とばりの向こう

宇野 肇

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 基本的に空いている時間があればシリル様の側に侍っている俺だが、残念なことに努力しなくては今の成績を保つことが難しく、放課後一人で教員へ教えを請いに行ったり、図書室で参考文献を漁ったり、レポートを書くこともある。
 その日も俺は一人だった。図書室に入り、必要な場所から参考文献を探す。膨大な量の書籍が収められた部屋は三階分ほどの高さがあり、それぞれに自習スペースが設けられている。本棚は膝よりも上の位置が最下段で、最上段ははしごか脚立がなければ取れないほどに高い。
 奥まった場所で背表紙のタイトルを追いかけながら本を選んでいると、ふと無粋な音がして顔を顰めていた。
「うわっ」
 本棚の影から飛び出してきたその男を思わず睨めつける。小柄な体躯に小綺麗な顔をのせたそいつは、俺と目が合うと咄嗟に口元を手で覆ったが、すぐに俺の身体の影に隠れるようにして身を潜めた。
「おい、」
「しっ 悪い、今だけ匿ってくれ」
 声を潜めて俺に縋るような目を向けるそいつに鼻を鳴らす。なんだ、声を潜めようと思えばできるのではないか。何故普段それができないのだ、とどうしても問い詰めたくなる。
 しかし、図書室の床を鳴らす足音が近づいてきたのを聞いて、俺は更に本棚の影に隠れるよう片手で平民をあしらった。
 現れたのはバンクロフト伯爵家三男のブレア様だった。シリル様以上に知的好奇心が強く、探究心の塊のような方だ。平民にご執心だという話を耳にしたが、本当だったということか。
「失礼、こちらに誰か来なかっただろうか」
「……いいえ、俺一人ですが」
「そうか。邪魔をしてしまった、すまない」
「お気になさらず。人を探していらっしゃるのですか?」
「ああ、ちょっとな」
 思っていた人物と違う者が立っていたからだろうか、一瞬ブレア様は気後れしたようだったが、会話自体はスムーズなものだった。彼はシリル様とも面識がある。俺の顔くらいはなんとなく見たことがあったのかも知れない。
「どなたでしょう。もしかしたらお力になれるかも知れませんが」
「いや、いいんだ。それほど重要な用事ではないから」
「分かりました。お引き留めしてしまう形になり申し訳ない」
 簡易的な礼をすると、大丈夫だという返答と共にブレア様はきびすを返して去って行った。暫く耳を澄ませるようにじっとしていたが、こそりと奥から顔を出した平民は不満そうに俺を見上げてきた。
「なんであっちの肩を持つようなことすんだよっ」
「あちらの方が目上というのもあるし、お前に義理立てする理由がない」
「っ、そりゃ……そうだ」
 勢いだけで反論しようとしたのだろう。途中、俺の言うことがもっともだと気づいたのか、平民は力なく肩を落とした。
「まあでも、ありがとな。言わないでいてくれて助かった」
「なるほど、礼を言う分別はあるらしい」
「あんたすげーヤなヤツ」
「褒め言葉が通じないとは」
「イチイチ嫌味がでけえんだよ」
 唇を尖らせて「ちぇ」と呟きながら、平民が目をそらす。そして俺は、クリシュナ様からの言葉を思い出した。
「貴様、何故こんなところにいる」
 普段の態度からして、とても似合いの場所とは思えない。その上、ブレア様に追いかけられていたと言うのも気になる。というよりは、こいつが逃げていたということの方が引っかかった。
 俺の言葉に、平民は珍しく決まり悪そうな顔をした。目を合わせようとしない。
「……本の借り方がわからなくて。ブレアのヤツに聞いたんだ。そしたら図書室で分からないところを教えようって」
 どうやらブレア様はこの平民を側に置いて構いたいタイプの御仁だったらしい。
「何が不服だ」
「俺は本の借り方が知りたいんだけなんだっての。それとも、一人じゃ借りられねえ?」
「本を読むのか」
「最低限だけど読み書き計算はできるよ、一応。でも授業には小難しい言葉も出てくるからさ。それに、借り方が分かれば時間が掛かっても一人で調べ物はできんじゃん」
 ああ、だからブレア様が教えると言ったのか。調べ物と言ってもこの学び舎で誰よりも学がないこいつには、膨大な時間が掛かると分かりきっていたから。その上でお気に入りと長い間いられるという考えだったのだろう。ブレア様が勉学を疎かにするのをよしとするとは思えない。
「なるほどな」
 どうやら、俺が思っているよりもこいつはしっかりしているらしい。それならば――その気概を買ってやろうじゃないか。
「借りたい本があるのか」
「いや、仕組みを知っとけばいつでも借りれるだろ」
「今すぐ持ってこい」
「あ?」
 訝る顔を見下ろし、言う。
「今一冊持ってくるのならば受付での借り方を教えてやろう」
「!」
「ないのならば俺はもう行く。その無礼な態度で他に誰かを探すか、もう一度ブレア様にでも申し出るのだな」
「もっ 持ってくる! 持ってくるから待ってて!」
「声が大きい!」
 驚くほど響いた声に声を潜めながら窘めると、思わずと言った様子で自分で口元に手を当ててもごもごと謝罪をしてくる。それを見ながら今にも駆けていきそうな身体の動きに「走るなよ」と釘を刺した。そわそわとする男を尻目に、自分の探していた本から参考になりそうなものを一冊抜き取る。
 ……これは、俺も一緒にこいつの借りたい本の所まで行く流れか?
 思い至ったときには俺と行きたい方向とを交互に見る平民の姿で、即刻答え合わせをさせられていた。ため息をつきたい。子守ではないのだが。
 促して歩き出すと、俺の斜め前をちょこちょこと歩き出す。
「でも、いいのかよ。ブレアに一緒にいるところ見られちまうかも」
「別に貴様を探しているとは言われていない」
「そっか」
 妙に慌てた様子で忙しなく足を動かす平民に、そっと息をついて歩調を緩める。と、妙な顔でじろじろと見上げられた。
「おい、何をそんなに見ることがある」
「……んーん、なんでもない」
 言って、へらりとだらしなく笑う。
「なあなあ、あんたオレの名前覚えてる?」
「ああ」
「なんで名前読んでくれねえの」
「呼ぶに値すると思ったら呼ぶさ」
「えー」
 幼子のように纏わり付いてくる姿に、何度でもため息をつきたくなる。そんな風だから名を口にすることさえ忌々しく感じるのだと余程言ってやりたいが、言ったところでこいつの素行が直るとはとても思えなかった。

 そこからは早かった。何事もなく本の借り方、ついでに返し方を教えた。知っていれば本当になんでも無いことだ。それさえも誰からも教わることが出来なかったというのは信じがたいことだったが、平民の喜びようを見るに嘘をついているとも思えなかった。
「なあなあ、ホントにありがとな!」
 まるで無邪気な子どものように跳ねて喜ぶそいつに鼻を鳴らす。こいつに離れてもらわなければ俺まで咎められてしまうため図書室から早々に退室したのだが正解だった。
「貴様がどんなに学ぼうともシリル様にはかなわんが、まあいくらかマシにはなるだろう。どうやらお前に言って聞かせるのは人形に語りかけるようなものらしいからな。早く自分の振るまいがいかに無礼なものか知るといい」
 ラウンジに向かおうと足を向けていたが、俺がそう言うと、平民はぴたりと動きを止めた。じっとその場に立ち止まって俺を見つめ、それから顔を歪め、言った。
「あんた、ずっと近くにいるくせに、あいつの寂しさが分からないのか」
「……」
「あんたが友達になってれば、あいつだってもっと早くに元気になってたはずだ。なんであいつに応えてやらねえの?」
 ――。
「あの方は俺にそのようなことを求められていない。それだけのことだ」
「言われたからする、言われないからしないって、そういう話じゃねえだろ。あんた賢いくせに頭悪いんだな」

 否。それは貴様の方だ。
 シリル様が貴様を愛するのは、貴様を人と思っていないからだ。愛玩すべき小動物だと感じているからこそ貴様に他の者には見せぬ一面もお見せになる。
 貴様が言葉を話していることは皆知っているが、果たしてあの方の耳に、貴様の言葉は正しく言葉として入っているのだろうか。
 動物を愛でるのに彼等の言葉を厳密に解する必要などない。
 それを、貴様こそ分かっているのか。

「好きに吠えろ。少々仔犬に吠え立てられたところでどうにもならん」
 シリル様の御心はそれだけ深く傷つき、そして秘められている。俺では、否、最早誰も表立って慰めることはできない。シリル様はなかったことにしたのだ。掘り起こして傷を晒すような真似はできないし、シリル様が望まれるはずがない。
 言いたいことを全て飲み込み、俺はそう言うとヤツに背を向けた。

 忘れはしない。あの日招かれた茶会の一角でのやりとりを。
 シリル様の顔から、熱が抜けていく瞬間を。

 俺は、理解している。
 シリル様にとって普遍こそ最大の癒しであり安寧であるのだと。
 少々のことで揺らぐような立場など要らぬのだ。
 ただ俺は、俺も、シリル様の御心も関係なく側に侍るのみ。近寄ることも離れることもない。ただ、シリル様にとって『変わらぬもの』である。俺に求められているのはそれだけだ。そして、それでいい。
 友達など、なれるはずもない。俺の性根はたいしたことがない。特別頭も良くなければ、肝が据わっているわけでも、腕に覚えがあるわけでもない。そんな凡夫が、あの人と友達など。
「ばかじゃねえの。シリルがそう言ったのかよ」
 背に投げかけられた言葉には応えなかった。何も知らずに近づき、シリル様の表情を、心を開かせた者が何を言っても響くはずはない。あいつこそ、シリル様の側に居ることを何の努力もなく許されたことを光栄に思わねばならないはずだ。
 知らずの内に歩き方が荒くなり、俺は頭を振った。
 あいつがシリル様の側に居られることがどれほど恵まれているのか、教え込まねば気が済まない。
 クリシュナ様に言われた言葉を胸の内で復唱し、俺は決意も新たにラウンジへと再び歩き出した。
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