とばりの向こう

宇野 肇

文字の大きさ
上 下
7 / 26

7.

しおりを挟む
 シリル様による詩集の読み解き方の指導は戯れの会話では終わらなかった。酷く楽しげなシリル様に手招きをされ、こっそりと二人で時間を共有する。俺への配慮なのだろうが、それでも他の者を交えないのは俺の反応を見て楽しんでのことだろう。そう思っていたが、素直にシリル様の詩集の話についていこうとする者がそもそも俺しかいないのだとはにかまれては、俺はより一層励むしかないのだった。
 ウィット・シェードの十四行詩は特別有名だが、通常詩というものは大体の場合色恋沙汰のものが多い。シリル様が好まれるのはそう言った心の情緒に関するものだ。心をさらけ出し、なりふり構わず恋い焦がれた相手を思う。
「心を明け渡せることも、それを言葉に残すことも、贅沢な話だ」
 なんでもないように紡がれた言葉に、俺は何も言えなかった。

 そうして、あっという間に一ヶ月が経っていた。地方は別だが、この近辺は一年を通して気候が荒れることがあまりなく、時折ある休暇が開けても景色はあまり代わり映えがしない。
 とはいえ、少し肌寒くなってきた空気に生徒は浮き足立つ。長期休みが近いのだ。草木が休む寒い時期ともなると生徒は二ヶ月ほど実家に帰る。その分レポートの課題が多く課されるため、暇を潰すための本や参考書がごっそりとなくなったりする。休みの前にはテストがあるとは言っても、一年の中でももっとも長い休暇になるため、休みの間の計画を立てたりと皆忙しい。
 我が国の北の方は三ヶ月ほど特に厳しい寒さが続き、酷いときは外に出ることもままならなくなると聞く。バーネット家の領地の殆どはそうだ。逆に南の方は過ごしやすいため、裕福な者は南の方へ避寒へ行く。
 俺の実家は領地を持たないから、いつも通りだ。実家そのものは東の方にあり、父は仕えている中立派の家――穏やかな気質で知られているとある伯爵家だ――で仕事に励み、母は家を守る。妹は俺と同じように貴族の令嬢ばかり集められた学び舎で励んでいるはずだが、恐らく帰宅するだろう。あちらはあちらで刺繍だの茶会だのと、やらなくてはいけないことが山ほどある。
 ラウンジで席に着き、コーヒーを啜る。いつもよりも少し賑やかだったが、もう慣れた光景だった。
「休みまであと二週間か。ルートヴィヒ、お前はいつも通り実家に?」
「はい。シリル様はこの冬はどうされるのですか? バーネット伯爵領へは鉄道で?」
「いや、ライアン侯爵家に呼ばれているから、顔を出してからになる」
 クリシュナ様のご実家だ。ライアン侯爵家は革新派の筆頭だが、シリル様は本当に幼い頃からクリシュナ様の遊び相手として長い間預けられたりすることもあったようだ。領地の距離は遠かったようだが、社交シーズンに王都で伯爵夫人と侯爵夫人が意気投合したからだと教えてもらったことがある。
「このところ誘いを断ってしまっていたからな」
「! そうなのですか」
「ああ」
 いつのことだろうか。思い当たる節と言えば5年前かと思うが、それにしてはあまりにも期間が長い。しかし、深く質問をするのは躊躇われた。
 もうあるかどうかも分からなくなってしまった彼の傷に触れる真似はしたくない。
「それはよろしいですね。ライアン侯爵家は冬でも比較的過ごしやすいと聞きます」
「クリシュナ殿はスケートやスキーができない、と不満そうだったがな」
「ご実家の領では、というだけでしょう?」
 くすくすと笑いながらシリル様が頷く。
「俺はこの冬はシリル様からの課題をそのまま流用して自由課題をこなそうと思います」
「詩集か?」
「はい」
「……是非どんな風にまとめるのか、私も見たいな。家に来ないか? 冬は特にすることがない場所だが、だからこそ室内でやれることなら集中できるぞ」
 バーネット家に足を運んだことはなかった。まず遠いと言うこともあるし、俺から申し出るなんて厚かましいことはできない。シリル様も実家を含めて付き合いや、やらなくてはならないことというものがある。それに、鉄道を使うにしても俺にはそこまで自由に出来る金がない。
 すぐに返事ができなかったのは、それでも『行きたい』という気持ちがあったからだ。無論緊張はするが、家族仲はよいと聞いているから、昔に見たのびのびとした表情を見ることができるかもしれないと思うと、またとない機会なのだ。
「金なら出すぞ」
「しかし、そこまで甘えてしまうのは」
「嫌か?」
「滅相もない!」
 その言い方は意地が悪い。シリル様は俺がこのチャンスを喜んでいることなど分かっているだろうに。家の思惑のことは当然としても、俺自身が彼を慕っていることは俺も彼も分かっているはずだ。
「決まりだな。では我々も休みの計画でもして浮かれることとしようか」
「……楽しみです」
「私もだ」
「楽しみのあまり詩集の課題を忘れるかもしれません」
「そうなったらもう一度最初からたたき込んでやろう」
 目を細めて柔和な笑みを浮かべたシリル様に、俺はよろしくお願いしますとかしこまって礼をした後、目を合わせて笑ってしまった。


 ラウンジを後にして部屋に戻ろうかと寮へ向かう道すがら、俺は持っていたはずのノートを忘れていることに気づいた。ラウンジを出る際は忘れ物がないか確認したため、恐らくはどこかの教室で置き忘れたのだろう。受ける授業によっては教室が変わることもある。最後の授業は4階のもっとも遠い教室だった。
 やれやれとは思いつつ、自分の落ち度だ。教室は不特定多数の生徒が入れ替わり立ち替わり利用するため、早めに取りに行かなくては。もし教師に拾われていたら職員棟まで出向かなくてはならないし、忘れてしまった物によっては反省文を書かされる。
 シリル様に断り、一人で校舎へと引き返す。既に授業が終わって、あたりは閑散としていた。一部の生徒が入ってすぐの最上階まで繋がる大階段の端でごく僅かの人数で談笑していたり、教師を引き留めてなにやら話し込んでいる姿などは平和そのものだ。
 途中同じクラスの見知った顔にどうしたのか声を掛けられもしたが、教師の目もあり野暮用だと返しながら階段を上っていると、急にそれぞれの階へ繋がる階段脇の通路から人影が飛び出してくるのが見えた。
「っ退いてくれ!」
「!」
 上からの大声に、身体は上手く動いてくれた。降ってきた身体を抱き留める。小柄で黒髪の、貧相な身体。平民、ソラだ。
「危ないな。ちゃんと足下を見て歩け」
「っ……あ、りがと」
「シャツを握りしめるな、皺になる」
「ごめん」
 ドッドッドッ、とピタリと密着した胸元で自分ではない胸の鼓動を感じる。その間に、廊下で品なく足音を立てて行く音が二つ聞こえた。……落ちてきた勢いを考えるに、突き飛ばされたか?
「怪我は」
「ない、と思う」
「今は興奮状態で分からないだけかもしれんな。暫くして痛むようなら保健室へ行くか養護教諭に声をかけろ。保健室の隣室に常駐している」
「ん、ありがと」
「言葉」
 相変わらず適当な言葉遣いをするヤツだ。まあ、目立った怪我がなくて何よりだった。こいつが傷つくとシリル様も悲しむ。
 一人で立てるのを確認すると、これ以上世話を焼く義理もない。念のため表情を確認して平気そうかを見たが、強張りが強く分からなかった。
「……邪魔をしたか?」
「へ」
「お前、撒き餌をしているんだろう」
 声を僅かに落として問うと、ソラは困惑した顔で頷いた。
「……その、あるヤツの提案で」
「ああ、いい。そうだな、後ろに誰がいるのかなんてみだりに口にするものではない」
 成る程、と合点がいく。何人かそういうことを画策しそうなお方の名前が浮かんだが、その中でも恐らくはクリシュナ様なのではないかと思い至る。かのお方もこいつに籠絡……否、こいつを気に入っている。本人を使ってあぶり出して締め上げるやり口はクリシュナ様くらいしか思いつかなかった。流石というか、らしいと言うべきか。
 ゆくゆくは平民――まずはその中でも富裕層から――を受け入れていく話は本当なのだろう。クリシュナ様から答えをもらうことはできなかったが、そのための『この学び舎に相応しい生徒』の選別が貴族側からも既に始まっているというわけだ。
 それにしてもどんな取引をしたのだろう。こいつのなにがそこまでさせるのか、俺には理解できそうになかった。
「お前がどうなろうとさほど興味はないが、シリル様のお手を煩わせるような無様な真似はしてくれるなよ」
「ちぇ、なんだよ」
 唇をとらがせて不服そうにする姿は本当にこの学園にはそぐわないものだ。何が不満なのか。シリル様に愛でられ、クリシュナ様に気に入られて。ブレア様にも執着されていたはずだ。
 シリル様に心配をかけさせたいとでも言うのだろうか。それとも、単に俺が鬱陶しいだけか。両方か。
「まあ、こんな大階段の途中で助けではなく退けと叫ぶほどだ。要らん世話だったな」
 掴まれていたシャツを軽くはたいて伸ばし、階段を上がる。
「助かったよ。ありがとな」
 下から掛けられた言葉には、軽く片手だけを上げておいた。
しおりを挟む
1 / 5

この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!

【完結】壊れたおもちゃ

BL / 完結 24h.ポイント:1,732pt お気に入り:4

絶砂の恋椿

BL / 連載中 24h.ポイント:42pt お気に入り:24

美人爆命!?異世界に行ってもやっぱりモテてます!

恋愛 / 完結 24h.ポイント:6,272pt お気に入り:118

生涯専用おまんこ宣言♡

BL / 完結 24h.ポイント:1,838pt お気に入り:52

【本編完結】一家の恥と言われていた令嬢は嫁ぎ先で本領発揮する

恋愛 / 連載中 24h.ポイント:866pt お気に入り:6,065

監禁してる男からダメ出しされる人生

BL / 完結 24h.ポイント:56pt お気に入り:19

跡取りはいずこへ~美人に育ってしまった侯爵令息の転身~

BL / 完結 24h.ポイント:1,363pt お気に入り:861

処理中です...