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第一章 汚れた初恋

7.優愛が居ない一日

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 瞼の裏に朝日を感じた。
 身体は起こさない。布団の中で微睡む。

 その途中。
 ふと、誰かを待っていることに気が付いた。

「……ダメだろ。それは」

 俺は身体を起こした。
 それから右手で頭を抱え、深い溜息を吐いて言う。

「……俺、最低だ」

 初めて彼女ができた。
 だけど今しがた頭に浮かんだのは、別の人だった。


 *  *  *


 高校生になってから朝食を食べない日が増えた。低血圧のせいか朝が弱くて、単純に食欲が無い。

 たまに早起きして調子が良い時には料理をする。昼に食べる弁当を作って、ついでに軽い朝食を取る。

 今日は何もしていない。
 理由はふたつ。単純に食欲が無いこと。そして、坂下さんが昼食を用意してくれる約束になっていること。
 
「あら、今日も優愛ちゃんが来る前に起きたのね」

 母さんの声。何気ない一言なのに、手近な物を叩きたくなるような衝動が生まれた。

「……んー」
「どしたの? 優愛ちゃんと何かあった?」

 あったよ。最低最悪な出来事が。

「……べつに。なんも」
「ふーん?」

 母さんは何もかも見透かしたような反応をして、朝の支度を始めた。多分、優愛と喧嘩していると思われた。

 よくあることだ。
 優愛と喧嘩した時、俺はこんな感じになる。

 ほっとけば仲直りする。
 きっと母さんはそういう風に思ってる。

(……違うよ。母さん)

 今回は違う。
 仲直りとか、そういう話じゃない。

(……全部、終わったんだよ)

 椅子から立ち上がる。
 俺は足元に置いた鞄を持って、玄関へ向かった。

「あら、もう行くの?」
「……んー」

 居心地が悪かった。
 あの場所は、優愛との思い出が多過ぎる。

 柱に刻まれた成長の跡。あちこちに置かれた私物。
 目を瞑って情報をシャットアウトしたら、今度は内側から思い出が滲み出てくる。

 俺は逃げるようにして外に出た。
 だけど状況は何も変わらなかった。

 通い慣れた通学路にもたくさんの思い出がある。ただ歩いているだけなのに、ふとした瞬間に思い出す。

「……最悪の気分だ」

 隣に優愛の姿が無い。
 それだけで、胸が痛い。

 早く忘れよう。
 全部、終わったんだから。


 *  *  *


 教室は施錠されていた。
 俺は鍵を借りるため職員室へ向かった。

 その途中、友達とすれ違った。

「春樹じゃん。珍しい。何してんの?」
「暇だったから早く来ただけ。そっちは?」
「普通に部活の朝練。マジ怠いわ」

 彼は苦笑まじりに言った。

「てか優愛ちゃんは?」

 ……。

「なんで?」
「それはほら、春樹イコール優愛ちゃんとセットだろ」
「……そうでもないだろ」
「朝とか、ギリギリまでイチャイチャしてから来てるのかと思ってたわ」

 俺は愛想笑いをした。
 
「今日は別々」
「超レアじゃん。やべ、後でガチャ回そ」
「爆死しろ」
「あはは、そこは祈れよ。じゃあな!」

 笑いながら走る友人に手を振る。
 彼が最初の角を曲がった後、俺はひらひらと振っていた手を握り締めた。

 ……ここでも、優愛かよ。

 不快感を鎮めるために息を吐く。
 再び歩き始めると、また知り合いとすれ違った。

「あっ、小倉くんおはよ」

 同じクラスの女子。
 優愛の友達。何度か話したことがある。

「何してるの?」

 ごく普通の質問。
 俺は異常な緊張をグッと堪え、返事をする。

「教室空いてないから、職員室に」
「おっ、鍵なら私が取ったところだよ。一緒に戻ろ」
「……いや、別件もあるから。先行ってて」
「おっけー。じゃあね」

 別件なんて無い。
 ただ、一緒に戻ったら必ず優愛の話をされると思っただけだ。

「……笑える」

 逃げ場が無い。
 どこへ行っても優愛が出てくる。

「本人、居ねぇのにな」

 その後、俺は少し時間を潰してから教室に戻った。

 自分の席で本を読む。
 だけど出入口が気になって仕方がない。誰かが教室に入る度、それが優愛じゃないことに安堵していた。

 よく話す友達とは挨拶をした。
 その度に優愛のことを聞かれた。

 結局、優愛は欠席だった。
 安堵していると、担任から欠席の理由を問われた。

 知らねぇよ。
 不快感を胸に体調不良と無難な返事をした。

 これまでは優愛が居る生活が当たり前だった。
 当たり前過ぎて……こんなにも単純なことに気が付かなかった。

(……これ、本当に終われるのかよ)

 小倉春樹と新見優愛。あまりにも深い繋がり。それを終わらせられる未来は、どうにも想像できなかった。


 *  *  *


 昼休みの時間。
 俺は逃げるように教室を出て、図書室へ向かった。

「春樹さん!」

 輝夜は出入口の前に立っていた。

「……早いね」
「はい。授業が少し早く終わりました」

 輝夜は嬉しそうな顔で言った。
 
「早速ですけど、移動しましょう」
「あれ? 図書室で食べないの?」
「春樹さん。図書室は飲食禁止ですよ」
「……ごめん、忘れてた」

 何気ないやり取り。
 心が落ち着くのは、優愛の話をされる心配が無いからだろうか。

(……やめろ。考えるな)

 どんだけ引きずってんだよ。
 恋人の前だぞ。忘れろよ。いい加減に。

「あちらの部屋を使いましょう」

 俺は輝夜の提案に従って移動した。

 図書室から最も近い場所にある教室。
 普通に座席と黒板があるけれど、人の姿は無い。

「三年生が授業で使うみたいですよ」
「……へー」

 俺が不思議そうな顔をしていたからか、輝夜が説明してくれた。
 その後、彼女は適当な机をクルッと回して、ふたつの席をくっつけた。その席に向かい合って座る。彼女は机にグレーの手提げバッグを乗せると、少し大きな弁当箱を取り出して蓋を開けた。

「じゃーん。サンドイッチです。とても迷ったのですが、やっぱり初めては手作り感のあるメニューが良いと思ったので、これにしました」

 まるで宝箱を開けた子供みたいに無邪気な笑顔。
 俺は軽く息を吐いて、気持ちを切り替えながら笑みを返す。

「すごい。これ輝夜が作ったんだ」
「……」

 急に無言。

「どうしたの?」
「……急に下の名前を呼ばれたので、驚きました」

 彼女は心底照れた様子で言った。

「名前なら昨日も呼んだじゃん」
「……あれは、演技だったので」

 彼女は口元に手を当て、目を逸らす。

「……恋人として呼ばれたのは、今が初めてです」

 正直、名前くらいで、という気持ちはある。
 だけど輝夜があまりにも照れるから、俺まで気恥ずかしい気持ちになった。

(……皆が褒めてる理由、初めて分かったかも)

 学校一の美少女。
 友達の話を聞いても、正直ピンと来なかった。

 今、初めて理解した。そして心から安心した。
 彼女と一緒ならば、きっと優愛のことを忘れられる。

「……あの、そろそろ食べませんか?」
「そうだね。頂きます」

 軽く手を合わせて、適当にひとつ摑む。
 一口サイズの小さなサンドイッチ。具は卵。

「うん、美味しい」

 素直に感想を言うと、彼女は両手で口元を隠した。

「……良かったです」

 だから、それ、反則だろ。

「たくさんあります。どんどん食べてくださいね」
「……ん、ありがと」

 それからの時間はとても楽しかった。
 朝起きてから初めて気が休まったような気がした。

「ところで、今日はどんな一日でしたか?」
「どんなって?」
「色々です。何か面白い出来事とか、ありましたか?」

 何気ない雑談が、続くはずだった。

「べつに、普通だよ」

 ああ、ほんと、嫌になる。
 穴があったら入りたい気分だ。

「朝起きて親と話して、学校に来て友達と話したり授業を受けたりした。そんだけ」
「……そう、ですか」

 多分、全部の感情が顔に出た。
 それを見て賢い輝夜が勘付かないわけがない。

「……ごめん」

 俺は主語を省いて謝罪した。
 輝夜は何もかも察した様子で俯いた。

「あのっ!」

 互いに顔を上げる。
 輝夜は不安そうな目をして言う。

「今は、体だけの関係でも、大丈夫なので」

 とても嫌な表現。
 俺は口を挟まず続きを待つ。

「いつか、心から笑って貰えるのように、頑張るので」

 輝夜は儚げに笑う。

「だから、だからその……」
「大丈夫」

 最後まで聞くつもりだった。
 だけど、胸が痛くて耐えられなかった。

「輝夜と話す時間、楽しいよ。今日、一番楽しい」
「……本当ですか?」

 俺は笑みを見せる。

「むしろ輝夜の方が大丈夫? 俺最低だよ」

 自分では見えないけれど、きっと薄っぺらい笑みなのだと思う。

「こんなに他の女を引きずってる奴、辛くない?」

 言わなくて良いことを言った。
 自覚はある。だから、言った後で後悔した。

「……それでも、私は春樹さんが好きです」

 胸にトゲが刺さったような気持ちになる。
 きっと俺は、この返事が貰えることを分かっていた。

「ありがとう」

 軽薄な感謝の言葉を口にして、次のサンドイッチを手に取る。
 しばらくは二人とも無言だった。やがて輝夜が不自然なくらいにテンションを上げて雑談を再開した。俺は不純な感情を嚙み殺して、それに合わせた。

 楽しい時間だった。
 一緒に過ごした分だけ輝夜が好きになった。

 反対に。
 輝夜を好きになった分だけ、自分が嫌いになった。


 *  *  *


 一日の終わり。
 俺はベッドの上で目を閉じていた。

 何も考えていない。
 だけど、まるで眠くならない。

 音が聞こえた。
 部屋のドアが開く音と、遠慮がちな足音。

 多分、母さんだ。
 洗濯した服なんかをクローゼットに入れてくれてる。

 たまには手伝わないとだよな。
 そんなことを考えながら目を閉じていると──

 トン、と、直ぐ隣で足音。
 そして誰かに見られている気配を感じた。

「……なに?」

 目を開ける。
 息を止めて、しばらく呆然とした。

「何してんだよ……優愛」
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