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番外編―本編の補完―
宵闇に浮かぶ月<その9>
しおりを挟む最低だ。いったい私は何をしているのだろう。
火照った頬を冷やすように、クッションに顔を埋め込む。わかっていたはずなのに、現実は想像以上だった。
こんなに醜い気持ちが生じたのは生まれて始めてだった。それは、湖の底へと身を投じてしまいたいほどに恥ずかしいことで、私は自己嫌悪に陥った。
これは嫉妬という感情に違いない。
婚約者に裏切られた時に、心は凍り付いた。
『貧乏人の夫になるつもりはない』
婚約者だった男が、最後に私に告げた言葉だ。蔑まれた目で私の手を振り払い、淡い恋心は踏みにじられた。あれだけ燃え上がった気持ちは跡形もなくなって、きっと自分は恋愛に縁のない人間なのだろうと思い込んでいた。
それなのに、まるで何事もなかったかのように息を吹き返した。分厚い氷がひび割れて、その隙間からは灼熱の炎が見えた。それは氷そのものを融かすように、うねりを上げていて、生きた心地がしなかった。
どこで何をしていても、平静な気持ちではいられない。アシュレイが、ただの生徒ではなくなってしまったのは、何時からのことだろう。
「着替えないと……」
自分に言い聞かせるように、私は呟いた。こんなことをしている時間はないはずなのに、体が動かない。思い出したくもないものが繰り返し、頭の中に浮かんで、その度に黒い感情が胸の奥で蠢く。
強いと思っていた心がそうでなかったと知った時、自分自身が信じられなくなってしまった。
美しい令嬢の手をとって、優雅に踊るアシュレイ。居場所がなくて、壁の花となっている私なんかより、とてもお似合いだった。見れば見るほど不愉快になるのに、見知らぬ女性と談笑しているアシュレイから目が離せなせなかった。
知らぬ内にアシュレイを目で追っている、そんな自分を認めたくなくて、泣きそうになった。
あそこにいるのはアシュレイではなくて、ただ人なのだと思い込もうとしたけれども、出来なかった。結局、気分が悪くなってしまって、新鮮な空気を求めてテラスに出たけれども、回復する兆しがないどころか、頭痛までしてくる有様だった。
『具合が悪いなら無理をするな。お前が元気ないと気持ち悪い』
王妃様にまで心配させてしまったようで、いったいどんな筋力をしているのか、お姫様抱っこをされて自室に戻ってきてしまった。明日には噂になっているのが目に見えるようで、別の意味で頭痛がする。
悩める気持ちを吐き出すように、ため息をついて、指先の切り傷を眺めた。もう瘡蓋がとれて、傷の痕もなくなろうとしている。ティーカップを落とした時に出来た切り傷で、アシュレイが手当てをしてくれた。
そっと、唇で触れたら、なんだか悲しくて、押し出されるようにぽろぽろと涙が出る。
いつの間にか、心の余白が埋め尽くされようとしていた。ただの生徒と言い切れない何かが、心の中にあることに気が付いていたが、ずっと気が付かないふりをしていた。
こんな出逢い方をしなければ、笑いあって共に生きる道もあったのだろうか。
埒が明かないとは分かっていたけれども、ぐるぐると考えてしまう。
けれど、自分の気持ちに気が付いてしまったのだから、これ以上、目を背けるわけにはいかなかった。
そこでふと浮かぶのは、王妃様の渋い顔だ。
何度投げ出したいと思ったかわからないけど、まだ私は彼女に関わっていたいらしい。
「頭、いたい……」
母もいない。
父もいない。
こんな時に頼れる人はすでに他界していた。自分自身が蒔いた種だから、友人に打ち明けるわけにもいかない。
結局、その日は一睡もできぬまま夜が明けた。
それから数日後、私は短い休暇を与えられて、自室に籠った。本を片っ端から読み漁り、久しぶりに羽を伸ばした。
ヴィオラは先日の夜会が縁になり、ジュディ様たっての希望で遊び相手として選ばれた。ちゃんと挨拶できたのか心配だが、ヴィオラなら出来てると思う。問題はジュディ様だ。同年齢の友人を欲しがっていたから、もしかすると嬉しすぎて、火だるまになりかねない。
別の意味で不安だが、ジュディ様の乳母をしている老婆が『責任を持って見守りますから』と土下座してきたので大丈夫だとは思う。
ようやく、どん底まで沈んでいた気分が持ち直してきたのだが、ヘレンから伝え聞いたところによると、諸悪の根源がお見舞いに来たいと言っているらしい。当然ながら警戒したが、何も変なことはしないからという言葉を信用して部屋を通した。
もちろんヘレン付きで。
「かなり信用されてませんね」
「当たり前よ」
ツンッと、アシュレイから顔を背けると、くすくすと笑い声が聞こえた。どっちか子供かわかりませんねと言われて、カァッと頬が赤く染まる。思わず逆上しそうになって、そのまま追い出しそうになったが、それこそ子供っぽい行動かと思って意地で堪えた。
「良かった。お元気そうじゃないですか」
「そりゃどうも」
「だったら、ひさしぶりに先生の淹れたお茶が飲みたいな」
「飲んだらすぐに出ていってくれる?」
「それはできませんよ」
アシュレイはにこやかに、しかし梃子でも曲げないであろう意思の強さを瞳に浮かべた。何を言っても言い返されるので、次第に何と言えばいいかわからなくなってくる。
なんだかんだ言って、自分の自慢のお茶を飲んでくれると嬉しいし、アシュレイとヘレンなら気負わなくて会話自体は楽しい。会話はお茶の話から次第に仕事の話へと移った。
「やり方を変えればいいのに」
「変えるって言ってもねぇ」
私はこの時、油断していた。
ほとんど身内の2人だったからなおさらで。
「あ、誰か来たみたい」
「俺が出るよ」
部屋の扉をノックする音に、私が何か言う前に行った時点で、何かがあると察するべきだった。
私とヘレンは来訪者を見て、悲鳴を上げた。
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