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第四章 天国トリップ

五十七話 サイレントマリス

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 薄暗い部屋で男は目覚めた。
 コンクリートの壁に囲まれた、薄暗く肌寒い部屋だ。
 
 灯りは部屋の中央、自分の真上に一つ。
 何とも弱弱しく、頼りない灯りだった。

 男は初めこそぼんやりとしていたが、だんだんと自分の置かれている状況が分かって来た。
 彼はワイシャツにグレーのズボンを履いた姿で、鉄製の椅子に座らされていた。
 両手足は枷によって椅子に固定され、体をいくら動かしても外れる気配は全くない。
 唯一まともに動く首を動かして周りを見てみたが、そこには薄暗い空間が広がっているだけだった。

「俺……俺は……なんでこんな……」

 ブツブツと独り言を呟きながら、彼はなぜ自分がこんな薄暗い部屋で椅子に縛り付けられているのかを考えはじめようとした時だ。
 男の前方にあった鉄製の扉が勢いよく開く、部屋に差し込んだ光に闇に慣れた男の目は細まった。

 扉を開けた誰かは再び勢いよく扉を閉める、その誰かは気分よさげに鼻歌を歌いながら男に近づいてきた。
 暗闇のせいで顔は分からない、足音はだんだんと近づいてくる。
 
 弱弱しい灯りが照らせる範囲にまでやってきた誰か、その顔を見た瞬間に男の全身から汗が噴き出した。

「ストレイグス……さん」

 ストレイグスは、仕立ての良い黒のスーツを着た右目は額から頬に掛けての大きな傷がある中年の男だった。
 灰色の髪を後ろで小さく束ね、上品な香水の香りを振りまくスマートな紳士という印象を見る人間に与える。
 足はすらりと長く、身長は185センチはあるだろう。

 彼はにこりと笑うと、隅にあった木製の椅子を男の前まで引きずってきた。
 そして彼に向き合う形で、ゆっくりと椅子に腰を下ろす。

「よお、外は綺麗な雪が降ってるぜ。えーと……お前の名前は……ユダだっけ?」

 その言葉に男は大きく首を振る、目の前の男が何を言おうとしているのかが分かってしまったのだ。

「違います! 誤解なんですよ! 組織の金に手をつけたのは……!」

 男が唾を飛ばしながら、喚き散らすとストレイグスは指を立て静かにするようにという意味を込めたジェスチャーをして見せた。

「そんな事はどうでもいいんだよ、盗んだ金の在りかはお前の相棒が吐いたし金も回収した。まあハンバーガー千個分くらいは減ってたけど、俺はグチグチ言わないぜ? なんせハンバーガーは大好物だからな、お前は何が好きだ? チーズか? フィッシュか? それともチキンか?」

 男は何が何だか分からず、声を出すでもなく口を動かす事しかできない。
 
「どうしたんだよ金魚みてーな顔して、さっきみたいにベラベラ喋ってくれ。好きな具材はなーに? って聞いてんだよ」

「俺……俺はチキンが……好きです」

「チキンか、いいねえ。俺も好きだぜチキンは、どっかっつーとチーズバーガーの方が好きだけどな」

「は……はあ」

 ストレイグスが妙に上機嫌だった、先ほどから笑顔は絶えないし声にも明るさがある。

「どっかの健康志向と偏食を履き違えた馬鹿が言うにゃあ、ジャンクフードは体に悪いんだと。くっだらねえと思わねえか? あんなに美味いもんそうあるもんでもねえってのによ」

「そ……そうですね!」

 男はこの状況で少しの希望を見出していた、目の前にいるストレイグスの機嫌はかなり良い。
 もしかしたら今回の件もこのまま水に流してもらえるかもしれない、と。

 先ほど金は回収したと言っていたし、グチグチ言うつもりも無いと言っていた。
 このまま機嫌を損なわずにやり過ごせば、自分の手足が自由に動かせるようになる時も近い、そう男は考えていた。

「さて、最後に一つだけ教えてくれ。お前、好きな食べ物はなんだ? あやふやじゃなくて本当に好きなもんだ」

「好きな……食べ物ですか? ええと……あっ、フライドチキンですかね。ジェノサイドバードのピリ辛フライドチキン、あれが好きです」

「へえ、そいじゃあ悪いがもう一つ教えてくれ。それ、最後に食べたのはいつだ?」

 その言葉で男は記憶を辿る、そういえばしばらく食べていない。金を盗んだゴタゴタもあったせいで、二週間は食べれていない事に男は気付いた。

「二週間前くらいですかね……」

「また食べたいか?」

「ええ、それはもちろん」

「そうか……だが残念な事にお前はもうそれを食べられないんだ」

「え?」

「なにせ今日ここで死んじまうんだからな」

 男は自分の中の希望が、砕ける音を聞いた。
 自分に死を告げたストレイグスは、悲しそうな顔をしながら涙を拭う動作をして見せる。

「悲しいよなぁ、俺だったら耐えられないぜ。自分の好きなもんをもう食べられない、考えただけでぞっとする」

「待ってください! あの金に手を付けたのはあいつなんです! 俺はただ手伝わされただけで……!」

「あーはいはい、言うと思ったよ」

 男の叫びを、ストレイグスは鬱陶しそうに遮る。
 
「主犯が誰とかそういうのはぶっちゃけどうでもいい、問題なのはお前らが俺の金に手を付けたって事だ。その償いはしないといけないよな、悪い事をしたら罰を受ける、子供でも知ってる事だ」

「つ……償いって一体なにをすれば?」

「安心しろ、ぜーんぶ決めてある。お前は何も考えなくていい、どうせろくな頭してないんだからな。おっ、そういやお前の相棒の謝罪動画みるか?」

 ストレイグスは、男の返事を待たずにパンパンと手を打つ。
 すると部屋の壁に動画が映し出された。

『ごめんなさい! ごめんなさい! ごめんなさい!!』

 動画に映っていたのは男の相棒の姿だった、彼は全裸で謝罪の言葉を叫びながらどこかの部屋の中を駆け回っていた。
 よく見ると、背中、腹、胸、腕や足の一部から血が流れている。

「こ……これは一体なにを?」

「まあまあ、もうちょい見ろって」

 動画は淡々と相棒の醜態を映す、それを男は黙って見ていたが一つおかしな点に気付いた。
 
 全裸の相棒は相も変わらず謝りながら走っている、だが様子がおかしい。
 謝罪の声に混じって小さく悲鳴を上げているし、何より疲れ方が尋常ではない。男の相棒は体力に自信のある男だったはずだ、にもかかわらず彼は泣きながら必死に走り続けている。
 まるで何かから逃げるように。

『ごめんなさ……ぎっ! ごめんなさい! ごめ……』

 相棒が何から逃げていたのか、男は疑問を持ってから十秒後にその答えを見た。
 走り続けていた相棒の足に、黒い犬が噛みついたのだ。

『ぎゃあああああ!』

 普通の人生では決して上げない声を上げて、相棒は地面に倒れ込んだ。
 倒れた彼の元には、一匹、二匹と犬が集まり最終的には七匹の黒い大型犬が彼に群がった。

『ごめ……ぎっ……あああ……すいば……ぐっぎぎぎぎ……』

 壊れた人形のような声を出して、相棒は犬に体を食われていった。
 犬たちは彼の皮膚を割き、はらわたを引きずり出してそれはそれは美味そうに食べた。
 彼の目から生気が消え、犬の租借に黙って体を揺らすようになったところで映像は終わった。

 男は言葉を失い、腹の底から湧きあがる吐き気を必死に抑えていた。

「あいつも頑張ったんだけどなぁ、飯を抜いて凶暴化した犬から逃げながら千回ごめんなさいを言えたら許すつもりだったんだよ。でも何回だったか……六百……いや七百だったか……? とりあえずそんくらいでゲームオーバーだ。やっぱ足の裏の皮を剥いで、部屋の床に塩を敷いたのはやりすぎだったか……まあとりあえず面白かったろ?」

「……はい」

 喉元まで来た汚物を飲み込み、男は弱弱しく返事をする。

「とりあえずあいつのおかげで、無くなった分の金は回収できた。金を持て余した馬鹿どもを集めて、あいつが何分生き残れるか賭けをしたんだ。むしろ増えたくらいだぜ」

「お願いします! どうか、どうか命だけは! これからは絶対に逆らいません! 命の限りあなたに仕えます! だからどうか……!」

「おーおーおー、泣かせるね。そうなんだよな、俺もお前を信じてやりたい。けど無理なんだよ、裏切りってのは癖になる。お前はもう信用できない」

「そんな……」

「けどまあ信じあう心ってのも大事だ、そこでお前には特別にチャンスをやる」

「チャ……チャンス?」

「そうだ、ただこのチャンスを使うかどうかはお前が決めろ。使わなきゃどうなるかはわかるな?」

 男は元より自分に選択肢が無い事を理解していた、チャンスとやらがどういうものかは分からない。だが使わなければすぐにでも自分が殺されてしまう、それを男は嫌気が差すほど理解していた。

「チャンスを、使わさせていただきます」

「ブラーバ! よぉし! よく言った! じゃあ早速きてもらうとするか、おーい入ってくれ!」

 ストレイグスが声を上げると、扉が開きズタ袋を被った大柄の男がカートを押しながら入って来た。
 筋骨隆々とした男は、ハアハアと荒く息を吐いている。
 腰にはシェフが使うエプロンを身に着けており、上半身は裸であちこちに血糊が付いていた。

「紹介しよう、これから君を拷問するクラッシュ君だ」

「拷問……?」

「そうだ、お前の拷問風景を馬鹿どもにリアルタイムで中継する。あいつらが興奮したり、拷問方法にリクエストをしたりすると俺に金が入るって寸法よ。お前の目標金額はそうだな……三千万ってとこか」

「そんな! 話が違う! 結局死ぬじゃないか!」

 ストレイグスは、ニコニコと笑いながら男の前に顔を近づけた。
 
「大丈夫、全部終わった後に生きてれば姿。それとこいつは俺からの餞別だ」

「な……何を!」

 ストレイグスは、男の口を無理矢理開くと男の舌に胸ポケットから取り出したタンピースを取り付けた。

「途中で舌を嚙み切られてもつまらないからな、まあ頑張ってくれ。さあクラッシュ君、おもちゃの用意をしてくれないか」

「う……」

 クラッシュはカートにかかっていた布を乱暴に剥ぐ、布の下にはハンマーやペンチ、ノコギリといった明らかに人間に対して使ってはいけない道具が並んでいる。
 その他にも、小さい針やナイフ、用途がよく分からない道具がいくつもあった。

「ふざけるな! この……イカレ野郎が! 死ね! 死んじまえ!」

 男は獣のように叫び散らす、それを見て満足そうにストレイグスは笑う。

「じゃあな、また会えるのを楽しみにしてるよ」

「くそが! くそっ!! 死ね! バケモノが! クソが! 畜生がああああ!」

 汚らしい怒号を遮るように、ストレイグスの後ろで扉は閉まった。
 もう男の声は聞こえない。

 ストレイグスはふんふんと下手糞な鼻歌を歌いながら、石造りの廊下を歩く。
 上機嫌な彼がふと見ると、前方の物陰から一人の女が現れた。
 黒いスーツを着た身長の高い女で、闇のように黒い長髪を後ろに流し、眼鏡の奥のブラウンの瞳は、ぞっとするほど冷たかった。

「よおべラウダ、久しぶりだな」

「お久しぶりです、今回はずいぶんといなかったですね」

「お説教は勘弁してくれ、それなりの付き合いなんだ俺がどういった人間か分かるだろ?」

「理解していますよ。責任感が無く自分勝手で、血を見るのが大好きな人間としてプリミティブな衝動に殉じて生きる最低最悪人間の屑のような方だと」

 真顔でそう言って見せた彼女に、彼は口を尖らした顔を見せる。

「まあいいさ、そういうきつい物言いもグッとくる。で? その手に持ってる資料は?」

「現在流通させているヘブンズアッパーの売り上げや効果の変化、その他各種データです。まとめておくように指示を受けましたので」

「指示? 俺が?」

「はい」

「ほんとに?」

「はい」

「あー……そうだったか。ありがとさん、貰っておくよ」

 ストレイグスは資料を受け取り、パラパラとそれをめくる。
 彼がべラウダの資料を見るのは久しぶりだったが、相変わらず丁寧な仕事だと感心してしまった。
 データは見やすいようにまとめてあるし、要点を抑えた簡潔で分かりやすい文章は驚くほど頭にすんなりと入ってくる。

「あの薬、原料のキノコの中毒性とかそういうとこに目をつけて作ってみたがこんな効果がねえ。中々おもしろいじゃねえか、こいつは楽しめそうだ」

「売り上げも悪くありません、販売員や客からも増産の要望が多数寄せられています」

「オーケー、増産だ。工場の方に連絡は?」

「すでに済ませてあります、販売ルートの拡大も手配済みです」

「ブラーバ、さすがだ。ジャンジャン作ってジャンジャン売りさばけ、そうすりゃあいつも出てくるかもしれないしな」

 くっくっと笑い、ストレイグスは資料をべラウダに返した。

「で、これからの予定は?」

「まずは帰還の挨拶を、皆さんすでにお集まりですよ」

「分かった、ただ先に飯を食わせてくれ」

「そんな時間は……」

「頼むよ、何ならお前もどうだ? お互いいつ死ぬか分からねえんだ、好きなもんは思い立ったら食わねえとな」

「……分かりました、ごちそうさまです」

「そういうとこ、好きだねぇ」

 ストレイグスはおどけたように肩をすくめ、べラウダを連れて廊下を歩き出した。
 
 理不尽な悪意が、静かに、陽気に、動き出した。
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