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ある伯爵令息の末路
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「ふむ。貴様の面はやはり好みではないが、その歪んだ顔はそこまで悪くはないな」
散々人の心を弄んだ男が眼前で笑った。その艶は今まで自分に見せたどの表情よりも真に迫って、だから俺はそれこそが彼の本心なのだと知って、それで――この手で殺そうと思って手を伸ばして、恐らくそこで死んでいる。
******
は、と目覚めると見慣れた寮の自室だった。心地よく保たれた室温の中、今し方の鮮明な記憶が夢だったのか、今まさに夢を見始めているのかの境界が分からずじっとりと嫌な感覚に汗が滲む。
シリルは湯浴みを済ませようとベッドから降りた。咄嗟に時間を確認したが、夜明け前、空が明るくなり始める頃合いだった。音を立てないよう移動し、丁寧に磨かれた風呂場でタオルを水に浸す。身体を拭くだけに留め、ひやりとした感覚が肌を擦っていくことに集中すると、今し方『体験していた』感覚は遠くなり、強張っていた身体はほぐれていった。
夢、というにはあまりにも鮮明な光景だった。
己が破滅する瞬間。少し前に同性にしか向けられない性欲を死ぬまで押し殺して生きていくことができないのならば今ここで殺すと実家から言い含められたことは、シリルにとって幸いなことだった。誰も好き好んで良好だった家族仲に亀裂を入れようとはしないものだし、また、自分のせいで中立派として名を馳せ、慕われる家に泥を塗ることは避けたい事だったからだ。
どのみち貴族の次男以下は家を継がない。親の爵位から一つ譲られることはあるが、シリルはそれもないことを事前に合意していた。
バーネット家は過酷な環境で領民と共に生きてきた歴史があるため、ルールを遵守することに対して非常に厳しく、また基本的に苛烈な性分だが、かと言って生き物としての情は捨てていない。
シリルは自分の性欲の性質をそのまま受け止めてくれた実家に感謝していた。
故に、先ほど生々しく体験した『一人の男に恋い焦がれ、彼にまとわりつく蠅を潰そうと使えるもの全て使い、結果その彼から引導を渡され家の名もろとも破滅する』結果に眉をひそめた。
夢に見たことなど直ぐに忘れていくものだが、まるで天啓を受けたかのようにあらゆることを鮮明に思い出せる。不気味さの中、無意識的に日付を確認し再びベッドに戻ると、シリルは目を閉じなが過去について反芻した。
シリルの密かな想い人であるクリシュナという男は、非常に人を惹きつける力を持つ令息だ。革新派の家の嫡男ではあるが、中立派は誰も彼もと対立しているわけではない。幼い頃の顔合わせで、自分とは全く異なる、力強くもどこか色気のある顔立ちと振る舞いに目を惹かれて以来、シリルの心の中にはクリシュナが据えられていた。
「結婚しようとも貴方ほど愛せる人はいまいよ」
「そういうことは好いた女に言うのだな。男同士で寒気がするわ」
その本人から、他愛のない会話のじゃれ合いをことのほか強く拒絶されてから、シリルが誰かを特別に思っているような仕草はしていない。冗談の上にほんの僅かに乗せた本音の気持ちを気づかれたと、シリルもまた感じたからだ。
それが今から五年前。
『今のシリルの時間感覚からすれば』、これからまもなく、平民が学び舎へやってくる。
『知らない未来の記憶によれば』、その平民は無礼な振る舞いこそをもって高位の貴族たちが無聊(ぶりょう)を託(かこ)つ中に燦然と輝いた。特に革新派のライアン家嫡男、クリシュナが囲う素振りを見せたので、シリルの胸中は穏やかではなかった。クリシュナはシリルの恋心を見透かすように翻弄し――そのうちに、悋気を抱いたシリルはその平民に憎しみを覚えるようになり、そしてある日、人を使って害そうとした。
その企みはクリシュナが手ずから暴き、一度は避難を逃れたものの、シリルの悋気は酷くなり、結局自ら手を下そうとしたところをクリシュナに絡め取られ、死んだ。クリシュナにとって平民は、シリルの心を乱す手段にしか過ぎなかった。それに気づいたのは、まさに破滅する直前。
「はは、ルートヴィヒのやつは可哀想にな。貴様のためならなにもかも捨てられるような気概のあるヤツだったのに。……おかげで、俺は好みの男をかわいがれたよ。それについてだけは、貴様に感謝してもいい」
「は……」
「ルートヴィヒが男にかわいがられる才能があったのは予想外だったが、まあいい。つれない貴様に代わって、俺が丁寧に慰めてやったぞ。貴様もそれなりに楽しいかと思ったが、やはり好みでないとあまり愉快ではないものだな」
あまりの言い様に、シリルの殺意はクリシュナに向けられ、そして……控えていた私兵の銃弾に倒れた。
シリルの意識がなくなる直前、クリシュナはシリルを嘲った。シリルについて既に興味が失せた声色こそ、シリルにとって何よりの侮辱だった。
「もっとも、貴様は抱かれる方がお好みのようだ。元より貴様等に縁などなかったのかもしれんな」
あまり眠れないまま身支度を済ませたシリルは、改めて日時を確認した。朝方確認した通り、そろそろ平民がやってくる時期で間違いない。否、もういるのだったか。あまりに興味がないからか、平民に関する情報は上手く思い出せなかった。確か一番最初は、どこか貴いお方の落し胤(おとしだね)かと思っていた。識字率もさほど高くなく、あらゆる教育は上流階級にのみ許された特権である以上、真実ただの平民がこの学び舎に入ってくることは考えられなかったからだ。かと言って、どこかの国のやんごとなき身分の者を匿うのであればこの国での相応の身分も用意するはず。よって、権力も名声も高い家の胤であるというのが、一番筋が通る話だった。
シリルの知っているまだ見ぬ平民は、それはもう品がなかった。悪知恵だけは一級品と言ったところで、酷く風紀を乱す存在にもかかわらず淫らで奔放な手練手管で名家の子息達を籠絡した。それはクリシュナも同じ事で、皆一様に色欲に溺れたわけではなかったが、身体の関係は持っていた。
だが、とシリルは逡巡する。
覚えのない経験もあった。例えば、クリシュナに手酷く拒絶された経験は、今のシリルにしかなかった。だからこそ異なる記憶の中のシリルは秘めた気持ちを弄ばれ、終わったのだが――どうやら、全てが全て、同じというわけではないらしい。
「シリル様、おはようございます。顔色が優れないようですが、どこか不調がおありですか?」
「……ああ、ルートヴィヒ。おはよう」
教室へ向かう途中で声をかけられ、目を向ける。そこには凡庸な色の男が立っていた。今も、知らない未来でもずっと影のように自分の後をついてきた男。ルートヴィヒ=コナー。いつか、自分が唆して手を汚させることになる。
自分に継ぐ爵位はなく、どこかと縁づく予定もないと突っぱねることで中立派の中でも特殊な立ち位置を手に入れたシリルに、未だ慕わしいとじゃれてくる犬のような男。
この男の自分へ向いている感情は確かなものなのだと、シリルは改めて理解する。不思議な心地だった。それまで、シリルにとってルートヴィヒはよく言えば何の変哲もない、悪く言うならば歯牙にかける必要もないような、印象の弱い男以外になかったからだ。
「いやなに、少々眠りが浅くてな」
「珍しいですね。なにか憂いごとでも?」
「憂い……そうだな、多少は」
ルートヴィヒには決して分からない、知るはずもない結末を憂いと言うのならば間違ってはいない。ただ、今のシリルがクリシュナ絡みでなにか理性的でないことをするのは最早考えられなかった。表向きは清廉潔白を貫く自身の心は、あの日、浮ついた瞬間を刈り取られたことで深く沈めている。空虚さは知的好奇心と芸術鑑賞で埋め、日々の付き合いも皆平等に、ほどほどに留めている今、シリルにとってあの結末は遠く感じられた。
それでも平民の様子は気になるもので。
「あの平民のことでしょうか」
「さて、果たして学のない平民が放り込まれて、上手くやっていけるものなのか……気になるところだな」
「はぁ、お優しいのですね」
「どうだろうか。好奇心があることは否定しないが」
都合よくルートヴィヒから口に出してきた話題に乗る。自分の言葉をそのまま受け止める男に笑みを向けて、シリルは自分の教室へ足を踏み入れ、ルートヴィヒを見送るように、あるいは追い払うように軽く手を上げた。
その日からシリルは度々記憶の引き出しを開け閉めすることに没頭した。
クリシュナに気を持たせるような振る舞いをされ、最期まで翻弄され続けた愚か者。それは自分を慕っていたルートヴィヒを使って平民の誘拐と殺害を企てた。既に淡い気持ちを手酷く扱われた今のシリルにはない経験だが、その理由は程なくして明らかになった。
五年前のあの日、既にクリシュナはソラという平民という、シリル以上のおもちゃを手に入れていたことが分かったのだ。そしてそもそも平民を学び舎へ持ち込んだのはクリシュナだった。
クリシュナもまたシリルのような不可思議な体験をしたのだろうかと訊ねたくなったが、シリルはどうにか飲み込んだ。ともすれば弱みになるようなことを自ら晒すのは、特にクリシュナ相手では躊躇われたし、五年前とは違い、冗談で収まることのない話題になるのは確かだったからだ。
また、平民の様子もシリルの知るそれとは異なっていた。
記憶上の平民は実に粗野で、言葉を話す獣のようだと思ったが、実際にシリルの目の前に現れた平民はどうやら分別があるようで、未熟な部分は勿論目につくものの、性根については随分と良い方に異なっていた。
だが、平民が次々と高位貴族の子息達に近づき、籠絡しているという話が出回るのは同じだった。明らかにクリシュナが平民に首輪を掛けているにもかかわらず、話を耳にするほど野放しにしているのは何か理由と事情があるのだろうことは直ぐに思い至れる。
クリシュナに意図があるならばとシリルも特に意に介することはなく、寧ろ平民と一対一で話す機会があればと思っていたが、中々どうして人目を避けることは難しく、偶然を装えないまま日々は過ぎていった。
漫然とした時間の中、決定的となったのはルートヴィヒが平民の声かけに応じ、シリルとの時間よりも平民を優先した瞬間だった。
言葉を失ったまま二人を見送ったシリルは、心地の良いソファに掛けたまま、とくとくと胸を叩く鼓動を感じつつ自分の感情を理解した。影のようにいつでも変わらずにそこにあった存在が、そうではないのだと知ってしまった。
空気を奪われたとはまさにこのことか、とシリルは思った。
そうして、ふと一つの結論へ至る。
――あらぬ未来で、ルートヴィヒはシリルの恋心を知っていたのではないか。その上で、あの男の愚かしいほどの忠誠があったのだとしたら。
シリルが欲しかったものを、ルートヴィヒこそが持ち得るのではないか、と。
だが飽くまで可能性に過ぎない。シリルのために平民を躾けようとしているルートヴィヒは、既にシリルとともにいることよりも平民への教育を優先し始めている。接触が増えた先に、身体と心を絡め取られてしまうのではないか。
そう思うと心を逸らせてしまうのが人というもので、いつか見た未来とは違う相手に、同じような衝動が芽生え始める。
矢も盾もたまらず立ち上がり、談話室から飛び出そうとしたがる身体を押さえつけてコーヒーに口をつけると、先ほどまでルートヴィヒが座っていた場所にクリシュナがさっと腰掛けた。
「何か?」
「つれないな。少し話があるんだが」
「クリシュナ殿が私に?」
「おかしなことでもないだろう?」
クリシュナから誰かに声を掛けることは殆どない。あるとすれば誰かをからかう時くらいのものだ。だいたいは相づちを打ったりと、受け身のまま情報収集をするのが彼のやり方だった。
「生憎とルートヴィヒを待っているので」
「その彼と、子リスについてだ」
「……。わかりました。どちらへ?」
「資料室を空けてきた」
子リスとは平民の男を指している。そしてクリシュナが空けてきたという資料室は、基本的に教職員の許可がなければ立ち入れない、持ち出し不可の書架が保管されている場所だ。
手間暇をかけ、わざわざシリルが一人の時を狙って声を掛けてきたのだ。くだらない話では無いだろう。シリルはコーヒーを飲み干すと、クリシュナと共に席を立った。
談話室から資料室までは遠い。基本的に静けさを保つため、生徒達が団らんする談話室や寮棟からは離れている。
クリシュナはトラウザーズのポケットから慣れた手つきで鍵を取り出すと、シリルを中に入れ、その後自分も入って内鍵を掛けた。
「それで、話とは? 余程楽しいことのようですが」
「分かるか? 楽しいとも。今までで一番かも知れないな」
「貴殿の楽しさは不敬と隣り合わせだった気がしますがね」
「そう言ってくれるなよ」
「私は心底王族の方々が近しい年齢でなくてよかったと思いますよ」
比較的平和な時代である今は、王族も同じ学び舎で学ぶことがある。ライアン家は革新派の筆頭であり、それはつまり、『王制が古いと思えば異なる統治へ意欲的になる』と言う意味において、王への忠誠心が低いと言い換えることもできる。特にクリシュナはその傾向が強く、貴族として国への忠誠やバランスのことは考えても、王そのものに価値をおいているとは言い難い。
これはまた難儀な話が来る、と構えたシリルに、クリシュナは口角をつり上げた。その笑みは、個人に向けられたものだったならば嘲りのように見えたかもしれない。
己で散々遊んだ後のクリシュナの様子を思い起こしながら、シリルは目の前の彼へ意識を集中した。
「最近、横領と脱税でそれなりの家が潰れたが、その土地の一部をライアン家が賜ってな。更にそこから土地を分割されて、管理を任された」
「素晴らしいことですね。貴殿が嫡男として覚えめでたく、ライアン家においては今後も栄える証拠でしょう」
「その辺はどうでもいい。それでだな、一つ実験でもしようかと思っている」
「……」
「ソラをここへ入れたのもその一環だ。あれをタネに手始めにまず、貴族の義務と責務について意識の薄い連中を排除する」
「それはそれは」
えらく性急で強引だ。尤も、それはクリシュナに限っては彼らしいと呼べるものだが、シリルは刹那、絶句した。
相づちだけは即座に出たが、クリシュナの表情は変わらない。
「学問・学術の場において全ての者の身分は平等である。その裾野を広げるためには義務を疎かにするような者は不要だろう」
「……。というと、平民を放り込んだのは前例を作るため、ですか」
「あれは我らが思うような生き物で収まる奴ではないからな。実際、計算は速く語彙もそれなりにある。それ以上に異常なのは身分の感覚と、発想が平民にしておくには『この世にない』ほど類を見ないことだな」
「今後の見通しに、私やルートヴィヒが関係あると?」
「あるのではないか? 俺が管理するのは具体的には賜った領地にある街だ。そこでは身分の貴賤を問わず、平民にも読み書き計算をさせて、優秀な者を将来的に官僚として街の運用に組み込む」
「下々に貴族と同じ責任を負えるとお思いですか」
「無論価値観の統一は急務だろうな。不正を防止するための強固な仕組みも必要だ」
「……。豊かな商人などはともかく、農夫や職人にとって子は働き手です。そんな家々が子を勉学に送り出すでしょうか」
「幸いにも不正によって領主が裁かれたのでな。街にはそのしわ寄せを食らって浮浪児がそれなりにいる。まずそいつらに十分な生活と教育を施せば、焦りや野心から出してくる家も増えるだろう。浮浪児は一旦孤児院へ入れて、そこに寄付をする形で生活基盤を整えてやる」
「しかし、全員がその道に行けるわけもなし……金と時間の浪費では?」
「だが、常に教育が同じレベルで施せれば、不正が起きても首をすげ替えるのは容易になる。全員が優秀である必要はない。寧ろ優秀なものばかりで揃えれば今と変わらなくなるだろう?」
途方もない話だ。農夫や職人に、使いもしない学問を学ばせることはそれだけで膨大な時間と人材を浪費する。実を結ぶことが約束されているわけでもないのに、ギャンブルよりも分が悪いことに手を掛けようとしている。
シリルにはクリシュナの考えが理解できなかった。
「誰に吹き込まれたか存じませんが……、今の私には遠い話のように思えますね。本当に関係が」
「まあ待て。ゆくゆくはの話だ。取り急ぎそれをするために、できるだけ満遍なく平民になる予定の令息達に声を掛けていてな。家と繋がりがなくなるほうが都合が良いが、家の許可があっても良い。その方が家から資金を調達することもできる」
「その官僚とやらにまず令息達をあてがうというわけですか」
そして、シリルはその条件を満たしている。シリルが応と言えば、ルートヴィヒがついてくる可能性はあるだろう。クリシュナが言うほどだ、かなりの確率を見ているのだろう。
そこまで考えて、シリルはふとあることを思い至った。
――ルートヴィヒがそこに行く可能性があるのは、もしかすると平民絡みなのではないか。
全く根拠が薄い話だが、クリシュナと平民の繋がり、そしてルートヴィヒが熱心に平民を教育せんとする姿が、自分についてくる未来よりも平民と共に向かう姿へ取って代わられていく。
そうなれば、シリルはどんな顔でこの話を突っぱねるか、飲み込むかすればいいのだろう。
「やはり分かりませんね。私だけならばまだしも、これにルートヴィヒが関わってくる理由が」
「ふむ? ならば……コナーの進退について、そなたに話を通す必要はないのか」
「……まあ、ルートヴィヒが特別私を慕ってくれているのは事実でしょうが……」
「そしてそなたも憎からず……といったところだろう? 先ほど平民と揃って出て行くのを凄い形相で見送っていたものな」
「ご冗談を。どんな顔をしていたかはわかりませんが、いつも通りだったと思いますよ」
「はは、毎回あの様子ならばそなたを見ているのも面白いかもしれんな。……ふむ。とはいえそなたに無断でコナーを借りるのも難しいか」
「……クリシュナ殿が? 何故とお伺いしても?」
「いやなに、今平民には俺にとって目障りな腐り物を退けるための種まきをしてもらっているところでな。最後の仕上げに一暴れしてもらう予定なのだ。最善は先々までそなたの助力があることなのだが、本意でないのならばコナーには獲物が罠に掛かるための餌になってもらおうかと」
シリルは逡巡した。端的に言えばシリルが協力する必要も、ルートヴィヒを使うのにシリルに許可を求める必要もない。だが、感情はクリシュナの提案に乗ろうとしている。
シリルの助力が必要と言うことは、ほぼ武力を求められているということだ。恐らくこの学び舎で尤も実践に長けているのはシリルだからだ。
であれば、相応のやりとりが成されるだろう。そこに、シリルの代わりにルートヴィヒを使うと言うことは、役割こそ異なれど身体を損なう危険性がある。それをシリルは看過できない。
理屈や論理ではなく、感情が否定する。
クリシュナはシリルの感情を全て理解するように、シリルを待っている。この時点で、既にクリシュナには借りができたようなものだった。シリルが自覚するよりもはるか以前に、クリシュナはシリルの気持ちを見抜いていたことになる。
「……先々のことはまだお答え致しかねますが……、貴族に連なるものとして、怠惰なものを放置する事は国益を損ねることにもなりましょう。私でよければ、微力ながらお手伝い致したく」
結局、シリルは応じることにした。この決断が自分の行く末を指し示すことになると分かった上で、実家にどう説明しようかと考えを巡らせる。感情を優先した以上、報いは何らかの形で訪れるものだ。
時計の針はいつの間にか一周していた。
******
クリシュナの悪趣味な遊びがあったとは言え、最早シリルが体験した不可思議な記憶と現実は乖離していた。だが、恋に狂うのは同じらしい。実家での約束通り死ぬのだとしても、心を通わせる幸せを知ってみたい、身体を繋げる喜びを味わってみたいと思って、コナー家に手を回しもした。結果、シリル個人は何も失うことなく全てが終わった。それどころか、得た物の方が多い。それもこれも、恐らく全ての特異点となったのは平民のソラの存在と、その人格だろう。
全ての物語という箱庭は、外からやってきた英雄なる存在によって壊されもするし幸せな結末をも導ける。そしてその英雄は、往々にして主人公に据えられるものだ。
いつかどこかで目にした本に記されていた。それに拠るのならば、シリルにとっての英雄はソラだろう。いつかどこかにあったかもしれない結末でさえも、それは変わることがない。ならば、シリルにとってソラは恩義ある相手と言える。
「まあ、何か必要なことがあれば言え。私で可能な範囲でならば多少は手を貸そう」
故に彼を認め、手を差し伸べることさえ吝かでないと示すことも、その恩に報いることになるだろう。
「はいはい。いいよなシリルは。ルートヴィヒとくっついた途端に余裕ぶりやがって」
ぶすくれて肩をすくめる少年に、シリルは全てを振り返って分かった、憂いを払った当人へ心を込めて笑みを浮かべた。こんなにも晴れやかな心地で、持てる者としての責務を全うすること、それができることを感謝する。
もしもこの先ルートヴィヒと分かたれることがあっても、困難に見舞われたとしても、この幸福を損なうことは決してない。
有り難い現実を噛み締めて、シリルは笑った。
散々人の心を弄んだ男が眼前で笑った。その艶は今まで自分に見せたどの表情よりも真に迫って、だから俺はそれこそが彼の本心なのだと知って、それで――この手で殺そうと思って手を伸ばして、恐らくそこで死んでいる。
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は、と目覚めると見慣れた寮の自室だった。心地よく保たれた室温の中、今し方の鮮明な記憶が夢だったのか、今まさに夢を見始めているのかの境界が分からずじっとりと嫌な感覚に汗が滲む。
シリルは湯浴みを済ませようとベッドから降りた。咄嗟に時間を確認したが、夜明け前、空が明るくなり始める頃合いだった。音を立てないよう移動し、丁寧に磨かれた風呂場でタオルを水に浸す。身体を拭くだけに留め、ひやりとした感覚が肌を擦っていくことに集中すると、今し方『体験していた』感覚は遠くなり、強張っていた身体はほぐれていった。
夢、というにはあまりにも鮮明な光景だった。
己が破滅する瞬間。少し前に同性にしか向けられない性欲を死ぬまで押し殺して生きていくことができないのならば今ここで殺すと実家から言い含められたことは、シリルにとって幸いなことだった。誰も好き好んで良好だった家族仲に亀裂を入れようとはしないものだし、また、自分のせいで中立派として名を馳せ、慕われる家に泥を塗ることは避けたい事だったからだ。
どのみち貴族の次男以下は家を継がない。親の爵位から一つ譲られることはあるが、シリルはそれもないことを事前に合意していた。
バーネット家は過酷な環境で領民と共に生きてきた歴史があるため、ルールを遵守することに対して非常に厳しく、また基本的に苛烈な性分だが、かと言って生き物としての情は捨てていない。
シリルは自分の性欲の性質をそのまま受け止めてくれた実家に感謝していた。
故に、先ほど生々しく体験した『一人の男に恋い焦がれ、彼にまとわりつく蠅を潰そうと使えるもの全て使い、結果その彼から引導を渡され家の名もろとも破滅する』結果に眉をひそめた。
夢に見たことなど直ぐに忘れていくものだが、まるで天啓を受けたかのようにあらゆることを鮮明に思い出せる。不気味さの中、無意識的に日付を確認し再びベッドに戻ると、シリルは目を閉じなが過去について反芻した。
シリルの密かな想い人であるクリシュナという男は、非常に人を惹きつける力を持つ令息だ。革新派の家の嫡男ではあるが、中立派は誰も彼もと対立しているわけではない。幼い頃の顔合わせで、自分とは全く異なる、力強くもどこか色気のある顔立ちと振る舞いに目を惹かれて以来、シリルの心の中にはクリシュナが据えられていた。
「結婚しようとも貴方ほど愛せる人はいまいよ」
「そういうことは好いた女に言うのだな。男同士で寒気がするわ」
その本人から、他愛のない会話のじゃれ合いをことのほか強く拒絶されてから、シリルが誰かを特別に思っているような仕草はしていない。冗談の上にほんの僅かに乗せた本音の気持ちを気づかれたと、シリルもまた感じたからだ。
それが今から五年前。
『今のシリルの時間感覚からすれば』、これからまもなく、平民が学び舎へやってくる。
『知らない未来の記憶によれば』、その平民は無礼な振る舞いこそをもって高位の貴族たちが無聊(ぶりょう)を託(かこ)つ中に燦然と輝いた。特に革新派のライアン家嫡男、クリシュナが囲う素振りを見せたので、シリルの胸中は穏やかではなかった。クリシュナはシリルの恋心を見透かすように翻弄し――そのうちに、悋気を抱いたシリルはその平民に憎しみを覚えるようになり、そしてある日、人を使って害そうとした。
その企みはクリシュナが手ずから暴き、一度は避難を逃れたものの、シリルの悋気は酷くなり、結局自ら手を下そうとしたところをクリシュナに絡め取られ、死んだ。クリシュナにとって平民は、シリルの心を乱す手段にしか過ぎなかった。それに気づいたのは、まさに破滅する直前。
「はは、ルートヴィヒのやつは可哀想にな。貴様のためならなにもかも捨てられるような気概のあるヤツだったのに。……おかげで、俺は好みの男をかわいがれたよ。それについてだけは、貴様に感謝してもいい」
「は……」
「ルートヴィヒが男にかわいがられる才能があったのは予想外だったが、まあいい。つれない貴様に代わって、俺が丁寧に慰めてやったぞ。貴様もそれなりに楽しいかと思ったが、やはり好みでないとあまり愉快ではないものだな」
あまりの言い様に、シリルの殺意はクリシュナに向けられ、そして……控えていた私兵の銃弾に倒れた。
シリルの意識がなくなる直前、クリシュナはシリルを嘲った。シリルについて既に興味が失せた声色こそ、シリルにとって何よりの侮辱だった。
「もっとも、貴様は抱かれる方がお好みのようだ。元より貴様等に縁などなかったのかもしれんな」
あまり眠れないまま身支度を済ませたシリルは、改めて日時を確認した。朝方確認した通り、そろそろ平民がやってくる時期で間違いない。否、もういるのだったか。あまりに興味がないからか、平民に関する情報は上手く思い出せなかった。確か一番最初は、どこか貴いお方の落し胤(おとしだね)かと思っていた。識字率もさほど高くなく、あらゆる教育は上流階級にのみ許された特権である以上、真実ただの平民がこの学び舎に入ってくることは考えられなかったからだ。かと言って、どこかの国のやんごとなき身分の者を匿うのであればこの国での相応の身分も用意するはず。よって、権力も名声も高い家の胤であるというのが、一番筋が通る話だった。
シリルの知っているまだ見ぬ平民は、それはもう品がなかった。悪知恵だけは一級品と言ったところで、酷く風紀を乱す存在にもかかわらず淫らで奔放な手練手管で名家の子息達を籠絡した。それはクリシュナも同じ事で、皆一様に色欲に溺れたわけではなかったが、身体の関係は持っていた。
だが、とシリルは逡巡する。
覚えのない経験もあった。例えば、クリシュナに手酷く拒絶された経験は、今のシリルにしかなかった。だからこそ異なる記憶の中のシリルは秘めた気持ちを弄ばれ、終わったのだが――どうやら、全てが全て、同じというわけではないらしい。
「シリル様、おはようございます。顔色が優れないようですが、どこか不調がおありですか?」
「……ああ、ルートヴィヒ。おはよう」
教室へ向かう途中で声をかけられ、目を向ける。そこには凡庸な色の男が立っていた。今も、知らない未来でもずっと影のように自分の後をついてきた男。ルートヴィヒ=コナー。いつか、自分が唆して手を汚させることになる。
自分に継ぐ爵位はなく、どこかと縁づく予定もないと突っぱねることで中立派の中でも特殊な立ち位置を手に入れたシリルに、未だ慕わしいとじゃれてくる犬のような男。
この男の自分へ向いている感情は確かなものなのだと、シリルは改めて理解する。不思議な心地だった。それまで、シリルにとってルートヴィヒはよく言えば何の変哲もない、悪く言うならば歯牙にかける必要もないような、印象の弱い男以外になかったからだ。
「いやなに、少々眠りが浅くてな」
「珍しいですね。なにか憂いごとでも?」
「憂い……そうだな、多少は」
ルートヴィヒには決して分からない、知るはずもない結末を憂いと言うのならば間違ってはいない。ただ、今のシリルがクリシュナ絡みでなにか理性的でないことをするのは最早考えられなかった。表向きは清廉潔白を貫く自身の心は、あの日、浮ついた瞬間を刈り取られたことで深く沈めている。空虚さは知的好奇心と芸術鑑賞で埋め、日々の付き合いも皆平等に、ほどほどに留めている今、シリルにとってあの結末は遠く感じられた。
それでも平民の様子は気になるもので。
「あの平民のことでしょうか」
「さて、果たして学のない平民が放り込まれて、上手くやっていけるものなのか……気になるところだな」
「はぁ、お優しいのですね」
「どうだろうか。好奇心があることは否定しないが」
都合よくルートヴィヒから口に出してきた話題に乗る。自分の言葉をそのまま受け止める男に笑みを向けて、シリルは自分の教室へ足を踏み入れ、ルートヴィヒを見送るように、あるいは追い払うように軽く手を上げた。
その日からシリルは度々記憶の引き出しを開け閉めすることに没頭した。
クリシュナに気を持たせるような振る舞いをされ、最期まで翻弄され続けた愚か者。それは自分を慕っていたルートヴィヒを使って平民の誘拐と殺害を企てた。既に淡い気持ちを手酷く扱われた今のシリルにはない経験だが、その理由は程なくして明らかになった。
五年前のあの日、既にクリシュナはソラという平民という、シリル以上のおもちゃを手に入れていたことが分かったのだ。そしてそもそも平民を学び舎へ持ち込んだのはクリシュナだった。
クリシュナもまたシリルのような不可思議な体験をしたのだろうかと訊ねたくなったが、シリルはどうにか飲み込んだ。ともすれば弱みになるようなことを自ら晒すのは、特にクリシュナ相手では躊躇われたし、五年前とは違い、冗談で収まることのない話題になるのは確かだったからだ。
また、平民の様子もシリルの知るそれとは異なっていた。
記憶上の平民は実に粗野で、言葉を話す獣のようだと思ったが、実際にシリルの目の前に現れた平民はどうやら分別があるようで、未熟な部分は勿論目につくものの、性根については随分と良い方に異なっていた。
だが、平民が次々と高位貴族の子息達に近づき、籠絡しているという話が出回るのは同じだった。明らかにクリシュナが平民に首輪を掛けているにもかかわらず、話を耳にするほど野放しにしているのは何か理由と事情があるのだろうことは直ぐに思い至れる。
クリシュナに意図があるならばとシリルも特に意に介することはなく、寧ろ平民と一対一で話す機会があればと思っていたが、中々どうして人目を避けることは難しく、偶然を装えないまま日々は過ぎていった。
漫然とした時間の中、決定的となったのはルートヴィヒが平民の声かけに応じ、シリルとの時間よりも平民を優先した瞬間だった。
言葉を失ったまま二人を見送ったシリルは、心地の良いソファに掛けたまま、とくとくと胸を叩く鼓動を感じつつ自分の感情を理解した。影のようにいつでも変わらずにそこにあった存在が、そうではないのだと知ってしまった。
空気を奪われたとはまさにこのことか、とシリルは思った。
そうして、ふと一つの結論へ至る。
――あらぬ未来で、ルートヴィヒはシリルの恋心を知っていたのではないか。その上で、あの男の愚かしいほどの忠誠があったのだとしたら。
シリルが欲しかったものを、ルートヴィヒこそが持ち得るのではないか、と。
だが飽くまで可能性に過ぎない。シリルのために平民を躾けようとしているルートヴィヒは、既にシリルとともにいることよりも平民への教育を優先し始めている。接触が増えた先に、身体と心を絡め取られてしまうのではないか。
そう思うと心を逸らせてしまうのが人というもので、いつか見た未来とは違う相手に、同じような衝動が芽生え始める。
矢も盾もたまらず立ち上がり、談話室から飛び出そうとしたがる身体を押さえつけてコーヒーに口をつけると、先ほどまでルートヴィヒが座っていた場所にクリシュナがさっと腰掛けた。
「何か?」
「つれないな。少し話があるんだが」
「クリシュナ殿が私に?」
「おかしなことでもないだろう?」
クリシュナから誰かに声を掛けることは殆どない。あるとすれば誰かをからかう時くらいのものだ。だいたいは相づちを打ったりと、受け身のまま情報収集をするのが彼のやり方だった。
「生憎とルートヴィヒを待っているので」
「その彼と、子リスについてだ」
「……。わかりました。どちらへ?」
「資料室を空けてきた」
子リスとは平民の男を指している。そしてクリシュナが空けてきたという資料室は、基本的に教職員の許可がなければ立ち入れない、持ち出し不可の書架が保管されている場所だ。
手間暇をかけ、わざわざシリルが一人の時を狙って声を掛けてきたのだ。くだらない話では無いだろう。シリルはコーヒーを飲み干すと、クリシュナと共に席を立った。
談話室から資料室までは遠い。基本的に静けさを保つため、生徒達が団らんする談話室や寮棟からは離れている。
クリシュナはトラウザーズのポケットから慣れた手つきで鍵を取り出すと、シリルを中に入れ、その後自分も入って内鍵を掛けた。
「それで、話とは? 余程楽しいことのようですが」
「分かるか? 楽しいとも。今までで一番かも知れないな」
「貴殿の楽しさは不敬と隣り合わせだった気がしますがね」
「そう言ってくれるなよ」
「私は心底王族の方々が近しい年齢でなくてよかったと思いますよ」
比較的平和な時代である今は、王族も同じ学び舎で学ぶことがある。ライアン家は革新派の筆頭であり、それはつまり、『王制が古いと思えば異なる統治へ意欲的になる』と言う意味において、王への忠誠心が低いと言い換えることもできる。特にクリシュナはその傾向が強く、貴族として国への忠誠やバランスのことは考えても、王そのものに価値をおいているとは言い難い。
これはまた難儀な話が来る、と構えたシリルに、クリシュナは口角をつり上げた。その笑みは、個人に向けられたものだったならば嘲りのように見えたかもしれない。
己で散々遊んだ後のクリシュナの様子を思い起こしながら、シリルは目の前の彼へ意識を集中した。
「最近、横領と脱税でそれなりの家が潰れたが、その土地の一部をライアン家が賜ってな。更にそこから土地を分割されて、管理を任された」
「素晴らしいことですね。貴殿が嫡男として覚えめでたく、ライアン家においては今後も栄える証拠でしょう」
「その辺はどうでもいい。それでだな、一つ実験でもしようかと思っている」
「……」
「ソラをここへ入れたのもその一環だ。あれをタネに手始めにまず、貴族の義務と責務について意識の薄い連中を排除する」
「それはそれは」
えらく性急で強引だ。尤も、それはクリシュナに限っては彼らしいと呼べるものだが、シリルは刹那、絶句した。
相づちだけは即座に出たが、クリシュナの表情は変わらない。
「学問・学術の場において全ての者の身分は平等である。その裾野を広げるためには義務を疎かにするような者は不要だろう」
「……。というと、平民を放り込んだのは前例を作るため、ですか」
「あれは我らが思うような生き物で収まる奴ではないからな。実際、計算は速く語彙もそれなりにある。それ以上に異常なのは身分の感覚と、発想が平民にしておくには『この世にない』ほど類を見ないことだな」
「今後の見通しに、私やルートヴィヒが関係あると?」
「あるのではないか? 俺が管理するのは具体的には賜った領地にある街だ。そこでは身分の貴賤を問わず、平民にも読み書き計算をさせて、優秀な者を将来的に官僚として街の運用に組み込む」
「下々に貴族と同じ責任を負えるとお思いですか」
「無論価値観の統一は急務だろうな。不正を防止するための強固な仕組みも必要だ」
「……。豊かな商人などはともかく、農夫や職人にとって子は働き手です。そんな家々が子を勉学に送り出すでしょうか」
「幸いにも不正によって領主が裁かれたのでな。街にはそのしわ寄せを食らって浮浪児がそれなりにいる。まずそいつらに十分な生活と教育を施せば、焦りや野心から出してくる家も増えるだろう。浮浪児は一旦孤児院へ入れて、そこに寄付をする形で生活基盤を整えてやる」
「しかし、全員がその道に行けるわけもなし……金と時間の浪費では?」
「だが、常に教育が同じレベルで施せれば、不正が起きても首をすげ替えるのは容易になる。全員が優秀である必要はない。寧ろ優秀なものばかりで揃えれば今と変わらなくなるだろう?」
途方もない話だ。農夫や職人に、使いもしない学問を学ばせることはそれだけで膨大な時間と人材を浪費する。実を結ぶことが約束されているわけでもないのに、ギャンブルよりも分が悪いことに手を掛けようとしている。
シリルにはクリシュナの考えが理解できなかった。
「誰に吹き込まれたか存じませんが……、今の私には遠い話のように思えますね。本当に関係が」
「まあ待て。ゆくゆくはの話だ。取り急ぎそれをするために、できるだけ満遍なく平民になる予定の令息達に声を掛けていてな。家と繋がりがなくなるほうが都合が良いが、家の許可があっても良い。その方が家から資金を調達することもできる」
「その官僚とやらにまず令息達をあてがうというわけですか」
そして、シリルはその条件を満たしている。シリルが応と言えば、ルートヴィヒがついてくる可能性はあるだろう。クリシュナが言うほどだ、かなりの確率を見ているのだろう。
そこまで考えて、シリルはふとあることを思い至った。
――ルートヴィヒがそこに行く可能性があるのは、もしかすると平民絡みなのではないか。
全く根拠が薄い話だが、クリシュナと平民の繋がり、そしてルートヴィヒが熱心に平民を教育せんとする姿が、自分についてくる未来よりも平民と共に向かう姿へ取って代わられていく。
そうなれば、シリルはどんな顔でこの話を突っぱねるか、飲み込むかすればいいのだろう。
「やはり分かりませんね。私だけならばまだしも、これにルートヴィヒが関わってくる理由が」
「ふむ? ならば……コナーの進退について、そなたに話を通す必要はないのか」
「……まあ、ルートヴィヒが特別私を慕ってくれているのは事実でしょうが……」
「そしてそなたも憎からず……といったところだろう? 先ほど平民と揃って出て行くのを凄い形相で見送っていたものな」
「ご冗談を。どんな顔をしていたかはわかりませんが、いつも通りだったと思いますよ」
「はは、毎回あの様子ならばそなたを見ているのも面白いかもしれんな。……ふむ。とはいえそなたに無断でコナーを借りるのも難しいか」
「……クリシュナ殿が? 何故とお伺いしても?」
「いやなに、今平民には俺にとって目障りな腐り物を退けるための種まきをしてもらっているところでな。最後の仕上げに一暴れしてもらう予定なのだ。最善は先々までそなたの助力があることなのだが、本意でないのならばコナーには獲物が罠に掛かるための餌になってもらおうかと」
シリルは逡巡した。端的に言えばシリルが協力する必要も、ルートヴィヒを使うのにシリルに許可を求める必要もない。だが、感情はクリシュナの提案に乗ろうとしている。
シリルの助力が必要と言うことは、ほぼ武力を求められているということだ。恐らくこの学び舎で尤も実践に長けているのはシリルだからだ。
であれば、相応のやりとりが成されるだろう。そこに、シリルの代わりにルートヴィヒを使うと言うことは、役割こそ異なれど身体を損なう危険性がある。それをシリルは看過できない。
理屈や論理ではなく、感情が否定する。
クリシュナはシリルの感情を全て理解するように、シリルを待っている。この時点で、既にクリシュナには借りができたようなものだった。シリルが自覚するよりもはるか以前に、クリシュナはシリルの気持ちを見抜いていたことになる。
「……先々のことはまだお答え致しかねますが……、貴族に連なるものとして、怠惰なものを放置する事は国益を損ねることにもなりましょう。私でよければ、微力ながらお手伝い致したく」
結局、シリルは応じることにした。この決断が自分の行く末を指し示すことになると分かった上で、実家にどう説明しようかと考えを巡らせる。感情を優先した以上、報いは何らかの形で訪れるものだ。
時計の針はいつの間にか一周していた。
******
クリシュナの悪趣味な遊びがあったとは言え、最早シリルが体験した不可思議な記憶と現実は乖離していた。だが、恋に狂うのは同じらしい。実家での約束通り死ぬのだとしても、心を通わせる幸せを知ってみたい、身体を繋げる喜びを味わってみたいと思って、コナー家に手を回しもした。結果、シリル個人は何も失うことなく全てが終わった。それどころか、得た物の方が多い。それもこれも、恐らく全ての特異点となったのは平民のソラの存在と、その人格だろう。
全ての物語という箱庭は、外からやってきた英雄なる存在によって壊されもするし幸せな結末をも導ける。そしてその英雄は、往々にして主人公に据えられるものだ。
いつかどこかで目にした本に記されていた。それに拠るのならば、シリルにとっての英雄はソラだろう。いつかどこかにあったかもしれない結末でさえも、それは変わることがない。ならば、シリルにとってソラは恩義ある相手と言える。
「まあ、何か必要なことがあれば言え。私で可能な範囲でならば多少は手を貸そう」
故に彼を認め、手を差し伸べることさえ吝かでないと示すことも、その恩に報いることになるだろう。
「はいはい。いいよなシリルは。ルートヴィヒとくっついた途端に余裕ぶりやがって」
ぶすくれて肩をすくめる少年に、シリルは全てを振り返って分かった、憂いを払った当人へ心を込めて笑みを浮かべた。こんなにも晴れやかな心地で、持てる者としての責務を全うすること、それができることを感謝する。
もしもこの先ルートヴィヒと分かたれることがあっても、困難に見舞われたとしても、この幸福を損なうことは決してない。
有り難い現実を噛み締めて、シリルは笑った。
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「クリシュナこのやろー」は欲しかったお言葉ですのでとてもにやにやしております。やったぜ。
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