philophilia

宇野 肇

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それから

My Dear Doggy

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アトリの話。
【※薄くリバの回想や想像を含んでいます】



 広さだけはあるベッドの上、伸ばした足を軽く開くと、そこに大事な温もりが収まる。
「じっとしてろよ」
「はい」
 人間の位置よりも上にある半立ちの犬耳を震わせて、俺の恋人は俺の方へ横向きになり、大人しく俺に頭を預けた。忙しなく揺れる尻尾は昔から変わらず俺への好意を伝えている。それに頬と、心の深い場所が緩むのもいつものことだった。
「こらフィロン、悪戯するな」
 俺の股間に頭を乗せていたフィロンがそこへ頬ずりするのを見て笑いながらそう言うと、彼はだって、と足をすり合わせた。それを目にしつつも、さっさとその耳をめくってイヤーローションを垂らす。
「ひぇ」
 間抜けな声が上がって尻尾の揺れが止まるが、耳の後ろを軽く揉んで中を洗ってやると、気持ちいいのか再び尻尾が揺れ出した。
「んぅ……あっ……あぅ、あ……」
 次いで官能的な声が漏れ出し、動きたいのを我慢して気持ち良さに顔を緩ませる。俺は遠慮することなく俺に頭を委ねてくる彼に胸の内を温められながら、脱脂綿を手に取り、そっと耳の穴に押し込んだ。それこそくすぐるように、極力皮膚への負担をかけないようにローションを染み込ませ、水分を取って行く。
 しきりに震える耳が愛らしい。痛くないかと聞くと、大丈夫だと緩み切った声が返ってきた。腫れや異常がないか確認して、反対も同じように耳掃除をする。仕上げに頭を屈めてふっと息を吹きかけると、フィロンは変な声をあげて肩をすくめた。その一瞬尻尾は止まったが、すぐにまた勢い良く揺れ始める。そして俺に促されて身を起こしたフィロンは、甘えるように俺に擦り寄ってきた。頭を俺の身体に押し付けて、俺が抱っこをしてやると溶けたかと思うほど緩み切った笑顔が零れた。
 少し前まで、俺はこの笑顔に罪悪感を覚えていた。フィロンが俺を好きだと言うのは、俺に触れられ、性的な行為全般を喜ぶのは、俺がそういう風に仕向けてしまったからだと、ずっと思っていた。
 それは自責で、自嘲で、後悔だった。


 俺の生家は貴族だったらしい。らしい、というのは、俺にその自覚がないからだ。
 俺には生まれつき異質な力が備わっていて、それは特に自分に対して強く働くものだった。
 癒しの力。七歳前後で骨折した俺は、通常よりもはるかに早い期間で完治した。はっきりと覚えているわけじゃないが、多分一ヶ月もかからずに。
 理屈は全く分からなかったが、この世には稀にそう言った力を持って生まれる人間がいるそうだ。古い歴史書に登場する偉人らもまたそうであったのではないかという話を聞いたことがある。
 俺の親は俺の力に気づくと、恐れ戦き、そして俺の力がどういうものなのかを確かめると言って俺を殴った。震える声で謝りながら、口に出すことが憚られるようなことまでを、歪な笑みを浮かべながら行った。
 暴力が徐々に過激なものになるにつれ、親父は全ての責任を俺に押し付けた。俺は罪深い存在なのだと。だから人の代わりに傷つき、血を流すことで、心を痛めることでその罪を償わなければならないのだと。避けることのできない罰なのだと言って。幼かった俺はそれを受け入れた。
 その頃の俺は急変した親の、特に親父の態度に困惑し、泣きながら許しを乞い続けていた。それまで何不自由なく暮らしていた俺の生活は、癒しの力が露見するとともに一変した。
 一頻り『検証』と『罰』が済むと、親父は俺を殺しこそしなかったものの、最大限利用することを思いついた。何せ他者を攻撃するどころか、怪我や病気の治りが異常に早くなるのだ。利用しない手はなかった。だがその時、あまりにも俺の傷の治りが早いために、親父は俺が他者を癒せることまでは気付かなかった。当時は他者へ及ぼすほどの力がなかったのだと思う。それほど俺の力の発現というのは極端で、もしこれが逆であれば、俺は祭り上げられていたかもしれなかった。言ったところでどうしようもないが。
 俺は檻のような部屋に閉じ込められた。中は酷く豪華ではあったが、俺はそこで客を取らされた。その時自分が何をされているかは分からなかったが、親父は俺に、こうしていろんな人に殴られることで俺の罪は軽くなるのだと、そんな話をされて、それを信じていた。
 信じていたのは戻りたかったからだ。かつての平和な、普通の、俺を息子として可愛がってくれる両親のいる日々に。親父の言葉を信じたのは、そうすれば元のような生活が待っていると、いつかきっと俺の罪は許されて、晴れて元のように可愛がってもらえるのだと、愚直なほど信じていたからだ。あるいは、それは願望だった。
 俺の相手となる殆どは貴族が多く、世間におおっぴらにできないようなクソみたいな嗜好の持ち主たちだった。
 俺は見なりからかろうじて身分が推し量れる程度の、どこの誰かも知らない男たちに嬲られて犯される人形として置かれ、親父はそれで荒稼ぎをした。
 殴られ、蹴られ、裂かれる痛みは鈍ることはなく、かと思えば単純な暴行こそないものの俺を性のはけ口として扱うどうしようもない変態もいて、俺はそのどれもが嫌でたまらなかった。時には薬を使われることもあったが、痛みがなければ、あまつさえ気持ちが良ければ、その方がいくらかマシだと思ってしまうほど俺は疲弊し、衰弱していた。痛みと恐怖の前に、その時ばかりは自分の『罪』のことなど頭から消え失せていた。そして怪我を治す期間は食事以外は捨て置かれ、その間はずっと祈りの言葉を唱えていた。
 大事な、替えのない『商品』だからと衣食住は保障されていたが、それだけだった。俺は親父にとって最早金の成る木でしかなく、けれど俺は死ぬまで、使い潰されるまで苦痛が終わらないことなどまるで頭になかった。

 そんな日々は唐突に終わりを告げた。貴族に生まれながら、俺の親父は壊滅的に頭が回らなかったらしい。貴族の中でも下の方だったのが急に羽振りが良くなり、浪費が始まったのを不審に思われないはずがなかった。表向きの事業が成功したわけでもなく、真っ当な手段で無いことは明らか。
 王宮から派遣された高官らと騎士団の調査が入り、親父の所業は知られることとなった。リスト化してあった顧客名簿が現れ、芋づる式に大勢の貴族が処罰、あるいは処刑となった。そこにはもちろん俺の親父、それに母親も含まれ、それは俺にとって苦痛ばかりの日々から解放されると同時に、もはや二度と以前の暮らしには戻れないことを意味していた。
 本来であれば俺もまとめて処刑されるところだったのだが、騎士団が家へ踏み込んだまさにその時間、俺が客を取らされていたことでそれは免れた。傷は毎回後も残らず綺麗に治っていたから、もしそのインターバルの間に暴かれていたのであれば俺も処刑の対象になったに違いない。しかし幸か不幸か、俺はまさに犯されながら殴られ、身体の至る場所に言い逃れが不可能なほどの傷を負っていた。それはその時の客の姿と同時に多くの目に留まることになり、それだけの深く強い同情を集めた。
 明らかに被害者でしかない俺への咎めはほぼないに等しかった。
 家名は取り上げられ、貴族の位も剥奪されたが、もともとなんの力もなかった子どもには痛手にならなかった。それどころか、騎士団に在籍していた女騎士などは俺を保護しただけではなく、引き取りたいとまで言ってきた。彼女は独身であったし養子というわけにはいかなかったようだが、彼女の両親は健在で、俺はやはり同情からその後ろ盾を得ることができた。身一つしか財産を持たなかった俺は、流されるまま彼女の家で療養に入った。
 彼女の家は大きく、城のようだった。それだけで並々ならぬ身分であることが知れた。その時の俺は彼女もまた碌でもない何某かの愛好者なのかと緊張したが、彼女や彼女の家族、そしてその使用人に至るまで、俺を殴る人間は一人もいなかった。ただじっと俺が回復するのを待ち、そして俺の力に気づくと、俺に問うた。
 その力で、なにかを成したいか。
 その時、俺は分からないと答えたと思う。この力のせいで両親は死んだ。当時の俺は親父の言葉をそのまま受け入れていた。自分は罪深い存在なのだと思っていたし、傷が治った頃に伝えられた両親の死を思うと、やはりその通りだと思えた。それを包み隠さず全て話し、だから俺は死ぬべきで、それができないのであれば人々から痛みを与えられていなければならないのだと、まるでそれが、それこそが許しなのだと言わんばかりに彼女に訴えたと思う。
 彼女や彼女に至る彼女の血筋の人たちは、まさに高潔で貴族に相応しいものだった。
 彼女は俺に辛抱強く言って聞かせた。俺の価値観は、親父に植え付けられたその理屈は間違っているのだと。
 歴史の中には俺のような異端が処刑されたこともあったらしいが、今の時代はむしろその力を認め、国のために役立つよう身柄を保護し、保障しているのだと。特に俺の癒しの力は他者への攻撃としては使えない分、危険性は低く、きっと重宝されるだろうと。
 俺の力は素晴らしいのだと。俺は罪深い存在などではなく、もっと清廉で、尊ばれるべき存在だと。
 彼女の言葉が俺に染み込んでくることはなかった。彼女は勉学や武術に始まり、料理や作法、掃除や医学等およそ俺が興味を示したこと全てを俺に叩き込んでくれた。もっとも、彼女は料理と裁縫は苦手なようだったが。
 その所為で俺がどんなに打ち込んでも傷一つつけられない彼女があっさりと指先に切り傷をこさえるものだから、俺が受けたショックと言えば大きかった。彼女の指先に増えていく傷を許容できなかった俺は、知らないうちに彼女の傷を治そうと力を使っていた。どうして剣では負わせられない傷を、取るに足らない針や包丁ごときで勝手に負ってしまうのかと、理不尽な怒りでもって。
 彼女は俺が他者を癒せると知って俺よりも喜び、感謝してくれたが、俺は少し気まずくて変な顔をしていた気がする。
 力について、俺は他者へそれを使うつもりはなかった。俺は彼女たちから教えられたことを吸収するだけのポテンシャルがあったが、知識を得るにつれ、親父の行なった所業と世の『普通』という価値観にぶつかり、照らし合わせ、そして傷ついた。物理的なものじゃない。今まで信じていたものは紛い物で、そして俺は、とうに親父に愛などなかったことを思い知らされたのだ。
 同時期、騎士の数人に輪姦まわされたことも大きかった。どうせすぐに傷は癒えて分からなくなるだろうと。俺は男の癖に男に抱かれていたいやらしくて汚らしい、女以下の人形だと。
 後にきっちりと処分されたらしいあいつらの言葉は、俺の胸を抉った。奴らは強く気高い彼女に劣等感と劣情を持っていて、俺はその代わりだったと分かったが、そんなことはどうでもよかった。
 人形という、その言葉が頭から離れなかった。
 壊れても、死にさえしなければ元に戻るおぞましい肉の人形。
 人でない俺は人の世のしがらみに縛られる必要などないのだと、俺はそれを天啓の如く唐突に悟った。となれば、やることは決まっている。俺は相手が死ぬかもしれないという一切の『怯え』を取り払い、むしろ殺すつもりで俺を押さえつけて犯していた騎士の内、口の中に臭いブツを突っ込んできていたそれを思い切り噛んだ。
 絶叫する騎士は勿論痛みでそれどころじゃない。一人がそうやって悶絶し、あるいはのたうちまわっている間にそいつから腰にぶら下がっていた短剣を奪い、まさに俺に突っ込んでいた奴の目をめがけて横一線に腕を振った。
 事態を飲み込めていなかった奴の目蓋はあっさり切れた。手応えは然程なく、目を潰すには至らないようだったがその時はそれで十分だった。
 残る一人は勃起した性器目掛けてその短刀を振り下ろしてやった。そして痛みと怒りで我を失ったような騎士の一人の反撃を食らったところで、騒ぎを聞きつけた夜警の騎士らが駆けつけた。
 事の顛末はそれで終わりだ。俺がどういう経緯で彼女のところへ身を寄せることになったのか、彼女が俺を教育していたこと、その一環として騎士団で武術の基礎を習っていたこと、騎士達が俺に何をしていたか。その全てを、騎士達は知っていたのだ。俺を嬲った騎士達が彼女へと向けていた仄暗い感情のことさえも。
 俺は騎士団から遠ざけられ、組手や体力作りまでもを彼女の家で行うことになった。
 けれど俺はどうしても騎士に浴びせられた言葉がこびりついて離れず、次第に彼女と当主らから距離を置くようになった。
 汚れた俺からは、彼女とその周囲は綺麗すぎた。清らかなものも毒になることがあるのだと、俺はその時初めて知ることになった。
 そんな俺は、次第に彼女の側にいることが苦しくて仕方なくなった。彼女のように姿勢を正しても、心まで真っ直ぐ立つことができなかった。そして、そのことを彼女本人に伝えるほどの度胸もなく、俺は当主に許しをもらい、外へ出た。いつでも戻ってきていいのだと言われたが、戻るつもりなどなかった。

 俺の行き着いた先はスラムだった。
 人が集まる場所は貧富の差も激しい。『普通』の価値観に触れた俺は、彼女の言葉とともに、そこそこそれに染まっていたんだろう。それまでの自己評価と併せてそれは絶妙に混じり合い、俺は世間的に見ても汚れているのだと、だからまっとうな場所は気が引けた。
 スラムを彷徨って辿り着いたのは、丁度治安が悪くなる境目にある酒場だった。【黒猫亭】という看板を掲げていたそこには、名前の通り看板娘ならぬ看板動物の黒い猫が、鍵尻尾を揺らしていつも店内で悠々と過ごしていた。表通りから近いこともあってか客もそこまで悪どそうでもなく、人懐こい黒猫のおかげで店内の雰囲気は悪くはなかった。
 俺はそこで客を取ろうと思っていた。それまでそうしていたんだからと。結局俺にはそれしかないように思えたのだ。
 けれど出来なかった。前の客取り、それに騎士のことは俺が思っていた以上に響いていて、俺は親父や客として良く相手をしていたような年齢の男と寝た後は必ず腹が引き攣って食ったものを吐き出した。何度かそれを繰り返し、たまたま具合が悪くなったのではなくそこに因果関係があることを認めると、そこでようやく俺は途方に暮れた。酒場の親父は気のいい人で俺の心配をしてくれたが、それさえ受け付けないようなザマだった。
 仕方なく他の道を探すことになって初めて、俺は彼女と当主から貰ったものの多さと大きさに気づいた。一番役に立ったのは言うまでもなく武術で、絡まれては伸してを繰り返していると次第にちょっかいは減った。
 知識は閉じ込められていた俺にとって、普通レベルにあること自体がありがたいものだった。喋り方、所作、この都市の現状。細かな情報は歩いて見聞きすることで補完していったが、大元となる情報があるだけで随分歩きやすかった。
 残飯を漁るような生活だったが、気分は楽だった。やはり彼女は眩しすぎたのだと思うと同時に、俺は彼女に対して酷く緊張していたらしいことも分かって可笑しくなった。
 いつ死ぬかわからない。明日生きてないかもしれない。そのことは俺にとっては唯一の救いのように思えた。先が続くことを思うのは疲れる。その日、その時のことだけを考える生活は間違いなく気楽だった。

 その頃出会ったのがカイトとアウルだ。酒場で賭博に興じていた俺に声を掛けたのはカイトだったか。二人一緒だったが、アウルは付き添いのように眺めているだけだった。
「お前、女か? 俺が勝てば一発ヤらせろ」
 カイトがそう言った直後、直ぐに後頭部を殴りつけていたが。
 同年代ということもあったせいか、俺たちはわりかしすぐに打ち解けた。男同士、それぞれそれなりに頭が回り、腕も立つ。自然三人で行動することが多くなり、俺たちは酒場にたむろし、スラムの中でもそこそこに名が知られることになった。
 酒場の親父が倒れたのはその頃だった。俺は親父に触れられることを許せないままだったが、親父の存在はありがたく思っていた。親父は俺たちに仕事の手伝いの代わりに夜、酒場の二階にある部屋を貸してくれていたからだ。治安が良くない中、雨風が凌げるだけでもありがたかったのに、布団で眠れるなどあまりに贅沢なことだ。面と向かってありがたがったことは無いが、心の内で感謝は忘れたことは無かった。
 彼女の時には返せなかった、返そうにもあまりに彼女は満ち足りていたために返し方など見当もつかなかった、恩。臥せる親父に出来ることなど一つしかなかった。俺は、俺達は出来る限りのことをした。かじった程度の医学知識は他の二人とさほど変わらず、辛うじて肺をやっていることがわかった程度だった。医者に診せようにもそこまでの金がない。俺は初めて、自分の異質な力を望んだ。望んで、使いたがった。ただ、親父の命を助けたかった。それが恩返しになると思った。
 無我夢中で、ありとあらゆることを試した。どうすればこの力を他者へ使うことが出来るのか。彼女の時はどうだったかを思い出しながら、自分から親父に触れた。触れることが出来た。
 親父は助かったが、気力までは癒せなかった。俺達は親父から頼まれて酒場を任されることになり、そのままそこを引き継ぐことになった。――【猫】のアジトの誕生だった。
 酒場を引き継いだ俺たちは店の名前を【月と鍵尻尾の黒猫亭】に改めた。月は親父の光る頭だ。黒猫は親父とともに隠居したから目印の鍵尻尾と併せて看板に載せた。
 そこで俺たちは酒場を展開する傍ら、宿の提供も始めた。要は、親父がやってたことをもっときっちりやろうってことだ。人気を集めていた黒猫に代わる特徴が必要だった。俺たちと同じような家なし子を呼び入れて、給仕をさせながら二階にいくつかある空き部屋を提供する。本人が望めばそこでの客取りも許可し、そこで発生した金額はまるまるそいつの取り分となる……とまあこういう塩梅だ。本人の了承なしにはヤらせないし、酒場で出会った者同士でならともかく、部屋を貸した奴ならその部屋で無いと認めない。
 考えつく限りのことをして、たまに賭けにも参加しつつ、共同体になった俺たちの生活は幕を開けた。
 スラムでの暴行は日頃からどこかしらで行われている、言わば日常だ。その全てを癒そうなんていう大それた考えはなかったが、俺は酒場に流れ着いた奴の世話くらいはしようと、力を使うことを決めた。特に俺が異質な力を持つということは広めなかったが、命を救って欲しいという人間はどこにでもいるし、必死だ。金を落としてくれるならそれで、ないなら命を担保に、俺は財産のある無しに関わらず、治せるものは治した。手のひらを返したような輩はいたが、きっちりカタを付けた。そうして得た金は日々の食料や酒場の運営費として三人で分け合ったが、自然と黒猫亭全体の金になっていった。そうすることで、俺は殴られる代わりに、俺自身とこの力によって狂った過去を紛らわそうとしていた。
 幸いだったのは、カイトとアウルは、明日死んでもいいと思いながら生きていた俺とは違い、いい意味で欲がなかったことか。それが突出すれば身ぐるみを剥がされる環境で生き抜いてきた処世術だった。
 元々スラムには自然発生的に存在するルールがあった。力ない者が一人では生きるにはあまりにも過酷な環境だ。だから徒党を組んである程度の集団で生活をする。それは追い剥ぎであったりスリだったり、あるいは強盗の際に特に有効で、基本的にその組から抜け出すことは、日々を生きるためのシステムを崩すことになりどこからもつまはじきにされることと同義だった。

 フィロンを拾ったのは俺が力を使い始めて一年ほど経った頃だった。他の二人と比べて変声期も成長期も遅かった俺はまだまだチビで女と変わらない体躯だったが、彼女から学んだことは忘れないように、できるものであれば反復練習を欠かさなかった。
 俺が指導されたのは彼女の得意としていた、自分より図体がでかく、力の強い相手に対する立ち回りが殆どだったから、自分の身体が小さいことでそこまで悔しい思いはせずに済んだ。俺が殺人に対して嫌悪感が薄く、手加減を一切しなかったことや、彼女に比べればなんとか立ち回れる程度の奴しかいなかったということも大きかっただろうが。
 その日は賭けに負けて身ぐるみを剥がしきれなかった奴のところまでカイトと共に向かった。黒猫亭を三人ともが抜けるのは流石にマズイだろうと、アウルは留守番をしていたはずだ。
 そいつはそこそこの小金持ちで、俺たちは忍び込むようにして中へ侵入した。そいつは酒場でも一度暴れていたから何かあればふんじばって言い聞かせる必要がある。そう思いながら踏み込んだその先にあった光景に、俺は一瞬であの頃に戻った。豪華な檻の部屋で、客にあらゆる暴行を受けていた時へ。
 それはまるで、かつての自分を見ているようだった。
 入った部屋には奴がいて、もう一人、犬の耳と尻尾を持つ子どもが、見える場所だけでも相当な数の傷を負ってその上、まさに尻尾を切り落とされようとしていたのだ。
 怒りで我を忘れることがあるのだと、その時俺は身を以て知ることになった。
 気づけば俺はその子どもを拾って持って帰っていた。動物の特徴を引き継いだ人間たちは皆例外なく奴隷に身をやつす。奴隷の証は大体が耳や尻尾を切られていたり、奴隷用に誂えた装飾品――特にピアスのような、身体を一度傷つける類のものを見える場所につけることでその代わりとすることが一般的だった。奴隷が子を産めば、その子も奴隷となる。安易に差別し、人の心のささくれた部分をその場しのぎでなだめてくれる存在。それが労働力以上に求められた、獣人というものだった。
 奴隷は財産の一つに数えられている。奴隷一人当たりかかる税金も少なくはない。その子には奴隷の証がなかったし、尻尾を切り落とそうとしていたのも暴行の一環だろうと推察できた。室内であの家の者のストレス発散の道具になっていたんだろう。かつて、俺がそうだったように。
「辛かったろう」
 その子を見つけた時に掛けた言葉は、そのまま過去の俺の気持ちだった。

 俺は迷わなかった。その子を賭けに負けた代償とし、手元に置くことに決めた。……ただ、俺はどうしてもその子に自分を重ねてしまい、ピアスを用意したはいいものの奴隷の証をつけるまでは踏み切れなかったが。
 フィロンと名付けたその子は、俺よりも遥かに綺麗だった。性的暴行の痕がなかったということもあったが、恨み辛みの感情がなかった。それも当然で、フィロンにとっては生まれてからずっとあの環境に育ち、痛みは知っていてもそれを恨んだり、憎んだりすることを知らなかったのだ。そして同時に、愛情というものも。
 それを不幸と言えばいいのか、幸運だったと捉えるべきかは俺には分からなかった。ただ、生きる人形であることを受け入れていたこいつを、人間に、いや、生きる動物にしてやらねばと強く思った。
 そして否が応でも自分を重ねてしまうその姿に、俺は自分が求めていた『在りし日』を与えることにした。俺が求めていたもの。取り戻したかったもの。気持ちと言葉。もう二度と得ることの無いものを。
 フィロンに与えるという名目で、その実俺は、俺自身をフィロンに投影していた。その上で、けれど俺と同じものにはさせないという決意もあった。俺は今の俺のまま、俺の中で崩れ去ったものをもう一度建て直せるかもしれないという、下心も。
「犬だったら愛せるかもしれない」
 呟いた言葉の真意は、誰にも理解されなかった。

 俺は彼女が俺にしてくれたことをなぞるようにフィロンに知識を与えた。奴隷の証なしでは外に出すことは危険すぎてできないから結果として変わらず閉じ込めることになってしまったものの、フィロンは自分の置かれた環境に不満そうにすることはなく、唯一自分以外の存在である俺によく懐いた。
 フィロンには、触るのも触られるのも全く嫌じゃなかった。フィロンには悪いが、それは黒猫と同じような感覚だった。彼は純粋に俺を慕ってくれ、俺もその尻尾が嬉しそうに揺れ、頭を撫でてやると満面に笑みを浮かべる様子に癒されていた。
 なにより、フィロンには裏表がない。記憶力は恐ろしくよく、今までの出来事を殆ど覚えているにもかかわらず、俺たちほど頭の回転は良くなかった。悪く言うと、馬鹿だったのだ。
 そのせいか、フィロンは俺ができるだけの知識を与えても、俺のようにショックを受けることがなかった。フィロンは最初から奴隷とは暴行されることでヒトに奉仕するものだと思っていたが、あそこまでの暴行はいくらなんでも酷いことを知った後でも、そのこととそれに対して憎く思うことがなかったのだ。自分の身に降りかかったことと、そこから湧くなり抱くはずの感情が、全く繋がっていなかった。
 出会った直後は俺よりも背こそ高いものの、痩せすぎの身体は申し訳程度の筋肉が付いているだけで殆ど骨ばっていて年齢も分からなかったが、計算を覚えると、一番古い記憶から俺よりも数歳年下だということが分かった。それにしたってフィロンは思考がどこか幼いもののように思えたが、俺は馬鹿でもいいからずっとそうあって欲しいと思うようになっていた。

 フィロンは成長、というよりは回復という方が正しいような様子で日々を過ごした。身長は殆ど伸びず、ただ、食事はしっかりさせたから肉付きは遥かに良くなった。馬鹿でいて欲しいと思う一方で生きる動物にしてやりたいと思った俺がそうさせたのもあるが、人としての感覚もそこそこに身についていた。この頃、俺はフィロンを黒猫と同じではなく、弟のようなものとして可愛がっていたと思う。
 そこに来てフィロンの精通だ。それ自体はおかしなことではなかった。男であるならば遅かれ早かれ来るものだ。ただ、俺にとって性にまつわる事柄と言うのはすべからく忌むべきもので、だからこそフィロンにそれを刷り込むことの無いようにと、それだけに注意を払った。
 驚いたのは、そして何より問題だったのは、フィロンの感じる姿に俺が興奮したことの方だった。
 どんなに行為中の声が聞こえてこようが下品で下衆な話題だろうが、嫌悪感はあったものの心揺れたことは無かったのに。
 初めて味わう快感に震え、俺に縋るフィロンは可愛かった。可愛くてたまらなくて、俺は唐突に自分もあの男たちと同じ存在だったのだと思い知った。俺にも性欲があったのだ。何も知らない無垢な少年につけこんで、訳も分からず快感を追いかけ身悶える姿に欲情するような、俺の罪悪の、そして嫌悪の始まりに。
 それは心臓に杭を打たれるような衝撃だった。
 痛みなどと言うものを遥かに超えたその事実に、俺は愕然とした。
 フィロンが怯えることの無いように。余計なことは言わないように。それだけを気を付けて、俺はフィロンの精通を終えた。朝から気分が滅入ったが、それをフィロンに覚られるわけにはいかなかった。幸いフィロンは初めて知った快感に浸って、いつも以上に頭が回ってなかったようだったから、気づかれることは無かった。
 だが俺にとって悪いことに、フィロンは俺にイカされたがった。俺に触られるのが好きなようだったからその延長だったのだろうが、俺はにわかに緊張した。いつ俺の罪が暴かれるのかと。断罪されるその時を待ち侘びているようで、その実フィロンにそれを知られることが怖かった。
 勃起自体は生理現象で、男の場合は放置するより抜いたほうが早いし気持ちもいい。俺はフィロンからねだられるそれを跳ね除けることも出来ず、ずるずると射精を手伝った。獣人は人よりも性欲が強いことが多く、射精回数も一度の触れ合いに二回以上になることも少なくないと本には書いてあったが、その通りだった。しかもそうこうしているうちに、フィロンが俺に発情していることが分かった。
 その時の困惑は言葉にはできない。自分の罪が許されたような浮ついた気持ちと、俺は知らずフィロンを閉じ込め、自分の意のままになる様に仕向けているのではないかと言う今まで以上の罪悪感がせめぎ合い、フィロンが自由意思によって俺を選んだのだと思いたい祈りと、フィロンに選択肢など与えなかったのは他ならぬ俺の癖に何を言うのだという自責が渦になり、溶け合うこともなくそれぞれが嵐のように俺の心を押しつぶした。
 結果、俺はフィロンに選ばせるという、選択肢など端からあってないような最悪な方法であらゆる責任から逃げた。現状から目を伏せ、フィロンを求め、彼から求められたいというその欲求に屈したのだ。

 果たして罪の上塗りのような行為は、しかし夢のような心地でもあった。罪には快楽がついて回るのか、それとも快楽が罪なのか。拭いきれない罪の意識は、フィロンの無意識の許しを受けてその時ばかりは霧散した。
 俺に貫かれながら、フィロンは言った。俺に気持ち良くなってほしいと。自分を好きにしていいから、欲情してくれと。
 俺はもう耐えきれなかった。求めた存在に求めることを許されて、尚我慢できる奴など知らない。
 ずっと抱いていた罪悪感に押しつぶされそうだった。それでも、俺はその中で組み上げなおしたものを壊すことも出来なかった。
 劣情を越えて誰かを求めること。愛するということ。フィロンが好きだという、その気持ちを。

 自分の気持ちは肯定できても、行為までを正当化することはなかなかに難しいことだった。だから俺は、やはりフィロンにそれを委ねることにした。もっと多くを教え、俺がそうだったようにたくさんのものを見聞きし、そうして、それでも尚フィロンが俺を求めてくれたら。そうしたら初めて俺は胸を張って、フィロンを愛していると言えるような気がした。
 奴隷の証を付け、正式に奴隷としての登録を終えると、俺は直ぐに他の二人に溜めた金を使うことを許してもらい各地へ足を延ばした。そこまでの遠出は出来なかったが、部屋に籠っているよりも遥かに増した情報にフィロンは目を輝かせた。その時は少し俺の心も落ち着いたから、数年かけてそんなことを繰り返した。一方でいつか来るかもしれない別れを思うと苦しかったが、フィロンの願いをかなえてやることが彼に出来る最大の感謝で、そしてなによりの謝罪だと自分に言い聞かせながら、定期的に彼を抱いた。罪への罰は最後に必ず受けるからと、全てを先送りにして。

 そして別れの時はやって来た。ある日外へ使い走りを任せて帰ってきたフィロンは、興奮か高揚感からか上気した頬とともに俺の前までやって来ると、奴隷をやめたいと言い出した。ずっと来なければいいと思っていた日がついに来たのだと思った。
 その日を迎えることになって、俺はほんの僅か、安堵してもいた。フィロンを手放すことは想像よりもはるかに痛みを伴ったが、俺もまたずっと抱えていた彼に対する後ろ暗さから解放されるのだと。
 アウル達には疑問に思われたが、フィロンの願い以上に、彼の未来の為だと思った。その実、それは俺がこれ以上罪を犯さないためでもあり、俺が罪を重ねることそのものよりも、それにフィロンを巻き込むことが最大の悪しきことなのだと、俺はそう信じていた。――そんなものは、ものの一ヶ月ほどであっさりと崩れ去ったが。
 フィロンがどうやらスラムにある勢力の一つ、【兎】の誰かに何かを吹き込まれて騙されたようだと知って、俺は直ぐに行動を開始した。持てる伝手を全て使って、あまり干渉してこなかったスラム内の別グループの【魚】にも一応、協力を打診した。そして今まで寄り付きもしなかった彼女のところへ、家の方まで出向いて頭を下げた。
 勿論中に通されることは無く、俺は対応してくれた家令に騎士団でさらに力を付けたらしい彼女を頼りたいと、俺が来たことを伝えてくれと頼んだ。罵られることも覚悟したがその場はあっさりと終わり、俺はアウルから、情報を漏らしに来た【兎】所属の兄妹の世話を言い渡された。フィロンを失って俺の気力が酷く落ち込んでいたこともあるが、今回、全ての情報を管理し結論を出すのは俺の仕事だからと。
 黒目、黒髪の少年の名はメノウ。その妹はクリスタと言った。淡紅色の瞳に睫毛や瞼に至るまで白金の髪を持つ、眼皮膚白皮症の子どもだった。弱視で日光に弱く殆ど外に出すことは無かったようだが、スラムの中でも荒くれ者の多い【兎】の中でよくここまで守って来れたと感心した。並大抵の辛さじゃなかったはずだ。けれどメノウは、失うこと以上に耐えがたいことは無いとはっきりと断言した。……その通りだと思った。
 食事を作ってやり、力を使って二人の身体を癒しながら、俺はフィロンのことばかり考えた。二人とも目に見える酷い傷はなかったがメノウは直前にフィロンを抱くことを強要されたようだし、心の中のことは俺にはわからないし癒すことも出来ない。死んでない限り俺の力は及ぶのだろうが、メノウの話が真実であれば既に許容量を超えた薬の投与でフィロンは壊れている。死ぬのは時間の問題だと思えた。
 メノウとクリスタを保護する一方で、俺は【兎】を潰す方向で動いていた。奴らの持つ薬は威力が強く、スラムで広がりを見せ始めていた。勝手に一人でショック死するならまだしもバッドトリップで周りの連中を殺してしまうパターンが多い。俺達の所はまだ静かだが、いつそれがこちらへ飛び火してくるか分からない。
 俺が我慢できず、せめてカイトやアウルが黒猫亭に帰った時くらいはと入れ替わるようにして外を探していた時のことだ。フィロンが街のどこかをまさに徘徊しているだろうことを思うと、どこにいるか全く見当がつかなかった。表通りを歩いて目撃証言を集めてみても、薬で壊れて死にかけている獣人のことなど気に掛ける者はいない。その手で息の根を止めたというのならば別だろうが、それにしても自分が手を掛けた獣人の身なりなど気にすることもないだろう。
 焦燥感からつい走り出しそうになるのを堪えて目を凝らし歩いていると、突然声を掛けられた。
「おいアトリ!」
 懐かしい声に振り向くと、覚えている姿よりさらに磨かれて美しくなった彼女がいた。まるで抱擁のように肩に腕を回され、陰ることを知らない綺麗な笑みが向けられる。それが眩しく、自然と目を細めた。
「久しいな。随分男らしくなった。それに連絡の一つも無かったかと思えば急に家に来たそうじゃないか」
 彼女の言葉は俺を咎めるようでありながら、全く棘と言うものが無かった。俺は不義理を詫びたが、彼女は頼みごととやらを任せてくれるのであれば水に流してやってもいいなどと言いながら笑って許してくれた。俺は彼女に伝えたいことがあるのだと話し、人の目と耳の無いところで【兎】に纏わる闇取引の情報を流す旨を伝えた。
 彼女には俺が善意や正義感から動いているわけではないことなど全て読まれているようだった。ただにやりと、綺麗なだけではない笑みを浮かべて意味深に俺の肩を叩くに留めていたが、俺はどうにもそれが居心地が悪く、事態が落ち着けば必ず一度家に来るようにと釘まで刺されて黒猫亭へ戻った。貴族の中でも指折りの大きさの実家を持つ彼女の家が、俺の今までを知らないことの方が可笑しいのかもしれないとむず痒くなったが、その場はありがたく思うことで気持ちを切り替えた。
 それからフィロンと再会できたのは直ぐだった。比較的淡泊で大人しい……と言うよりは腹に抱えているものが黒すぎて近寄りたくない【魚】所属のジャックが、路地裏に落ちていたと言って抱えて持ってきたのだ。俺は礼もそこそこにジャックの対応をカイトとアウルに丸投げして、フィロンを抱いて部屋に籠った。最早その他のことなど眼中になかった。
 フィロンは見るからにボロボロだった。雑巾が行き着く果てのような。汚れているのは勿論、耳は俺が付けてやったピアスが引きちぎられて、酷く膿んでいた。呼吸は小さく、今にも止まってしまいそうに思えた。
 直ぐに身体を綺麗にしてやりながら力を使った。【猫】の何人かに風呂と飲み水、食事の用意を頼んで、その他はずっとつきっきりで、俺の中にある力が枯渇してもいいと思うほど強く、彼の回復を願った。
 フィロンの肌は数日間、可能な限り触れて力を使っていると直ぐに塞がった。その過程でピアスの穴も塞がったことには一抹の寂しさを覚えたが、奴隷でなくなったのだから歓迎すべきことだと自分に言い聞かせた。
 一日の殆どをフィロンに費やし、触れていない時間など用を足しに行く時くらいしかないのではと思うほど俺は彼について離れなかった。食事も風呂も全て彼に触れながら彼と一緒に済ませた。フィロンの意識はないことの方が多く、食わせるためとはいえ彼の唇に触れるのは罪悪感と喜びが綯い交ぜになったが、彼は目が覚めても朦朧としているようで、不安げに俺を呼ぶその頭を撫でるとほっとするようだった。俺はそれを見て馬鹿のようにそればかり繰り返した。
 フィロンの口から洩れるのはいつも俺の名前と、「ピアスを返して」という言葉だった。あれは特注品だったから目を付けられて奪われたんだろう。その所在についても探そうと思いつつ、俺はフィロンの中に残ってるだろう薬の影響が無くなるまで力を使い続けた。
 日に日に具合の良くなっていくフィロンを見るのは嬉しかった。俺が俺だと分かるようになり、俺を見て喜びを隠さない姿に俺の方こそが喜んでいた。フィロンは、俺を嫌っているわけではない。その命を失ったわけでもない。そのことがどうしようもなく嬉しくて、誰にともなく感謝をした。
 フィロンが一人で日々を送れるようになってくると、俺はピアスの行方を探すことにした。【兎】を潰すための証拠固めはカイトの担当で、それは大方終わっていた。後は次の奴らの取引現場を騎士の連中に抑えてもらえばいい。彼女の家に繋がる何人かとは面識を持ったし、彼ら伝いに情報は逐一流されている。殆どカタはついたと思って良かったからだ。騎士に押収される前に取り戻す必要があった。
 ピアスは十中八九【兎】が持っているだろうと見当は付けてあった。あれは一点ものだし、いい品だ。売れば金になる代わりに足も付きやすい。時期が来るまでは売り払われることもないだろうと踏んで、俺達はその周辺をそれとなく嗅ぎまわった。
 【兎】のアジトは【猫】と同じく酒場だ。ただし、俺達の酒場とは位置が真逆で、街の隅、スラム街の奥まったところにある。俺達がそこを歩けばすぐにそのことはあちら側へ伝わるだろうが、直ぐさま衝突なんてことにはならないだろうと考えていた。絡まれれば探し物をしているのだと告げ、連中はそれがフィロンのことだと思うだろうから、勘違いをさせておけばよかった。流石に、この辺りで生きてるケモノなんかいやしないと煽られた時は胸糞悪くなったが。
 スラムで暮らす人間ってのは、基本的に碌でもない奴ばっかりだ。手癖も悪い。殺しは兎も角盗み位は当たり前にやる。その手腕でもって、連中が酒と薬で仲良く楽しくラリってる間に目的のピアスを奪い取った。元々は俺のものなのだが。
 直ぐにバレることは無いと思いたいが、念には念をと、帰って【猫】全体にはいつも以上に外出の際は気を付けることと、一人で出歩かないようにと注意喚起はしておいた。
 フィロンにピアスを見せると、あれだけ気にしていたのに悲しそうにその顔が歪んだ。
 フィロンのそんな顔を見るのは初めてだった。痛々しく、触れることも躊躇われるほどの表情と視線が俺に、ピアスに向けられる。これがそんなにも彼を苦しめるものだというなら、一刻も早くその視界から取り去ってやらなければと、俺はピアスを握りこんだ。
 フィロンは泣きながら俺に「もう一度奴隷にして欲しい」と言ってきたが、俺は騙された先にされたことがショックだったのだろうと、やんわりと押しとどめた。きっと一過性のもので、立ち直ればまた、外へ向かっていく気も起きるだろうからと。もう一度フィロンを奴隷として俺のものにしてしまえば、俺はきっと二度と彼を自由にしてやれなくなるだろうと、そんな確信を抱きながら。
「僕は、アトリ様が、好きです」
 泣きながら呟いたフィロンに、俺がどんな気持ちになったか。
 彼の気持ちはきっと、俺が彼に抱くような荒れ狂う天気にも似たそれではないだろう。清らかに溢れる、澄んだ水のようなものだろう。そう思うのに歓びは隠せなくて、俺は身動きが出来なかった。ただ、ぎこちなく彼を引き寄せてその背を撫でて、彼が泣き止むのを待ちながら、その尻尾が嬉しそうに揺れていることを図りかねていた。

 それから、フィロンの好きはどういう好きなのだろう、と思うことが増えた。
 好きだという言葉そのものはずっと受け取っていた。それは彼女のように明るく溌剌としていて、俺は『普通の』子が親に抱くような、家族愛と言うもののように思っていた。性的な行いはあったものの、フィロンは倫理観や背徳というものをなかなか自分のものにできていないようだったから、その欲求と家族愛というものが本来は繋がるものではないのだと分からないのではないかと。仮に俺と同じものだとしても、性的欲求が俺に向けられたのは、外界との接点が俺しかなかった時期に精通がきたことや、俺に対する信頼がそんな風にすり替わったのではないかと。たまたま外に出ようとした矢先に酷い目に遭っただけで、フィロンが正真正銘愛を抱く相手はこの先別に現れるのではないかと。
 惑いながら俺が出来たことと言えば、溢れる欲に流されないように、性的な行いを全て塞ぎきることだけだった。偶然か、それとも性的暴行を受けたせいだろうか、フィロンが俺を欲しがることは無かったから、俺は既に奴隷ではなくなった彼を一人の人として尊重するように接することで、何とか揺れる足場に踏みとどまっていた。
 均衡を崩したのはフィロンの方だった。もう恐らく大丈夫だろうというところまで回復した彼は突然、裸で触れ合いたいと言い出した。彼の良過ぎる記憶力は、この先も痛みと暴行を忘れることは無いだろう。俺でさえ恐怖が染みついているのだ。細部まで覚えてしまっている彼の痛みは何度でも蘇る様に思えた。
 それでも、俺に優しく触れられたいのだと望む彼を拒絶することも、かといって慰め、なだめることも出来ず、俺は、俺達はベッドの上で裸になり、そっと肌を合わせた。
 それは俺にとっても初めての感触だった。
 キスをしながら、彼を癒したいと思った時の気持ちのままその肌の感触と温もりを味わう。癒されているのは彼のはずなのに、俺はその微睡むような心地よさに心が解れていくようだった。俺が求めるのではなく、彼が求めるものを叶えたいという気持ちに性的なものはなく、罪悪感もなかったのが大きかったのだろう。
 俺は『優しい触れ合い』をフィロンにも促した。それを行う側の心が癒されるのなら、きっと彼がそうやっても同じだろうと思ったからだ。見つめ合って、触れ合って、いつもは股間がどうしようもなく熱くなったのが、彼を拾った時のように胸が暖かい。フィロンは尻尾を嬉しそうに揺らしながら、ふと涙をこぼした。
 つつと静かに流れていくそれは彼の心のように澄んでいて、俺はそれを丁寧に舐め取った。嬉しくて泣いているのかと思ったが、やはり辛かったことを思い出して、やっと感情が追い付いたのかもしれなかった。その出来事を洗い流す涙なら、止める理由はなかった。
 俺は何度もフィロンを呼んで、フィロンは俺を呼んだ。それだけのことなのに俺までもが満たされて、何か綺麗なものが、心の中に溢れるようだった。フィロンの綺麗なものが俺の暗いものまで洗い流すような、そうして何も気にせず暖かな気持ちでその行為に耽っていると、フィロンはおもむろに口を開いた。
「アトリ様、……セックス、してください」
 強請られた言葉は予想の範疇で、俺はきっとセックスをすることはフィロンの心を傷つけることだと、心の傷は俺には治せないから、するべきではないと言うことが出来た。出来たのだ。フィロンのためを思って、初めてその欲望を蹴ることが出来た。
 なのに、フィロンは引かなかった。俺に触れられることは喜びしかないのだと。あまつさえ行為に及ぶかどうかを、俺に委ねさえした。意趣返しかと思ったほどだ。
 俺は彼をやり込める言葉を持たなかった。
 ただひたすら傷つけることが無いようにと、怯えることが無いようにと、まるで初めてそうするように彼の身体を愛しみ、開いた。じっと目を合わせ、彼は俺に抱かれているのだと、記憶を上塗りしたがるように俺を見上げ、俺はそんな彼の願いを叶えたいと、それだけを思いながら。
 フィロンが嬉しそうに俺の指を、性器を受け入れてくれることに舞い上がり、やはり夢心地になりながら、俺は夢中でキスをした。指を絡め、腰を動かして繋がった俺達のその一点で快感を共有した。
 その行為は今までされてきた、してきたものの中で一番、清らかなものに溢れていた。深く繋がり、フィロンの温もりを一番敏感な場所で感じること。求められるままその奥へ収まり、フィロンを抱き上げる。騎乗位でフィロンを支えると、その刺激で零れた可愛い喘ぎ声にまで胸が騒いだ。快感をやり過ごし、僅かな間閉じられてしまった瞼が開き、色違いの瞳が俺を映す。それはどこまでも澄んでいて、不意に俺は、この存在を穢すことなど、しようと思っても出来ないのではないかと思った。
「アトリ様、僕の中で射精してください」
「……フィロン?」
 だからフィロンの口から洩れたその言葉に、意味を見いだせなかった。
 それまで中で出したことは無かった。それは彼をいよいよ穢すことのような気がして、俺が、俺のものが彼の中に残ることは彼を落とすことになるのではと怖かったから。そんな気持ちの悪いものがずっと彼の中に触れていることが、彼が俺のそれを気持ち悪いと思うことが。
 それだけにフィロンのその言葉を嬉しく思いながらも、俺は一瞬戸惑った。本当にいいのかと確認するような目配せにも、フィロンは微笑んだ。その色違いの瞳に、零れそうなほどの涙を浮かべて。
「僕はアトリさまが……アトリさまが、好きです。大好きです。……特別なんです……アトリさまだけなんです、好きなのは、アトリ様だけでっ……だから、アトリ様の精液をください。欲しいんです。……ぼく、奴隷じゃなくて、アトリ様の恋人になりたかったんです。本当は今も、ずっと、ずっと……っ!」
 その眼に一杯になった涙は、俺が思い切り彼を突き上げたことで彼の頬を伝い、繋がる俺たちの間に落ちた。
 欲しかった言葉。ずっとずっと求めていたもの。気持ち。それが一斉に彼の言葉から溢れ、巨大な波のように俺を飲みこんだ。叫ぶようにフィロンを求め、ずっとずっと言いたくて仕方がなかった言葉が飛び出す。彼が好きだと、愛しているのだと。何を思ってかこれを最後にするからという彼の言葉だけは叶えるつもりなどなかった。
 痙攣するように身体が動いた。彼の求めるものを与えたくて、彼がくれたものと同じものを返したくて。俺の揺さ振りにフィロンは犬のように鳴きながら、それでも俺にしがみ付いて俺の頬を舐めた。
 俺はいつぶりになるのだろうか、泣いていたのだ。
 フィロンの優しい熱が俺の涙を拭い、その中へ飲みこんでいく。俺は同じようにフィロンから溢れるものを自分の中へ取り込んだ。結合部から広がる快感と、それ以上に胸の方から迸る想い。俺達はそれしか知らない子どものように思いの丈を伝え合った。
 込み上げてくる衝動は吐き出したところで収まることもなく後から後から湧いて出て、俺はフィロンがされただろうことをその口から聞き出すと、出来る限りその通りに彼を抱き、何度もその中に精を注ぎ込んだ。俺の想いが具体的な形になって吐き出されたそれは、どんなに出しても胸の内に渦巻く大きさには敵わないように思えた。
 俺が懐き続け、彼女の愛情をもってしても払拭できなかった罪の意識。それはフィロンの言葉で、その存在で、跡形もなく流れ去るようだった。



「アトリ」
 ふと遠くへ行っていた意識が戻ってくる。見下ろすと、俺の機嫌を窺うような表情とかち合った。
 フィロンはすっかり盛った声で俺を誘う。耳掃除の後はいつもそうだ。変わらないそれに苦笑が漏れた。
 間違いなくフィロンをこんな風にすぐに盛るようにしたのは俺だ。卑猥な言葉を教えたのも俺。……受けた行為と気持ちが一番強く結びついてるのは、嬉しいとか好きよりもこういう、エロいことに関することなんじゃないだろうか。未だに彼は負の感情を知らないように過ごしている。【兎】連中からされたことさえもあまり深く受け止めていないようだった。
 けれど、俺も今は罪悪感などはなく、ほんの僅かな苦笑だけで――フィロンの前向き過ぎる旺盛な性欲に付き合うということは俺も当然反応してしまうわけで、性欲旺盛な彼との性行為は激しい運動に等しい――受け止めることができるようになった。そうしてくれたのは他ならないフィロンだ。
 俺が唯一見誤っていたのは、フィロンの好意が親に対するそれでも感謝でもなく、俺を恋人にしたいと、特別な愛なのだということだった。性的な行為を喜ぶのは、相手が俺だからだと。
 こいつは、自分の言葉がどれほど俺を救っているか知らない。出会った時から俺の中にあった全ての悔恨を少しずつ洗い流し、あの時、その全ては彼によって癒された。そうして漸く、俺はこの世に産まれたのだ。俺は人になった。
「アトリ……えっち、ダメですか?」
 俺の気持ちを知ってか知らずか上目遣いで俺を見上げてくる片青眼の目。俺がこうやってフィロンを見下ろすと、表情はもちろん、その耳が俺の声を拾おうとこちらを向き、俺への好意を隠そうともしない尻尾が丸見えになる。仮に尻尾が見えなくても俺の足に当たるし、そよ風でも気づくことができる。
「……いいや、ダメじゃないよ」
 身体いっぱいに好きだと伝えてくれる姿を、純粋に愛らしく、切ないほど求めたくなったのはいつ頃からだっただろう。罪悪感で覆われて、気づいたのは全てが終わった後だったが、相当に前からそうだったような気がする。

 あの後、獣人のフィロンの性欲を越えて彼を抱きつぶした俺は即刻報復に出た。とはいえ、俺が直々に手を下したのは騎士たちから逃げ遂せようとしていた連中を私刑に処して潰した程度だったが。
 騎士団が動くのも早かった。タレコミをして直ぐにスラムの一角が潰された。騎士たちが潰したわけではなく、どちらかと言うと【兎】連中が証拠隠滅で半ば自爆の体でむちゃくちゃにしたというのが本当のところだが、そんな子細はどうでもいい。
 【兎】は潰れ、薬の本元を捕まえたかどうかまでは聞かなかったが、今回の騒動でスラム内の治安について思うところのあった俺は、どうにかタレコミをシステム化できないかと考えた。彼女と俺と言う繋がりがあるうちはまだいいが、根本の解決にはならない。獣人奴隷の解放運動も進んだことだし、法整備も急がれる。人々の差別意識となれば積み上げられたそれが崩れる日はまだ遠いだろう。俺とフィロンが大々的に表を歩ける日々はまだ来そうにない。
 だから一刻も早くそうなるように彼女に相談しているのだ。チクりすぎてもスラム内にある暗黙のルールに抵触して反感を買うため、今の所彼女とのパイプとも言うべき繋がりがあることは黙っているが、いつまでも隠せるものではないだろう。
 何より、大捕物が終わったことで彼女から催促が来たのだ。――早く、お前の好い人を紹介しなさいと。

 高潔な人だから蔑視することはないだろうが、そういう心配は一切してない。何と言えばいいのか、まだあの人達が俺への情を持っていることが嬉しくも恥ずかしく、どんな顔をしていけばいいのか分からなくて非常に困っているというのが最近の俺の幸せ極まりない悩みなのだ。
「アトリ」
 既に硬くなってズボンの中心でテントを張っているフィロンの股間を見下ろし、彼の甘く抗い難い声に促されるようにそこへ手を伸ばす。
 フィロン。俺の恋人。愛しくてたまらない、大事な人。
 口付けながら優しくそこを撫でると、我慢できなくなったのか、フィロンの手が俺の手に重なり、ぐっと押さえつけられた。
「あん……」
 とろんとした目に、俺の芯が触られたかのようにそこが反応する。俺は服越しにフィロンの竿を握って、皮を動かした。
「んっんっ……あ、あとり、」
「いい?」
「いい……」
 嫌がることなく性器を俺に預けて快感に浸る素直な反応に、じわじわと心を占めていくもの。満ちていくもの。幸福感。
 フィロンに中てられてかすっかり俺の方もその気になって、俺はフィロンの口に指を入れながらそのスラックスをずり下ろした。協力的に腰を上げて足を動かし膝立ちになったその性器は男そのもので、獣人にしては軟な身体の中で、そこだけが素晴らしく雄々しかった。その先にキスをして、たっぷりと唾液で濡らし、舐める。フィロンは俺の腕を両手で持って、俺の性器の代わりとでもいうかのように指先を舐めはじめた。
「んあ……あっ……」
 ヘソ下に頭を押し付けて先端を可愛がる。小さな桃のような亀頭を舌で撫で、尿道口をこじ開けるように責めると彼の腹筋がびくびくと震えた。俺の腕を掴む力が増し、抱きしめるようなそれに代わる。
 口を離すともどかしそうに腰が揺れた。見上げると、俺の指を咥えて、物欲しそうにする彼を目が合う。そっと指を引き抜き、濡れそぼったそれを彼の肛門へ伸ばした。
 肛門に指を当てると、期待に震える吐息がかかった。俺の腕の代わりに、フィロンの両手は俺の肩へと捕まる場所を変える。フィロンの唾液を擦り付けていると、焦れたフィロンがキスをしてきた。唾液を拭わないままの唇は濡れていて、舌を絡めつつのキスの間に中指を肛門の中へ埋めると、口内に押しとどめていたらしい唾液が零れてきた。
「あっ……ごめ、なさっ……」
 俺の指を締めつけるその門。それを慣らすべく指を抜き差しすると、それだけでフィロンは引き摺るように悲鳴のような声を漏らしてよがった。
「ひぃ、いぃいん……っ、んっ、んぅ……ぅ、っあぁああん……んっんっ」
「かわいいよ」
 指が抜けるのが排泄の時の快感に近いんだろう。フィロンが味わえるようにと暫く動かしていると、中からも体液が滲みだしてきて、一旦完全に指を引き抜いた。
「あっ……」
 見なくてもそこが寂しそうにすぼまるのを感じさせるような声が落ちてくる。俺はサイドテーブルの引き出しからローションを取り出すと、中身を出してフィロンの肛門に塗りこんだ。ぬめりに助けられて、唾液のみの時よりは摩擦も少なく、そこは容易に俺の指を飲みこむ。落ちてきた分は俺のズボンにかかって染みになった。
 フィロンの肛門に入る指が三本になり、それだけ入ればもう十分だとフィロンが俺の猛りを欲しがる。俺はズボンを脱いで、勃起しきったそこへぬめつく手に余ったローションを塗り、そっとフィロンを引き寄せた。
「ん、……おいで、フィロン」
 見上げ、促す。フィロンは一つ頷くと、恥らうように目を伏せながらも俺の性器を手で支えて、その上に腰を沈めた。俺の亀頭が狭い門をくぐると、こちらが慌てるほど性急に、嬌声を上げながら俺の上に座り込んだ。その際に彼の内壁を割くようにめり込んだ先端に快感が走り、呻くような声が漏れた。
「あっ……はあ、っ……ん、アトリ、も、気持ちいい、ですか?」
 吸い上げるような中の動きを堪えていると、フィロンがそう言いながら俺を窺ってくる。フィロンの中はいつだって気持ちが良い。単純な刺激だけでなくて、彼とのセックスは幸福感があるのだ。それが快感を増幅させる。
 俺は返事の代わりにそっとフィロンのシャツのボタンをはずして、その中に潜り込んだ。乳首に吸い付き、性器ほどに硬く敏感になったそこを優しく刺激する。
「ああんっ……だめ、やっ」
「何が駄目なんだ?」
 俺の頭を抱いて髪を乱しながら、気持ちよさそうに漏れる否定の言葉。俺は舌で乳首を、右手でフィロンの性器を、そして左手でその尻尾を握って、同時に刺激を与えた。飽くまでも、優しく。
「やああああっ」
 背中をしならせて強い声を出す様子に、その声に急き立てられるようにして腰を動かすと、フィロンの身体が痙攣した。
「だめ、だめえっ あと、あとりっ……やあっ、そんな、ひぃ、ぅ、つよ、すごいっ」
 性器を締め付けられて苦しい。けど、それ以上にフィロンが感じきっているのが可愛くてたまらない。
「きもちいいっ、いっぱい、いっぱいきもち、いくて、はっ、ああ! だめ、あぅっん、んっ、おか、おかしくなっちゃ、っあああん!」
 貧乏ゆすりのように腰を、膝を揺らし、亀頭は親指の腹で撫で回す。尻尾は付け根を軽く摘んで引っ張る様に。乳首は押しつぶして円を描くように刺激し吸い付くのを繰り返す。悲鳴のような嬌声は眩暈がしそうな程俺を揺さぶった。
「おかしくなっていいんだ。俺がちゃんとずっと見てるから、安心しておかしくなってみな」
 強い快感に翻弄されていたフィロンは徐々に声が高くなり、肛門は狭く、中が収縮していく。
「あ、いちゃ、いっちゃう、いっちゃ、ど、か、どこか、いっちゃう、とんじゃう、あとり、あと、っ」
「大丈夫だ、俺がしっかり掴んでてやるから。ちゃんと戻って来れるから行っておいで」
 俺を深く信頼してくれているフィロンは、俺の言葉に安堵したんだろう。殆ど泣くようにしてそのまま身体を強張らせて、前からは精液を出し、足をわななかせて後ろでも絶頂を迎えたようだった。暴れ狂うように激しく振り乱される尻尾がその激しさを必死に伝えていた。
「っああああーっ!」
 眉を寄せて、硬く目を閉じて、俺の上に座っていたその身体が快感の爆ぜる瞬間強く固まり動かなる。数秒後、穏やかにその身体から力が抜け、俺はしな垂れかかるようにして力を抜くフィロンに呼びかけた。
「フィロン、……フィロン」
「んぅ……」
 名前を呼ぶと真っ先に反応するのはその耳と尻尾だ。それを追いかけるようにしてフィロンがそっと顔を上げる。その表情が寝起きのそれと重なって、俺はふと笑みが漏れた。
「おかえり」
「……ただいま、です」
 恍惚としているフィロンに、『トん』でみた感想を聞いてみると、すごかったです、とフィロンらしい返事が来た。
「とっても気持ちよくて……すごくて、……すっきりしてます」
 まるでその辺をひとっ走りしてきたかのような言い草に腹筋が笑いで引き攣りそうになる。俺はキスを贈りながら、控えめに腰を揺らしてそれがまだ勃っていることをアピールした。
「あんっ」
「すっきりしたところ悪いんだけどな、俺もすっきりさせてくれ」
 フィロンの腰を掴むようにその身体を包み、腰を前後にうねらせて性器の出し入れをすると、飛ぶ前よりも柔らかな喘ぎ声が漏れ始めた。
「アトリぃ……そんな動いちゃ、ぼく、っ……あっ、また、イっちゃ、う……っ」
「いいよ。何回でも気持ち良くなればいいだろう? ずっと抱きしめてるから、飛んで行ってもまたおかえりって言ってやるから」
 言いながら、込み上げてくる衝動がまだかまだかと焦がれて俺を炙るようにせっつく。それに俺が耐えかねる前に、フィロンは口を開いた。
「……っアトリ、このまま僕のこと、押し倒して……寝かせてください……そしたらいっぱい、きもちくなれるんですよね……?」
 正常位のことを言ってるんだろう。俺は揺れる彼のしっぽの毛並を整えてやりながら、これが押さえつけられて気持ちよくなれないんじゃないかと訊ねた。するとフィロンは酷く恥じ入るように俺から視線を外して、それでも俺の方をしきりに伺いながら小さく答えた。
「……えっちの時は……アトリが激しい方が尻尾、ぐりぐりってなって……きもちいい、から……大丈夫、です……あん!」
 喘ぎ声は我慢しないし、基本的にフィロンは気持ちいいこと、エロいことが好きだ。快感に素直なフィロンはエロくて可愛くて、なのにこんな風に恥らわれるともう、どうにかなりそうだった。何回も抱いたのに、なにを恥ずかしいことがあるのかと思うほど大胆に乱れるのに。
 勢いよく押し倒し、尻尾のことを考えずにぐっと性器を彼の中に押し込む。
「いいよ……じゃあ、フィロンも気持ちいいように、激しくしてやるから……」
 囁くと、真っ赤になりながらも嬉しそうにキスをしてきて、それに応えながらゆっくり、律動を開始した。最初は緩やかに、フィロンを、その反応を味わうように。その顔がもどかしそうに歪み、物言いたげに俺を見上げてくるまで。
「んっ……んっ……アトリ……アトリ……っ」
 気持ちいいと俺の性器を締め付けてくるのが可愛い。浅い場所の方が敏感だったのが、今は奥を突いても気持ちいいようだった。
「かわいい……かわいいよ……」
「あんっ……」
 探るように動き、フィロンの可愛い声が漏れてくる場所を先端で擦る。イったばかりで過敏になっているのか、彼は俺が動くだけで感じるようで、俺は徐々に動きを早めた。
「んっんっ、あ、アトリ、きもち、い、ですか?」
「いいよ。すげえいい……っ、は、ぁ……っ」
 フィロンと一緒なら、性行為も怖くない。痛くない。辛くなんかない。
 そんな想いを、彼はきっと知らないだろう。それでいい。幸せなことを知ってくれたら、俺と共に生きることを喜んでくれるのなら。
「うっ、……っふ、ぁ、いきそ……」
「ぼく、ぼくもぉっ、ぁ、また、い、ちゃうっ」
 フィロンの首の下で前腕を重ねて、自分の肘を掴むようにして抱きしめ急勾配の坂を上る。性器の先へ向けて、内側から飛び立つもの。フィロンを求める気持ちが外へ出る。慣れた匂いが鼻をくすぐり、胸の方に入り込んで性器の方へ落ちて行く。
「アトリ、中っ……中で、イって……っ」
 俺の動きに合わせて言葉を切りながら、高い声、小さく、可愛く言われて、俺は急に速度を増したその感覚に腰を引くのが遅れた。それどころかフィロンの中を強く穿ち、俺が入り込める最も奥で果てた。
「あああんっ!」
「っあ、うぁっ」
 フィロンの絶頂につられるようにして、その中で精が流れて出て行く。精液が飛び出すごとに快感が走り、フィロンに覆いかぶさるようにしてその時間が終わるのを待った。
「っ……はぁあああ……」
 腰と腹筋が快感の度に自然と動き、それが過ぎ去ると代わりにやって来た気だるさが、何とも言えない幸福感と調和してそのまま眠りたくなる。それを堪えてフィロンに頬をすり寄せると、フィロンも俺を抱きしめ返してくれた。そうして温もりをすり合わせて、そっと顔を合わせる。
「急に可愛いこと言うなよ。イクの我慢できないだろ」
「……我慢しないでください。僕もアトリにいっぱい気持ちよくなってほしいんです。それに……中で、終わった後にアトリがいるのが、好きだから」
 はにかむその表情に、また股間が熱くなりそうになる。フィロンはそれを喜ぶだろうが、これから一応外に出る用事があった。彼女の予定に合わせるために、都合のいい日にちを聞きに行くのだ。
 キスをして、そっと萎んだものを引き抜く。フィロンは寂しそうな顔をしたが、たっぷりキスをするとベッドの下で窮屈そうに尻尾が動いた。
 足を撫でて揃えながらその隣に横になると、フィロンもそれに合わせて横を向いた。自由になった尻尾が改めて大きく揺れている。
「……尻尾、良かったか?」
 聞いてみると、彼は恥ずかしそうに頷いた。それが可愛くて、顎を引いた彼の顔を上げさせて、その唇を味わう。揺れる尻尾を感じながら尻を揉むと、嬉しそうな声が上がった。

 恋人になった日以来、フィロンは中で出されるのが好きなようだ。口から飲みこむのも。まあ毒ではないから俺は良いんだが、どうにも精液をねだられるというのは恥ずかしくて嬉しくて、またぞろ性器が元気になりそうで、あまりそちらを煽てるのはやめてほしくもある。
 それに、一度だけフィロンに身体を委ねたことがあったが、フィロン自身は外で出すことが俺を大事にすることになると思っているらしい。間違ってはいないが、密かに記憶の上塗りを狙って中出しをされてみたいと画策している俺としては少々もどかしいところだ。それにどうもフィロンは俺に触れられることの方が好きなようで、前よりも積極的に俺を気持ちよくさせようという動きこそあるものの、俺の中に入れたいという欲求そのものはそう強くないらしく、なかなか機会がなかった。
 俺としても是が非でもと言うわけでもないのだが、フィロンにならと思うからこそ、歯痒い思いをしているのも確かだ。ただ、そのおかげか、最近は『明日死んでもいい』というような捨て鉢な気持ちは薄くなり始めている。
「なあフィロン、近くお前を紹介したい人がいるんだ。会ってくれるか?」
「僕を?」
「そうだ。お前は俺の一番大切で……愛してる、恋人だって」
 ローションをこぼして濡らしてしまったズボンを取り換えて新しいのを身に着けながらそう告げると、フィロンは興味を示したようだった。特に俺の恋人、というところが気に入ったらしく、自分で繰り返し呟いて、だらしなく頬を緩ませていた。それを見て、絶対にセックス関係のことは言わないように釘を刺しておく必要を感じる。悪いことだとは教えなかったが、積極的に話題にすることでもない。ましてや相手は彼女だ。流石に気恥ずかしい。
「いつですか?」
「それをこれから決めに行く。いい子で待ってろよ」
 俺が脱がした服をまた着込みながら、ベッドの上で俺を見上げるフィロンの頭を撫でると、嬉しそうにその双眸が細められた。その口から、珍しい言葉が漏れる。
「その人は、アトリにとってどんな方なんですか?」
 今までフィロンがそう言うことに頓着したことは無かった。新鮮なのもあって、きちんと応えてやろうと暫し彼女への思いを洗い直す。そうして整理をしてみて、思い浮かんだのは一つの単語だった。
「……俺の初恋の人、かな」
 口に出すと、酷くしっくりとしたそれに俺が一番納得してしまう。彼女には股間は反応しなかったが、それでもやはり清廉で美しく、強く、高潔だったその姿への憧れは尊敬と言うには少しばかり胸の高鳴りに柔らかなものが混じっていたように思う。
 俺は適切な言葉が見つかったことに清々しい気持ちでいたが、フィロンはそうではなかったらしい。耳も尻尾も微動だにさせず、ショックを受けた様子で放心していた。
「フィロン?」
 呼びかけると、フィロンははっと我に返って、俺の服を強く掴んだ。不安そうに俺を見上げ、行かないでください、と縋ってくる。
「……初恋って言っても、終わった話だぞ? 大丈夫。怖い女性ヒトじゃない。お前に会うのを楽しみにしてくれてる」
 その分、会わせないでいたらあちらからこちらへ押しかけてきそうなのだ。彼女は顔が広いからそれは非常に困る。公明正大で知られる彼女がこんな場所に来たら目立ってしまう。彼女には申し訳ないが、俺はフィロンと穏やかに過ごせればそれが一番いいと思っている。
「……女の人ですか?」
「そうだよ。綺麗な人だ」
 うっかりと常々思っていたことをこぼすと、それもまたフィロンのお気に召さなかったらしい。俺もそれはないだろうと思ったが出した言葉は無かったことにもできず、珍しく不満げな顔を見せる彼をどうしたものかと、曖昧な笑みを浮かべて頬や頭を撫でた。
 別にそれでフィロンの機嫌が直ぐに直ると思っていたわけではなかったが、良い方へ転んだらしい。少し尻尾が揺れ始めた。嬉しい時と同じ揺れ方だった。
「……僕、もっとアトリのこと、知っていたいです」
 そういう彼の表情は不満そうなままで、俺はその言葉に目を丸くした。その意味を噛み砕き、じわじわと込み上げてくる嬉しさのまま口角を上げる。
「その人は、お前の知らない俺のことをよくよく知ってるよ。会えばきっと、話が弾む」
「僕だって、アトリのこといっぱい知っています。僕しか知らないアトリを、」
 少し挑戦的な眼差しに胸が跳ねた。俺は、楽しそうな顔でもしているだろうか。心のまま、そっとフィロンの唇に一つ立てた人差し指を押し当てて、しぃ、と口を閉じさせる。
「それはずっと内緒にしておけよ。この先ずっと、お前しか知らなくていいんだから」
 釘をさすと、フィロンは少し怯んだようで、けれどその表情から少しだけ、いつもの俺を好きだという顔が覗くのを見逃さなかった。
「……アトリは僕の恋人、ですよね?」
 彼女への嫉妬と、俺への独占欲。
 そんなものが彼にも宿っていることを知って、俺が喜ばないわけはなかった。
「当然だろう。俺はずっと、お前だけのものだ」
「僕も。僕もずっと、アトリのものです」
 誓いのような言葉の後、俺達はどちらともなく相手の指輪へ唇を落としていた。
 ――彼のために生きよう。彼がそれを望む限り。
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