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第一章 汚れた初恋

5.いつも通り(裏)

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『今どこ?』
『靴履くとこ』
『すぐいく』

 優愛のメッセージに返信した後、図書室を出た。
 これから俺は彼女と話をする。昨日までは胸躍るイベントだったのに、今は憂鬱で仕方がない。

 ──仕掛けるのは明日の下校時間です。

 坂下さんの言葉を思い出す。

 ──それまでは彼女と仲良くしてください。

 心が蕩けるような甘い囁き声が耳に残っている。

 ──怖いですか? でも大丈夫です。私を信じてください。

 俺は、その声に抗う術を持っていなかった。
 もしも彼女が詐欺師ならば、きっと騙されている。

 自分を客観視することはできる。
 精神的に不安定になっていることは分かる。

 この選択は正しいのだろうか。
 少しでも考えると、頭が割れるような激痛に襲われる。

 だけど、誰かのせいにはしたくない。
 これは俺が自分で考えて、自分で決めたことだ。

「遅いよ」

 声が聞こえた。
 心臓を握られたような気分になった。

 息を止めて、顔を上げる。
 大好きな幼馴染と、微かに強張った笑顔が目に映った。

(……気持ち悪い)

 強い嫌悪感を必死に抑え、息を吸い込む。
 それから俺は愛想笑いをして、昨日までの自分を思い浮かべながら返事をした。

「もしかして、ずっと待ってた?」

 上手く笑えただろうか。
 変に思われなかっただろうか。

「……これ」

 不安に思っていると、彼女は右手の袖をまくった。

「今朝のとこ、あざになってる」

 確かに蒼くなっている。
 痛々しい。罪悪感がある。

 だけど──よっぽど、綺麗に見えた。

 今の俺には彼女が汚らわしい存在に思えて仕方がない。でも、この蒼い部分だけは確実に俺が触れた場所だ。いっそ全身を痣だらけにしたら、前みたいに──待てよ。なんだよそれ。思考が危険過ぎる。ヤバい。今の俺、まともじゃない。

「……ごめん」

 どうにかまともな言葉を絞り出した。

「やだ。許さない」

 彼女はおどけた様子で言った。

「何か嫌なこと、あった?」

 一瞬、時が止まったような気がした。
 微かに不安げな表情。心から心配していることが分かる目付き。物心ついた頃から一緒で、ずっとずっと大好きだった幼馴染が、そこに居た。

 だから俺は──必死に吐き気を堪えた。
 だって、そうだろ。こいつ裏で……なんだよそれ。どういう感情で俺に……ああ、クソ、グチャグチャだ。今すぐ優愛から離れたい。こいつと会話してたら、頭が変になりそうだ。

「……ごめん」

 再び言葉を絞り出した。
 優愛はショックを受けたような顔をした。

「私のせい?」

 そうだよ。

「……いや、俺のせい」

 本音を言えたら、どれだけ楽だっただろう。

「ほんと?」

 噓に決まってんだろ。分かれよ。

「……うん」

 あまりにも難しい。
 なんだよこれ。ただ会話するだけなのに。
 十年以上、ずっと、普通にやってたのに……!

「あのさ」

 移動したい。
 一秒でも早く、彼女を視界から消し去りたい。

「……お詫び。なんか奢るよ」

 俺は彼女が見えないところを見て言った。

「何円まで大丈夫?」
「……お手柔らかに」

 こんなの嘘だ。
 俺が知ってる優愛なら、こういう時は普通に帰ろうとする。

「今日は普通に帰りたいかも」

 ほら、思った通りだ。
 目の前に居るのは俺が知っている優愛だ。

 だから、だから、だから……気持ち悪い。
 何を考えているのか分からない。不気味で仕方がない。

「ハルくん、話せるようになったら、教えてね」

 こっちの台詞だよ。

「私とハルくんの仲じゃん。今さら隠し事なんて、寂しいよ」

 お前が言うなよ。

「行こっか」
「……ああ、そうだな」

 相手を気遣うような声を聞く度に、胃液が喉を焼く。
 ほんの少しでも油断したら吐いてしまいそうな程に気分が悪い。

「ハルくん、今日の授業ちゃんと聞いてた?」
「……あんまり」

 あんなに心地よかった下校の時間が拷問にしか思えない。

「ノート見せてあげよっか」
「……助かる」

 あんなに優愛の隣を歩くことが好きだったのに、今はヘドロに沈んだ方がマシだ。

「おりゃ!」

 優愛が肩をぶつけた。
 瞬間、唇を強く噛み息を止めた。

 強い酸が喉を焼いた。
 それでも、どうにか我慢した。

「……なんだよ」

 自分でも驚くほど低い声が出た。
 
「ハルくん暗い!」

 やめてくれよ。
 なんなんだよ、こいつ。
 なんで、そんな、いつも通りに……!

 ──仕返し、しませんか?

 ハッとした。

 ──脳が破壊される感覚、彼女にも与えるべきです

 そっと後ろから抱き締められるような感覚があった。

「もうちょっと」

 そうだよ。決めただろ。
 俺は優愛に……俺と同じ感覚を与えてやる。

「もうちょっとだけ、待ってくれ」

 その為に、今はまだ、仲良くする。
 いつも通りを演じてやる。明日の授業が終わるまで、これまで以上に仲良くする。

「明日、また部屋に行っても大丈夫?」

 嫌に決まってんだろ。
 ふざけんなよクソビッチ。

「明日は、俺が行くよ」

 心とは真逆の言葉が出た。
 強烈な嫌悪感と嘔吐感が消えている。
 自分の中で、何かが吹っ切れたことが分かる。

 簡単だ。
 怒りが、一番強くなった。

 優愛を気持ち悪いと思うよりも、優愛の不気味さに吐き気を覚えるよりも、優愛に復讐したいと思う感情の方が強くなった。

「……ハルくんのエッチ」

 ほんと、気持ち悪いよ、こいつ。
 何がハルくんだよ。気軽に呼ぶんじゃねぇよ。

「冗談だよ。待ってるからね」

 だけど今は我慢だ。
 今だけは、笑顔を見せてやる。

 全ては明日のために。
 ──脳を破壊される感覚を、与えるために。



 ……あれ? でも、どうやるんだ?
 優愛は俺のことなんて〇〇〇野郎としか思ってないのに。

 ……いや、大丈夫だ。
 坂下さんを信じよう。きっと何か考えがある。

 ……他力本願だな。
 でも仕方ないだろ。疲れたんだよ。何も考えたくない。

 だから今日は、ゆっくり寝よう。
 明日になればきっと……きっと。
 
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