とばりの向こう

宇野 肇

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 翌朝、妙に視線を感じると思った。ささめく声が耳に入るが、内容までは分からない。
 困惑しつつも朝食の席に座ると、低く落ち着いた声が隣から響いた。
「失礼」
 ブレア様だった。
「これは、ブレア様。おはようございます」
「隣に座っても?」
「勿論です」
 ブレア様の実家であるバンクロフト伯爵家は南の温暖な気候の領地にあって、肥沃な大地に恵まれており、小麦をはじめとする穀物や野菜の収穫量がずば抜けている。品種改良も精力的に行われているため、農作物の取引だけでなく、様々な土地にあった種や農耕技術を売りに莫大な資産を持つ。
 まともに話をする機会はなかったが、あの平民がらみだろうか。
 そう思いながら朝食に手をつけると、ブレア様も食事を始めた。
「……今朝方耳にしたことなのだが」
 低い小さな声が響く。手は止めなかった。パンをちぎる。
「はい」
「貴殿がソラの心を射止めたともっぱらの噂だ」
「……は、」
 パンにバターを塗った後のナイフを落とすような無様こそ晒さなかったが、頭の回転が鈍ったのが手に取るように分かった。
「その様子だと違うようだ」
 彼の声を耳に入れながら、パンを口に入れて咀嚼する。いつも通りのはずだが、いつもより味に集中できない。ブレア様は俺の動揺など目もくれず、静かにコーンスープを味わっていた。
「……一体、何を根拠にそんな話が上がったのか分かりかねます」
「昨日大階段で熱く抱き合っていたとか」
「表現に意義はありますが……足を踏み外しそうになっていたのを抱き留めただけです」
 面白おかしく吹聴する者がいると言うことか。ブレア様のこれは警告だろうか。
「それ以前にも、君はいたくソラに気に入られていたではないか。二人きりで部屋に籠もっていたこともある」
 それはあなたもそうではないですか。
 とは無論言わない。ブレア様もそれは重々承知しているだろう。
「俺だけがそうだとは思っておりません」
「そうだな。同意見だ。だが、ソラはあれでなかなか警戒心も強い。恐らく彼の懐に入ったのは貴殿だけだろう」
「……そうでしょうか」
「ソラを追いかけ回していた僕が言うのだから間違いない」
 丁寧にコーンスープを飲みきったブレア様が一度口元を拭く。
「ルートヴィヒ・コナー」
「はい」
「僕はソラが欲しい。だが、貴殿をソラごと抱き込むのも吝かではないよ」
 ――。
「はは、折角素知らぬふりをしていたのに台無しだな」
 思わずブレア様の顔を見てしまい、笑われてしまった。だが、今の発言がどういうことなのか分からない立場の人ではない。
 俺の名前を覚えていたことは勿論、実家のことも分かった上で口にしたのだろう。確かにブレア様の実家の力なら可能だろう。元々シリル様には俺が好き好んでお側にと思っているだけで、俺の家もバーネット伯爵家とコネがあったり、分家だというわけでもない。
 シリル様にとめられる理由も、ない。
「……すみません、取り乱しました」
「そうか?」
「ブレア様がそこまであの平民を想われていたとは思っておりませんでしたので」
 そこまでの魅力があいつのあるのだろうか。実はどこかの高貴な血筋だといういつかのシリル様の言葉が頭に過る。そうなのだろうか。しかし、あの振る舞いは生まれ育った環境か、そうでなければ余程演技の才能があるかだ。
 食事の手は止めず、どうにか胃に収めることが出来た。
「まあ、今のところは全て与太話だ」
「……」
「貴殿の敬愛するバーネット殿にもよろしくと言っておいてくれ」
 ブレア様が先に席を立つ。曖昧に返事をしてしまったが、窘められることはなかった。


 その日が上の空だったことは確かだ。すぐに平民に確認しに行くなどできなかったし、シリル様も既にこの話を知っているのだろうかと思うと授業の間は終始据わりが悪い思いでいっぱいだった。それを同じクラスの知り合いに『ソラと結ばれて浮かれているのか』とからかわれたのも最悪だった。
 どうしてそうなるのだ、と何度も思ったし、口にした。コナー、と呼び止められ、平民にそこまで入れあげるなど、と妙な絡まれ方をされたときはいっそ頭をかきむしりたかった。否定しても聞き入れられず、どうしてそこまで皆事実でもないことを鵜呑みにしているのかと不思議な程だった。
 まあそれも放課後になってクリシュナ様から呼ばれたことで解放されたのだが、クリシュナ様から声を掛けられるというのは平民が来てからのことであったので、やはり平民についてのことなのだろうと俺はため息を堪えるので精一杯だった。
「随分と人気者だな」
「クリシュナ様まで……お許しください」
「くはは」
 笑い事ではない。が、クリシュナ様にとっては笑い事なのだ。
 クリシュナ様の後をついて歩く。今日は一度もシリル様の姿を見ていない。別のクラスだということもそうだが、とにかく空き時間は妙に人から絡まれ続け、シリル様の元へ行くことはかなわなかった。
「クリシュナ様、お話が長くなるようでしたらシリル様にお声がけしてもよろしいでしょうか」
「約束もないのにか?」
 クリシュナ様は振り向くことも、立ち止まることもない。その背中を見ながら、俺は言葉に詰まった。
「そう、ですね。約束はありません」
 しかし。最後の授業を終えた後、少し教室で暇を潰されている姿が思い起こされる。
 だが、そこで俺は思い直した。
 あれは平民を待たれてのことだ。シリル様が俺を待つ理由はない。俺が……ただ、シリル様にお会いしたいだけだ。
 止まることのないクリシュナ様の背中を追いかけながら、胸に燻る感情を吐き出すのを我慢した。

 暫く歩き、玄関を出る。車寄せに停車していた高級車に乗り込むクリシュナ様を棒立ちで見ていると、手招きをされた。
「行くぞ。早く乗れ」
「は、はい」
 招かれるまま乗り込むと、静かに発進する。都市部における交通手段が馬車が車になって久しいが、座ったシートは柔らかく、ここまで乗り心地に金をかけた車に乗ったことなどない。緊張していると、クリシュナ様の腕が肩に回った。
「気張るな。楽にしていい」
「ありがとうございます……しかし、そうは仰いますが、緊張せずにはいられません」
 なんの話なのかも分からないまま乗せられたのだ。その上今日一日のめまぐるしい変化。これから一体どこへ連れて行かれるのだろう、どんな大事に巻き込まれてしまったのだろうと考えざるを得ない。
「学内では人払いをするにも限界があるからな」
「人払いをするようなお話なのですか」
 距離が近い。クリシュナ様の好まれているらしい香水の匂いが分かるし、およそ男同士の距離を超えているのだ――顔の、距離が。
 整えられた眉、通った鼻筋、しっとりと艶めく髪、長い睫、力強い視線。圧倒的な美しさを放つ顔面に耐えきれず、しかし目をそらすような失礼もできない。俺はじっと至近距離で見据えられ、息をすることもままならなくなった。
「なんの話だと思う?」
 クリシュナ様もまた、目をそらすことは許さないとばかりに俺の肩に回した手をもっと前に持ってきて、指先で俺の輪郭を撫でる。
 俺がいっぱいいっぱいになっているのを察してか、クリシュナ様は返事ができない俺を叱責することもなく、ふと目を細めた。
「からかいすぎたな」
「お戯れを……」
「戯れだと思うか?」
「意味深長なお言葉で俺をお試しになるのはどうぞご勘弁ください」
 ただでさえ多くの人間から『圧』を掛けられた一日なのだ。その締めがクリシュナ様というのはあんまりだと思う。
 クリシュナ様は労るように頭を撫でてくださったが、表情はひどく嗜虐的だった。面白がっているのだ。
 すこしぐったりとしていると、車が停車した。運転手がドアを開け、車を降りる。
「ここは……喫茶店、ですか」
「入るのは初めてか?」
「ご婦人方の嗜みという印象です」
「100年ほど遅れてるな」
 笑われたが、新しい物好きのクリシュナ様に取っては大抵の常識は古くさいのではないだろうか。
「勉強ばかりにかまけて遊びを疎かにしていたので」
「それはいかん。これからは引っ張り出してやろう。昔の話も悪くはないが、これからの話も有意義だぞ」
 人の上に立つ人の発言だ。だから皆ついていくのだろう。保守派の貴族とはそりが合わないだろうが、生徒でいる内は飽くまで個人の意見という感覚に留まっている。学び舎の優れている点はそこだ。
「奥に個室を押さえてある」
 クリシュナ様が迷いなく歩き始める。その後をついていき、煙草の充満した室内を横切り、階段を上がる。クリシュナ様に導かれて部屋に入ると、入ってすぐに衝立がしてあり、その奥にはさながら茶会のような準備がしてあった。
「これは……?」
「今日はここで食事だ。教師に話は通してある。シリルにもな」
「一体なぜ」
「それは食べながら話すとしよう。コーヒーか紅茶、どちらが好みだ」
「ではコーヒーを」
 席に着くよう促され、着席する。小さなテーブルのせいで対面に座ってもさほど距離は感じない。給仕は静かに部屋の隅でコーヒーの準備を始めた。テーブルに並べられているのはパティスリーやキッシュ、スコーン、サンドウィッチとかなり自由なものだが、カラトリーはない。
 クリシュナ様は気易くサンドウィッチを手づかみし、一口食べた。俺への目配せで、この場はそのようにしろと促される。
「失礼いたします。シャツの袖を捲っても?」
「許す」
「ありがとうございます」
 楽しげに許可され、無礼講ということなのだろう、思い切って腕まくりをしてキッシュを摘まんだ。
「美味いですね」
「だろう」
 少しの間黙って咀嚼し、給仕がコーヒーを入れ終わると同時に退室する。と、スコーンにバターを塗りながらクリシュナ様が口を開いた。
「俺はわざわざ外に出る必要はないと言ったのだがな。ソラたっての希望だ」
「……ソラが?」
 食事もそうだが、クリシュナ様がシリル様に話を通した、と触れていたのも気になる。
「シリルの方も、ならばと頷いていたからな。今日は散々だっただろう?」
「……はい。普段あまり話さないような生徒にソラのことで絡まれました。俺の話は聞き入れられませんでしたが」
「あれは大体がソラを手込めにしたい連中だな」
「は、」
「半分冗談だ」
 クリシュナ様の口から出てくる言葉は突拍子もないことばかりで、馬鹿のような反応をしてしまう。食事をしながらというのもあるが、敢えて行儀の悪い食べ方をしているということもあって手が止まるか頭が止まるかのどちらかになってしまう。
「平民であることを取り上げられることが多いが、あいつは見目が良い。犯したいと思っている男はそれなりにいる。ソラが淫乱だったら結構な数の生徒は穴兄弟になっているところだ。今よりももっと風紀は荒れるし、いろんな関係がもつれていたことだろう」
 品のない言い方に目を白黒させていると、クリシュナ様はコーヒーを啜った。
「しかし、それだけで今日のようなことになるとは考えにくいですね。ソラが気を持たせるように振る舞っていたのでは?」
「否定はしないでおこう」
「今頃あちらでは……なにか捕り物でも?」
「お前が捕まりそうだったからな」
 なるほど。ソラ目当ての者が俺とあいつが結ばれたと聞いて俺を害そうとしたと。
「と言うことはソラも?」
「そっちはシリルが対応している。まあ、ソラ自身も上手くやっているだろうが多勢に無勢になりかねんのでな」
 シリル様は武芸にも堪能だ。クリシュナ様がソラに、シリル様が俺につかなかったのは、俺がシリル様にご迷惑を掛けまいとして素直に聞き入れないと思われたからだろう。俺の所へ話が来なかったのも同じ。実際、いくらシリル様が強いと言っても俺は首を横に振っていたはずだ。
「なるほど。今日一日、ソラのことについて俺の話が全く聞き入れられなかったのはクリシュナ様が話の出所だったからですか」
 クリシュナ様はパティスリーをがぶりと口にした後、唇についた汚れを親指の腹で拭いながらにやりと笑った。
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