とばりの向こう

宇野 肇

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 結局古典文学まで分からないと言い出した奴に付き合っていたら一時間を回ってしまった。平民に嗜む余裕がないのは分かるが、言うのが遅い。結局終わらず、途中で切り上げることになった。
「悪い、シリルにも謝っといて」
「その辺りは……まあ、具体的な時間の指定は無いから問題は無いだろう」
「えっ じゃあもうちょっとつきあっ」
「調子に乗るな。時間を決められてないのはシリル様の優しさだ。感謝しろ」
 部屋の前でそう言っていると、ふと気配を感じた。
「歓談中すまない、いいだろうか」
 ブレア様が現れ、自然と目が平民へ移る。お互いに顔を見合わせる形になったが、その顔に縋るような気配がないのを確認すると、俺はその場を離れることにした。
 ブレア様から見えない位置でふと袖口を引っ張られ、動かそうとした足を止める。もう一度奴の顔を見下ろせば、なんでもないような顔をして笑っていた。
「じゃ、今日は助かった」
「……ああ」
 今度こそ視線を逸らし、ブレア様に一礼をしてからその場を去る。無意識か耳をそばだてていたが。すぐに奴はブレア様を部屋に入れたようだった。
 ――大丈夫なのか。
 浮かんだ言葉に頭を振り、先ほど袖を引かれた際に差し込まれた紙片を取り出す。
『助けは要らない。上手くやる』
 いつの間に書いたのか。ブレア様のことなのか、それともそうでないのか。少なくともブレア様の顔を見た後で渡されたのだから、そちらは問題ないのだろう。
「……下手クソめ」
 大きく歪に書き殴られたそれを、丁寧に畳み、懐に入れる。
 言われなくとも、助ける義理など無い。

 遅くなってしまったこともあり足早にシリル様の部屋へ向かいノックをすると、中から鍵を開く音がした。
「直接来たのか?」
「はい。少し長くなりましたので」
「子リスの様子はどうだった」
「つつがなく。……ブレアさまから肉体関係を持たないかと誘われているようです」
 逡巡したが、耳に入れておいた方がよいだろうかと扉を閉めてからそう言うと、シリル様の反応は意外にもあっさりとしたものだった。
「そうか。ブレア殿には妙な性癖はなかったはずだから、無体な真似はされないだろう」
「……よろしいのですか?」
「よろしいもなにも、子リスが納得しているのならば私が口出すことではないだろう? 子リスが怯えるようなことがあれば問題だが」
 それはそうだ。
 平民の部屋とは比べものにならないほど豪奢な室内で、椅子に掛けるように促される。重厚なロー・テーブルには焼き菓子が置かれ、シリル様手ずから淹れたらしい紅茶が俺の目の前に置かれた。初めてのことではないが、恐縮はする。
 礼を述べて口をつけると、シリル様は俺の正面のソファに掛けて、自分のティーカップに砂糖を入れ、混ぜた。俺もそれに倣う。
「クリシュナ殿も子リスのことは随分気に掛けているようだ。滅多なことは起こらないと思うぞ。……お前がそんなに気に掛けるとは、あれは皆の関心を寄せる才能に溢れているな」
 皮肉だろうか。分かりかねたが、曖昧に頷いた。
 その心が見えず、自然とシリル様の顔を見つめる。そこには言葉以外の感情はないように見えた。しかし、だからといってそれがシリル様の心の内そのままであるとは思わない。
 シリル様はあの平民と過ごされる内に、随分と柔らかな表情をされるようになった。殊更に笑みを浮かべることが多く、例えそれが動物に向けるような感情だったとしても、奴を愛でていたことは間違いない。
 だが、心配をしていないのは真実だとしても、今のシリル様の顔は――
「……? なんだ?」
「いえ……」
 シリル様がカップを手にし、口をつけてテーブルに戻し、こちらを見る。
「そんなに心配なのだな」
「そんなことは」
 ころころと笑うシリル様に、なにか据わりの悪いものを感じた。はっきりと断定できるものではないが、気のせいだと思うには妙に引っかかる。それがどこから来ているのかを探っていると、青紫の瞳とかち合った。
 今まで向けられたことも、見たこともないような顔だった。常に正面からシリル様の顔を見るわけではないが、それでもこんなに悩ましげで鋭さすら感じる視線は初めてだった。
 全てではないにせよ、そこに怒りが滲んでいる。
「あの者は、シリル様のお時間を長い間奪うのが心苦しいと申しておりました。あなたと話がしたい生徒は大勢いますから」
 俺が思い至ったのは一つしかなかった。俺がシリル様からあの平民をかすめ取ろうとしているように思われているのではないか、と。
「それでお前が私の代わりだと?」
「シリル様の代わりなどと……恐れ多いことです。俺には務まりません」
 誤解されている。そう思うものの、正直に言ったところで信じてもらえなければ意味は無い。
「たまたま俺でも答えられただけですし、あの平民のことはあなたの耳に入れておいたほうがよいかと思い……その、編入の際にいたく気にされていたので。不要だと仰るのであれば今後は致しません」
「……」
「それに、古典文学の中でも詩集の話になれば俺の手には余ります」
「……子リスは、そこまで解するようになると思うか?」
「本人のやる気という曖昧な部分によるというのが度し難いですが」
「そうか」
 上流階級であればあるほど詩集や、今はもう本の中でしか見ることのなくなった死語なども教養の内に入り、皆嗜むものだ。その中でもシリル様は特に詩集を好まれている。昔の詩集は声に出して楽しんでいたために音に対して繊細な点がよいのだと、以前零されていたことがあった。
「お前にも教えておこうか」
「……は、」
「詩集の読み方だ。勿論現代語訳でない、原文のな。ウィット・シェードのソネットなんかどうだ?」
 そう言ったシリル様の目からは険が取れ、俺をからかうだけのものになっていた。細められた目も口元も楽しげだが、素直に返事ができない。
 今も尚高い評価を受け続けるウィット・シェードは劇作家で、恋人に当てた十四行詩(ソネット)が有名な300年ほど前の人物だ。他国にまで知られているほどの名作を生み出し、広く愛されている。が、彼の作品を原文で嗜むのはごく一部の人間だけだ。
「……シリル様自ら教えてくださるなど、光栄です」
 俺がそう言うと、シリル様は口元を手で隠しながら笑った。彼は古典文学が不得手なことをよく知っている。死に物狂いで頭にたたき込んだ日のことを今でもよく覚えているのだろう。
「シリル様、」
「ふっはは、すまない、そんなかわいらしい顔をするな」
 破顔するシリル様に、どれほど情けない顔をしているのか分からずに片手で顔を覆う。
「隠さなくても良いだろう」
 柔らかな笑いを帯びた声が投げかけられ、シリル様の前であるにもかかわらず身を丸めたくなるのを堪える。
「俺はそんなにも分かりやすい顔をしていましたか」
「顔と言うよりも間の取り方が素直だったな。私が笑ってからは顔に出ていたが。そんなに嫌か?」
「シリル様に教えて頂けるのは大変嬉しいですが……結果を残せそうにないのが心苦しいのです」
「気にするな。私がしたくてするだけだ」
「そうは仰いますが……」
 シリル様が手ずから俺を見てくださるのは本当に嬉しい。目を掛けてもらう、手を掛けてもらうことは覚えがめでたい以上に俺にとっては心弾むことだ。
 しかし、それはシリル様が俺へ投資しているということに他ならない。知識は消費されるものではないが、時間は費やすことになる。その分の見返りたる俺の成長が見合ったものではないだろうことが明白なのが嫌なのだ。
 それを伝えると、シリル様はからからと笑った。
「では、他の科目も見ようじゃないか。週末に数時間時間を取るか。あるいは放課後に一日一教科」
「シリル様、流石にそれは俺が顰蹙を買います」
「そうか?」
「はい。少なくともその提案でシリル様が他の特定の者に構われていたら、俺は間違いなく良い気分ではありません」
「ふむ」
 そういうものか、とシリル様は首をかしげつつも納得してくださった。
 皆に慕われている者がある日一人だけを懐に入れれば、同じようにそうなりたかった者はよくは思わないだろう。クリシュナ様は底知れない迫力があってそれを許さない印象が強いが、シリル様は中立派の実家の影響なのか、誰も忌避しないし、贔屓にもしない。誰もが同じように遠ざけられている、と言えば正しいだろうか。
「私はお前のものではないのに、か?」
 片眉を上げ、読めない表情でシリル様が問う。
「――はい」
 一瞬、言葉が詰まった。諫められたような、何かを探られるような感覚があった。自分の返答が正しかったかどうかを考えてしまうほどの緊張が胸を過る。
 シリル様は何か考えるようにティーカップへ目線を落として、それから緩やかに息を吐いた。
「ままならんものだな」
「あなたが慕われている証左かと」
「どうだろうか。私の家の権力のおこぼれが少なくなるのを恐れてのことかもしれんぞ。私自身を慕っているのがどれほどいるのか分かったものではない」
 静かな声で吐かれた言葉は、それ故により一層冷ややかに響いた。
「……俺は、あなたの振る舞いに惹かれた者があなたを慕って側に居るのだと思っておりますが」
「お前もか? ルートヴィヒ」
「はい。ですが俺の場合は、一番最初は親に言われてあなたと知り合おうとしましたが」
 即答の後、今はともかく昔は違ったことを思い出し、付け足す。シリル様は虚を突かれたような顔をした後、柔らかに表情を緩めた。
「それを正直に言ってしまうのか」
「あなたの憂いを晴らせるのなら、不格好でも構いません。信じていただけなければ意味がありませんが」
 心のままそう伝える。シリル様を前にすると、結局心の内をさらけ出すようなことばかり口をついて出ていくのだ。仕方がない。彼の前では善良で、真摯で、煙に巻くようなやりとりを不誠実だと感じてしまう。愚かでもいいから正直でいたいと。少なくとも俺自身に関することならば。
「なるほど」
「バーネット家はともかく、シリル様と話をするに相応しくあろうとしているのは俺だけではないでしょう」
 そろそろ夕食の時間だ。原則食事は決められた時間に決められた場所で取ることになっている。部屋へ手配できるのは体調不良の時か、教員の許可がある時だけだ。
 カップに残った紅茶に口をつける。シリル様も同じようにカップを手に取ると、一度俺を見て微笑んだ。
「ではルートヴィヒ、やはりソネットへの理解を深めようではないか」
「……シリル様」
「はは、楽しみだな」
 カップを掲げ、シリル様が紅茶を飲み干す。俺もそれに続き、カップの片付けを引き受けた。
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