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第一章 汚れた初恋
思い通りに
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坂下家には地下室がある。
帰宅した輝夜はシャワーを浴び、緩い服装に着替えてから地下室へ向かった。
そこはまるで小さな図書館。
輝夜の祖父が生前に愛用していた書斎である。
輝夜の両親はそれほど本が好きではない。
しかしおじいちゃん子であった輝夜は立派な本の虫となり、お小遣いを得る度に新しい本を持ち込んでいる。
彼女は本の匂いが好きだ。本で満たされた書斎に居ると安心できる。だから彼女は読書の他に集中したい時にも書斎を使う。
例えば勉強。
あるいは、考え事。
カチ、カチ、という秒針のような音。
発信源は部屋の角。机に突っ伏した少女が握り締めたボールペン。
輝夜はノートに左頬を乗せ、思案していた。
「薬物、あるいは性病でしょうか」
やがて彼女は結論を呟いた。
もちろんそれは優愛に関すること。輝夜が持つ驚異的な推理力は、僅かな情報からその答えに辿り着いた。
輝夜はテストの見直しをするようにして、最初から思考を確認する。
「春樹さんは優愛さんのⅩを目撃した。私の質問はキス。お返事は苦々しいイエス。昨日は学校を休んで病院へ行った。春樹さんから私に連絡があったのは明け方。一昨日は春樹さんだけが学校に来ていた。恐らく帰宅後に優愛さんと話をして、学校を休み病院へ行く必要のあるような真実が明かされた」
カチ、カチ、と規則正しい音が鳴る。
「特定の男性と浮気した可能性はゼロ。不特定多数と断定。継続的な治療が必要であり他人には話せない内容……」
輝夜は淡々と思考を言葉にする。
「Xの正体は性交渉。事情を知った春樹さんは初手で病院を選択。優愛さんの動機も考慮するべき。春樹さんが好きなのに不特定多数と関係を持った理由。それは……」
カチ、カチ、という音の間隔が狭まる。
目は閉じられ、彼女の思考が深くなる。
「直近ではなく過去に性暴力を受けたと仮定する。優愛さんに不自然な様子は無かった。複数回の行為を強要されていた場合、それはおかしい。恐らく被害は一度きり。その後は精神的に不安定な優愛さんが自発的に行為を求めた。なぜ。理解不能。薬物の可能性。真相はさておき、優愛さんは春樹さんに隠し事をして、普段通りに接しながらも、裏では多くの男性と──」
ザクッ、とボールペンがノートに刺さる。
「気持ち悪い」
ザク、ザク。
「あれだけ春樹さんに好かれているのに」
ザク、ザク。
「あれだけ春樹さんが大事にしているのに」
ザク、ザク。
「私が、あんなにも我慢していたのにッ!」
ザク、ザク、ザク……。
「だけど春樹さんは素敵です。このような話を聞けば普通は取り乱すだけで何もできない」
ザク、ザク、ザク……。
「大人を頼っても、それは優愛さんの負担を増やすだけ。どうせ警察に連絡することしかできない。しかし警察を動かすためには被害を証明する必要があります。不特定多数と関係を持っていたことを考えれば、むしろ不利になる可能性も有るでしょう。仮に多大な労力を払って加害者を裁けた場合でも、優愛さん自身の問題は何ひとつ解決しません」
ザク、ザク、ザク……。
「ああ、だから病院なのですね。優愛さんを元通りにすることを最優先にして、最も負担が少ない方法を探した。きっと専門の病院へ行き関係者を最小限にしたのでしょう。ああそうか。だから付き添うことを私に説明したのですね。春樹さんは、優愛さんが元通りになるまで支えることにしたのですね。全ての負担を、たった一人で……」
ザク、ザク、ザク……。
「あまりにも愚かです。春樹さんにとって最も過酷な選択じゃないですか。何か間違えたら優愛さんと共倒れです」
ザク、ザク、ザク……。
「もしも春樹さんが疲れてしまったら、誰が助けてあげられるのでしょうか」
ザク、ザク、ザク……。
「私以外、居ないですよね」
ザク、ザク、ザク……。
「今の春樹さんを理解してあげられるのは、私だけ」
ザク、ザク、ザク……。
「私が注意すべきは春樹さんと性交渉しないこと。春樹さんの中で性交渉が特別である限り、優愛さんと一線を越える可能性は低い。しかし、それは時間の問題です」
ザク、ザク、ザク……。
「あの二人が関係を持つ前に、春樹さんの心を手に入れる。そして、その一部始終を優愛さんに見て頂きましょう。ふふ、愚かな優愛さん。一番つらい選択をしましたね。好きな人が他の子と仲良くしている姿を見るのは、つらいですよ。よく分かります。しかし残念な気持ちです。もしも違う形で仲良くなれたら、きっと良い友達になれたのに。だけど今回は敵です。絶対に逃がさない。春樹さんを悲しませた報いは必ず受けさせます」
ザク、ザク、ザク……。
「去り際の表情、素敵でした。もっと歪めてあげたい。しかし春樹さん、優愛さんを一人にしても良かったのでしょうか? 昼間の学校だから安心していた? それとも単純に、そこまで考える余裕が無かった? 私が想像するよりも精神的なダメージが大きいのかもしれません。……ああ、春樹さん。今すぐに抱き締めて、癒してあげたいです」
ザク、ザク、ザク……。
「……あれ?」
手に伝わる感覚が変わっている。
そして輝夜は、自分が何をやっていたのか初めて気が付いた。
「いけない! 私、また……あぁぁ、おじいさまの大切な机に新しい穴が!?」
輝夜は慌てた様子で机を見た。
「今回の穴は、どれでしょうか?」
その数があまりにも多過ぎて分からない。
「あぁ、もぅ、私の悪いところです……」
輝夜は椅子から降りて、とても落ち込んだ様子で床に手をついた。
「本当の私を知ったら、きっと誰も好きになってくれません」
彼女は身体を起こす。
「だけど彼なら……春樹さんなら……」
それから膝立ちで手を合わせ、神に祈る修道女のように天を仰いだ。
「春樹さん、覚えていますか? あなたが言ってくれたこと」
──それは二人が一年生だった頃。
「……あの」
図書室。二人きり。
輝夜は本を借りる際、春樹に問いかけた。
「私、もっと愛想を良くするべきでしょうか?」
春樹はバーコードをピッとしながら返事をする。
「本を読んでる時は、演技してるんすか?」
「……どういう意味ですか?」
輝夜が首を傾げると、春樹は笑みを浮かべて言った。
「あれが素なら、変える必要は無いと思います」
「……しかし、あまり好かれていないようでして」
当時の輝夜は孤立していることを悩んでいた。
べつに何か苦労しているわけではないが、人並みに寂しさを感じていた。
「えっと、誰かと喧嘩したんすか?」
「……いえ、そもそも喧嘩をする相手が居ないことについて悩んでいるのです」
そんな輝夜に向かって、春樹は言った。
「じゃあ、誰かと話をするべきですよ」
「……しかし、あまり性格が良くないので」
「べつに良いんじゃないっすか。俺の友達にも性格が悪い奴は沢山います」
そして春樹は言う。
「本を読んでる時の坂下さん、俺は好きですよ。楽しそうだから」
当時の輝夜が、最も欲しかった言葉。
「あれが素なら、きっと大丈夫です。そもそも演技しなきゃ付き合えない人間関係なんて、怠いだけでしょ」
「……そうですね。とても参考になります」
輝夜は本を受け取り、お辞儀をした。
「ありがとうございました」
足早に図書室を去る。
その日から輝夜は春樹を意識するようになった。
気が付けば目で追っていた。
いつも会話のきっかけを探していた。
彼を知る度に惹かれた。
いつの間にか、恋をしていた。
嬉しかったのだ。
春樹の言葉に特別な意味が無いことは理解している。それでも、初めて本当の自分を認められたような気がして、嬉しかった。
坂下輝夜は優等生である。
才色兼備である彼女は、大人だけではなく同級生からも褒められ続けた。彼女は周囲の期待に応えるため演技をしていた。
輝夜はモテた。中学生になった辺りから日常的に告白されるようになった。それを断る度に同性から疎まれた。やがて人間関係が煩わしいと感じるようになった。
輝夜は無意識に人を遠ざけた。
高校生になってからは、いつも図書室で本を読んでいた。
輝夜は本が好きだ。読書をしている間だけは、ありのままの自分で居られる。
その姿を肯定された。
それは輝夜にとって、特別だった。
だから──
「春樹さんが幸せになるなら、それで良いと思っていました」
だから彼女は憤慨している。
「あんな女には絶対に渡さない」
だから、あの日、春樹に声をかけた。
「……今のところ、ほぼ思い通りです」
彼女は立ち上がり、椅子に座り直す。
そして穴だらけになったノートを開き、新しいボールペンを持った。
「思い通りにならないのは、春樹さんの心だけ」
ノートに彼の名前を書き、ハートで囲む。
輝夜はそれを見て、うっとりとした表情で呟いた。
「春樹さん、大好きです」
【あとがき】
以上、第一章『汚れた初恋』でした。
お気に入り登録、エールなどして頂けると嬉しいです。
帰宅した輝夜はシャワーを浴び、緩い服装に着替えてから地下室へ向かった。
そこはまるで小さな図書館。
輝夜の祖父が生前に愛用していた書斎である。
輝夜の両親はそれほど本が好きではない。
しかしおじいちゃん子であった輝夜は立派な本の虫となり、お小遣いを得る度に新しい本を持ち込んでいる。
彼女は本の匂いが好きだ。本で満たされた書斎に居ると安心できる。だから彼女は読書の他に集中したい時にも書斎を使う。
例えば勉強。
あるいは、考え事。
カチ、カチ、という秒針のような音。
発信源は部屋の角。机に突っ伏した少女が握り締めたボールペン。
輝夜はノートに左頬を乗せ、思案していた。
「薬物、あるいは性病でしょうか」
やがて彼女は結論を呟いた。
もちろんそれは優愛に関すること。輝夜が持つ驚異的な推理力は、僅かな情報からその答えに辿り着いた。
輝夜はテストの見直しをするようにして、最初から思考を確認する。
「春樹さんは優愛さんのⅩを目撃した。私の質問はキス。お返事は苦々しいイエス。昨日は学校を休んで病院へ行った。春樹さんから私に連絡があったのは明け方。一昨日は春樹さんだけが学校に来ていた。恐らく帰宅後に優愛さんと話をして、学校を休み病院へ行く必要のあるような真実が明かされた」
カチ、カチ、と規則正しい音が鳴る。
「特定の男性と浮気した可能性はゼロ。不特定多数と断定。継続的な治療が必要であり他人には話せない内容……」
輝夜は淡々と思考を言葉にする。
「Xの正体は性交渉。事情を知った春樹さんは初手で病院を選択。優愛さんの動機も考慮するべき。春樹さんが好きなのに不特定多数と関係を持った理由。それは……」
カチ、カチ、という音の間隔が狭まる。
目は閉じられ、彼女の思考が深くなる。
「直近ではなく過去に性暴力を受けたと仮定する。優愛さんに不自然な様子は無かった。複数回の行為を強要されていた場合、それはおかしい。恐らく被害は一度きり。その後は精神的に不安定な優愛さんが自発的に行為を求めた。なぜ。理解不能。薬物の可能性。真相はさておき、優愛さんは春樹さんに隠し事をして、普段通りに接しながらも、裏では多くの男性と──」
ザクッ、とボールペンがノートに刺さる。
「気持ち悪い」
ザク、ザク。
「あれだけ春樹さんに好かれているのに」
ザク、ザク。
「あれだけ春樹さんが大事にしているのに」
ザク、ザク。
「私が、あんなにも我慢していたのにッ!」
ザク、ザク、ザク……。
「だけど春樹さんは素敵です。このような話を聞けば普通は取り乱すだけで何もできない」
ザク、ザク、ザク……。
「大人を頼っても、それは優愛さんの負担を増やすだけ。どうせ警察に連絡することしかできない。しかし警察を動かすためには被害を証明する必要があります。不特定多数と関係を持っていたことを考えれば、むしろ不利になる可能性も有るでしょう。仮に多大な労力を払って加害者を裁けた場合でも、優愛さん自身の問題は何ひとつ解決しません」
ザク、ザク、ザク……。
「ああ、だから病院なのですね。優愛さんを元通りにすることを最優先にして、最も負担が少ない方法を探した。きっと専門の病院へ行き関係者を最小限にしたのでしょう。ああそうか。だから付き添うことを私に説明したのですね。春樹さんは、優愛さんが元通りになるまで支えることにしたのですね。全ての負担を、たった一人で……」
ザク、ザク、ザク……。
「あまりにも愚かです。春樹さんにとって最も過酷な選択じゃないですか。何か間違えたら優愛さんと共倒れです」
ザク、ザク、ザク……。
「もしも春樹さんが疲れてしまったら、誰が助けてあげられるのでしょうか」
ザク、ザク、ザク……。
「私以外、居ないですよね」
ザク、ザク、ザク……。
「今の春樹さんを理解してあげられるのは、私だけ」
ザク、ザク、ザク……。
「私が注意すべきは春樹さんと性交渉しないこと。春樹さんの中で性交渉が特別である限り、優愛さんと一線を越える可能性は低い。しかし、それは時間の問題です」
ザク、ザク、ザク……。
「あの二人が関係を持つ前に、春樹さんの心を手に入れる。そして、その一部始終を優愛さんに見て頂きましょう。ふふ、愚かな優愛さん。一番つらい選択をしましたね。好きな人が他の子と仲良くしている姿を見るのは、つらいですよ。よく分かります。しかし残念な気持ちです。もしも違う形で仲良くなれたら、きっと良い友達になれたのに。だけど今回は敵です。絶対に逃がさない。春樹さんを悲しませた報いは必ず受けさせます」
ザク、ザク、ザク……。
「去り際の表情、素敵でした。もっと歪めてあげたい。しかし春樹さん、優愛さんを一人にしても良かったのでしょうか? 昼間の学校だから安心していた? それとも単純に、そこまで考える余裕が無かった? 私が想像するよりも精神的なダメージが大きいのかもしれません。……ああ、春樹さん。今すぐに抱き締めて、癒してあげたいです」
ザク、ザク、ザク……。
「……あれ?」
手に伝わる感覚が変わっている。
そして輝夜は、自分が何をやっていたのか初めて気が付いた。
「いけない! 私、また……あぁぁ、おじいさまの大切な机に新しい穴が!?」
輝夜は慌てた様子で机を見た。
「今回の穴は、どれでしょうか?」
その数があまりにも多過ぎて分からない。
「あぁ、もぅ、私の悪いところです……」
輝夜は椅子から降りて、とても落ち込んだ様子で床に手をついた。
「本当の私を知ったら、きっと誰も好きになってくれません」
彼女は身体を起こす。
「だけど彼なら……春樹さんなら……」
それから膝立ちで手を合わせ、神に祈る修道女のように天を仰いだ。
「春樹さん、覚えていますか? あなたが言ってくれたこと」
──それは二人が一年生だった頃。
「……あの」
図書室。二人きり。
輝夜は本を借りる際、春樹に問いかけた。
「私、もっと愛想を良くするべきでしょうか?」
春樹はバーコードをピッとしながら返事をする。
「本を読んでる時は、演技してるんすか?」
「……どういう意味ですか?」
輝夜が首を傾げると、春樹は笑みを浮かべて言った。
「あれが素なら、変える必要は無いと思います」
「……しかし、あまり好かれていないようでして」
当時の輝夜は孤立していることを悩んでいた。
べつに何か苦労しているわけではないが、人並みに寂しさを感じていた。
「えっと、誰かと喧嘩したんすか?」
「……いえ、そもそも喧嘩をする相手が居ないことについて悩んでいるのです」
そんな輝夜に向かって、春樹は言った。
「じゃあ、誰かと話をするべきですよ」
「……しかし、あまり性格が良くないので」
「べつに良いんじゃないっすか。俺の友達にも性格が悪い奴は沢山います」
そして春樹は言う。
「本を読んでる時の坂下さん、俺は好きですよ。楽しそうだから」
当時の輝夜が、最も欲しかった言葉。
「あれが素なら、きっと大丈夫です。そもそも演技しなきゃ付き合えない人間関係なんて、怠いだけでしょ」
「……そうですね。とても参考になります」
輝夜は本を受け取り、お辞儀をした。
「ありがとうございました」
足早に図書室を去る。
その日から輝夜は春樹を意識するようになった。
気が付けば目で追っていた。
いつも会話のきっかけを探していた。
彼を知る度に惹かれた。
いつの間にか、恋をしていた。
嬉しかったのだ。
春樹の言葉に特別な意味が無いことは理解している。それでも、初めて本当の自分を認められたような気がして、嬉しかった。
坂下輝夜は優等生である。
才色兼備である彼女は、大人だけではなく同級生からも褒められ続けた。彼女は周囲の期待に応えるため演技をしていた。
輝夜はモテた。中学生になった辺りから日常的に告白されるようになった。それを断る度に同性から疎まれた。やがて人間関係が煩わしいと感じるようになった。
輝夜は無意識に人を遠ざけた。
高校生になってからは、いつも図書室で本を読んでいた。
輝夜は本が好きだ。読書をしている間だけは、ありのままの自分で居られる。
その姿を肯定された。
それは輝夜にとって、特別だった。
だから──
「春樹さんが幸せになるなら、それで良いと思っていました」
だから彼女は憤慨している。
「あんな女には絶対に渡さない」
だから、あの日、春樹に声をかけた。
「……今のところ、ほぼ思い通りです」
彼女は立ち上がり、椅子に座り直す。
そして穴だらけになったノートを開き、新しいボールペンを持った。
「思い通りにならないのは、春樹さんの心だけ」
ノートに彼の名前を書き、ハートで囲む。
輝夜はそれを見て、うっとりとした表情で呟いた。
「春樹さん、大好きです」
【あとがき】
以上、第一章『汚れた初恋』でした。
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