とばりの向こう

宇野 肇

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 立て続けに俺でさえ全容を把握しているとは言えない噂話の中心にいたにもかかわらず、俺の乱れた服装を何人かの生徒に見られたのはあまりにも脇が甘かったと言うより他ない。俺は呆然としていたせいで気に留めることもできず、翌日ブレア様に「貴殿がついに誰かに手折られたと持ちきりだ」と絡まれたほどだった。
 俺の様子から無体を働かれたのかと心配されたが、俺は上手く説明できず、それが尚のこと俺が無理矢理犯されたかのような誤解を呼びそうになった。たまたま――ではないのだろうが、通りがかったクリシュナ様が助け船を出してくださり、事なきを得たが。
 否。助け船というよりはまるで『猫かわいがり』でもするかのように頬に口づけられ、「かわいそうに。いつでも俺のところにくるといい。かわいがってやろう」と言われた。実質、クリシュナ様が俺を庇護するような立場を取ると言ったようなものだ。信じられない言葉を聞いてまじまじと顔を見てしまったが、いつも通りの愉快そうな顔で微笑まれていたので、クリシュナ様にとっては戯れに過ぎないのだろう。どういう結果に転んでも最終的には上手く収める自信があり、また実際その手腕があるのだ。
「拒否権はあるのでしょうか」
「行使したいのか? 珍しい奴だ」
 か細い声の返事に、クリシュナ様は笑って俺の背を叩いた。
 
 そうして、無用な気遣わしげな視線を受けながらも時間は過ぎていく。シリル様から遠ざけられてから一週間以上が過ぎ、暇を持て余すことがどっと増えた。
 今まで疎かにしていたわけではないが、余った時間を鍛錬と自習に費やすようになったのは学生としては良いことなのだろう。
 しかしテストの前までなら『テストに集中する』という名目があったが、それも問題なく終わってしまい、後は冬の休みへ向けての帰省準備だけだ。テストも終わり後は休みを満喫するだけとなったせいで、まだ平民が絡んだ痴情のもつれが続いているのか、今度は何が起こるのかという好奇の目は収束することはなかった。
 シリル様の方は俺だけでなく多数の生徒に慕われていたから俺ほど鬱陶しい思いはしていないだろうが――……彼の機嫌をあそこまで損ねてしまったからには、俺から近づくことは許されない。もし謝罪する機会をいただけるのであれば家を通すか、クリシュナ様のような方に取り持ってもらうしかない。
 しかし、そもそも俺は自分の選択を間違っているとは思っていなかった。あんな捨て鉢に自分の身体を傷つけるような振る舞いは、きっと後で深く彼の心の傷になる。本当に愛する人と結ばれたとき、彼をむしばむだろう。
 シリル様の希望に応えられなかったことは本当に恥ずべきことだが、彼にはもっと永く愛し愛されるような関係が相応しい。何があったのかは教えてもらえなかったが、そうまでして忘れたいことがあったのかもしれない。そしてそれはソラ絡みではないのかと思ったが、真正面から人の目も気にせず聞くわけにも行かず、またソラ本人からもシリル様本人に聞くようにと言われるばかりだった。
 休暇まであと僅か。荷造りも終えた。
 少し前にシリル様の家に来ないかと誘われ浮かれていたことが遠いことのように思える。あの話は、なかったことになるのだろう。
「よーっす」
 今日中に図書室へ返せそうな本を読み終えようと教室で過ごしていると、ソラが顔を見せた。独特な足取りで俺の前の席の椅子へ腰掛け、こちらの机へ肘を置く。
「ルートヴィヒさあ、最近どうした? あんなにウザい程シリル様シリル様ってくっついてたのにさ」
「……お前には関係ない」
「まあそうだけど」
「お前こそ最近やけに俺の周りをうろうろとするんだな。残念だが俺はシリル様の情報を売ったりせんぞ」
 本を閉じる。図書室が閉まるまでまだ時間はある。今から足を運んで返すついでに次に借りる本は何にしようかと思案しつつ立ち上がると、腕を掴まれた。見下ろすが、目はあわない。奴がうつむいているのもあるが、前髪のせいで表情は窺えなかった。少なくとも、口元は笑っていない。
「なんだ」
「今まであんたが勘違いしてんのは知ってた。都合が良いかなと思ってなにも言わなかったけど……オレが好きなのはあんただよ」
「……なんだと?」
 ふざけているのか、俺程度、粉をかけたところでなんの利もない。どんな顔で言っているのかと思うが、その声色が普段聞くものよりもあまりにも感情が見えず、俺は奴の顔を見ようと胸ぐらを掴みかけ、手を止めた。頭が動き、顔が露わになる。
「あんたが好きなんだ」
 ソラの顔は真剣だった。これ以上ないまでに真っ直ぐ俺を見つめていた。
「……図書室で、本の場所、教えてくれただろ」
「それだけでか」
「その後一緒に居てくれたし、借り方も教えてくれた」
 思わず眉をひそめそうになった俺の前で、奴の首元や耳が赤くなっていく。……これを演技かどうか見定めるには、俺はあまりにもこいつを知らなかった。知ろうともしてこなかった。
「なあ……俺のこと、抱いてくれよ」
 ソラの腕が這うように移動する。俺の腕を伝い、首の後ろへ。合わせて立ち上がった奴はゆっくりと俺との距離を詰めた。
 こいつまで。何がどうなっているというのか。
 目の前のソラは緊張のためか、落ち着かない様子だった。ただじっと、何かを耐えるように身体を強張らせて、忙しなく目線をあちこちへ移し、そして少し俺の顔よりも目線を下げた位置で落ち着いた。
「自分が何を言っているのか分かっているのか」
「うん。だってあんた、いっつもあの人の側に居て全然一人になんねーじゃん。かと言って、オレが言ってもオレに時間割くつもり全然なかったろ? でも……最近はそうじゃないみたいだから」
 じっと近くで見つめられる。身体を寄せられ、とくとくと胸の音が響いてくる。
「物珍しそうにでもなく、珍獣扱いでもなく、人として扱ってくれた。あんたが好きだ。オレが好きなのはあんただけだ」
「やめろ……」
「ここじゃ男を犯すのだって珍しくないんだろ。そういうノリでいいからさ、なあ」
 俺よりも小柄なソラを引き剥がすことなど造作もない。なのに、動けなかった。自分がこいつのペースに飲まれていることが分かるのに、身体は反抗しようとしない。小さな身体が背伸びをして、顔が近づく。
「ルートヴィヒ、」
 唇が触れる。
 思った瞬間、ソラの腰を掴んで動きを止めさせた。
 ――違う。
「……オレじゃだめ?」
 ソラの顔が歪む。小さな声はいつも見ていたやかましさとはかけ離れていて、こんな顔もできたのかと思った。しかし。
「なあ、オレを好きにしてよ」
 上擦った声は湿り気を帯びていた。潤んだ目からは今にも涙がこぼれ落ちそうで、俺はそれを黙って見下ろす。
 ソラは背伸びを止めた。悲しげな表情が遠のく。
 俺は、間違えた。それを今理解してしまった。
 俺が触れたいのは、想いに応えたいのは、涙を拭いたいのは……抱きしめたいのは、
「それは、」
「誰かの代わりでもいい」
 できない。気づいてしまった自分の心を他でやり過ごすような真似もしたくない。
 俺が首を横に振ろうとすると、ソラが無理矢理割り込んできた。……だから、人の話を遮るなと、言っていただろう。
 窘めようとした気持ちは、頼りなく俺を見上げる顔に遮られた。
「あんたが好きなんだ……別に恋人面なんかしない。だから……」
「……お前……」
 好きだ、抱いてくれ。それしか繰り返さない。元々俺の気持ちが自分にないことは分かっていたのだろう。それでもぶつかってきた彼を、上手く振り払えない。言葉が出てこない。
 その時、カツン、と小さな音がした。なにか、小石を蹴ったような軽いものだ。
 はっと音のした方を見遣ると、教室の扉の向こうで、シリル様がこちらを見ていた。
 ひゅ、と空気の動く音がした。恐らく息を呑んだのはどちらもだったのだろう。
「シリル様……」
 こぼれ落ちた俺の声に、シリル様の瞳が揺れる。片足をそちらへ動かそうとした瞬間、シリル様は弾かれたように駆けだした。
「シリル様!」
「待てよ!」
 なにもかも放って追いかけようと重心を移動させた瞬間、腕にしがみつかれる。腕を引き抜こうとしながら振り返ると、ソラの頬に涙が伝っていた。顔は歪んで、みっともないことこの上ない。それでも、それを笑うことはできなかった。
「行くなよ……おねがいだよ……オレ、あんたに告白してるんだぜ」
「……ソラ。お前に応えることはできない。俺が涙を拭いたいのは一人だけだ」
 くしゃ、とソラの顔が歪む。
「そんなこと知ってる。知ってて言ってんだよ!」
「できない。行かせてくれ」
 もう一度腕を引くと、手が離れた。ばかやろう、と小さくなじられたが、俺はそれを甘んじて受けてシリル様の後を追った。
 愚か者だ。シリル様の近くにいたいと思っていたくせに、シリル様が心置きなく言葉を発することができるような、変わらぬ存在でいたいと、そんな恐れ多いことを考えておきながら、俺は。
 シリル様に迫られ、己の下心が晒されることに恐怖した。その程度の覚悟さえ持たない者がシリル様にできることがなにかないのかと、その側にどうにかして居られやしないかと思うなど滑稽極まる話だ。
 シリル様は決して軟弱な方ではない。今からでも追えるか、と弱気が顔を出したが、耳を澄まして集中すればシリル様が走っているためか、教師や生徒の驚いた声が微かに響き、おおよその位置は把握できた。そのうちにシリル様本人の足音が反響して聞こえてくる。人が極端に少ないのが幸いした。
「シリル様!」
 走るペースが崩れない範囲で大きく名前を呼ぶ。それでも走る音は乱れる様子がなかった。タン、タン、と自分のものではない足音を諦めずに追いかける。広い学び舎のなか、階段を駆け上がる姿を認めると、俺は勢いを殺さず数段抜かしで駆け上がった。あれだけソラに口酸っぱく叱責していた身で、と、普段なら咎められていただろう。けれど、それは俺の前を走るシリル様も同じことだ。なにより、彼を追う意外に優先されるべきルールなどない。
「お待ちください! シリル様!」
「っ、ついてくるな!」
「従えません!」
 近づくな、という命令も聞けない。今だけは。
 少しずつ距離が縮まっていく。持久力ならば俺に分があるためか、シリル様の走るスピードは目に見えて遅くなっていた。それでも一切後ろを振り向くことなく走る姿に胸が痛む。俺の顔も見たくないと、必死で走る姿は拒絶に違いない。
 しかし俺は彼に弁明しなくてはいけない。俺からソラへ手を出したわけではないこと、無体を強いたわけではないこと。……彼が愛でていたものをかすめ取ろうなどと、そんなことは考えていないことを。
 必要であればシリル様へ抱いている浅ましい欲望を抱えていることさえさらけ出せる。しかしそれは今でなくては難しいと直感した。申し開きをするならば今しか時間を与えては貰えないだろうと。
 一歩踏み込む毎に彼の背中が近くなっていく。廊下という直線で距離が詰まっていくのをシリル様も感じたのだろうか、まるで予め決めていたかのように今度は玄関口へ繋がる大階段を下ろうとする彼に、そんなに俺が寄っていくのが嫌なのかと胸が苦しくなる。
 それでも自分のつらさよりもやるべきことを見つけてしまった今、足を止めることは絶対にできなかった。
 もどかしいほど長い階段を駆け下りる。そして、残り一階分あたりまで降りた頃、
「ぅあ、っ」
 軽快に降りていたように見えていたシリル様の身体が、不意につま先が張り付いたように引っかかり、上半身が勢いよく、剣を振り下ろすように前へ倒れていくのが見えた。足が限界だったのかも知れない。力が抜けたようにも見えた。
「――!!!! シリル様!」
 その場で足に力を込め、彼へ手を伸ばしながら飛びかかるようにして追いかける。勢いを殺すどころか増す勢いで飛んだおかげで、その身体を抱きしめることにはかろうじて成功した。頭を抱え込むようにしてしっかりと固定し、間違ってもシリル様が身体をぶつけることがないように、息を止め身体に力を込めて無理矢理に捻る。
「、ルートヴィヒ……?!」
 腕の中で俺の名を呼ぶ声が、溜まらなく嬉しいと場違いにも思った。
 しかるべき時間の後、強い衝撃が身体を襲う。肩、背中に激痛が走る。それでも手は決して放さなかった。ただ、それも床との摩擦で勢いが落ち、止めていた息を吐くと、もう力が入らなかった。
「ルートヴィヒ!」
「う……」
 強かに身体を打ち付けたせいか、痛みと吐き気にも似た気持ち悪さが酷い。それでもシリル様のご無事を確かめようとどうにか散り散りになりそうな意識を集中して目を開く。俺の腕の中から抜け、すぐ側で膝を突かれているのが分かった。
「シリルさま、お怪我、は」
「問題ない、それよりもお前が」
 即答に安心する。自分でその御身にかすり傷一つないか確認ができない今は、はっきりと揺るぎないシリル様の返事に頼るしかなかった。
「よかった、俺は、だいじょうぶですから」
 かろうじて喉から絞り出した声は、ともすれば自分でも何を言っているのか分からない。シリル様の気遣わしげな表情が心苦しいのに、それを払拭することもできない。
「わかった、喋るな。頭を打っているかも知れん。いますぐに人を」
 何か懸命に言葉をくださるのに、俺はそれを理解する気力がなかった。それよりも俺からシリル様が離れていかれるのを感じて、俺は失礼を承知で彼の制服に手を伸ばした。かろうじて指先が制服に触れ、それに気づいたシリル様が再び身をかがめて俺を案じてくださる。
 ――俺はもうそれだけで、充分だった。なあ、そうだろう。身に余るほどに光栄なことだ。
「べんめ、させて……くださ……おれ、は、彼と、かんけい、……を、もってなど……おりま、せ」
 シリル様があいつを愛で、侍らせても、シリル様にとって俺の立場が変わらないのならそれで満足すべきだった。ソラを人としてみてなかろうが、あの方が心穏やかに、嘘偽りなく心のまま男を愛せるのなら、それを歓迎すべきだった。最初はできていたはずだ。どうして、いつからできていなかったのか。
 俺はシリル様の望むように在るべきで……彼の命に背くべきではなかった。
「ちかって、てを、だしては」
「そんなものはもういい、私はお前が無事ならもう……」
 痛みが酷くなり、頭を内側から揺らされるような感覚に言葉を紡ぐことさえ難しくなる。
「ルートヴィヒ、好きだ。お前を愛している。最初からそう言うべきだった。すまない……」
 悲しみに満ちた声だった。それがどんな言葉で発せられているのかも分からないまま、俺の意識は暗闇に落ちた。
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