とばりの向こう

宇野 肇

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 その日最後の授業を終え、廊下には生徒が溢れていた。それをかき分けてAクラスの最後の授業があった教室へ向かう。シリル様は教室で本を読まれていた。窓際の席で、少し開けた窓から入ってくる風に髪を靡かせ、頬杖をついている姿は絵画のようで、俺は少し呆けてしまった。
「ルートヴィヒ、立ってないでこちらへ来たらどうだ」
「はい」
 俺に気づいたシリル様にそう言って笑われ、俺は声さえ掛けていなかったことを恥じた。
 シリル様は美しい方だが、言葉を忘れるほど見入ってしまったのは随分と久しぶりで、妙に胸が逸る。俺が近づくと同時にシリル様は本を閉じた。
「よろしいのですか」
「ああ。詩集だからな。どこで切っても問題は無い」
 教科書と本をまとめ、シリル様が席を立った。そうなると、俺はついていくだけだ。シリル様の話し相手になることもあるが、大体はラウンジや談話室で腰を落ち着ければ他の者とも合流することになる。
 教室を出ると、ドタドタとうるさい足音が聞こえてきた。シリル様はきっとこれを待っていたのだろう。
「おーい!」
 衰えることのない勢いに振り返る。このままではぶつかってしまうと身体が先に動いていた。まるで猪のように突っ込んできたそいつを目測を誤ることなく身体で受け止める。
「わぷっ」
 難なく腕に収まった小柄な体躯にやれやれと息をつく。俺にぶつかってきた平民は何が楽しいのか満面の笑みで俺を見上げた。数日前の図書館で見せたやる気はどこに注がれているのか、日々の態度に改善はまるで見られなかった。
「よっ」
「なんだその鳴き声は。ちゃんと挨拶をしろ」
「え~ これも挨拶だし」
 へへ、と締まり無く笑う平民に心からの言葉を飲み込むことなく吐き出す。
「それに廊下をばたばたと走るな。音がうるさいし走ること自体も品がない。しかも速度もそのままでぶつかってくるなど……シリル様が怪我をしたらどうする」
「いいじゃん、ルートヴィヒが受け止めてくれれば」
 のんきな返事にそう言う問題ではないと更なる小言が出かける。しかし、不意にシリル様に肩を叩かれて俺はそれを飲み込んだ。
「ルートヴィヒ、お前の中で私は随分と貧弱なようだな」
「いえ、決してそのような意図は」
 嫌味の無い笑みだ。軽口だと分かる。シリル様は肩をすくめた。
「それに、私だって子リスくらい受け止められる。なあ? 子リスよ」
「もー、だからオレは動物じゃねっつの」
「ふふ」
 じゃれ合う二人を見ていると、シリル様が俺に微笑んだ。
「私のことなら気にするな。それよりも、お前だけ楽しむのはずるいぞ」
「……はい、差し出がましい真似をしました」
「いや、いい」
 ――やはりシリル様は、この平民をいたく目にかけている。であれば、俺のしようとしていることは決して間違ってはいないはずだ。
 暫く平民と戯れていたシリル様は、この後ラウンジでコーヒーでもどうかと誘ったものの、平民はまるで悪いとも思っていない態度で首を振り断った。思わず口を挟みそうになるも、他でもないシリル様に目線だけで制されて勢いを削がれる。
「じゃーな、ルートヴィヒも」
 名残惜しそうにシリル様に手を振り、俺にも軽く手を上げて、平民は今度はさっと走って行った。……さっき走るなと言ったばかりだというのに。
「振られてしまったよ」
「あいつはもっと身の程を弁えるべきです」
「子リスに理解しろというのも酷だろう」
「その程度の頭はあると思いますが」
 言うと、シリル様は意外そうに目を見開いた。
「先ほども思ったが、知らない間に随分と仲が良くなったのだな」
「そうでしょうか」
 シリル様にはそう見えているらしい。そうだろうかと首をかしげたが、別に仲が良いようなやりとりはなかったように思う。精々口数が増えた程度だが、前は意識してかなり抑えていたから余計に目立つのだろうか。
「あなたに対する態度が我慢ならないので、つい」
 余計な真似でしかないのだろうか。それを問えば、シリル様は好きにするといい、と言っていつも通り微笑んだ。

 その後も暫くそんな日があった。平民がばたばたとやってくる度に、シリル様が鷹揚に両手を広げて迎える。俺は一向に改まらない素行に小言を挟む。それを素直に聞かない平民と、俺を宥めるシリル様のやりとりはすっかりと定番になっていた。
 一度平民ともっと深く話をするべきかと思うものの、平民は平民なりに努めているようで、成績は目に見えて良くなっているという話を耳にすると同時にやっかみや興味本位のちょっかいが増えているようだった。俺程度では匿ったり庇ったりと言うこともできないような相手が多く、表立って動けば俺が妙なことに巻き込まれそうだと言うこともあって、シリル様の時以上に接触が難しい。
 なんとなく図書館へ向かう頻度は上がったが、あいつを見かけることはなかった。
 学び舎と言ってもこの学校は城のような規模があり、一人の生徒を探すことは難しい。平民がシリル様を見つけられるのはクリシュナ様による助力があるのだろうと思う。シリル様も、その日最後の授業が終わった後は暫く教室に留まることが多くなっていた。俺がシリル様の受ける授業を把握しているのは当然としても、俺よりも先に平民が共にいることが多い。シリル様は元々どんな相手でも同じような態度で接する方だからだろうか、彼が許しているからと言って未だに平民の態度について気にしているのは最早俺くらいのようだった。
 シリル様の周りにはあまり敵対する者が寄ってこないからだろう、平民が彼の所へやってくる頻度は上がっているような気がした。
 で、あれば尚のこと、俺はその態度について言及を止められなかった。

「成果はどうだ」
 図書室の一角でクリシュナ様から声を掛けられた。歴史書を探している時のことだった。
「そっちよりもこっちの方がいいぞ。持ち出しは禁止されているが読みやすいし、皮肉表現が殆どない」
 借りようかと思っていた本に目星をつけた当たりで横から腕が伸びてきて、俺は思わず背筋が伸びた。
「クリシュナ様」
 本を受け取り、簡易ながら礼をする。
「あいつは手懐けられそうか」
「いいえ」
「だろうな」
 くつくつと楽しげに笑うクリシュナ様に、俺は静かに一つ息を吐いた。
「……無駄なことだとは、仰らないのですね」
「思わないでもないが、誰も見向きもしなかったところで思いもよらないことがあるというのは劇の定番だからな」
「劇……ですか」
 そう見えるのだろうか。俺の行為はいつか芽吹くと。
「無論、筋書きがあるわけでなし。結局日の目を見ないということも充分あり得るが」
 そうだろう。と言う気持ちを込め、頷く。
「成績からして頭はあるはずなので、できないはずはないと思います」
「しないだけだと?」
「……どういう意図があってかは、俺には分かりかねますが」
 のらりくらりと俺の小言を聞き流すだけの姿を思い出して、ため息をつきたくなるのを堪える。うかがい知る話だけでも、態度を改善すればある程度収まりそうなことがあるように思える。
 並大抵の反骨精神ではできないことを敢えてし続けている、その理由。恐らく聞いてもなんのことかはぐらかされてしまうのだろう。言えるのであれば既に言っているはずで、ああも露骨に表に出るのならば、俺はとうに察しているはずだ。
 あいつがその意図を隠しているのが何故かは分からないが、毛嫌いされているわけでもなさそうだというのがより一層俺を落ち着かなくさせる。
 シリル様の寵を欲した結果、シリル様が平民が平民らしくあることこそを望まれているから。それだけだと言うにはあまりにも愚かなまでに変わらない。
「なかなか良いところを突くな」
「?」
「あれはそこまで馬鹿ではないということだ。見くびっていると足をすくわれる」
「……俺達こそ試されていると言う意味でしょうか」
「そこまでは教えん。考えろ」
 クリシュナ様は楽しそうに笑みを見せ、片手を振って俺に背を向けた。歩く後ろ姿さえも堂々として美しい。深々と礼をして見送る。
 クリシュナ様から受け取った本の表紙に目を落とすと、知らずため息が零れた。
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