異世界スロースターター

宇野 肇

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一章 ギルと名乗る男

そこに至るまでの事情と釈明(3)

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 たった一人――なんのかんの言ってもアドルフは動物枠でしかなく言葉を話すわけではない――の生活の中現れたギルという現地人に、俺は困惑を隠せなかった。
 ≪フォーレ≫を出てからの第一村人発見、という奴だが、実質これが初めての人間との接触であり、そこで既に俺には恐怖があった。俺がフィズィの発言を重視するのはそれだけ信頼しているということだが、それにしても彼の言葉は重かった。そして人間と接触しかけて、改めて思ったのだ。

 俺と言う存在はおかしいのではないか、と。

 フィズィはまあ間違いなくプレイヤーだろうということからフォーレにいた頃は多分、俺の知らないところでたくさんフォローしてくれていた可能性は否めない。だから、本当に俺という個人とアルカディアの人間という一対一での対面はそれが初めてだと言えた。フォーレに滞在する冒険者連中とは会話したことがなかったのが災いした。あるいは、無意識の内に避けていたのかもしれない。
 俺がゲームとして認識している行動はこの"現実"において、人間として一般的なものなのか。客人マレビト……プレイヤーであるとばれない限り、俺の立ち位置はゲームのプレイヤーと同じなのか。溶け込めているのか。
 今更ながら、それが一切わからなかった。

 案内人ナビゲーターがいない不安が久々に戻ってくる嫌な感じがした。
 ゲームであれば人間と言えばプレイヤーかNPCかだから異世界の事情など知らなかった所で不自由することも誰に憚ることもなかったが、"現実"で、俺がそうであるように他の人間もが実際にここで生きているらしい以上、そういうわけにもいかない。もう少し言うならば、善良な人もいれば卑劣だったりあくどい奴もいるだろう。下手をすると騙され、売られてしまう危険があった。
 その時、傷だらけで倒れ伏していたギル……いや、名も知らぬ男からは、そういったものが一切見えなかった。苦しんでいること以外、その人柄が分かるヒントの一切が無かったのだ。そしてそれゆえに、良くも悪くも俺がどう見られているのかが見えず、不自然に引き攣っていただろう表情や態度も知られることはなかったのだが。

 とはいえ、悪人であろうがなかろうが、初対面かつ瀕死のところに出くわして放置できるほど俺は度胸が据わってはいなかった。
 フィズィに言われていた言葉のこともある。受けた恩を返す方法は一つじゃない。フィズィにしてもらったことを、今度は俺が誰かにする番だ。そうも思った。我ながらいい子ちゃんすぎると思うが、そうであることで心のバランスを保とうとしていたのかもしれない。
 俺はアドルフに待てをさせて少し離れた位置で男の状態を確認してから治癒魔法をかけることにした。これは俺の判断だし、後悔はしてない。見捨てて後味の悪い思いをしてこの先ずっと過ごすよりはマシと言える。
 男は最悪の状態だった。傷だらけで瀕死なのに毒を受けて更に麻痺までしていたのだ。
 慌てて距離を詰めて兎にも角にも先ずは解毒だと解毒魔法アンチポイズンをかけた。魔法は薬よりは即効性があるし、自力での口径摂取は無理そうだったから。魔法もスキルと同じように熟練度を上げられるため、捨て身でモンスターの毒を食らって治してを繰り返した甲斐があった。これで体力が減るのを防げる。
 それから、簡単な治癒魔法である程度体力を回復させる。全快させると悪人だった時怖いから、最低限に留めておいた。
 麻痺を治すのは正直怖かったが、それでもやらないわけにはいかないだろうとそれも魔法で治す。まともに喋れなくなるから、これを直してやらないと会話が出来なかった。幸い、途中で暴れられることはなかった。ただ、まだぐったりとしているのがひしひしと伝わってきて、俺はそっと、傷に触らないように肩に触れて、耳元で呼びかけた。
「大丈夫ですか?」
 耳元で呼びかけ反応を見ると、弱り切っていた彼は俺を見たが、安心したのかなんなのか、そのまま意識を失ってしまった。……意識のない状態で放置というのもモンスターに襲われるかもしれないと、俺は俺よりも大きな男の身体をどうにか負ぶって、アドルフに先導されるようにして隠れ家に戻った。怪我に障るといけないから、アドルフは中には入れなかった。
 その頃、俺は一人であることを満喫してもいた。だから人目を憚らなくていい環境を手に入れて、モンスターから入手ドロップした素材からいろいろ実験してみることにも挑戦していた。だから、男を寝室に寝かせる前にまず、スライムの核を取り去った残骸のゲルをリビングに広げて、その上に彼を横たえた。スライムのゲルは性質変化に強く、『錬金術』のスキルで硬度や形を調整することができたのだ。
 さて、改めて見下ろした男の肌は浅黒く、髪も真っ黒。軽装で、腰にダガーが吊ってあった。身体を休めるのには不要だと思って、ホルスターやポーチがついた大きなベルトごと装備品を丁寧に外して、念のためインベントリに保管した。それから腰紐をはじめ身体を締め付けていた部分を緩め、可能な限り服を脱がした。いやらしい意味ではなく、他に怪我があったりはしないかという心配から。
 ギルの身体にはかすり傷が多くついていた。森の中……というより、藪の中に突っ込んだような感じだ。その一つ一つに調合で作った傷薬を塗る。これで傷口を覆えば、直ぐに傷が治るのだ。魔法ほどの即効性はないが、魔法は使いすぎると倦怠感が凄まじく、酷いと気絶してしまうこともある。人柄がわからない以上力は温存しておくべきと、俺は嬉々として自分で作ったそれを塗り込めて行った。自分やアドルフで効能は分かっていても、やはり誰かを助けるために使うというのは気分が良かった。
 最初は顔や首、肩から始めたが、使い古されたようなシャツを肌蹴させて出てきた男の腹筋はぼこぼこで羨ましかった。ちょっと膨れ上がった大胸筋、引き締まって程よく筋肉がついている腕は太すぎず、しかし逞しい印象を与える。そして骨ばってごつごつした大きな手は、掌はふっくらとしているのに指はすらりとして……とにかく、憧れるものだった。
 俺はといえばアバター製作時の通りつんつるてんで、整ってはいるものの、課金もしてないしほぼデフォルトに近くぱっとしない。ムダ毛なんか一本もないし肌も綺麗なもんだ。男としてどちらが魅力的かなんて言うまでもない。
 嫉妬と羨望をかき混ぜながら、俺はギルを寝室へ運びベッドへ寝かせた後、目覚めた時のことを考えて薬湯を作っておくことにした。目覚めた時、まずは名前を聞いてみようと呑気にも思いながら。
 彼の身体に、明らかに矢が刺さった跡や鋭利な刃物による傷があったことは、分かっていたのに。

 俺は自分で言うのもなんだが、甲斐甲斐しく世話をしたと思う。今思えば、怯えがあった一方で、完全に浮かれていたのだろう。
 その日の夜半になって目覚めた男がリビングにやってきたのに気づいた俺は、警戒を怠った。
「あ、起き上がって大丈夫ですか? 具合は……」
 はっきり言って、甘すぎだったと言わざるを得ない。俺はキッチンで鍋の様子を見ていて、男は奥へ続く廊下の端からこちらを伺っていたから、ダイニング、リビングと距離があったことも大きいだろう。助ける前はあれだけ躊躇したのに、俺は男の装備品を預かったという安心感と純粋に人の命を助けられたことが嬉しくて、笑みさえ浮かべながら男に向き直ったのだ。当然、武器になるものを持つとか、ましてや魔法を使うなんていう発想さえ、その時はどこかへ消し飛んでいた。
 だから、男が立っている場所から瞬きほどの速さで距離を詰め、どこに隠し持っていたのかナイフを突きつけられても、俺は直ぐに状況を把握できなかった。
「……?」
 ふわ、と浮き上がるような跳躍に見惚れていたのは分かっていたが、そっと首筋に向けられた刃物の感触には気付けなかった。至近距離過ぎたというのもあるし、即効性の毒を塗っていたらしく、肌に触れる寸前の位置で止められていたからだ。
 男の顔はやはり整っていた。真っ直ぐに俺を見つめる男と、ぽかんとして男を見上げる俺。男の表情は鋭く、間違いなくそこに好意などなかった。それどころか警戒でいっぱいだったのに、俺はあまりのことに感覚が麻痺していたようで、常時発動するパッシブスキルの『気配感知』があったにもかかわらず、男の持つ空気を感じ取れなかった。
 間抜けな空気が流れた。と、思うのは俺だけだろう。
「あ、え?」
「ここはどこだ。お前はだれだ? 俺に何をした。俺をどうするつもりだ」
 低い声だった。低いけれども低すぎず、淡々とした声色は少し冷たいようにも思われた。
 瞬きを繰り返す俺に、男は更に言葉を重ねた。
「俺の装備を返してもらおうか」
 そこでようやく、俺にも感覚が戻ってきた。男に警戒されていること、下手を打てば死ぬかもしれないこと。
 『死に戻り』の可能性は捨てきれないが、だからといって機会が来たから試してみるか、などと思えるはずもない。俺は顔を引きつらせつつ両手をゆっくりと上げて、掌を見せた。
「ちょ、……わ、分かりました。今から取り出しますから……そ、そこの棚から」
 自分のインベントリに突っ込んであるものの、そこから取り出すと空中からいきなりものが現れるように見えるし、空間魔法もしくは特殊スキルという位置づけなのだからそれを見せるのは得策ではないという判断力は残っていた。
 ダイニングの食器棚の一番下。引き戸を開けて手を突っ込む。さもそこから取り出しましたと言わんばかりにそっと手を引いて装備を見せると、男はそれをむんずと掴んで肩に引っ掛けた。もちろん、その間ナイフはずっと突きつけられたままだった。
「ぐ、具合はいかがですか。どこかまだ麻痺が残っていたり、痛む所は」
「今のところ問題はない。……お前がやったのか」
「はあ。なにせ死に掛けているところに出くわしたので」
 ぴんぴんしてたら一目散に逃げただろうな、と生活魔法で灯したランプの光に当てられ鈍くきらめく刃物を見遣る。遅ればせながら怖さと緊張がやってきて、変な汗が出た。
 男は俺を警戒しながらも暫く自分の装備を確かめたあと、小さく息をついた。
「……手を加えられたわけではなさそうだな」
「あ、はい。治療に邪魔だったので外しただけです」
「そうか」
 男はそこでナイフを引き、肩にかけただけだった装備品をきちんと身につけた。
「悪かった。礼を言う」
 俺の無実は無事に証明されたと思っていいのだろうか。
 ナイフをしっかりした革製のホルスターに収め、無造作に腰に差す様子を見守りつつ、少しだけ肩の力を抜いた。
「俺はヒューイといいます。あなたの名前は?」
「……ギル。ギルだ」
 そこでようやく男はギルと名を名乗った。
「早速で悪いが、迷惑ついでに身体が全快するまでここにおいてくれないか。多分、これ以上手を煩わせることもないと思う」
 ギルは俺を見下ろすと直ぐにそう切り出した。俺はわざと全快させなかったわけだが、今すぐにでもそうできるから出て行ってくれとも言えず、俺はこっくりと頷いた。ギルが「頼む」と頭を下げたから。謝罪も含めて、そこに好感を持ったからだ。

 ギルは特別饒舌なタイプではないものの、受け答えはきちんとしてくれるし悪い人間には見えなかった。アドルフともすぐに打ち解けたようだったし、目覚めた直後こそ殺気にも似た警戒をぶつけられたが、それ以降は一切荒々しいそぶりは見せなかったというのも大きい。
 まあそれは俺の主観であって、熟練度上げに大量に作ってインベントリに収まりきれず放置していたいろんなアイテムはその後かっぱらわれたわけだが、それはこの時点では知る由もなかったわけで。
 俺も自分がどう見られるかとか、俺の事情はとても話せるものではないと自分のことでいっぱいいっぱいだったから、ギル個人について訊ねることはなかった。
 というか、そもそも俺がどうして毒を食らって倒れていたのかを聞くと、
「知らない方がいい。ワケありだということを知っていれば十分だろう」
 なんて言葉でかわされた挙句、
「こんなところで一人で暮らしているお前の方こそ似たようなもんだろう」
 と反撃され、俺は嘘を付くこともできず答えに窮したのだが。到底腹を割って話すなどできないし、藪をつついて妙なものに出くわしたくなかった。
 お互い干渉はしない。出会って一日で暗黙のルールができた瞬間だった。
 けれど、全快するまでの数日間、俺たちは良好な関係を築けていた。そう思っていた。
 まだ行ったことのない≪ゼクスシュタイン≫の方角を教えてギルを見送り、家の中に置いていたはずのものがなくなっていることに気づくまでは。


 結局のところ、俺とギルの接点はそれだけだ。
 俺はギルがどういう人間なのかはよく知らない。個人的なことに踏み込まれるのはさり気無く牽制されたのに、俺も訳アリだと思われている所為か(いや、実際その通りだが)、人間の街、ここから最も近いと思われるゼクスシュタインの様子は教えてくれた。
 俺の生まれはずっと遠い片田舎、と言うことにした。ギルは出身地であるとは言わなかったが、恐らくそこで過ごしたことがあるのだろう。詳しかった。
「ゼクスシュタインは六角形の城壁に囲まれた人間の街だ。街の中心は回廊状の塔になっていて、辻馬車のような装置で街の至る所に、馬車よりずっと早く快適に移動できる。錬金術師、鍛冶師、薬剤師たちが集まり、日々技術を磨いている場所だ。その所為で職業ギルドには常に採集依頼が絶えない。秀でた技術から作り出される多種多様の道具やアイテムを目当てに腕のいい冒険者が良く集まる。……あとは……そうだな、昼も夜もそこそこに賑わいがある」
 ギルによってもたらされる情報はまとめられていて、最低限街の特色が示されていた。盗み癖のせいで信じるには思い切りが足りなかったが、ゲームでのゼクスシュタインの様子とほぼ同じ街の様子に少しだけ安心した。やはりここはアルカディアであり、ゲームの知識そのままで通じる部分は多く、変に勘繰るだけ時間と気力の無駄かもしれない、と。
 盗み癖さえなければギルは寧ろ過剰に恩を売るわけでもなく、かといってあからさまに俺に嘘を吹き込もうとしている風でもなかった。……だが、受け入れた後にごっそりいろいろと盗られたわけだから、自分のその印象さえ信じることは難しかった。
 好感の持てる誠実そうな受け答えや振る舞いに反し、インベントリに仕舞えずにあぶれた俺の鑑定済みアイテムや調合品、何気なく置いていた浄化済みの魔晶石なんかをくすねていくことだけが、俺にとっての確かなことだ。そして手癖が悪い割に、家捜しや物盗りのように家の中をしっちゃかめっちゃかにされたことはない。工房にはインベントリに仕舞えないプランターの類があったが、そもそも一歩も入った形跡はなく、失せ物もなかった。それが不思議だった。
 ギルにしてやられてから、俺は泣きそうになっている自分を自覚していた。そこでギルとの交流に舞い上がっていたことに気づいたのだが。
 出会って日も浅く、お互いに詮索しない関係だった。それでも俺にとってはギルが見せてくれていた穏やかな部分はこの上ない癒しであり、慰めになっていた。


 ともかく、最初の別れは最低だった。少なくとも俺はそう思っていたが、意外にもギルは再び俺の前に現れた。
「よう」
 なんて気軽な言葉で後ろから俺の肩を叩いたギルに俺は身構え、身体が強張るのを感じた。
 スキルがあるのに気配が分からなかった。それがギルと俺との実力の差を示していた。
 きっと挙動不審だっただろうに、ギルは何も言わなかった。ただ遊びに来たと言って微かに笑んでさえいた。
 俺はにわかに緊張した。
 隠れ家の場所を把握されることは考えてなかった。よく考えれば、『マッピング』のようなスキルを持つのが俺だけなわけがないのに。
 ギルはふらりと現れては他愛のないことを話し、翌朝には姿を消していた。……俺が放置していたアイテムごと。
 それでなんとなく、多分ギルにとって俺は、格下だとみなされたんだろうことを理解した。たかられているのだと。
 幸いだったのは、それらのアイテムがフィズィの置いていたものではなかったことか。大切にインベントリに仕舞っていたから難を逃れていた。俺の作った回復薬や、畑で採れた野菜、一人ではなかなか消費しきれないためインベントリの外でも長持ちするようにとつくった干し肉なんかは容赦無く犠牲になっていたが。
 このことで強いて感謝をするなら、俺はギルのおかげで自分にとって大事なものは絶対安易に外に出すべきではないと学べたことだろうか。魔晶石だって見事に持って行かれたから、それは有事の時のためにインベントリに仕舞うようになった。他のものは消耗品で、誰かが消費しなければ勿体無いという見方もできるが、浄化済みの魔晶石は違う。殆ど通貨と同じだ。
 大事なものといえば、俺の秘密もそう。風呂がなく、また生活魔法のおかげでその必要もないのも良かった。脱ぐ必要がないから、俺が一番探られたくない体毛のことは分からないはずだ。ギルの前では魔晶石を浄化することもしてないし、だから、俺が異質な存在プレイヤーだとはばれてはいないはず。
 家にさえ入れなければいいのだろうが、どうすれば自然に断れるのか検討もつかなかった。
 少しでも不自然だとかぎこちない部分を見抜かれてしまえば、ギルは『飼い犬に手を噛まれた』くらいに思うかもしれない。そのとき彼がどんな行動に出るのか全く読めなかった。
 ギルの強さは俺には分からない。ただ、気配を消されると感知できなくなるから、俺の感知スキルの熟練度の上を行く『隠密』の使い手だということは確かだ。気配を絶つそのスキルを使われてしまえば一気に不利になるし、調子を確かめるためにどでかい猪のモンスターを一人で仕留めて担いできたこともあった。力でも敵わないだろう。
 最初見たときの怪我には明らかに人を相手にしていたような傷があり、しかも俺に対して容赦無くナイフを突きつけてきたことから、ギルは対人戦にも慣れているだろうと思われる。それに、たとえブラフであっても俺のことも殺そうと思えばそうする心構えくらいあるだろう、どこか淡白で冷ややかな雰囲気を持っていた。
 一方、俺は接近戦は不得手であり、筋力もおそらくギルに劣る。そしてなにより、人を傷つけることをしたことがなかった。殺すなんてもってのほか。
 ゲームならいざ知らず、"現実"でそんなことができるだろうか。それも、一度助けた相手だ。例えアドルフをけしかけたとして、失敗すれば後は殺し合いが始まるだろう。殺さないように手加減する余裕もないだろうし、そんなことを考えていたら間違いなくさっくり殺される。いや、その前に恐怖で竦み上がり、いよいよもって上下関係というものを分からされるかもしれない。殺されることも嬲られることも、何もかもが恐怖でしかない。
 かといってそうならないようにするための自然に切り抜ける方法など、微塵も思いつかなかった。

 脅されて何某かをしろと言われたことはなく、強要されている感じはなかったが、『利用されている』という感覚はどうしても拭えなかった。かっぱらっていくからには俺が持っているものは価値があるものなのだろうが、俺のアイテムをどうしているのかは全く分からなかった。ギルは徹底してそのことに関してはまるでないように振舞っていた。
 直接問いただす前に機会を失ってしまった俺は、極力それについては目を伏せるようにした。俺にとって鑑定済みのアイテムはそれ以上役に立たないものだったし、調合したものは保管する場所もなく消費も追いつかず、時間経過で劣化するばかりだったから、捨ててしまわなければならないものだったのもある。せめてと思って誰かを害する類のものはインベントリの棚の中へ徹底して避けておいたが、それくらいしかできなかった。いや、しなかったのだ。
 今思えば、俺は話相手に飢えていた。隠れ家には俺がいなければ入れないのだから、そこから逃げてしまおうとしなかった時点で俺は既にギルに依存していたのだろう。会話をする分には、ギルは穏やかだったから。
 けれどその穏やかさに反し、俺たちの関係はドライだと思った。曖昧で、立っているのが薄氷であるかどうかさえもわからなかった。

 ギルは二ヶ月の間、一週間に一度ほどの頻度でやって来た。最早怪我人ではないからとアドルフとともに食材を探しに行くように言いつけてみたり、ベッドではなくソファを使うようにと言ってみたりしたこともあったが、俺の張り裂けそうな緊張を裏切るように、ギルはあっさりとそれを受け入れた。
 ギルがやってきた日は二人分の料理を作り、彼と一緒にそれを食べて夜遅くまで話をした。街の様子、最近あった印象深い出来事。浅く細々とした話題であっても、時折沈黙を挟みながらのその時間が、俺は好きだった。
 なのに、一晩眠って俺が起きる頃には、ギルはアイテムと共に姿を消していた。

「よう」
「いらっしゃい」

 そんな風に始まって、無言で終わる時間。ギルが立ち寄った翌日、盗られているのはアイテムだけではなくて。減ったものの代わりに胸元をかきむしりたい衝動が沸く。
 寂しさと悲しさと悔しさと、そういうものが出始めたのはいつだったか。もしかしたら最初からそうだったのかもしれない。

 現在唯一関わりのあるそんな関係だが、いつなくなるかわからない怖さがあった。
 そう、怖かった。いつまで続くのかを思うと憂鬱になるのに、どういう形であれギルとの奇妙な関係が切れることを思うと不安になった。
 ギルと話をするのが好きだった。低く穏やかな声は耳にすると落ち着いたし、誰かと話せること自体に飢えていた。ゼクスシュタインを目指すことに躊躇いがあった俺にとって、ギルとの浅く不明瞭な関係はある意味、楽で良かった。少なくともギルと会話をしている間は、ギルとの形容しにくい関係のことも、自分がやるべきことを先延ばしにしている勇気のないことも忘れられたからだ。
 ギルとの時間は楽しい。けれど、夜が明けると遣る瀬無さでいっぱいになる。これじゃいけないと何度も思う。なのに俺はやっぱりレベルと熟練度を上げようとアドルフとともにモンスターを倒し、畑の世話をし、薬を作り、あるいは実験染みた試行錯誤を繰り返して過ごした。誰にも侵されることのない場所を手放すことはできないと自分に言い聞かせて、まるでギルを待つように。

 そして、決定的なことが起こる。ギルが抱かせろと迫ってきたのだ。



 確か、その日はギルが相談事があると言いだして、アドルフをリビングで休ませて二人で寝室へ場所を移したんだったと思う。ホームは外からも内からも音が聞こえないようになっているから盗み聞きされる心配などこれっぽっちもないのに、ギルの言葉に乗ったのはどうしてだったんだろう。
 違和感もなく聞き入れた俺は、見事にギルに押し倒された。部屋の明かりを灯した直後、ベッドで両手をまとめるようにして頭の上で押さえつけられ、俺は言葉を失った。
 唖然として覆い被さる男の顔を見上げ、それからざわざわと胸に嫌なものが沸き立つのを感じるのと、いつもギルが去ってから感じていた気持ちが膨れ上がったのは同時で。
 泣きそうになった。
 力の差は歴然としており、どんなに力を込めてもピクリともしないというその事実を突き付けられたことに身体は震えあがった。
 この時点ではどういうことかよくわかってなかったが、それでも動きを封じられるというのは怖いものだ。
「じっとしてろ」
「ひっ……ギル、なにを……、っ?! やめ、やめて……い、いやだ、いや……! あ、あやまる、なにか気に障ることをしたなら謝るからっ」
 きっちりと首元まで肌を覆い隠す詰襟に似た服を暴かれて慌てる俺を余所に、ギルはおもむろに俺を愛撫し、胸元に舌を這わせた。
 そこで何をされようと言うのか嫌でも分からされた俺は、全く予想していなかったその『暴力』に恐怖と混乱が頂点に達し、恥も外聞も投げ捨て泣きわめいた。全く心当たりもなかったが、とにかく誤って、許してくれと。
 それでもギルはまったく止める気配はなく、俺が事態を飲みこめず感情のまますすり泣いていると、いきなり唇がぶつかった。柔らかな感触と自分のものではない熱に困惑と驚愕で一瞬息を止めるも、口の内を我が物顔で動き回るギルの舌に吐息まで絡め取られた。
「んっ……ふ、ぁ……あっ、んん、ん、んぅ……ふ、ん」
 泣いていたせいで鼻はつまり気味。長く続くキスに呼吸さえ管理されて、当然、結果は酸欠。胸は早鐘を打つようにうるさいのに、混乱と不安、失望と恐怖でぐちゃぐちゃになっているのに、何処か思考はぼうっとしていて。
 そんな俺に、ギルは言った。
「抵抗するな。面倒だ」
 俺の意思を無視した行為に及ぼうという輩が何を言うのか。
 きっと俺が冷静で、第三者的立場だったらそう突っ込んでいただろう。しかし俺は当事者であり、ギル個人に対する形容し難い荒れた想いと、今からされる仕打ちとも言うべき行為への恐怖でいっぱいだった。
「こ、こわい」
 その感情のまま素直に気持ちを吐き出すと、ギルは優しげに双眸を細め、指の背で俺の頬を撫でた。
「すぐに快くしてやる」
「……い、痛くない?」
「ああ」
「ほんとに?」
「ああ」
 恐怖の中、こみ上げてきた涙で揺れる視界で、真っ直ぐに俺を見つめてくるギルの表情は読めず、それでも。だから俺は蚊の鳴くような声で、彼に従うことを告げた。
「優しく、して」
 直後、ギルの口角が見たことのないほど持ち上がるのを見た。
 ぎりぎりと痛んだのは掴まれた手首ではなく、胸の方だった。
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