」
すき焼きみたいに溶き卵に出汁を少し混ぜると美味しいんだ。生ものはインベントリに入れるようにしてあるから食べる直前に出そう。あとは……山椒……は工房のプランターにあったな。味噌も前任が実験的に作っていたらしいのを納屋で見た。梅干しとか梅酒とか醤油とか、同郷かと勘ぐりたくなるものも揃っていたが……まあ、ここは先人の遺物をありがたく使わせてもらおう。最初に色々と見て回ってなにがあるかを確認した時、一緒に鑑定もしておいたからざっとした作り方はわかる。『調理』スキルもあるし。
猫が元気よくなうなう鳴き始め、シズが用意した餌もぺろりと食べきったため、俺たちは改めてほっと息をついた。
ドゥーンとバァーンにお菓子と紅茶を振舞った後、俺はシズに猪鍋に必要な材料と下準備の仕方を教えてからギルとリビングで問題の場所を確認した。リビングの机は魔力認証することにより森の地図がホログラムのように浮かび上がり、俺の『マッピング』とリンクする。
この道具は森に対して害となる存在があった場合、およそ2スタンディオンごとに区切られた区画が赤く光り、警告音を発する。裏を返すまでもなく、ここに異常が浮かばなければどんな不可思議で奇妙な出来事があったとしても問題はない、ということだ。
何せこの森には多くの妖精と幻獣たちが住んでいて、気まぐれで人の都合など関係ない彼らによって惑わされたり、何処かへ飛ばされたり、場合によっては『過ぎた悪戯』で殺されることもある。このシステムは、そう言った事例は拾わないようになっている。古い昔にこの森を愛した学院創設者の意を汲んでいるそうだが――それはともかく。
改めて地図上に問題が発生していないことを確かめて、アドルフとともに件の場所へ向かった。
≪妖しの森≫の敷地は、とある地点から「ここから見える景色全部」とまではいかないが、それでも二つの山を内包するほどには広い。山とその麓は全て木々で覆われており、その先にマギがある。位置はマギからは南東で、街道とは真逆。人が立ち入るとすれば何かの目的か、事情がある場合だけだ。それも学院の許可があれば先立って一報が入る。
立ち入ることそのものを制限しているわけではないが安全は保証されないし、管理人、つまり俺の判断で殺されたところで文句は言えない。まあ管理人として選ばれる方も随分考えに考え抜かれて、血の気が多かったり、殺人に対して抵抗がなさすぎたりする者は弾くそうだが。
渓流を抜け、アドルフを先頭に川を上って行く。その先には滝があって、なかなか壮観な眺めだ。
猫は、その付近で倒れていたらしい。
猫の傷は刃物で切られたような綺麗さはなかった。モンスターは動物を襲うことはほとんどない。たまに家畜などが巻き添えを食らう形で死ぬ位だ。
猫は単に縄張り争いに敗れたのだろうか。だとすれば、その場にあったという装備一式は誰の物だ?
「そこだ」
ふつふつと湧き上がる疑問を抑え、ギルが示した先を見遣る。大きく平らな岩にはぞっとするほどの量では無いものの、かなりしっかりと赤い血がついていた。あの猫のもの……だろうか。泥もついているが、乾ききってない。
「……本当に、争った感じじゃないな。何処かで傷ついてここまで逃げて来た……とか」
じっくりと周囲を見渡し、人の気配がないかを自分の目で確認して行く。
周囲は争った形跡はなく、土や苔が踏み荒らされた様子もなければ、木々が傷ついた風もなかった。
『マッピング』があるから迷う心配はない。ギルと一緒に必要最低限残された痕跡を辿ることにしたが、人の足跡は確認出来なかった。ただ、目印にしようとしたのか同じ模様が木に刻まれていることがあったのと、石や木の根についた赤黒い血は随所で見ることができた。
木の傷はともかく、血はあの猫のものなのだろうか。だったら、傷だらけの猫とともに何者かがここへ入ってきたということなのか。
疑問に思いながらギルが既に見つけて来ていた痕跡を辿って行くと、そのまま森を抜けてしまった。その後も少し歩いてみたが、血痕はそのまま続いていたから、ここを通ったのは間違いない。
「……森に入ったのか、出たのか。どっちだろう」
「入って出たのかもしれねえだろ」
「そうだけど」
理由も何もかも分からない。
ただ、森の中で何かが乱獲された様子はなく、ギルやアドルフが狩りをしていた際にも、特にそう言った気配や鳴き声は感じられなかったらしい。
「とりあえず戻ろう。俺たちが注意を払うべきなのは森の中だ。対処も、森の中に入られてからじゃないと動けない」
ギルが頷き、来た道を引き返す。
「……血は乾いてなかったし、猫が入ってから時間はそこまで経ってないはず。……それでもギルとアドルフが見つけた時点で人の気配がなかったと考えると……猫とは別で考えた方がいいのかな。どういう経緯で装備だけ置いて行ったのかは分からないけど、捨てたのならともかく、事情があったんだとしたら、もしかしたらまたやって来る可能性もある。俺が預かってるわけだから、家の方まで来るかもしれない」
考えをまとめるために口に出して行く。
冒険者なら、装備を放り出すだなんて命からがら逃げる時か、その装備がもはや使い物にならなくなったかのどちらかくらいのものだ。武器や道具の値段は馬鹿にならない。
だが、ギルの拾ったものはそこまでするほど致命的に壊れていたわけではなかった。
「まさか猫があそこまで引きずってきたわけじゃないだろうし」
理由はともかく。
軽い気持ちで言ったものの、ギルは静かな表情で何かを考えているような沈黙を引き寄せた後、不意に俺を見つめた。
「なにがあったかを探っても仕方が無い。装備の匂いを嗅がせて、アドルフに追わせることはできるのか?」
「多分。……やってみたりはしなかった?」
「アドルフが猫を気にしてたからな。咥えさせて先に帰した」
「ああ、そっか」
そうだった。
納得し、インベントリから問題の装備を取り出し、アドルフの鼻先へ差し出し、匂いを嗅がせてみる。
「この匂い、追跡できそうか?」
アドルフは尻尾を振りつつ、わふんと鳴いた。それからやけにはっきりした足取りで歩き始める。頼もしい限りだと思いつつ、遺体を見ることになるかもしれないと今から心の準備をしておく。
「……アドルフが動くってことは、幻獣や妖精に連れて行かれたってわけでもなさそうだな」
アドルフを追いかけながら呟いたギルに、その可能性もあったねと答える。
「むしろ手を出された結果があれだったとか」
妖精たちは決して人の味方ではない。攻撃的な存在もいるし、どうしようもない『やんちゃ』もいる。……『Arkadia』のクエストで妖精を追いかけて捕まえるってのがあったけど、あれはなかなか骨が折れた。報酬がレアリティの高いステータスアップの装備品じゃなければ絶対やってなかった。妖精は空中を飛び回れるし、そうでなくともすばしっこい。彼ら固有の特殊な魔法も使えるのだ。そういった魔法で強制的に違う場所へ飛ばされるケースというのも確認されている。
「……あれ? 家に戻ってない?」
ふと意識を周囲へ移すと、歩き慣れた場所へと出ていた。森の景色をちゃんと把握できるのは、フォーレでエルフとともに過ごしたことや『マッピング』があればこそだ。
「そうだな。このままいけばそうなる」
ギルは落ち着いているが、俺は俄かに焦りを感じた。
今までギルやアドルフに見つからずにいられるほど隠れて動ける者だとして、そいつは戦いの心得があることは間違いない。もし置き去りにしていた装備を探して家を様子を窺っているなら――シズが危ない。
「――っ」
どくん、と大きく心臓が動いた気がした。
『隠密』を発動し、玄関を過ぎて裏手の畑の方へ回るアドルフの後を追う。
「あ、おい待てヒューイ!」
ギルの制止の声にも止まれなかった。
『気配感知』でなにも拾えなくても、学院のシステムとリンクしている『マッピング』に何の異常もなくても、ギルとアドルフが落ち着いていても、過った事態を否定しきれるほどの自信なんてこれっぽっちもない。
「待てって」
畑の傍を通り過ぎ、勝手口から器用に中に入っていくアドルフの後に続くより先に、ギルの腕が俺の肩を掴み、体術よろしく拘束された。俺の焦燥を包み込むように抱き込まれて、拒絶に強張った身体が弛緩していく。
「落ち着け」
低く穏やかな声が鼓膜を震わせた。
「シズが心配だよ」
「何かあっても気が動転しているお前よりアドルフの方が上手く仕留めだろうよ」
酷い言われようだ、と思うが、多分その通りなのだろう。もしギルの言う通り何かあったとして、下手に刺激させてしまって逆にシズを危険に晒してしまうかもしれない。
「俺が気配を握れない程の手練れかもしれねえって気持ちはわかるが、だったらお前じゃ余計に手に余るだろうが」
腕が緩み、鼻を摘ままれる。
「分かってるのか」
「たった今分かりました」
鼻声でそう答えると、ギルは満足そうに鼻で笑って、俺を放してくれた。瞬間、家の中からアドルフの鳴き声が響く。
攻撃的な吠え方ではないことに安堵しつつもどきどきしながら家の中へ入ると、アドルフが尻尾を振りながら俺の元へやってきた。……猫を咥えて。
「……アドルフ?」
首根っこを咥えられて暴れることも出来ない猫の傷口はシズのおかげで随分癒えているようで、流石に毛が生えるほどでは無いものの、丸見えになっている皮膚の状態は家を出る前に確認した時よりも綺麗に見えた。
アドルフは俺の前で猫を放すと、猫の身体を何度か舐めてからわふ、と俺を見上げた。
どう? どう? 褒めて? と言わんばかりに尻尾が揺れている。
これは……。
当の猫は俺を気にするでもなく、逃げ出すでもなくアドルフに構ってほしそうに前足でちょんちょんとアドルフの太い前足をつつき、デンプシーロールよろしく八の字に動いて身体を擦り付けていた。
アドルフの向こう、先ほどまで猫の相手をしていたのだろうシズが、何事かときょとんとした顔をしている。俺はアドルフを褒めるべきなのか叱るべきなのか途方に暮れた。
「……あの、ヒューイ様? この子がどうかしたんですか?」
それはこっちが知りたい。
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