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第三章 私だけを見て
5.輝く夜で塗りつぶして 後編
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* * *
電車で五時間ちょっと。
山の中にある駅で降りた後、送迎バスに乗って約五分。
やっと辿り着いたのは、古びた外見のホテルだった。
現在の時刻は午後の四時くらい。
まだ空は明るいから、その分だけ遠くまで見える。視界に映るのは緑の木々と蒼い空。それから背の低い建物だけ。
ここで何をするのだろうか?
二人ともラフな服装だから山登りってことは無いだろうけど……。
(……しかし、想像より遥かに遠かったな)
流石に体の節々が痛い。
俺は両手を広げ軽いストレッチをした。
空気が冷たくて心地良い。そんなことを思っていると輝夜が申し訳なさそうに言った。
「ごめんなさい。疲れちゃいましたよね」
「全然平気だよ。むしろ、電車で輝夜と沢山話せて楽しかったくらい」
「……それは、良かったです」
我ながら気取った言葉を口にすると、輝夜は照れた様子で俯いた。
「……少し、肌寒いですね」
やがて顔を上げた彼女は困ったような笑みを浮かべて言った。それはもう反則的に愛らしい仕草だった。
「俺のジャケット使う?」
「大丈夫です。そちらのホテルにレストランがあるはずなので、まずは何か食べましょう」
「ん、そうしようか」
俺が頷くと、どちらからともなく移動を始めた。
ホテルと聞けば縦に長い印象を受けるが、目の前にある建物は横に長い。恐らくは三階建てで、窓の感じからして二階と三階が泊まる場所なのだろう。
(……まさか泊まるつもりじゃないよな?)
俺は輝夜の目的を知らない。
「輝夜、ここで何するんだ?」
「まだ内緒です」
こんな風に、はぐらかされているからだ。
(……ググるか?)
ホテルの名前は分かる。立て看板がある。
スマホで検索すれば、ここが何をする場所なのか一発で分かるはずだ。
(……いや、やめておこう)
内緒にしている理由があるはずだ。
そして何より、俺は輝夜を信頼している。
彼女は怖い程に察しが良くて、いつも俺のことを考えた行動をしてくれるからだ。
(……よし、切り替えよう)
これは旅行だ。しかも恋人と二人きり。高校生としては背伸びした感じがするけど、この時間を楽しめなかったら、きっと後悔する。
俺は軽く息を吐いて、少し前を歩いていた輝夜の隣に並んだ。
「おすすめのメニューとかある?」
「……唐揚げが美味しかったと思います」
輝夜は難しい顔をして言った。
「あんまり覚えてない感じ?」
「ごめんなさい。小学生の頃、おじいさまに案内して頂いたのが最後で……でもでも期待してくださいね。本当に良い場所なので!」
良い場所、か。
「輝夜、おじいちゃん子なんだね」
「はい。とても、可愛がって頂きました」
輝夜は少し切なそうな笑みを見せた。
察するに……今は、思い出の中だけの存在なのだろう。
「お腹空いてきたね」
話題の変え方ヘタクソかよ。
「私もペコペコです。たくさん食べても笑わないでくださいね」
「それ、逆に見てみたいかも」
冗談を言うと、輝夜はぷんすか怒った。
こういうところが本当に可愛らしいと思うし、見てて癒される。
これが高校生らしい普通の付き合い方なのだと思う。
優愛とも、ほんの少し前までは──ああ、もう、またかよ。
本当に嫌になる。
比べる必要なんて全くないはずなのに……気が付いたら優愛のことを考えてる。
輝夜の顔をまともに見られない。
綺麗な彼女を見る度に、自分が薄汚れた存在に思えてしまう。
いっそ、両の目を塞いでほしい。
──と、この時は夢にも思わなかった。
まさか、本当に両目を塞がれるなんて。
* * *
「輝夜、まだ着かないのか?」
「もう少しです。あ、ここ段差あるので気を付けてください」
食事の後。
俺はタオルで視界を奪われ、複数の意味で暗闇の中を歩いていた。
草木が揺れる音と輝夜の声。
肌に触れる冷たい空気と繋いだ手の感触。
嬉しいやら怖いやらで脳がバグりそうだ。
やがて地面の感触がコンクリートから土に変わった。
森の中に入ったのだろうか?
今さら抵抗する気は無いけれど、少し怖い。
「座ってください」
とりあえず言われた通り腰を下ろす。
ひんやりとした感覚があった。多分、草の上だ。
「そのまま仰向けになってください」
言われた通り仰向けになる。
背中に触れた草がチクリとした。
「まだ目を開けちゃダメですよ」
視界を奪っていたタオルを外される感覚。
輝夜は俺の頭を軽く持ち上げて、その下に何かを敷いた。……ああ、タオルか。
「お待たせしました。目を開けてください」
ゆっくりと目を開ける。
流石に少しは予想していたが、目に映ったのは、想像を遥かに上回る星空だった。
「……すげぇ」
夜空に広がる星々の輝き。
それは本や写真、動画など見る光景とは全くの別物だった。
薄紫色の夜空を埋め尽くす大小様々な星々の光を見ていると、吸い込まれそうな気持ちになる。冷たい地面の上で寝ているはずなのに、どうしてか宇宙を漂っているかのような浮遊感があった。
「とても嫌なことがあった時に、おじいさまが連れてきてくれました」
その声を聞いて顔を横に向ける。
すぐ隣。輝夜は、俺と同じように仰向けになっていた。
「とっておきの場所です」
輝夜は顔を横に向けた。
直ぐに目が合う。彼女は一瞬だけ驚いたような顔をした後、照れたように笑った。
「如何ですか?」
──この言葉が頭に浮かんだのは、何度目だろうか。
反則だった。
それはもう本当に卑怯だった。
ここに来る直前の会話を思い出す。
タイミングが絶妙だった。輝夜は、きっと俺が優愛のことで思い悩んでいることに気が付いた。だから、元気付けようとして、この場所に連れてきてくれたのだろう。
(……どんだけだよ)
優しさが身に染みる。
その分だけ、自分が惨めになる。
俺はこんなにも尽くされてるのに、優愛を優先している。
「……優愛さんと、何かあったんですか?」
とても優しい声色。
俺は逃げるようにして視線を空に戻した。
再び見た星空は、酷く歪んで見えた。
大きく息を吸い込む。
それを吐き出すまでの僅かな時間で、俺は覚悟を決めた。
「……最近、優愛が俺の部屋で寝てる」
俺は理解した。
この世には知らない方が良いこともある。
例えばそれは優愛のこと。
あの日、俺が忘れ物を取りに戻らなければ二人の関係は変わらなかったはずだ。こんなにも思い悩む必要は無かったはずだ。
だけど俺は知っている。
大切に思っている人に隠し事をされるのは本当に辛い。
正直、どうしてここまで輝夜に好かれているのか分からない。
でも、せめて、ウソは吐きたくない。
「優愛は、少し前から、あまり眠れてない。多分、悪夢を見るんだと思う。ちょっと前にスゲェ怖いことがあってさ……それがトラウマになってるんだと思う」
もちろん肝心な部分は言えない。
家族にさえ隠すと決めた内容なのだから、たとえ輝夜が相手でも話せない。
「俺の傍で寝ると安心するらしい」
だけど、それ以外は全部言う。
「昨日は、くっ付いて寝た」
唇を嚙んで息を止める。
やがて水中から顔を出したみたいに息を吸って、惨めな言葉を吐き出した。
「……ごめん。輝夜と付き合ってるのに、優愛を拒絶できない」
返事は無かった。
冷たい静寂があるだけだった。
その沈黙は長く続いた。
一分、二分……もっと経っただろうか。
輝夜は、小さな声で言った。
「私は、春樹さんのことが好きです」
ドクンと心臓が跳ねた。
それは形容しがたい苦痛だった。
「優愛さんを大切にできる春樹さんのことも、好きです」
そして彼女は、俺が全く予想していなかった言葉を口にした。
「良いんじゃないでしょうか」
顔を横に向ける。
彼女は、星空を見上げたまま言う。
「どちらか一方だけを選ぶ必要なんて、無いんだと思います」
「……いや、いやいやいや」
流石に否定する。
「不誠実だろ、そんなの」
「私はそうは思いません。むしろ、あえて拒絶する方が不誠実だと思います」
輝夜はゆっくりとした口調で言う。
「確かに結婚できるのは一人だけですが、結婚しなければ一緒に居られないわけではありません。そもそも、結婚は子育てを前提として国から援助をして貰うための制度です。私には宗教が無いので、べつに複数人と愛し合っても問題は無いと思います」
久々に聞いた「賢そうな言葉」。
俺は混乱する頭を必死に働かせて、言葉を捻り出した。
「……輝夜は、嫌じゃないのか?」
「嫌ですよ。嫉妬します。気が狂いそうです」
彼女は顔を横に向ける。
そして、色々な感情が絡み合ったような表情を見せた。
「だけど、春樹さんが苦しいのは、もっと嫌です」
俺は、その目を真っ直ぐに見られなかった。
「嬉しいです。私のために、そんな顔をしてくれること」
「……違う。違うんだよ」
言葉が出てこない。
昨夜に続いて頭が真っ白だ。
これは輝夜の本心なのか?
俺を慰めるために言ってるだけじゃないのか?
俺は、どうすればいい。
何を信じて、何のために、何を言って、何をするべきなんだ?
分からない。グチャグチャだ。
あの日、優愛の真実を知ってからずっと、胸の痛みが消えてくれない。
──何かが手に触れた
柔らかくて、冷たくて、細いモノ。
それが指の間に絡まって、熱を持った。
「星空を見てください」
言われた通りに空を見上げる。
「私の時は、この輝く夜が、嫌なこと全部、塗りつぶしてくれました」
そして輝夜は握り締めた手に力を込めた。
「如何ですか?」
二度目の言葉。
その意味は、はっきりと分かる。
この星空と左手に伝わる温もり。
ふたつ合わせて、嫌なことを忘れられないかと問われたのだ。
「……なんで、ここまでしてくれるわけ?」
我ながら最低なことを言った。
昨日、俺が優愛に言ったことだ。今じゃない。この言葉を口にするべきタイミングは今じゃない。分かってるのに、止められない。
「俺、輝夜に貰ってばっかりだ。何も返せてない。むしろ恩を仇で返してる。なんで好きで居てくれるのか、正直よく分からない」
「……私も同じ気持ちです」
俺は再び隣を見た。
彼女もまた、俺のことを見ていた。
「浮気なんて、絶対に理解できないと思っていました。だけど、辛そうな春樹さんを見ていたら、そっちの方が良いかなって」
彼女は困惑したような表情をして言う。
「自分でも不思議です。なんで、こんなに好きなんでしょうね」
それは告白の時とは違う言葉。
あの日、輝夜は「こういうところが好き」と語ってくれた。言葉だけを比較すれば、あの時よりも距離が遠ざかったように感じる。
「春樹さんこそ、別れようとか思わないんですか?」
だけど、違う。何もかもが違う。
触れ合った肌から感じる熱も、心臓が胸を叩く感触も、あの日とは全く違う。
「……思わないよ」
「それは、どうしてですか?」
「……嬉しかったんだよ。輝夜が思ってる以上に、俺は救われてる」
何が本当で、何が嘘なのか分からない。
頭の中はグチャグチャで、自分が自分じゃないみたいな感覚がある。
「……ただの恩返し、ということでしたか」
「違う。それは違う。絶対に違う」
だからこそ今こうして頭を空っぽにして喋っている言葉だけは真実なのだと思いたい。
「輝夜のことを知る度に惹かれてる。こんなに素敵な子が居るんだって、驚いてる。でも、だから、優愛を優先する自分のことが、何か醜い存在に思えて、輝夜の隣には相応しくないんじゃないかって……」
嫌われる覚悟で言った。
輝夜は、どうして嬉しそうに目を細めた。
「……輝夜?」
問いかける。
彼女は薄桃色の唇をそっと開いた。
「春樹さん。残念なお知らせがあります」
突然の言葉。
俺が軽く首を傾げると、彼女は言った。
「帰りの電車、もう無いです」
……は?
電車で五時間ちょっと。
山の中にある駅で降りた後、送迎バスに乗って約五分。
やっと辿り着いたのは、古びた外見のホテルだった。
現在の時刻は午後の四時くらい。
まだ空は明るいから、その分だけ遠くまで見える。視界に映るのは緑の木々と蒼い空。それから背の低い建物だけ。
ここで何をするのだろうか?
二人ともラフな服装だから山登りってことは無いだろうけど……。
(……しかし、想像より遥かに遠かったな)
流石に体の節々が痛い。
俺は両手を広げ軽いストレッチをした。
空気が冷たくて心地良い。そんなことを思っていると輝夜が申し訳なさそうに言った。
「ごめんなさい。疲れちゃいましたよね」
「全然平気だよ。むしろ、電車で輝夜と沢山話せて楽しかったくらい」
「……それは、良かったです」
我ながら気取った言葉を口にすると、輝夜は照れた様子で俯いた。
「……少し、肌寒いですね」
やがて顔を上げた彼女は困ったような笑みを浮かべて言った。それはもう反則的に愛らしい仕草だった。
「俺のジャケット使う?」
「大丈夫です。そちらのホテルにレストランがあるはずなので、まずは何か食べましょう」
「ん、そうしようか」
俺が頷くと、どちらからともなく移動を始めた。
ホテルと聞けば縦に長い印象を受けるが、目の前にある建物は横に長い。恐らくは三階建てで、窓の感じからして二階と三階が泊まる場所なのだろう。
(……まさか泊まるつもりじゃないよな?)
俺は輝夜の目的を知らない。
「輝夜、ここで何するんだ?」
「まだ内緒です」
こんな風に、はぐらかされているからだ。
(……ググるか?)
ホテルの名前は分かる。立て看板がある。
スマホで検索すれば、ここが何をする場所なのか一発で分かるはずだ。
(……いや、やめておこう)
内緒にしている理由があるはずだ。
そして何より、俺は輝夜を信頼している。
彼女は怖い程に察しが良くて、いつも俺のことを考えた行動をしてくれるからだ。
(……よし、切り替えよう)
これは旅行だ。しかも恋人と二人きり。高校生としては背伸びした感じがするけど、この時間を楽しめなかったら、きっと後悔する。
俺は軽く息を吐いて、少し前を歩いていた輝夜の隣に並んだ。
「おすすめのメニューとかある?」
「……唐揚げが美味しかったと思います」
輝夜は難しい顔をして言った。
「あんまり覚えてない感じ?」
「ごめんなさい。小学生の頃、おじいさまに案内して頂いたのが最後で……でもでも期待してくださいね。本当に良い場所なので!」
良い場所、か。
「輝夜、おじいちゃん子なんだね」
「はい。とても、可愛がって頂きました」
輝夜は少し切なそうな笑みを見せた。
察するに……今は、思い出の中だけの存在なのだろう。
「お腹空いてきたね」
話題の変え方ヘタクソかよ。
「私もペコペコです。たくさん食べても笑わないでくださいね」
「それ、逆に見てみたいかも」
冗談を言うと、輝夜はぷんすか怒った。
こういうところが本当に可愛らしいと思うし、見てて癒される。
これが高校生らしい普通の付き合い方なのだと思う。
優愛とも、ほんの少し前までは──ああ、もう、またかよ。
本当に嫌になる。
比べる必要なんて全くないはずなのに……気が付いたら優愛のことを考えてる。
輝夜の顔をまともに見られない。
綺麗な彼女を見る度に、自分が薄汚れた存在に思えてしまう。
いっそ、両の目を塞いでほしい。
──と、この時は夢にも思わなかった。
まさか、本当に両目を塞がれるなんて。
* * *
「輝夜、まだ着かないのか?」
「もう少しです。あ、ここ段差あるので気を付けてください」
食事の後。
俺はタオルで視界を奪われ、複数の意味で暗闇の中を歩いていた。
草木が揺れる音と輝夜の声。
肌に触れる冷たい空気と繋いだ手の感触。
嬉しいやら怖いやらで脳がバグりそうだ。
やがて地面の感触がコンクリートから土に変わった。
森の中に入ったのだろうか?
今さら抵抗する気は無いけれど、少し怖い。
「座ってください」
とりあえず言われた通り腰を下ろす。
ひんやりとした感覚があった。多分、草の上だ。
「そのまま仰向けになってください」
言われた通り仰向けになる。
背中に触れた草がチクリとした。
「まだ目を開けちゃダメですよ」
視界を奪っていたタオルを外される感覚。
輝夜は俺の頭を軽く持ち上げて、その下に何かを敷いた。……ああ、タオルか。
「お待たせしました。目を開けてください」
ゆっくりと目を開ける。
流石に少しは予想していたが、目に映ったのは、想像を遥かに上回る星空だった。
「……すげぇ」
夜空に広がる星々の輝き。
それは本や写真、動画など見る光景とは全くの別物だった。
薄紫色の夜空を埋め尽くす大小様々な星々の光を見ていると、吸い込まれそうな気持ちになる。冷たい地面の上で寝ているはずなのに、どうしてか宇宙を漂っているかのような浮遊感があった。
「とても嫌なことがあった時に、おじいさまが連れてきてくれました」
その声を聞いて顔を横に向ける。
すぐ隣。輝夜は、俺と同じように仰向けになっていた。
「とっておきの場所です」
輝夜は顔を横に向けた。
直ぐに目が合う。彼女は一瞬だけ驚いたような顔をした後、照れたように笑った。
「如何ですか?」
──この言葉が頭に浮かんだのは、何度目だろうか。
反則だった。
それはもう本当に卑怯だった。
ここに来る直前の会話を思い出す。
タイミングが絶妙だった。輝夜は、きっと俺が優愛のことで思い悩んでいることに気が付いた。だから、元気付けようとして、この場所に連れてきてくれたのだろう。
(……どんだけだよ)
優しさが身に染みる。
その分だけ、自分が惨めになる。
俺はこんなにも尽くされてるのに、優愛を優先している。
「……優愛さんと、何かあったんですか?」
とても優しい声色。
俺は逃げるようにして視線を空に戻した。
再び見た星空は、酷く歪んで見えた。
大きく息を吸い込む。
それを吐き出すまでの僅かな時間で、俺は覚悟を決めた。
「……最近、優愛が俺の部屋で寝てる」
俺は理解した。
この世には知らない方が良いこともある。
例えばそれは優愛のこと。
あの日、俺が忘れ物を取りに戻らなければ二人の関係は変わらなかったはずだ。こんなにも思い悩む必要は無かったはずだ。
だけど俺は知っている。
大切に思っている人に隠し事をされるのは本当に辛い。
正直、どうしてここまで輝夜に好かれているのか分からない。
でも、せめて、ウソは吐きたくない。
「優愛は、少し前から、あまり眠れてない。多分、悪夢を見るんだと思う。ちょっと前にスゲェ怖いことがあってさ……それがトラウマになってるんだと思う」
もちろん肝心な部分は言えない。
家族にさえ隠すと決めた内容なのだから、たとえ輝夜が相手でも話せない。
「俺の傍で寝ると安心するらしい」
だけど、それ以外は全部言う。
「昨日は、くっ付いて寝た」
唇を嚙んで息を止める。
やがて水中から顔を出したみたいに息を吸って、惨めな言葉を吐き出した。
「……ごめん。輝夜と付き合ってるのに、優愛を拒絶できない」
返事は無かった。
冷たい静寂があるだけだった。
その沈黙は長く続いた。
一分、二分……もっと経っただろうか。
輝夜は、小さな声で言った。
「私は、春樹さんのことが好きです」
ドクンと心臓が跳ねた。
それは形容しがたい苦痛だった。
「優愛さんを大切にできる春樹さんのことも、好きです」
そして彼女は、俺が全く予想していなかった言葉を口にした。
「良いんじゃないでしょうか」
顔を横に向ける。
彼女は、星空を見上げたまま言う。
「どちらか一方だけを選ぶ必要なんて、無いんだと思います」
「……いや、いやいやいや」
流石に否定する。
「不誠実だろ、そんなの」
「私はそうは思いません。むしろ、あえて拒絶する方が不誠実だと思います」
輝夜はゆっくりとした口調で言う。
「確かに結婚できるのは一人だけですが、結婚しなければ一緒に居られないわけではありません。そもそも、結婚は子育てを前提として国から援助をして貰うための制度です。私には宗教が無いので、べつに複数人と愛し合っても問題は無いと思います」
久々に聞いた「賢そうな言葉」。
俺は混乱する頭を必死に働かせて、言葉を捻り出した。
「……輝夜は、嫌じゃないのか?」
「嫌ですよ。嫉妬します。気が狂いそうです」
彼女は顔を横に向ける。
そして、色々な感情が絡み合ったような表情を見せた。
「だけど、春樹さんが苦しいのは、もっと嫌です」
俺は、その目を真っ直ぐに見られなかった。
「嬉しいです。私のために、そんな顔をしてくれること」
「……違う。違うんだよ」
言葉が出てこない。
昨夜に続いて頭が真っ白だ。
これは輝夜の本心なのか?
俺を慰めるために言ってるだけじゃないのか?
俺は、どうすればいい。
何を信じて、何のために、何を言って、何をするべきなんだ?
分からない。グチャグチャだ。
あの日、優愛の真実を知ってからずっと、胸の痛みが消えてくれない。
──何かが手に触れた
柔らかくて、冷たくて、細いモノ。
それが指の間に絡まって、熱を持った。
「星空を見てください」
言われた通りに空を見上げる。
「私の時は、この輝く夜が、嫌なこと全部、塗りつぶしてくれました」
そして輝夜は握り締めた手に力を込めた。
「如何ですか?」
二度目の言葉。
その意味は、はっきりと分かる。
この星空と左手に伝わる温もり。
ふたつ合わせて、嫌なことを忘れられないかと問われたのだ。
「……なんで、ここまでしてくれるわけ?」
我ながら最低なことを言った。
昨日、俺が優愛に言ったことだ。今じゃない。この言葉を口にするべきタイミングは今じゃない。分かってるのに、止められない。
「俺、輝夜に貰ってばっかりだ。何も返せてない。むしろ恩を仇で返してる。なんで好きで居てくれるのか、正直よく分からない」
「……私も同じ気持ちです」
俺は再び隣を見た。
彼女もまた、俺のことを見ていた。
「浮気なんて、絶対に理解できないと思っていました。だけど、辛そうな春樹さんを見ていたら、そっちの方が良いかなって」
彼女は困惑したような表情をして言う。
「自分でも不思議です。なんで、こんなに好きなんでしょうね」
それは告白の時とは違う言葉。
あの日、輝夜は「こういうところが好き」と語ってくれた。言葉だけを比較すれば、あの時よりも距離が遠ざかったように感じる。
「春樹さんこそ、別れようとか思わないんですか?」
だけど、違う。何もかもが違う。
触れ合った肌から感じる熱も、心臓が胸を叩く感触も、あの日とは全く違う。
「……思わないよ」
「それは、どうしてですか?」
「……嬉しかったんだよ。輝夜が思ってる以上に、俺は救われてる」
何が本当で、何が嘘なのか分からない。
頭の中はグチャグチャで、自分が自分じゃないみたいな感覚がある。
「……ただの恩返し、ということでしたか」
「違う。それは違う。絶対に違う」
だからこそ今こうして頭を空っぽにして喋っている言葉だけは真実なのだと思いたい。
「輝夜のことを知る度に惹かれてる。こんなに素敵な子が居るんだって、驚いてる。でも、だから、優愛を優先する自分のことが、何か醜い存在に思えて、輝夜の隣には相応しくないんじゃないかって……」
嫌われる覚悟で言った。
輝夜は、どうして嬉しそうに目を細めた。
「……輝夜?」
問いかける。
彼女は薄桃色の唇をそっと開いた。
「春樹さん。残念なお知らせがあります」
突然の言葉。
俺が軽く首を傾げると、彼女は言った。
「帰りの電車、もう無いです」
……は?
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