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第一章 汚れた初恋

8.拒絶

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「何してんだよ、優愛」

 驚いた。その日の気分によっては悲鳴と共に大袈裟な反応をしていたかもしれない。だけど今、表に出た感情は「呆れ」だった。

 呆れた。呆れ果てた。
 優愛のことじゃない。彼女を見て、ほんの少しでも嬉しいと思った俺自身のことだ。

(……終わらせろ)

 心の中で叫ぶ。

(……終わらせるんだ)

 現状は、あまりにも不誠実だ。
 輝夜の告白を受け入れたのに、いつまでも初恋を引きずっている。

 だから終わらせる。
 はっきりと優愛を拒絶する。

 息を吸い込みながら身体を起こす。
 それから優愛を見て、口を開いた。

「  」

 俺の前から消えてくれ。
 その一言は、声にならなかった。

 理由は優愛の表情だ。
 想像していたのは悲しみ。あるいは怒り。
 しかし俺の目に映った彼女は、両手で頬を挟み恍惚としていた。

「ぁは」

 幸せそうな笑み。

「……なに、笑ってんだよ」

 恐る恐る問いかける。

「名前、呼んでくれた」

 俺は全身に鳥肌が立つのを感じた。

「ハルくんが、見てくれた」

 普通じゃない。こんな優愛は知らない。
 知らないはずなのに……どうしてか、既視感がある。
 
「ハルくん……」

 うっとりとした声。
 優愛は俺に向かって手を伸ばした。

 瞬間、忌まわしい記憶が蘇る。

 上気した顔と微かに開いた口。
 柔らかそうな唇から漏れる甘い声色。
 あの日、俺が夜の教室で見たものと同じだ。

「やめろ!」

 その手を全力で振り払った。
 パチッと乾いた音が鳴り、じんわりと手が熱を持つ。

「……痛い」

 優愛は叩かれた手を反対の手で握り、俯いた。
 その姿を見て激しい罪悪感を覚える。今すぐ謝罪して手の様子を確認したい。

 俺は唇を嚙み、グッと堪えた。
 まだ良心が残ってる。優愛を想う気持ちが残ってる。

 ダメなんだよ。これじゃ。
 捨てるんだよ。終わらせるんだよ。

「……ぁは」

 優愛が笑った。

「ハルくんが、触ってくれた」

 俺は頭が真っ白になった。

「ぁはは、嬉しい。もっと触って。ハルくん」

 優愛はベッドに手を付いた。
 俺は咄嗟に布団を投げ捨て、彼女から距離を取る。

 しかし逃げ場は無い。
 あっという間に背中と壁がぶつかった。

「……来んなよ」

 にじり寄ってくる。

「来るなって言ってんだろ!?」

 俺が叫ぶと、優愛はビクリと肩を揺らした。
 そして今さらのように悲しい表情を見せた。

「……なんなんだよ」

 俺は左腕で両目を隠す。

「……お前は、何がしてぇんだよ」

 顔を上げ、心の奥底で生まれた悲鳴を絞り出した。
 グチャグチャだ。これから優愛を拒絶するつもりなのに、涙が出るようなショックを受けている。矛盾している。もう訳が分からない。

「ハルくん」

 それは、俺が知っている優愛の声だった。
 困っている人を見捨てられない優しい女の子の声だった。

 涙を拭って目を開ける。
 優愛は今にも泣きそうな顔をして俺に言った。

「エッチ、しようよ」
「……ふざけてんのか?」

 優愛は首を横に振った。

「知ってるだろ。俺が輝夜と付き合ったこと」
「……知ってる。知ってるよ」

 大粒の涙と引き攣った笑顔。

「私を選んでなんて言わない。言えないよ」

 俺が見たことのない表情をして、彼女は言う。

「だから、体だけ。ダメかな?」
 
 一瞬、俺は言葉に詰まった。
 色々な感情が一気に生まれて出口が詰まった。それをどうにか整理して返事をする。

「ダメに決まってんだろ」
「なんで? バレないよ。絶対、言わないから」

 俺は大きく息を吸い込んだ。
 それをゆっくりと吐き出してから、彼女に言う。

「……消えてくれよ。クソビッチ」

 彼女は再びショックを受けたような顔をした。

「お前、そんなんじゃなかっただろ」

 意味が分かんねぇよ。
 なんでテメェが被害者面してんだよ。

「なんなんだよ。マジで」

 あの光景が消えてくれない。
 嬉々として売春をして、俺をインポ野郎と罵っていた姿が記憶に焼き付いている。

「お前は! ……お前が、何を考えてんのか、全然分かんねぇよ」

 ずっと一緒だった。好きな食べ物や趣味。交友関係。テストの点数に至るまで何もかも知ってるつもりだった。

「……どうして、あんなこと」

 だからこそ分からない。
 何が彼女を変えてしまったのか全く想像できない。

「ねぇ、ハルくん」

 優愛を見る。

「初めてのエッチ、気持ちよかった?」

 唇を嚙み、目を細める。
 もはや声を出すことさえも辛かった。

「私は……最悪、だったよ」

 しかし優愛は、俺よりも辛そうな顔をして言う。

「知らない人達に、手足を縛られて……」
「……待てよ」
「泣いても泣いてもやめてくれなくて……」
「だから待てって」

 頭が追い付かない。
 違う。きっと理解することを拒んでいる。

「気持ち悪いだけだった。辛いだけだったのに……」

 優愛はそっとベッドから降りると、床に立って俺を見下ろした。

「……何してんだよ」

 彼女は急にズボンを下ろした。

「見て、ここ」

 彼女は右脚の太腿を指差した。
 何か、跡がある。綺麗な紙を黒いインクで汚したみたいなブツブツがある。

「……なんだよ、それ」

 彼女は返事をする代わりに下着を脱いだ。
 そして、唖然とする俺に向かって差し出した。

「これ、何か分かる?」

 真っ白な下着。
 背後にある窓から差し込む光が、べっとりと濡れた部分を照らしていた。

「私の身体、おかしくなっちゃった」

 再び頭が理解を拒んだ。
 優愛が何を言っているのか、分かりたくなかった。

「ハルくんと一緒に居るだけで、こんなに濡れちゃったの」

 もうやめろ。やめてくれよ。
 俺は両手で耳を塞ごうとして、思い止まる。

 逃げちゃダメだ。
 この話だけは、聞かなきゃダメだ。

「最初は、ずっと泣いてた」

 優愛は消え入りそうな声で言う。

「ねぇハルくん、覚えてる? 半年くらい前、私が寝込んだ時のこと」

 俺は頷いた。

「嬉しかった。毎日ハルくんが看病してくれたこと。やっぱりハルくんのことが好きなんだって、そう思ったよ。だから、がんばってアピールしたんだよ。いつも身体が熱くて、触らないと変になりそうで……」

 言葉の途中で嗚咽が混じった。

「ごめんね。気持ち悪いよね」

 彼女は涙を拭いながら懇願する。

「でも、やっぱりハルくんが好き。どんな形でも良いから。傍に居させて」

 ……最低最悪の気分だ。
 あの光景を目にした時と同じか、それ以上だ。

 気持ちを落ち着けるため深呼吸をした。
 何度も何度も繰り返して、それから返事をする。

「嫌に決まってんだろ」

 優愛に何が起きたのかは分かった。
 それについて同情する気持ちはある。

 だけど別問題だ。
 優愛の話と、あの日の光景は全く繋がらない。

「消えてくれ。話は終わりだ」
「私、上手だよ。絶対に気持ち良くするから」
「嫌だよ。梅毒とか持ってそう」

 故に俺は、彼女を拒絶した。

「検査する! もう二度と他の人とはしない!」
「そういう問題じゃねぇだろ」
「……やだ。やだよ。ハルくんと別れたくない。約束したじゃん。ずっと一緒に居てくれるって言ったじゃん……言ったじゃんか!」

 優愛は声を荒げた。

「なんで一緒に居てくれなかったの!? ハルくんが一緒だったら襲われなかった! ハルくんが抱いてくれたら、こんな風にはならなかったのに!」

 それは酷い逆ギレにしか聞こえなかった。

「うるせぇよ」

 俺は彼女を睨んで言う。

「お前が選んだことだろうが」

 最初は悲しかった。
 次に怒りが沸き上がった。

「身体が変になった? じゃあさっさと病院に行けよ」
「行けるわけないじゃん。こんなこと、話せるわけないじゃん!」
「知らねぇよ。そこから売春に繋がる理由もさっぱり分かんねぇよ」

 そして今、むしろ冷静になった。
 自分でもビックリする程に頭が冴えている。

「お前、頭おかしいんじゃねぇの?」

 スラスラと言葉が出る。
 俺が何か言う度、優愛は大粒の涙を流す。

「都合の良いことばっか言ってんじゃねぇよ」

 確かに辛い話だった。
 だけど、全部あいつの都合だ。

「……なんで」

 ああ、最高だ。
 今なら優愛を拒絶できる。
 この感情を終わりにできる。

「なんで相談してくれなかったんだよ!?」

 ……待て。

「そんなに頼りなかったか!? お前の中で俺は、情けないインポ野郎でしかなかったのかよ!? なぁ!?」

 ……待てよ。なに叫んでんだよ。

「違う。あれは違うの」
「何が違うんだよ」
「ハルくんの話は嫌だったの! ハルくんとの思い出だけは、汚されたくなかったの!」
「だからそれはテメェの都合だろうが!?」

 ……冷静になれよ。
 今は優愛と話をする場面だろ。

「なんで何も言ってくれなかったんだよ。なんで、なんで……」

 ……泣くところじゃねぇだろ。バカ野郎。

 次から次へと溢れ出る涙を拭う。
 優愛の目の前で、本当に情けなくて嫌になる。

 だけど、そのおかげで気が付いた。
 俺が一番悲しいのは、優愛が何も言ってくれなかったことだ。

 あの日だって、何か事情があるんだと思った。
 一言でも相談してくれたら、こんな風に叫び合うことはなかった。

「消えてくれ。もう二度と、顔も見たくない」
「……やだ」
「消えろよ」
「嫌だ!」

 優愛は叫び、俺に飛びついた。
 
「触んな」

 彼女の手首を摑み、振り払う。

「全部、全部あげるから!」

 優愛に肩を摑まれた。
 もちろん抵抗した。だけど振り解くことができない。
 
「都合の良い女の子になる! ハルくんの言うこと何でも聞く!」
「口だけなら何とでも言えるよな」
「じゃあ報告する! 私の行動、全部伝える!」
「べつに欲しくねぇよ。お前の情報なんて」
「お金もあるよ。いっぱい、いっぱいあるよ!」
「一番要らねぇよ。お前が……そんな方法で稼いだ金なんて」
「三百万円以上あるよ? 私、すごいんだよ?」
「……っ」

 具体的な数字を聞かされ、思わず息を止めた。
 三百万って……お前、どれだけの人を相手にしたんだよ。

「分かってる。汚いよね。気持ち悪いよね。私も、あの頃は何度も死のうと思った。でもね? 身体が熱くて、ふらふらしてたら、五万でどう、って言われて……」
「聞いてねぇよ。そんな話」
「だって他に何があるの!? あんなメチャクチャにされて、汚されて……お金しかないじゃん。お金を集めた分だけ、自分に価値があるんだって思うしかないじゃんか!」
「だから知らねぇよ! そんなこと!」

 互いの肩や腕を摑み、近距離で互いの目を見る。
 もしも別の状況だったならばドキドキする瞬間だ。

「……ハルくん。お願い。傍に居させて」

 もしも別の状況だったならば、こんなにも嬉しい言葉は無い。

「……」

 だけど今は、ひたすらに胸が苦しい。
 涙を流すことも、涙を見ることも、何もかも終わりにしたい。

「……あのさ」
「なに?」

 ……ああ、最悪だ。
 やめろ。口を閉じろ。それは絶対に言うな。

「それ、輝夜にも同じこと言えんのかよ」

 ……要するに、俺は思考を放棄した。
 あのとき手を差し伸べてくれた輝夜に縋って、巻き込んだ。

「言えるよ」

 予想した通り、優愛は首を縦に振った。

「……そうかよ」

 最低のクズ野郎だ。
 叶うことなら、自分を殴り殺してしまいたい。

 嫌いだ。気持ち悪い。
 優愛よりも、誰よりも、自分自身のことが大嫌いだ。

 ああ、そうか。だから優愛は相談してくれなかったのか。
 そうだよな。こんなにも情けない奴に言えるわけないよな。

 ……じゃあ、どうする?
 このまま言い訳と泣き言だけで終わりか?

 違うだろ。
 それだけは絶対に有り得ない。

「今日はもう帰れ」
「……」

 顔を上げる。
 俺は優愛の目を見て、はっきりと言い直す。

「今日は帰れ。続きは明日だ」

 続きという言葉を口にした瞬間、優愛は笑顔を見せた。

「……うんっ」

 彼女は脱いだ服を着直して部屋を出た。
 俺は仰向けに倒れて、そのまま目を閉じた。

 そして暗闇の中で考え続ける。
 これから俺が、どうするべきなのか。
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