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寮へ戻されたのは夜も随分と更けた頃だった。というのも、食事を終えた後クリシュナ様自ら俺に『遊び』を教えてやると夜の街へ繰り出したためだった。街へ、とは言うものの、開いている店はそう多くない。車で移動し、入ったのはこぢんまりとした酒場だった。
許可を取ったのかそうでないのか、そこには学び舎の中で見かける顔も散見されたから驚きだった。自己紹介をしたりするようなことこそないものの、顔はあちらもよく知っている。その程度だが、俺があまり遊び慣れてないと知るや口角を上げて静かに歓迎された。当然、カモにされたのだが。
その他にもクリシュナ様の知己たる『悪い友人』たちは年齢こそ異なるものの、皆クリシュナ様に気易い態度だった。一体どんな家の子息なのかと思ったが、クリシュナ様の部下で、平民なのだと言われてまた驚く羽目になった。そこでふと思い立ってさりげなくソラという平民を知っているかと聞いたが、クリシュナ様に遮られてしまった。
酒場での遊戯――ボードゲームを始め、大体は賭博なのだが、今夜は免除された――は手取り足取り教える者が変わりながらも盛り上がるものだった。ビリヤードやトランプカードはともかく、東の方で流行っているというカードゲームやテーブルゲームはまず言葉を覚えるのが難しかった。
その上、食後にどうだと言われて半ば強制的にもてなされた、紅茶に火をつけた砂糖を垂らすティー・ロワイヤルも刺激的で、ブランデーは少ししか入ってないにもかかわらず身体は妙に熱くなり、冷え切った外の空気が心地よく感じるほどだった。
帰りの車中は眠たくなってしまい、クリシュナ様にぬいぐるみを可愛がるような扱いを受けたものの、眠気もあってまともな頭でなかった俺はされるがままになっていた。それまで緊張していた上、初めてのことばかりで興奮していた反動だったのだろう。クリシュナ様の身体から香る香水の匂いに心地よくなってしまい、頬を唇で食まれていたのにも暫く気づかない有様だった。
「……お戯れを……」
「戯れではないと言ったらどうだ?」
「……クリシュナ様は、以前に……シリル様のお言葉を撥ねられたでは、ないですか」
「単にシリルが好みではないというだけならばどうだ」
「あなたのような方が、俺のような……凡夫を、お好みとは……思えません」
「酔ってさえ尚それか。お前のその頭は罪深いな」
「……?」
車の揺れが止まり、降りなくてはいけないことは分かるのだが、あまりにも心地良い眠気のために身体を起こすことができず、すぐ近くでクリシュナ様が笑う気配だけを感じた。
「コナー、起きろ」
「ん、ぅ」
はい、と返事をしたはずだ。だが、口の中から響く音でさえそうとは聞こえず、かろうじて反応を示したことが分かる程度。これではいけないと思うのに、クリシュナ様に肩を抱かれていると妙に安心というのか、安定感があって、ずるずると意識が落ちていきそうになる。
「……コナー、シリルが見ているぞ」
「う、う」
首元にクリシュナ様の息が掛かるのがくすぐったい。ぞくりとしたものが肌を張ったが、それよりもクリシュナ様の声の中に大切な名前を拾って、俺はどうにか目をこじ開けた。
「シリルさま」
舌が回らない。目の焦点が合いにくく、シリル様が車の中に上半身を入れて、俺の肩に触れる。冷たい外の空気と共に仄かに甘い香りがして、顔を寄せたくなった。
――いけない。
「だい、じょうぶです」
目を擦り、シリル様の両肩をそっと押し返す。身体の中のアルコールを抜くかのように何度も息を口から吐き出しながら、俺は肌を包む寒さに身を震わせた。少し、頭がはっきりしてきた気がする。
気がしただけで、言葉が浮かばない。クリシュナ様に尽くすべき礼も、なにもなく、俺はシリル様は寒くないだろうかと呆けたことを思った。しかし、口を動かすには至らない。ふわふわとした感覚が言葉を溶かしていく。
「飲ませすぎた。許せ」
「……いいえ、後は私が引き受けましょう」
「ああ」
二人分の声が耳に届く。シリル様の身体が冷えてしまうと遠慮がちにシリル様の羽織るコートの端を摘まみ、引っ張った。言葉はうまく出てこなかったが、シリル様にはそれで伝わったらしい。中に入ろうと促され、優しく背を押された。
三人で中に入り、この中ではもっとも近い俺の部屋の前まで来ると、俺は覚束ない手で鍵を探して部屋のドアを開けた。
「クリシュナ殿は、」
「一人で戻る。……シリル、手元に残したい者こそ目の届かない場所に置くことも必要だぞ」
「……ええ、そうですね」
ドアが閉まる。ふらふらとベッドへ行き、カバーも捲らずに倒れ込むようにして横になる。どうにか靴は脱ぎ、仰向けになる。何度か呼吸をしていると、また心地の良い眠気が俺の意識を包んでいく。
「ルートヴィヒ、ベストくらいは脱いでおけ」
「……ぅ」
声が聞こえる。身体をまさぐられる感覚があったが、もう自分で動く力はなかった。
翌朝。鳥の鳴く声で目が覚めた。カーテンの隙間から見える光は弱々しく、時計を見ても、いつもの起床時間よりも一時間は早い。ベッドで目を覚ました体勢のまま、回るようになった頭で俺は足先が冷えていくのを感じた。
酒に弱いことが分かったのはいいとして、昨日俺はなにをした?
クリシュナ様にもたれかかってだらしない姿を晒した上、シリル様に介抱され、二人に挨拶も礼もなく寝こけるなど。
可能ならば今すぐにでも謝罪に行きたいが、時間が時間だ。とにかく身なりを整えよう。
身体を起こすと、身体にコートが掛けられていることに気づく。シリル様のもので間違いない。全て止めていたシャツやスラックスのボタンは寛げられていて、自分でやった覚えがない以上シリル様によるものだろうことは明白だ。
いよいよ頭を抱えて、俺はそのまま自分の頭をかきむしった。
叫び出したい。この失態に走り出したい。
とはいえ実際にそんなことができるはずもなく、俺は滲みつつあった手汗をシャツで拭くと、そのコートの皺を伸ばしコートハンガーに掛けた。コートにかけられた香水の上品な香りがまだ微かに残っている。
そうだ、これ以上醜態をさらさないためにも丁寧に身支度をしなくては。
俺は何度か深呼吸をすると、煙草の匂いが染みついていることにも気づいた。湯をもらって身体と髪を念入りに拭く必要がある。
部屋を一度出ようとして、はっとした。――鍵がどこにもない。
部屋には鍵が掛かっていた。内鍵を見てもそうだし、念のためドアノブを回してみたが、やはり開かない。俺以外の誰もこの部屋にはいない。ということは。
シリル様の顔がよぎった瞬間、部屋のドアをノックする音が響き、俺はどきりとした。
慌てて内鍵を開けて応じると、そこには従僕を三人を連れたシリル様がにこやかに立っていた。
「おはようございます」
「良い朝だな。気分はどうだ」
「おかげさまで、素晴らしいです」
俺に深々と礼をして従僕が部屋に入ってくる。普段、日々のベッドメイキングや洗濯などを引き受けている者達だ。部屋の鍵は授業に出る際に寮の管理をしているフロントへ預け、生徒が出払っている間に部屋の清掃が行われる。一部の生徒の朝の支度を手伝うために配置されることもある。食事の配膳などもそうだ。
そんな彼らをシリル様が連れていると言うことは、これも事前に話が通っていたと言うことだ。
暖房がつけられ、部屋の中が温まっていく。部屋に入ってきたシリル様に鍵を渡された。これを俺に渡すのも兼ねて今日は早くに来たらしい。鍵がなければ部屋を空けるのには抵抗があるだろうと朗らかに言うシリル様の対応は、率直に言って『行き過ぎ』だ。昨日のクリシュナ様も含めて、そこまでしてもらう義理がない。
「昨日のこともですが……重ね重ね、もうしわけ」
「おっと、そもそもお前は巻き込まれた側だろう。なにについて謝罪をするつもりだ? 場合によっては許さんが」
決して重い言い方ではないが、両手を腰にあて、軽く首をかしげて俺を見るシリル様の目には鋭いものがあった。
「……酒の痴態を晒したことについて、俺が極めて恥ずかしく思っているので言わせてください」
「ははは、確かに昨日のお前はかわいらしかったな!」
「……お許しください……」
「私は怒ってないぞ」
ふふ、とシリル様がソファへ座る。俺は衝立でシリル様から隠され、服を脱いだ。従僕の一人から適温になった蒸しタオルを渡され、顔をはじめ、身体を拭いていく。二枚目のタオルを受け取り頭を揉みほぐすようにしながら髪も拭くと、随分とさっぱりした。
昨日来ていた服を回収した従僕にベッドのシーツとナイトガウンは使ってないから替えなくて良いと指示を出し、そいつが部屋を出る。
「昨晩は楽しかったか?」
「緊張でそれどころではありませんでした」
即答すると、シリル様が思わずといった風に吹き出すのが聞こえた。別の従僕に新しい服を渡され、順番に着用していく。
「そちらはいかがでしたか」
「恙無く」
「……怪我はされませんでしたか?」
「良い経験になったな。なかなか、鍛錬ではできないこともさせてもらった」
「確かに対人戦は得がたい経験ですね。それで怪我の方は?」
「ない。……ルートヴィヒ、お前そんなに過保護だったか」
「シリル様は隠すのがお上手ですので、適正な範囲だと思います」
本当なら、顔を見て確認したかった。先ほどまでの様子を見る限り本当に大事はないようだが、服の下はどうなっているかわからない。辺境伯の子息に相応しい武芸を身につけていることは知識として知ってはいる。学び舎の中でのことだ、相手の技量も未知数と言うことはない。不安になる要素はないはずだが、身を案じることくらいはさせて欲しい。
「ソラの方はどうでしたか。あいつも襲われる予定だったと、クリシュナ様からうかがいましたが」
「……問題ない。恐らく今日は早いタイミングでお前の所に行くだろう」
「……俺に? なぜ……」
「昨日はお前を巻き込んだことについて猛烈に怒っていたからな」
「しかし、俺は何も知らされないままです。クリシュナ様が俺を外へ連れ出すのことはあいつも知っていたのでは?」
「クリシュナ殿という時点で、ソラにとってはなんの安心にもならなかったのだろう」
「ああ……」
クリシュナ様は平民を餌にしてよからぬことを企む者がいないかあぶり出していたようだし、ソラと心を通わせたという話を話した上で更に俺を使ってもう一つなにかを企てているのではないかと思ったと。
「今回の件ですが、答え合わせはしていただけるのでしょうか」
「クリシュナ殿に期待をしているのなら『ない』だろうな」
「内々にもないのですか?」
「冬の長い休みの前のことだぞ? なんのためにこのタイミングで、となるとな」
休みの間にうやむやにしてしまう、と。
そうだろうか。クリシュナ様のことだから後日大々的にどういうことだったのか発表するくらいのことはしそうだが。
「……まあ、休みに入るまでにはテストもある。なにか知らされるとしてもその後だろう」
「それは……試されますね」
「表向きは何もないことになっている。お前も素知らぬふりをしておくといい」
「話の上では渦中の者であるにも関わらずですか?」
「どのようにかわすかは任せる」
支度を終え、髪型を整える。終わると従僕によって衝立が片付けられ、朝の紅茶を用意するとどちらも静かに出て行った。それを見送りながら、シリル様が「男前の完成だ」と満足そうに頷いた。いい加減昨日の失態を思い出すような発言でからかってくるのはやめて欲しい。
「コート、感謝します」
「余程一緒に寝てやろうかとも思ったのだが、起きたときにお前がどれほど取り乱すかを思うと哀れになってしまってな。風邪を引かなくてなによりだ」
シリル様の身振りで座るように示されて、ソファに腰掛ける。シリル様が俺の分のカップに砂糖を入れ、スプーンで混ぜる。
「……改めて部屋までお持ちします」
カップを受け取り口をつけると、紅茶の温度が身体の中を通っていくのが分かる。そしてその香りにほっと身体から力が抜けた。
「いや、このままもらっていく。私は今日自室で謹慎することになっているからな」
「なぜ」
「根回しはしているが、昨日あれこれと暴れたのは事実だ」
「俺よりもシリル様の方が巻き込まれているではないですか!」
気が抜けたと思った矢先に告げられた内容に声を荒らげる。シリル様はと言えばクリシュナ様のような楽しげな様子で俺を見た。
「名誉的なところで言えばそうでもない。昨日はどうせ文句の一つも言えなかったのだろう? 私も付き合うから、是非今から彼の所へ行こうじゃないか」
俺がクリシュナ様に文句など言えるはずもない。が、シリル様はなにかもの申す気満々のようだ。……これは、もしかして怒っているのだろうか。
「……お前になにもなくて、本当に良かった」
シリル様に頬を撫でられ、俺はなんと言ってもいいものかと迷ったが、結局短く返事をするに留まった。柔らかく微笑みかけられるのは初めてではないはずだが、彼の双眸が潤んでいるようにも見えて、言葉を間違えばその頬に涙が伝うのではないかと思った。
許可を取ったのかそうでないのか、そこには学び舎の中で見かける顔も散見されたから驚きだった。自己紹介をしたりするようなことこそないものの、顔はあちらもよく知っている。その程度だが、俺があまり遊び慣れてないと知るや口角を上げて静かに歓迎された。当然、カモにされたのだが。
その他にもクリシュナ様の知己たる『悪い友人』たちは年齢こそ異なるものの、皆クリシュナ様に気易い態度だった。一体どんな家の子息なのかと思ったが、クリシュナ様の部下で、平民なのだと言われてまた驚く羽目になった。そこでふと思い立ってさりげなくソラという平民を知っているかと聞いたが、クリシュナ様に遮られてしまった。
酒場での遊戯――ボードゲームを始め、大体は賭博なのだが、今夜は免除された――は手取り足取り教える者が変わりながらも盛り上がるものだった。ビリヤードやトランプカードはともかく、東の方で流行っているというカードゲームやテーブルゲームはまず言葉を覚えるのが難しかった。
その上、食後にどうだと言われて半ば強制的にもてなされた、紅茶に火をつけた砂糖を垂らすティー・ロワイヤルも刺激的で、ブランデーは少ししか入ってないにもかかわらず身体は妙に熱くなり、冷え切った外の空気が心地よく感じるほどだった。
帰りの車中は眠たくなってしまい、クリシュナ様にぬいぐるみを可愛がるような扱いを受けたものの、眠気もあってまともな頭でなかった俺はされるがままになっていた。それまで緊張していた上、初めてのことばかりで興奮していた反動だったのだろう。クリシュナ様の身体から香る香水の匂いに心地よくなってしまい、頬を唇で食まれていたのにも暫く気づかない有様だった。
「……お戯れを……」
「戯れではないと言ったらどうだ?」
「……クリシュナ様は、以前に……シリル様のお言葉を撥ねられたでは、ないですか」
「単にシリルが好みではないというだけならばどうだ」
「あなたのような方が、俺のような……凡夫を、お好みとは……思えません」
「酔ってさえ尚それか。お前のその頭は罪深いな」
「……?」
車の揺れが止まり、降りなくてはいけないことは分かるのだが、あまりにも心地良い眠気のために身体を起こすことができず、すぐ近くでクリシュナ様が笑う気配だけを感じた。
「コナー、起きろ」
「ん、ぅ」
はい、と返事をしたはずだ。だが、口の中から響く音でさえそうとは聞こえず、かろうじて反応を示したことが分かる程度。これではいけないと思うのに、クリシュナ様に肩を抱かれていると妙に安心というのか、安定感があって、ずるずると意識が落ちていきそうになる。
「……コナー、シリルが見ているぞ」
「う、う」
首元にクリシュナ様の息が掛かるのがくすぐったい。ぞくりとしたものが肌を張ったが、それよりもクリシュナ様の声の中に大切な名前を拾って、俺はどうにか目をこじ開けた。
「シリルさま」
舌が回らない。目の焦点が合いにくく、シリル様が車の中に上半身を入れて、俺の肩に触れる。冷たい外の空気と共に仄かに甘い香りがして、顔を寄せたくなった。
――いけない。
「だい、じょうぶです」
目を擦り、シリル様の両肩をそっと押し返す。身体の中のアルコールを抜くかのように何度も息を口から吐き出しながら、俺は肌を包む寒さに身を震わせた。少し、頭がはっきりしてきた気がする。
気がしただけで、言葉が浮かばない。クリシュナ様に尽くすべき礼も、なにもなく、俺はシリル様は寒くないだろうかと呆けたことを思った。しかし、口を動かすには至らない。ふわふわとした感覚が言葉を溶かしていく。
「飲ませすぎた。許せ」
「……いいえ、後は私が引き受けましょう」
「ああ」
二人分の声が耳に届く。シリル様の身体が冷えてしまうと遠慮がちにシリル様の羽織るコートの端を摘まみ、引っ張った。言葉はうまく出てこなかったが、シリル様にはそれで伝わったらしい。中に入ろうと促され、優しく背を押された。
三人で中に入り、この中ではもっとも近い俺の部屋の前まで来ると、俺は覚束ない手で鍵を探して部屋のドアを開けた。
「クリシュナ殿は、」
「一人で戻る。……シリル、手元に残したい者こそ目の届かない場所に置くことも必要だぞ」
「……ええ、そうですね」
ドアが閉まる。ふらふらとベッドへ行き、カバーも捲らずに倒れ込むようにして横になる。どうにか靴は脱ぎ、仰向けになる。何度か呼吸をしていると、また心地の良い眠気が俺の意識を包んでいく。
「ルートヴィヒ、ベストくらいは脱いでおけ」
「……ぅ」
声が聞こえる。身体をまさぐられる感覚があったが、もう自分で動く力はなかった。
翌朝。鳥の鳴く声で目が覚めた。カーテンの隙間から見える光は弱々しく、時計を見ても、いつもの起床時間よりも一時間は早い。ベッドで目を覚ました体勢のまま、回るようになった頭で俺は足先が冷えていくのを感じた。
酒に弱いことが分かったのはいいとして、昨日俺はなにをした?
クリシュナ様にもたれかかってだらしない姿を晒した上、シリル様に介抱され、二人に挨拶も礼もなく寝こけるなど。
可能ならば今すぐにでも謝罪に行きたいが、時間が時間だ。とにかく身なりを整えよう。
身体を起こすと、身体にコートが掛けられていることに気づく。シリル様のもので間違いない。全て止めていたシャツやスラックスのボタンは寛げられていて、自分でやった覚えがない以上シリル様によるものだろうことは明白だ。
いよいよ頭を抱えて、俺はそのまま自分の頭をかきむしった。
叫び出したい。この失態に走り出したい。
とはいえ実際にそんなことができるはずもなく、俺は滲みつつあった手汗をシャツで拭くと、そのコートの皺を伸ばしコートハンガーに掛けた。コートにかけられた香水の上品な香りがまだ微かに残っている。
そうだ、これ以上醜態をさらさないためにも丁寧に身支度をしなくては。
俺は何度か深呼吸をすると、煙草の匂いが染みついていることにも気づいた。湯をもらって身体と髪を念入りに拭く必要がある。
部屋を一度出ようとして、はっとした。――鍵がどこにもない。
部屋には鍵が掛かっていた。内鍵を見てもそうだし、念のためドアノブを回してみたが、やはり開かない。俺以外の誰もこの部屋にはいない。ということは。
シリル様の顔がよぎった瞬間、部屋のドアをノックする音が響き、俺はどきりとした。
慌てて内鍵を開けて応じると、そこには従僕を三人を連れたシリル様がにこやかに立っていた。
「おはようございます」
「良い朝だな。気分はどうだ」
「おかげさまで、素晴らしいです」
俺に深々と礼をして従僕が部屋に入ってくる。普段、日々のベッドメイキングや洗濯などを引き受けている者達だ。部屋の鍵は授業に出る際に寮の管理をしているフロントへ預け、生徒が出払っている間に部屋の清掃が行われる。一部の生徒の朝の支度を手伝うために配置されることもある。食事の配膳などもそうだ。
そんな彼らをシリル様が連れていると言うことは、これも事前に話が通っていたと言うことだ。
暖房がつけられ、部屋の中が温まっていく。部屋に入ってきたシリル様に鍵を渡された。これを俺に渡すのも兼ねて今日は早くに来たらしい。鍵がなければ部屋を空けるのには抵抗があるだろうと朗らかに言うシリル様の対応は、率直に言って『行き過ぎ』だ。昨日のクリシュナ様も含めて、そこまでしてもらう義理がない。
「昨日のこともですが……重ね重ね、もうしわけ」
「おっと、そもそもお前は巻き込まれた側だろう。なにについて謝罪をするつもりだ? 場合によっては許さんが」
決して重い言い方ではないが、両手を腰にあて、軽く首をかしげて俺を見るシリル様の目には鋭いものがあった。
「……酒の痴態を晒したことについて、俺が極めて恥ずかしく思っているので言わせてください」
「ははは、確かに昨日のお前はかわいらしかったな!」
「……お許しください……」
「私は怒ってないぞ」
ふふ、とシリル様がソファへ座る。俺は衝立でシリル様から隠され、服を脱いだ。従僕の一人から適温になった蒸しタオルを渡され、顔をはじめ、身体を拭いていく。二枚目のタオルを受け取り頭を揉みほぐすようにしながら髪も拭くと、随分とさっぱりした。
昨日来ていた服を回収した従僕にベッドのシーツとナイトガウンは使ってないから替えなくて良いと指示を出し、そいつが部屋を出る。
「昨晩は楽しかったか?」
「緊張でそれどころではありませんでした」
即答すると、シリル様が思わずといった風に吹き出すのが聞こえた。別の従僕に新しい服を渡され、順番に着用していく。
「そちらはいかがでしたか」
「恙無く」
「……怪我はされませんでしたか?」
「良い経験になったな。なかなか、鍛錬ではできないこともさせてもらった」
「確かに対人戦は得がたい経験ですね。それで怪我の方は?」
「ない。……ルートヴィヒ、お前そんなに過保護だったか」
「シリル様は隠すのがお上手ですので、適正な範囲だと思います」
本当なら、顔を見て確認したかった。先ほどまでの様子を見る限り本当に大事はないようだが、服の下はどうなっているかわからない。辺境伯の子息に相応しい武芸を身につけていることは知識として知ってはいる。学び舎の中でのことだ、相手の技量も未知数と言うことはない。不安になる要素はないはずだが、身を案じることくらいはさせて欲しい。
「ソラの方はどうでしたか。あいつも襲われる予定だったと、クリシュナ様からうかがいましたが」
「……問題ない。恐らく今日は早いタイミングでお前の所に行くだろう」
「……俺に? なぜ……」
「昨日はお前を巻き込んだことについて猛烈に怒っていたからな」
「しかし、俺は何も知らされないままです。クリシュナ様が俺を外へ連れ出すのことはあいつも知っていたのでは?」
「クリシュナ殿という時点で、ソラにとってはなんの安心にもならなかったのだろう」
「ああ……」
クリシュナ様は平民を餌にしてよからぬことを企む者がいないかあぶり出していたようだし、ソラと心を通わせたという話を話した上で更に俺を使ってもう一つなにかを企てているのではないかと思ったと。
「今回の件ですが、答え合わせはしていただけるのでしょうか」
「クリシュナ殿に期待をしているのなら『ない』だろうな」
「内々にもないのですか?」
「冬の長い休みの前のことだぞ? なんのためにこのタイミングで、となるとな」
休みの間にうやむやにしてしまう、と。
そうだろうか。クリシュナ様のことだから後日大々的にどういうことだったのか発表するくらいのことはしそうだが。
「……まあ、休みに入るまでにはテストもある。なにか知らされるとしてもその後だろう」
「それは……試されますね」
「表向きは何もないことになっている。お前も素知らぬふりをしておくといい」
「話の上では渦中の者であるにも関わらずですか?」
「どのようにかわすかは任せる」
支度を終え、髪型を整える。終わると従僕によって衝立が片付けられ、朝の紅茶を用意するとどちらも静かに出て行った。それを見送りながら、シリル様が「男前の完成だ」と満足そうに頷いた。いい加減昨日の失態を思い出すような発言でからかってくるのはやめて欲しい。
「コート、感謝します」
「余程一緒に寝てやろうかとも思ったのだが、起きたときにお前がどれほど取り乱すかを思うと哀れになってしまってな。風邪を引かなくてなによりだ」
シリル様の身振りで座るように示されて、ソファに腰掛ける。シリル様が俺の分のカップに砂糖を入れ、スプーンで混ぜる。
「……改めて部屋までお持ちします」
カップを受け取り口をつけると、紅茶の温度が身体の中を通っていくのが分かる。そしてその香りにほっと身体から力が抜けた。
「いや、このままもらっていく。私は今日自室で謹慎することになっているからな」
「なぜ」
「根回しはしているが、昨日あれこれと暴れたのは事実だ」
「俺よりもシリル様の方が巻き込まれているではないですか!」
気が抜けたと思った矢先に告げられた内容に声を荒らげる。シリル様はと言えばクリシュナ様のような楽しげな様子で俺を見た。
「名誉的なところで言えばそうでもない。昨日はどうせ文句の一つも言えなかったのだろう? 私も付き合うから、是非今から彼の所へ行こうじゃないか」
俺がクリシュナ様に文句など言えるはずもない。が、シリル様はなにかもの申す気満々のようだ。……これは、もしかして怒っているのだろうか。
「……お前になにもなくて、本当に良かった」
シリル様に頬を撫でられ、俺はなんと言ってもいいものかと迷ったが、結局短く返事をするに留まった。柔らかく微笑みかけられるのは初めてではないはずだが、彼の双眸が潤んでいるようにも見えて、言葉を間違えばその頬に涙が伝うのではないかと思った。
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