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第三章 私だけを見て

6.まじわり、とけて、甘くなる

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 まずは親父に根回しをした。

「研究室に泊まってることにしてくれ」

 次は架空の内容を母と優愛に伝えた。
 優愛はとても悲しそうな声を出したけれど、あっさりと納得してくれた。多分、俺の親父について理解しているからだ。

(……浮気のアリバイ工作をしてる気分だ)

 俺の恋人は輝夜なのだから何も間違ったことはしていない。でも優愛には隠すべきだと思った。この事実が後で発覚した時、どれだけ辛い思いをさせるのかは分かる。それでも今の不安定な優愛には伝えられない。

(……何が正解なんだろうな)

 風呂上り、和室の窓際に座って星空を見上げ、輝夜を待ちながら思う。
 
 俺が優愛を拒絶できるなら、そもそも最初に付き合いをやめている。輝夜のことを考えるなら適切な距離を置くべきだけど、今は絶対に無理だ。今の優愛と離れられるなら、そもそも最初から……ダメだ、思考がループしてる。頭が痛い。

「良いお風呂でしたね」

 輝夜の声。
 俺は思考を中断して目を向ける。

 ドキリとした。
 制服とも私服とも違う館内着からは、妙な色気を感じてしまう。

 その気持ちをごまかすようにして、俺は言う。

「意外と景色が良かったよね」
「分かります。うっかり上せてしまうところでした」

 ホテルの外観は古びていたけれど、中は綺麗だった。タイミングが良いのか大浴場はほぼ貸し切り状態で、しかも窓から星空を見ることができた。

「この部屋からも見えますか?」

 輝夜は質問しながら隣に座った。
 微かに火照った頬と少し濡れた髪。
 それは今の俺にとって、とても危険な毒に思えた。

「……その髪、乾かすの大変そうだな」
 
 特に意味は無い。
 間を持たせるための会話。

「普段は一時間以上ケアしています」
「一時間? 大変じゃない?」
「慣れると案外悪くないですよ。私の場合、物思いにふけることが多いので」

 何も考えない時間は落ち着く、ということだろうか? ……いや、逆か?

「春樹さんは、優愛さんみたいに短い方が好きですか?」

 ……また、優愛の話か。
 俺は感情を出さないために、返事をワンテンポ遅らせた。

「髪が短い輝夜は、想像できないかも」
「……やっぱり、長い方が良いですか?」
「ん-、どっちも好きかな」
「……はぐらかされました」

 どちらが好きかと問われ、どちらも好きだと言った。
 俺は質問に答えていない。だけど輝夜的には嬉しい返事だった。そういう意味での「はぐらかされた」なのだと思う。実際、はぐらかした。

 笑える。今の質問に答えが出せないのに、優愛と輝夜のどちらが大切かなんて、決められるわけがない。

「……なんだかロマンチックですね」

 輝夜が言った。

「恋人と二人で星空を見るなんて、小説では頻繁に描かれるシーンですけど……」
「……そうだね」

 俺もそこそこ本を読む。
 もちろん輝夜には遠く及ばないけれど、このような場面には覚えがある。

「小説だと、星座の名前とか言うことが多いよね」
「分かります。みんな妙に博識ですよね」
「博識か……」
「含みのある言い方ですね」
「いや、単純に輝夜も詳しそうだなって」
「前にも言いましたけど、私が知っているのは、興味のあることだけです」
「星座には興味が無い?」
「……あまり、好きじゃないです」

 珍しいと思った。
 輝夜がハッキリと否定するところ、あまり見た覚えがない。

「星は、ただそこにあるだけです。それなのに、勝手に名前を付けて、勝手に物語を紐づけて……そういうの、好きになれないです」

 呟くような声。
 ふと横顔を見ると、微かに寂し気な表情をしていた。

 何か地雷を踏んだのかもしれない。
 気の利いたことが言いたいけど何も出てこない。こんな輝夜を見るのは初めてだ。

 沈黙が続いた。
 やがて、輝夜が先に声を出した。

「……お布団を敷きましょうか」
「……そうしようか」

 俺は彼女の提案に乗った。
 この部屋に布団を敷くサービスは無いからセルフで用意する必要がある。

「窓際が良いですかね?」
「任せるよ。俺はどこでも眠れるから」
「それでは窓際にしますね」

 会話をしながらふたつの布団を並べた。
 軽く息を吐いて二人でそれを見つめる。

「……後は、寝るだけですね」
「……そうだね」

 食事は済ませた。お風呂に入って歯磨きもした。思い浮かぶ娯楽は星空を見る程度で、ほんと、寝る以外にやることがない。

(……大丈夫。寝るだけ)

 何が大丈夫なのか分からないが、とにかく大丈夫だ。
 仮に何か起きたとしても、恋人同士だから問題は無い。

 多分、キスか手を繋ぐ程度だ。
 その先へ進む気分にはなれないし、想像もできない。

「春樹さん」

 息を止める。

「……なに?」

 ぎこちない返事。
 輝夜は何度か深い呼吸をした後、意を決したように言った。

「優愛さんにしたこと、私にもしてください」

 ……。

「昨日は、くっ付いて寝たんですよね?」

 ……待ってくれ。

「どんな感じでしたか? とりあえず横になればいいですか?」

 ……それは、本当に、ダメだって。

「優愛さんは良くて、私はダメなんですか?」

 多分、考えてることが顔に出た。
 俺は頭を抱え、どうにか返事をする。

「状況が違う」
「何も違わないと思います」
「俺は、輝夜が思ってるほど安全じゃない」
「私だって春樹さんが思ってるほど綺麗じゃないです」

 互いに譲らない。
 俺の本音を言えば断る理由が無い。
 普通に性欲はあるし、輝夜には魅力を感じている。

 だけど、違うだろ。
 優愛が心に残っている状態で……どの口が言うんだって感じだよな、本当に。

 なんか、もう、疲れた。
 そもそも悩む理由なんて無いだろ。俺も輝夜も嫌じゃないんだから。

「座ってくれ」

 少し間が空いて、輝夜は布団の上に座った。
 俺は軽く息を吐いてから膝をつく。そしてふと気が付いた。まだ座ってくれとしか言っていないのに、彼女は黙って背中を向けている。

 ああ、そっか。本当に怖いくらいの推理力だ。
 普通なら混乱する。質問とか、俺の様子を見るとか……でも彼女は振り返る素振りすら見せない。きっと、何をされるのか分かっているからだ。

 その背中を見つめる。
 優愛とは違う長い髪が印象的で、思わず目を奪われる。この中に手を突っ込んだら一体どんな感触があるのだろう。

 ああ、最悪の気分だ。
 今から触れる相手に欲情しておきながら、頭の中には他の人が居る。

「……春樹さん?」

 名前を呼ばれハッとした。
 軽く頬を叩いて邪念を捨てる。

 それから俺は、何も考えず昨日と同じことをした。

「……」
「……」

 生まれたのは静寂。
 空っぽになった思考とは裏腹に、五感は生々しい感覚の伝達をやめない。

 少しチクリとする髪の感触。その奥にある肌の柔らかさ。そして甘い香り。想像を上回る情報量が胸の鼓動を早くして、輝夜の背を叩いている。

「……これで、終わり」

 俺は沈黙に耐え切れず声を出した。

「……このまま、優愛が眠るまで、待った」

 輝夜は返事をしなかった。
 その代わり、そっと俺の手に触れた。

(……同じだ)

 優愛も同じことをした。

(……でも、微妙に違う)

 指の長さ、形、感触。
 昨夜の時間を鮮明に覚えているからこそ、僅かな違いを比較してしまう。

(……気持ち悪い)

 強い嫌悪感が生まれた。
 それは、とある考えが脳裏に浮かんだせいだ。

 ──優愛も、同じことを考えていたのかな。

 ほんと、嫌になる。
 なんでだよ。なんで輝夜の……こんなにも素敵な女の子の隣で、俺は……。

「……ごめんなさい」

 輝夜が何か呟いた。

「やっぱり、我慢できないです」

 彼女は急に体を反転させた。
 そして──決して背中からは感じ取れない感触が、胸に押し当てられた。

(……これは、どっちの鼓動だ?)

 困惑する。
 直前までの雑念が今の衝撃で全て上書きされた。

「春樹さん……」

 彼女は体を離した。
 そして俺の肩を摑み、じっと見つめてくる。

 俺は目を閉じた。
 拒絶する理由も、それを考える余裕も残っていなかった。

 見えなくても気配で分かる。
 あと数センチ、あと数ミリ……そして、触れ合った。

 この感覚には、まだ慣れない。
 味なんて無い。触れている感触も、ほぼ無い。ただただドキドキする。

(……ん?)

 何か普段と違う感覚があった。
 柔らかいモノが俺の唇を押している。

(……これっ、まさか)

 思わず口が開いた。
 そして次の瞬間、きっとこの世で最も柔らかいモノが、俺の舌を挟んだ。

 目を見開いて輝夜を見る。
 彼女はギュッと目を瞑り、体を硬直させている。

 頭が真っ白になった。
 きっと互いに息を止めて硬直していると、やがて輝夜がゆっくりと顔を離した。

 うっとりとした目付き。ぽかんと空いた口。そして、風呂上りに見た時よりも火照った頬。彼女は、これまで俺に見せたことのない表情をしていた。

「幻滅しましたか?」

 輝夜は言う。

「私にだって、汚いところはあります」

 空っぽになった頭の中が、その声だけに満たされる。

「ずっと我慢してました。春樹さんを苦しめる選択は、避けようって……」

 微かに瞳を潤ませて、彼女は言う。

「ごめんなさい。やっぱり、同じは嫌です。もっと、特別が欲しいです」

 彼女は両手で俺の頬に触れると、じっと見つめた後、再び顔を近づけた。

 二度目の侵入。俺はあっさりと受け入れた。
 やり方なんて知らない。それはきっと彼女も同じだ。とても控え目な感触が、口の中で動き回っている。

(……なんだよ、これ)

 舌と舌が触れ合う度、体が痺れた。
 上半身に押し当てられた感触は徐々に強くなって、彼女はいつの間にか両足で俺の腰を挟んでいた。

 全く想像していなかった行為によって脳が溶かされる。
 触れ合うだけだった舌が絡み合うようになって、口の中に唾液がたまり始めた。

 聞いたことのない音がする。
 吸ったり、押し込んだり……輝夜は色々なことを試している様子だった。

 不意に彼女が目を開いた。
 直ぐに目が合う。何かを求めるみたいに切なげな瞳。

 決定的だった。
 僅かに残った理性を溶かすには、十分過ぎる程の魔性があった。

 俺は、恐る恐る彼女の舌先を舐めた。

 輝夜は驚いたような声を出した。
 冷静になれば、単に息を吸っただけの音だったのかもしれない。だけど、今の俺にそれを考えるだけの理性は残っていなかった。

 音が大きくなる。
 舌と舌が絡み合って、次々と溢れ出る唾液が互いの口を行き来する。

 息が苦しい。どこで呼吸をすれば良いのか分からない。
 だけど離れられない。お互い貪欲に未知の感覚を求め合った。

 まじわる度に互いの境界線が薄れる。
 直前までに考えていた悩みとか、迷いとか、全部とけていく。

 どんどん口の中が熱くなった。
 最初の頃にあった苦味は徐々に薄れ、そのうち甘くなった。

 これは何なのだろう。
 互いに歯を磨いた後で、何か食べた後なんて残っていないはずだ。そもそも直前に食べた物の中に、こんなにも甘い味は無かったはずだ。

 ケーキよりも、砂糖にまみれた炭酸飲料よりも、ずっと甘い。

(……この時間が、永遠に続けば良いのに)

 そう思った直後だった。

「……」

 輝夜が、グッと俺の頬を押して、顔を離した。

 先程よりもずっと蕩けた表情。
 だらしなく開いた口から透明な糸が伝う。

 彼女は熱にうなされてるみたいに荒い呼吸を繰り返す。
 その度、きっと無意識に、俺の顔に熱い息が吹きかけられた。

「この先は、ダメです」

 輝夜は言う。

「春樹さんの中に優愛さんが残っている間は、ここが、終着点です」

 これまでに見た輝夜とは違う。
 発情という単語がピッタリと当てはまるような雰囲気がある。

「だけど、我慢するのは、私も同じです」

 彼女は再び顔を近づけた。

「……塗りつぶしてあげます」

 耳元でささやかれた声が背筋を震わせる。

「……春樹さんを苦しめる優愛さんなんて、忘れさせてあげます」

 彼女は俺の肩に顎を乗せる。
 それから背中に両手を回して、痛いくらいに強く抱きしめた。

「……私を、選んでください」

 俺は──脱力した。
 情報の密度が許容できる量を超えて、脳が処理できなくなった。

 そのまま後ろに倒れる。
 輝夜は俺にくっ付いたまま離れなかった。

 ふと夜空を見上げる。
 満天の星空が、今も変わらずそこにある。

 人が住む場所から遠く離れた静かな場所。
 二人だけが居る部屋の中で、重なりあった部分から伝わる鼓動だけが、いつまでも鳴り響いていた。
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