10 / 26
10.
しおりを挟む
どうやらシリル様は予め全て段取りを整えた上で俺を連れて行ったらしい。クリシュナ様にわざわざそんなことで来るなと言われ、挙句遊びたいならいくらでも来ていいぞと両腕を広げられて、シリル様に遠ざけられるというなんだかよく分からない扱いを受けた。ここにきてシリル様には子ども扱いされているような気がしてならない。本当に幼い頃にそんな扱いを受けたことは一切なかったのだが。
その後クリシュナ様の部屋を辞して、シリル様とも彼の部屋の前で分かれた。暇を持て余しているだろうから放課後部屋を訪ねてくれと言われて少し舞い上がってしまったのは許されるだろう。名指しで呼ばれたにも等しいのだ。
交友関係は俺よりもずっと広いはずだが、部屋に呼ぶというのは近しい間柄の者が殆どだ。性的なことをするだとか、内密の話をするだとかが大半だ。自習を行うなら図書室か開いている教室へ行くからだ。平民は別格だが。
いつも通りの賑わいの中、昨日ほどではないが視線や声は随分と落ち着いているように思う。改めて事の次第を聞かせろよ、と何人かに気易く肩を叩かれもしたが、できる範囲でなら、と答えておいた。テストを控えているというのに、皆ゴシップには目がない。
今日シリル様が部屋にいることはそれとなく知らされているらしく、中には俺に対して「バーネットは部屋にいるぞ」と親切心なのかなんなのか分からないからかい方をする者までいた。昨日俺がクリシュナ様に連れて行かれたために知らないだろうと、よかれと思って言ってくる場合もあって当たり障りのない返答をしたが、好意的な者ばかりではない。
俺とシリル様は主従関係ではないが、俺が好き好んでシリル様の側にいることは既に知れ渡っている上、彼に見合うためにとあれこれしている姿が『面白みのない奴』『バーネット家に尻尾を振る犬』と言われていることも把握してはいる。わざわざ平時に絡んでくるようなことはないが、今回の件は格好のネタということもあって、やはり昨日と毛色は違うもののやけに声を掛けられる。
少々うんざりしながら席についていると、授業が始まるまであまり時間がないというのに、どたばたと最早聞き慣れてしまった音が廊下から響いてきた。
「ルートヴィヒ!」
「うるさい。俺は耳の遠い老人ではない」
顔を顰めるほどの大声で教室へ飛び込んできたのは、やはりというか、ソラだった。授業中絡まれると面倒だと前の席に陣取ったのが裏目に出た。すぐにあちらに見つけられてしまった。
無遠慮に教室に入ってきて、俺の目の前で机に手をつき、ソラが見下ろしてくる。
「昨日は大丈夫だったか? 怪我とかしてないよな? クリシュナに変なことされてないよな?」
「せめて一つずつ質問しろ。俺は何もされてないしどうにもなっていない」
「ホントか?」
「真実かどうか、お前に関係はないと思うが」
「あるよ! 俺が巻き込んだようなもんだろ……クリシュナに預けるのだって反対したんだけど、シリルの方が強いって言うから……」
俺の前でしおらしくする姿に拍子抜けしてしまう。俺が着席して、奴が立っているせいで俯いていても目がみるみるうちに潤んでいくのがよく分かった。
……シリル様といいこいつといい、昨日なにか、涙もろくなるようなものでも口にしたのだろうか。
「なにをわけの分からないことを。昨日からなにかと巻き込んだだの巻き込まれただのと言われているが、人違いだろう。俺は昨日クリシュナ様に連れられて食事をした後、遊びに連れて行かれただけだ」
「二人でか?!」
「うるさい。食事は二人だったがその後は他にもいたぞ」
やたらと大声で食いついてくる奴にいい加減にしろと睨み付ける。まあ、これで周囲も俺がどういう態度でいるのか分かっただろうから、悪いことばかりではない。
「授業が始まる。さっさと戻れ」
「……うん。無事で良かった」
「要らん心配だな」
「違う。あんたの貞操の方!」
ぎょっとした。声を潜めることもなく明け透けに言われて、窘める間もなく走り去っていく背中に唖然とする。奴はそこまで愚鈍ではない。であれば、今の言葉の意味は『クリシュナ様が俺に手を出す』ということ以外にはないはずだ。
そんなことがあるか? いやない。あのクリシュナ様だぞ。今よりもずっと中性的で愛らしかったシリル様を、あんな風に、切りつけるように牽制して拒絶した方だ。同性どころか、異性とさえそういう関係や行為を望まれていないように見受けられる、あの方が、俺に? やはりありえない。クリシュナ様よりも余程俺を巻き込んで痴情のもつれの話を大きくさせたいと見える。が、なんのためにそんなことを言うのかまでは分からない。
――シリル様に相談してみるか。
平時ならば思いもしないことが頭を過る。こういう謀(はかりごと)についてはシリル様の方が明るい。クリシュナ様は全てを把握した上で教えてくださらないだろう。
教師が来るまでの短い間、俺は毛虫が肌を這うような感覚を覚えながら真面目に考えていた。そしてその日の授業中も、周りの視線に耐えなくてはならなかった。
テストに集中させてくれ。
妙に浮き足立った気持ちで授業を終えた後、俺はそそくさと寮へ戻った。例え親しくしている相手であっても、今は勘弁願いたい。シリル様自ら部屋へ招いてくださったこともあって、一度自室に荷物を置いてから部屋を出た。まだ早い時間、生徒は知人友人と遊んだり、話に興じたりと忙しくしており、寮にいる者と言えば従僕かシリル様のように何らかの理由で寮で過ごしている者くらいだろう。
迷いなくシリル様の部屋へ向かい、ノックをする。鍵を開ける音がして、顔を見せたのは従僕だった。
「ルートヴィウヒ・コナーだ」
「ご案内致します」
礼の後、中へ通される。
「シリル様は湯浴みかお召し替えの途中か?」
「はい。ですがコナー様はお部屋に通すようご希望です」
「そうか」
部屋の中へ通され、衝立の向こうに動く影をみとめる。
「シリル様、参りました」
「ああ。少し待て」
ソファへ掛けるよう促され、掛けると同時にティーカップを前に置かれた。そこに、白濁した紅茶が注がれる。
「ミルクティーですか」
「ああ。南で飲まれているものだが、砂糖と香辛料が入っていて身体が温まる。向こうではチャイと呼ばれているらしい」
「……あの、とてつもなく甘いという」
話としては知っていたが、実際に目にするのは初めてだ。ミルクティー自体をあまり飲まないのもあるが、確か聞いた話だと有り得ないほどの砂糖を入れるとか……。
香りは確かに普通のミルクティーとは少し異なっているように思えた。スパイスの種類には明るくないが、刺激的な感じがする。勿論、紅茶とミルクの香りの方が強いのだが。
恐る恐る唇湿らせ口の中に迎え入れると、舌の上に濃厚な砂糖の甘みが襲いかかった。その中にミルクティーと、スパイスの風味が混ざり合い、かつてない争いを始める――かと思ったが、予想よりは大人しい味だ。
「思っていたよりも飲みやすいですね。甘みも……もっと甘いものかと思っていました」
「砂糖の量は流石に調整した。作り方もこちらの人間向きにしてあるはずだ」
「商品化予定ですか?」
「さて、私はバーネット領の冬にこれがあればよいのではないかと思っているが、香辛料は高いからな」
「バンクロフト家を通さず現地の者と直接仕入れ交渉ができればいいのでしょうが、現実的ではないですしね」
「バンクロフト家に喧嘩を売るつもりはないよ」
衝立が外され、シリル様が無造作にタオルで濡れた髪を拭きながら笑う。ナイトガウンにスリッパと、後はもう寝るだけのような格好だ。カップを机に戻す。従僕が静かに出て行き、二人になった。
「バンクロフト家といえば、先日ブレア様に牽制されました」
「ほう」
「ソラごと俺を抱き込むのも吝かではないと」
シリル様は俺のすぐ脇に立つと、視線を落とした。俺の顔か、チャイか。長い間見返すのも失礼なのですぐに顔を戻したが、シリル様は俺の肩に肩手を置いた。
「それで? お前はどうするつもりだ」
「俺と奴とは別に関係がありません。ですが、香辛料の件であなたのお役に立てるのならばブレア様のところで学ぶのも一つかと思いました」
「……お前の家は代々文官の中でも会計や書記官を排出してきただろう。お前だって数字に強い」
「ええ、まあ。ですがバンクロフト家でも似たようなことはできるでしょう。あわよくば税関のことも知れるかもしれませんし」
「私のためというのならばやめておけ。悪いわけではないがそこまでしてもらう義理もないし、それならば私が直接交渉した方が早い」
それはそうだろう。間に俺が挟まる意味はない。
しかしシリル様本人にそう言われると、では俺がして差し上げられることはなにもないのかと思ってしまう。元々家同士の繋がりがあるわけでもなく、学び舎に来てから俺から近づいただけの関係だ。
今はソラをどうにか矯正できないかと口を出しているものの、それだって成果がでているとは言いがたい。その上、ここを出たら本当になにもなくなる。シリル様と学友だったということ以外は、なにも。シリル様が卒業後も俺を望まれない限り、俺は何をしても近くには行けない。
否。近くに行けなくてもいいのだ。これ以上、遠くになるのが嫌なだけで。
「……俺はあなたになにができるんでしょうか」
改めて、シリル様の側にいたいのならばこのままでは駄目なのだと思う。ここで学んだことを糧に爵位を継ぐまでにあれこれと父の仕事を覚えなくてはならないが、それだけでは足りない。
だが、かといってシリル様にどんな助けができるのだろうか。
「ルートヴィヒ、私を抱け」
「は……」
自分の思考に沈んでいると、ふと頭の上からシリル様の声で妙なことが聞こえた。
「失礼、今、なんと」
「私を抱けと言った」
思わずシリル様を見上げる。じっと俺を見下ろすシリル様の顔は何かを思い詰めるようで、俺は動揺した。
「なぜ」
考えていたことをそのまま口にしてしまう。……まさか、抱きしめるだけだということはないだろう。
「クリシュナ殿には抱かれていただろう」
「ああ、抱きしめろということですか」
まさかだった。昨日のことはきちんと覚えている。危うくクリシュナ様に介抱させるところだった。シリル様になら介抱させても良いというわけでは決してないが、後が怖すぎる。
さっと立ち上がって、一言断ってからシリル様の身体を抱きしめた。ナイトガウンしか身につけていないシリル様の身体を特別に感じる。しっとりとしているのは髪だけではないように思えて、妙な感覚に身体が満たされようとするのを振り払う。
「どうされました。今日、なにかありましたか? それとも昨日?」
まさかホームシックではあるまい。
背を優しく手のひらで叩いていると、ふと首元でぷつ、と音がした。
「……?」
訝って頭を離し目を落とすと、シリル様がシャツのボタンに手を掛け、外しているところだった。
「シリル、様?」
黙ったまま、俺のシャツとベストのボタンを外していく。
「あ、あの? お待ちください」
そっとその両手を掬うようにして掴み、離す。シリル様の顔がこちらを見ることはなかった。
「シリル様……?」
名前を呼んでも反応がない。そっと手を離すと、そのまま力なくシリル様の手は身体の横へ戻っていった。
「ルートヴィヒ」
「はい」
妙な緊張感があった。気迫と言い換えてもいい。
「私を抱け」
シリル様の手が自らのナイトガウンへ伸び、ボタンが外されていく。そこでやはり、抱きしめると言う意味ではなかったのだと歯噛みした。
「なぜですか。なにがあったのです」
「命令だ」
「できかねます」
「なぜだ。私が言っているのだぞ」
「……教えてはいただけないのですか」
今すぐに身をかがめて表情を確認したい。しかし、そんな家族にしかしないような真似はできない。
もどかしくて言葉を重ねたくなる。
何があったのか。何かあったのか。朝に怪我はないと言っていたのは偽りだったのか。怪我はないが心を傷つけられるようなことがあったのか。
それは、誰によってもたらされたものなのか。
「御身を、大事になさってください。どうか……」
「……私の命がきけないというのだな」
落胆したような声色だった。そうではない。そうではないが、その心中さえ察してはいないのに、そんなことができるはずがない。
誰だ。シリル様がこんなに取り乱したのは見たことがない。きっと深く傷ついただろうクリシュナ様の言葉にさえ――まさか、あの方絡みで、何かあったのか?
『単にシリルが好みではないというだけならばどうだ』
あれは、クリシュナ様がそう言ったのはいつだった。あの時車は既に停車していたのだったか? ドアは既に開いていたか?
シリル様は、あの時のクリシュナ様に何か心をかき乱されることがあったのだろうか。そして、それはソラでは癒やせなかった?
推察することしかできないが、ここまでシリル様を追い詰めることがあったのだ。誰かの悪意がなかったとしても。
今シリル様が俺に肌を重ねることを迫っていることがショックだった。それを命令だと言うことも。理由を何も明かそうとしてくださらないことも。
今のシリル様は、俺の言葉を聞き入れてくださるような状態ではない。にもかかわらず、俺にできるのは言葉を掛けることだけだった。
「あなたは素晴らしい方です。あなたを……深く愛する方が現れます」
誠実に生きてきたシリル様が、こんなに急に傍若無人で傲慢な振る舞いをするなど考えにくい。よからぬ薬でも飲まされたかと思ったが、であれば保健医が対応し然るべき治療が行われているはずだ。隠す理由がない。
酒類も考えにくい。抱きしめたときにもそんな匂いはなかった。
「随分と大きく出るじゃないか。そんなもの、私が望む者でなければ意味がない。私が同じものを返せるとは限らん。そも、現れるかどうかも分からんと言うのに」
吐き捨てられた言葉に、胸を突かれたような痛みが走った。
「おります。少なくとも、ここに」
「ほう? 私の命令が聞けないのにか?」
シリル様は見るからに追い詰められている様子だというのに、俺に抱くよう強く迫っているというのに、助けを求めるような言葉は一切口にしない。俺には無理だということだろうか。それとも、俺がシリル様を抱けば、それが救いになるのだろうか。
だが、俺にはできなかった。
「ならば、お前の家族がどうなっても構わないと?」
「……お許しください。咎は俺一人で全て受けます。ですから、どうか……」
「だから、私を抱けと言っているだろう!」
「できません」
「なぜだ!」
「俺はあなたを心よりお慕いしております。ですからどうか……お身体をもっと大事になさってください。苦しいのであればお側におります。お一人では抱えられないものがあるというのなら、どんなに重いものだろうと微力ながらお支えするつもりです」
そんなことしかできない。でも、それをあなたが許してくれるのならば、どこまでも尽くしたい。
縋るような気持ちで伝えた言葉は、シリル様には届かなかった。
拒絶を示すかのように緩やかに首を振り、シリル様は手で顔を覆った。
「もう……もういい」
「シリル様、」
「呼ぶな。なにもかも不愉快だ」
震える声を押さえつけ、それでも尚涙がにじむような声色だった。
どうしてなのか。なぜ何も言わずに、行為だけを求められたのか。なんの意図があるのか。
その全てが分からないまま、俺とシリル様は互いに平行線のまま立ち尽くしていた。
「ルートヴィヒ。今後一切私に近づくな」
聞こえたなら去れ。
強い語気で命じられ、俺はじりじりと後退したあと、何も考えられない頭で非礼を詫び、部屋を辞した。
乱れた服のことなど頭から飛んでいた。
その後クリシュナ様の部屋を辞して、シリル様とも彼の部屋の前で分かれた。暇を持て余しているだろうから放課後部屋を訪ねてくれと言われて少し舞い上がってしまったのは許されるだろう。名指しで呼ばれたにも等しいのだ。
交友関係は俺よりもずっと広いはずだが、部屋に呼ぶというのは近しい間柄の者が殆どだ。性的なことをするだとか、内密の話をするだとかが大半だ。自習を行うなら図書室か開いている教室へ行くからだ。平民は別格だが。
いつも通りの賑わいの中、昨日ほどではないが視線や声は随分と落ち着いているように思う。改めて事の次第を聞かせろよ、と何人かに気易く肩を叩かれもしたが、できる範囲でなら、と答えておいた。テストを控えているというのに、皆ゴシップには目がない。
今日シリル様が部屋にいることはそれとなく知らされているらしく、中には俺に対して「バーネットは部屋にいるぞ」と親切心なのかなんなのか分からないからかい方をする者までいた。昨日俺がクリシュナ様に連れて行かれたために知らないだろうと、よかれと思って言ってくる場合もあって当たり障りのない返答をしたが、好意的な者ばかりではない。
俺とシリル様は主従関係ではないが、俺が好き好んでシリル様の側にいることは既に知れ渡っている上、彼に見合うためにとあれこれしている姿が『面白みのない奴』『バーネット家に尻尾を振る犬』と言われていることも把握してはいる。わざわざ平時に絡んでくるようなことはないが、今回の件は格好のネタということもあって、やはり昨日と毛色は違うもののやけに声を掛けられる。
少々うんざりしながら席についていると、授業が始まるまであまり時間がないというのに、どたばたと最早聞き慣れてしまった音が廊下から響いてきた。
「ルートヴィヒ!」
「うるさい。俺は耳の遠い老人ではない」
顔を顰めるほどの大声で教室へ飛び込んできたのは、やはりというか、ソラだった。授業中絡まれると面倒だと前の席に陣取ったのが裏目に出た。すぐにあちらに見つけられてしまった。
無遠慮に教室に入ってきて、俺の目の前で机に手をつき、ソラが見下ろしてくる。
「昨日は大丈夫だったか? 怪我とかしてないよな? クリシュナに変なことされてないよな?」
「せめて一つずつ質問しろ。俺は何もされてないしどうにもなっていない」
「ホントか?」
「真実かどうか、お前に関係はないと思うが」
「あるよ! 俺が巻き込んだようなもんだろ……クリシュナに預けるのだって反対したんだけど、シリルの方が強いって言うから……」
俺の前でしおらしくする姿に拍子抜けしてしまう。俺が着席して、奴が立っているせいで俯いていても目がみるみるうちに潤んでいくのがよく分かった。
……シリル様といいこいつといい、昨日なにか、涙もろくなるようなものでも口にしたのだろうか。
「なにをわけの分からないことを。昨日からなにかと巻き込んだだの巻き込まれただのと言われているが、人違いだろう。俺は昨日クリシュナ様に連れられて食事をした後、遊びに連れて行かれただけだ」
「二人でか?!」
「うるさい。食事は二人だったがその後は他にもいたぞ」
やたらと大声で食いついてくる奴にいい加減にしろと睨み付ける。まあ、これで周囲も俺がどういう態度でいるのか分かっただろうから、悪いことばかりではない。
「授業が始まる。さっさと戻れ」
「……うん。無事で良かった」
「要らん心配だな」
「違う。あんたの貞操の方!」
ぎょっとした。声を潜めることもなく明け透けに言われて、窘める間もなく走り去っていく背中に唖然とする。奴はそこまで愚鈍ではない。であれば、今の言葉の意味は『クリシュナ様が俺に手を出す』ということ以外にはないはずだ。
そんなことがあるか? いやない。あのクリシュナ様だぞ。今よりもずっと中性的で愛らしかったシリル様を、あんな風に、切りつけるように牽制して拒絶した方だ。同性どころか、異性とさえそういう関係や行為を望まれていないように見受けられる、あの方が、俺に? やはりありえない。クリシュナ様よりも余程俺を巻き込んで痴情のもつれの話を大きくさせたいと見える。が、なんのためにそんなことを言うのかまでは分からない。
――シリル様に相談してみるか。
平時ならば思いもしないことが頭を過る。こういう謀(はかりごと)についてはシリル様の方が明るい。クリシュナ様は全てを把握した上で教えてくださらないだろう。
教師が来るまでの短い間、俺は毛虫が肌を這うような感覚を覚えながら真面目に考えていた。そしてその日の授業中も、周りの視線に耐えなくてはならなかった。
テストに集中させてくれ。
妙に浮き足立った気持ちで授業を終えた後、俺はそそくさと寮へ戻った。例え親しくしている相手であっても、今は勘弁願いたい。シリル様自ら部屋へ招いてくださったこともあって、一度自室に荷物を置いてから部屋を出た。まだ早い時間、生徒は知人友人と遊んだり、話に興じたりと忙しくしており、寮にいる者と言えば従僕かシリル様のように何らかの理由で寮で過ごしている者くらいだろう。
迷いなくシリル様の部屋へ向かい、ノックをする。鍵を開ける音がして、顔を見せたのは従僕だった。
「ルートヴィウヒ・コナーだ」
「ご案内致します」
礼の後、中へ通される。
「シリル様は湯浴みかお召し替えの途中か?」
「はい。ですがコナー様はお部屋に通すようご希望です」
「そうか」
部屋の中へ通され、衝立の向こうに動く影をみとめる。
「シリル様、参りました」
「ああ。少し待て」
ソファへ掛けるよう促され、掛けると同時にティーカップを前に置かれた。そこに、白濁した紅茶が注がれる。
「ミルクティーですか」
「ああ。南で飲まれているものだが、砂糖と香辛料が入っていて身体が温まる。向こうではチャイと呼ばれているらしい」
「……あの、とてつもなく甘いという」
話としては知っていたが、実際に目にするのは初めてだ。ミルクティー自体をあまり飲まないのもあるが、確か聞いた話だと有り得ないほどの砂糖を入れるとか……。
香りは確かに普通のミルクティーとは少し異なっているように思えた。スパイスの種類には明るくないが、刺激的な感じがする。勿論、紅茶とミルクの香りの方が強いのだが。
恐る恐る唇湿らせ口の中に迎え入れると、舌の上に濃厚な砂糖の甘みが襲いかかった。その中にミルクティーと、スパイスの風味が混ざり合い、かつてない争いを始める――かと思ったが、予想よりは大人しい味だ。
「思っていたよりも飲みやすいですね。甘みも……もっと甘いものかと思っていました」
「砂糖の量は流石に調整した。作り方もこちらの人間向きにしてあるはずだ」
「商品化予定ですか?」
「さて、私はバーネット領の冬にこれがあればよいのではないかと思っているが、香辛料は高いからな」
「バンクロフト家を通さず現地の者と直接仕入れ交渉ができればいいのでしょうが、現実的ではないですしね」
「バンクロフト家に喧嘩を売るつもりはないよ」
衝立が外され、シリル様が無造作にタオルで濡れた髪を拭きながら笑う。ナイトガウンにスリッパと、後はもう寝るだけのような格好だ。カップを机に戻す。従僕が静かに出て行き、二人になった。
「バンクロフト家といえば、先日ブレア様に牽制されました」
「ほう」
「ソラごと俺を抱き込むのも吝かではないと」
シリル様は俺のすぐ脇に立つと、視線を落とした。俺の顔か、チャイか。長い間見返すのも失礼なのですぐに顔を戻したが、シリル様は俺の肩に肩手を置いた。
「それで? お前はどうするつもりだ」
「俺と奴とは別に関係がありません。ですが、香辛料の件であなたのお役に立てるのならばブレア様のところで学ぶのも一つかと思いました」
「……お前の家は代々文官の中でも会計や書記官を排出してきただろう。お前だって数字に強い」
「ええ、まあ。ですがバンクロフト家でも似たようなことはできるでしょう。あわよくば税関のことも知れるかもしれませんし」
「私のためというのならばやめておけ。悪いわけではないがそこまでしてもらう義理もないし、それならば私が直接交渉した方が早い」
それはそうだろう。間に俺が挟まる意味はない。
しかしシリル様本人にそう言われると、では俺がして差し上げられることはなにもないのかと思ってしまう。元々家同士の繋がりがあるわけでもなく、学び舎に来てから俺から近づいただけの関係だ。
今はソラをどうにか矯正できないかと口を出しているものの、それだって成果がでているとは言いがたい。その上、ここを出たら本当になにもなくなる。シリル様と学友だったということ以外は、なにも。シリル様が卒業後も俺を望まれない限り、俺は何をしても近くには行けない。
否。近くに行けなくてもいいのだ。これ以上、遠くになるのが嫌なだけで。
「……俺はあなたになにができるんでしょうか」
改めて、シリル様の側にいたいのならばこのままでは駄目なのだと思う。ここで学んだことを糧に爵位を継ぐまでにあれこれと父の仕事を覚えなくてはならないが、それだけでは足りない。
だが、かといってシリル様にどんな助けができるのだろうか。
「ルートヴィヒ、私を抱け」
「は……」
自分の思考に沈んでいると、ふと頭の上からシリル様の声で妙なことが聞こえた。
「失礼、今、なんと」
「私を抱けと言った」
思わずシリル様を見上げる。じっと俺を見下ろすシリル様の顔は何かを思い詰めるようで、俺は動揺した。
「なぜ」
考えていたことをそのまま口にしてしまう。……まさか、抱きしめるだけだということはないだろう。
「クリシュナ殿には抱かれていただろう」
「ああ、抱きしめろということですか」
まさかだった。昨日のことはきちんと覚えている。危うくクリシュナ様に介抱させるところだった。シリル様になら介抱させても良いというわけでは決してないが、後が怖すぎる。
さっと立ち上がって、一言断ってからシリル様の身体を抱きしめた。ナイトガウンしか身につけていないシリル様の身体を特別に感じる。しっとりとしているのは髪だけではないように思えて、妙な感覚に身体が満たされようとするのを振り払う。
「どうされました。今日、なにかありましたか? それとも昨日?」
まさかホームシックではあるまい。
背を優しく手のひらで叩いていると、ふと首元でぷつ、と音がした。
「……?」
訝って頭を離し目を落とすと、シリル様がシャツのボタンに手を掛け、外しているところだった。
「シリル、様?」
黙ったまま、俺のシャツとベストのボタンを外していく。
「あ、あの? お待ちください」
そっとその両手を掬うようにして掴み、離す。シリル様の顔がこちらを見ることはなかった。
「シリル様……?」
名前を呼んでも反応がない。そっと手を離すと、そのまま力なくシリル様の手は身体の横へ戻っていった。
「ルートヴィヒ」
「はい」
妙な緊張感があった。気迫と言い換えてもいい。
「私を抱け」
シリル様の手が自らのナイトガウンへ伸び、ボタンが外されていく。そこでやはり、抱きしめると言う意味ではなかったのだと歯噛みした。
「なぜですか。なにがあったのです」
「命令だ」
「できかねます」
「なぜだ。私が言っているのだぞ」
「……教えてはいただけないのですか」
今すぐに身をかがめて表情を確認したい。しかし、そんな家族にしかしないような真似はできない。
もどかしくて言葉を重ねたくなる。
何があったのか。何かあったのか。朝に怪我はないと言っていたのは偽りだったのか。怪我はないが心を傷つけられるようなことがあったのか。
それは、誰によってもたらされたものなのか。
「御身を、大事になさってください。どうか……」
「……私の命がきけないというのだな」
落胆したような声色だった。そうではない。そうではないが、その心中さえ察してはいないのに、そんなことができるはずがない。
誰だ。シリル様がこんなに取り乱したのは見たことがない。きっと深く傷ついただろうクリシュナ様の言葉にさえ――まさか、あの方絡みで、何かあったのか?
『単にシリルが好みではないというだけならばどうだ』
あれは、クリシュナ様がそう言ったのはいつだった。あの時車は既に停車していたのだったか? ドアは既に開いていたか?
シリル様は、あの時のクリシュナ様に何か心をかき乱されることがあったのだろうか。そして、それはソラでは癒やせなかった?
推察することしかできないが、ここまでシリル様を追い詰めることがあったのだ。誰かの悪意がなかったとしても。
今シリル様が俺に肌を重ねることを迫っていることがショックだった。それを命令だと言うことも。理由を何も明かそうとしてくださらないことも。
今のシリル様は、俺の言葉を聞き入れてくださるような状態ではない。にもかかわらず、俺にできるのは言葉を掛けることだけだった。
「あなたは素晴らしい方です。あなたを……深く愛する方が現れます」
誠実に生きてきたシリル様が、こんなに急に傍若無人で傲慢な振る舞いをするなど考えにくい。よからぬ薬でも飲まされたかと思ったが、であれば保健医が対応し然るべき治療が行われているはずだ。隠す理由がない。
酒類も考えにくい。抱きしめたときにもそんな匂いはなかった。
「随分と大きく出るじゃないか。そんなもの、私が望む者でなければ意味がない。私が同じものを返せるとは限らん。そも、現れるかどうかも分からんと言うのに」
吐き捨てられた言葉に、胸を突かれたような痛みが走った。
「おります。少なくとも、ここに」
「ほう? 私の命令が聞けないのにか?」
シリル様は見るからに追い詰められている様子だというのに、俺に抱くよう強く迫っているというのに、助けを求めるような言葉は一切口にしない。俺には無理だということだろうか。それとも、俺がシリル様を抱けば、それが救いになるのだろうか。
だが、俺にはできなかった。
「ならば、お前の家族がどうなっても構わないと?」
「……お許しください。咎は俺一人で全て受けます。ですから、どうか……」
「だから、私を抱けと言っているだろう!」
「できません」
「なぜだ!」
「俺はあなたを心よりお慕いしております。ですからどうか……お身体をもっと大事になさってください。苦しいのであればお側におります。お一人では抱えられないものがあるというのなら、どんなに重いものだろうと微力ながらお支えするつもりです」
そんなことしかできない。でも、それをあなたが許してくれるのならば、どこまでも尽くしたい。
縋るような気持ちで伝えた言葉は、シリル様には届かなかった。
拒絶を示すかのように緩やかに首を振り、シリル様は手で顔を覆った。
「もう……もういい」
「シリル様、」
「呼ぶな。なにもかも不愉快だ」
震える声を押さえつけ、それでも尚涙がにじむような声色だった。
どうしてなのか。なぜ何も言わずに、行為だけを求められたのか。なんの意図があるのか。
その全てが分からないまま、俺とシリル様は互いに平行線のまま立ち尽くしていた。
「ルートヴィヒ。今後一切私に近づくな」
聞こえたなら去れ。
強い語気で命じられ、俺はじりじりと後退したあと、何も考えられない頭で非礼を詫び、部屋を辞した。
乱れた服のことなど頭から飛んでいた。
0
お気に入りに追加
39
あなたにおすすめの小説
極悪家庭教師の溺愛レッスン~悪魔な彼はお隣さん~
恵喜 どうこ
恋愛
「高校合格のお礼をくれない?」
そう言っておねだりしてきたのはお隣の家庭教師のお兄ちゃん。
私よりも10歳上のお兄ちゃんはずっと憧れの人だったんだけど、好きだという告白もないままに男女の関係に発展してしまった私は苦しくて、どうしようもなくて、彼の一挙手一投足にただ振り回されてしまっていた。
葵は私のことを本当はどう思ってるの?
私は葵のことをどう思ってるの?
意地悪なカテキョに翻弄されっぱなし。
こうなったら確かめなくちゃ!
葵の気持ちも、自分の気持ちも!
だけど甘い誘惑が多すぎて――
ちょっぴりスパイスをきかせた大人の男と女子高生のラブストーリーです。

初恋はおしまい
佐治尚実
BL
高校生の朝好にとって卒業までの二年間は奇跡に満ちていた。クラスで目立たず、一人の時間を大事にする日々。そんな朝好に、クラスの頂点に君臨する修司の視線が絡んでくるのが不思議でならなかった。人気者の彼の一方的で執拗な気配に朝好の気持ちは高ぶり、ついには卒業式の日に修司を呼び止める所までいく。それも修司に無神経な言葉をぶつけられてショックを受ける。彼への思いを知った朝好は成人式で修司との再会を望んだ。
高校時代の初恋をこじらせた二人が、成人式で再会する話です。珍しく攻めがツンツンしています。
※以前投稿した『初恋はおしまい』を大幅に加筆修正して再投稿しました。現在非公開の『初恋はおしまい』にお気に入りや♡をくださりありがとうございました!こちらを読んでいただけると幸いです。
今作は個人サイト、各投稿サイトにて掲載しています。
サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。
六日の菖蒲
あこ
BL
突然一方的に別れを告げられた紫はその後、理由を目の当たりにする。
落ち込んで行く紫を見ていた萌葱は、図らずも自分と向き合う事になった。
▷ 王道?全寮制学園ものっぽい学園が舞台です。
▷ 同室の紫と萌葱を中心にその脇でアンチ王道な展開ですが、アンチの影は薄め(のはず)
▷ 身代わりにされてた受けが幸せになるまで、が目標。
▷ 見た目不良な萌葱は不良ではありません。見た目だけ。そして世話焼き(紫限定)です。
▷ 紫はのほほん健気な普通顔です。でも雰囲気補正でちょっと可愛く見えます。
▷ 章や作品タイトルの頭に『★』があるものは、個人サイトでリクエストしていただいたものです。こちらではいただいたリクエスト内容やお礼などの後書きを省略させていただいています。
悩める文官のひとりごと
きりか
BL
幼い頃から憧れていた騎士団に入りたくても、小柄でひ弱なリュカ・アルマンは、学校を卒業と同時に、文官として騎士団に入団する。方向音痴なリュカは、マルーン副団長の部屋と間違え、イザーク団長の部屋に入り込む。
そこでは、惚れ薬を口にした団長がいて…。
エチシーンが書けなくて、朝チュンとなりました。
ムーンライト様にも掲載しております。

黄色い水仙を君に贈る
えんがわ
BL
──────────
「ねぇ、別れよっか……俺たち……。」
「ああ、そうだな」
「っ……ばいばい……」
俺は……ただっ……
「うわああああああああ!」
君に愛して欲しかっただけなのに……

フローブルー
とぎクロム
BL
——好きだなんて、一生、言えないままだと思ってたから…。
高二の夏。ある出来事をきっかけに、フェロモン発達障害と診断された雨笠 紺(あまがさ こん)は、自分には一生、パートナーも、子供も望めないのだと絶望するも、その後も前向きであろうと、日々を重ね、無事大学を出て、就職を果たす。ところが、そんな新社会人になった紺の前に、高校の同級生、日浦 竜慈(ひうら りゅうじ)が現れ、紺に自分の息子、青磁(せいじ)を預け(押し付け)ていく。——これは、始まり。ひとりと、ひとりの人間が、ゆっくりと、激しく、家族になっていくための…。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる