秘書課のオキテ

石田累

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1巻

1-1

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   プロローグ 人生が変わる夜


「タカツカサ、こんなところに女の子が落ちている」
「社長、そんなものに直接お手を触れてはいけません」

 ……ん?
 よくわからないけど、今、かなり腹が立つことを言われた気がするぞ。
 胎児のように身を縮こまらせていた白鳥しらとりれんは、ほんの少しだけ目を開けた。とたんに夏草の匂いにむせそうになる。目をつむりながら息まで止めていたのだと、その時ようやく気がついた。
 月光に照らし出された夏の夜の河川敷かせんじき。急斜面の土手の半ばで、頭を下にして倒れている香恋の視界――その下側に、二人の男が現れた。
 白いスーツと黒いスーツ。
 華奢きゃしゃな方が白で、がっしりした方が黒。まるで漫才コンビみたいにわかりやすい。
 白い方が言った。

「どうやら、怪我けがをしているようだ」

 すると、黒い方も口を開く。

「道路にブレーキこんがひとつしかなかったので、おそらく自損事故でしょう。ご覧ください。向こうに原付バイクが転がっている」

 白の声は優しくてソフト。黒の声は低音でよく響く。

「いや待て、タカツカサ。その推理には穴がある。この子はまだ学生に見えるぞ」
「お言葉ですが、社長。高校生なら、原付バイクの免許くらい取れます。ただし服装からしてヤンキーと思われますので、無免許の可能性もあるでしょう。大方ハンドル操作を誤って、上の国道からこの土手にバイクごと転落した――そういったところではないでしょうか」

 いや、すごいよ。この状況でそこまで正確かつ冷静に推理するあんたたちはすごい。
 でも普通、普通ですね。夜の河川敷かせんじきで女の子が倒れてたら、しかもその近くに原チャリが転がってたら、普通――警察か救急車に通報しません?
 それに私は、ヤンキーではない。
 まぁ今日は、いかにもそんな格好で外に出てしまったのだけど。
 こんな夜中に真っ白なベンツで河川敷に乗り上げてくるから、てっきり反社会的勢力の方たちだと勘違いして、つい気を失ったふりをしてしまった。とにかく、一刻も早く、ここから連れ出してもらわないと。

「社長はお車にお戻りください。第一発見者は私ということで、警察に通報します」
「おい待て、タカツカサ、第一発見者は僕だろう」
「上の国道で、やたら車高しゃこうの低い派手な車と何台もすれ違いましたよね。面倒事の臭いがします。だいたい、この娘の服装からして、まともな人間だとは思えない。関わり合いになるのはおやめください」

 ちょっ……何それ。
 黒い方の声だけど、なんてひどいことを言うんだろう。だいたい服装、服装と言いますが、このジャージは、れっきとした――

「学校指定ジャージです!」

 思わず香恋は、倒れたまま反論していた。
 しまった、と思ったが、立っていた男二人は驚いたように香恋を振り返る。
 仕方なく、香恋は顔だけをその二人の方に向けた。

「い、色も紫だし、ダボッとしてるけど、やせてサイズが合わなくなったから、部屋着代わりに愛用してるだけです。今夜はいきなり呼び出されて、着替える間もなく家を出たから」
「……近頃の学生さんは、夜中にバイクで出かけるのかな」

 そう言った白い方が、土手を上がってゆっくりとこちらに歩み寄ってくる。

「それは、まぁ、これにはわけが」

 彼は香恋の頭の近くで足を止め、かがみこんだ。香恋はぎょっとして、身をすくめる。
 え、ちょっと、何、この人。なんでこんなに私に近づく――え、えええっ。
 多分夜目にもそれとわかるほど、香恋は赤くなっていた。白い方の人が、息もかかるほどの近さに顔を寄せてきたからだ。
 このシチュエーション、この前読んだロマンス小説と同じだ。悪党に追われ、森で迷子になって眠ってしまった王女。通りがかりの王子が王女を見つけ、あまりの美しさに思わず……
 もちろん小説のようにキスはされなかったが、香恋は思わず見とれてしまった。
 こんな綺麗な男の人、初めて見た。白い肌、長い睫毛まつげに縁取られた褐色かっしょくの瞳。上品な唇と、ウェーブのかかった柔らかそうな髪。まるでロマンス小説から抜け出してきた王子様みたいだ。
 香恋の理想のタイプは、アンニュイな詩人のような、雰囲気がある美形。幼稚園からの親友、前田まえだあいにすら「国産じゃ無理でしょ」と言われたその理想を、体現している日本人がいた。しかも、今、目の前に。
 その時、土手の上から大きなだみ声が聞こえた。

「おい、こんなとこにブレーキのあとがあるぞ」
「あのガキ、土手から落ちたんじゃねぇか?」

 しまった。見つかった。

「お友達かい?」
「なわけないです。すみません。かくまってください。私はいないと言ってください」

 土手の上の方に顔を向けると、数台の車のヘッドライトが見える。本当に、まずい。

「ちょっとトラブッて、その、……追いかけられてるんです、私」

 香恋はそう言うなり、立ち上がって逃げようとした。が、怪我けがをしたのか足はびくとも動かない。
 白の王子がすっくと立ち上がって、土手の下に立つ黒い人影を振り返った。

「タカツカサ、とにかくこのお嬢さんを車に乗せよう」
「警察に通報したほうがよろしいかと存じますが」
悠長ゆうちょうに警察の到着を待っているひまはなさそうだよ。まだ開いている病院を探して、送ってあげよう」
「この娘がどうしようもない悪党で、上にいる連中が被害者だという可能性も捨て切れませんよ」

 何、この人。
 黙って聞いていれば、ヤンキーとか悪党とか、ちょっと言うことひどすぎじゃない?
 香恋の位置からは、黒い方の男の顔までは見えない。背が高くて、肩幅が広いのがわかる程度だ。どうせ鬼瓦おにがわらみたいな顔をした親父だろう。さながら佳麗かれいな王子を守るじいといった役どころか。

「この子は、悪い子ではないよ」

 白の王子がやんわりとした口調で言った。そして香恋を振り返ると、ふっと淡く微笑ほほえんだ。

「だって、いい匂いがするからね」

 きゅん……
 今、まさにそんな音が胸から聞こえたような気がする。
 きゅんときた。やられた。今、完全に恋に落ちた。

「社長……いつも言っていますが、匂いなんかで人のしは判断できやしませんよ」
「ははは、ちなみにタカツカサの匂いの方が、僕は好きだよ」

 楽しげな笑い声と共に、白の王子が不意に視界から消えた。その直後だった。いきなり背中と膝の裏に手が差し入れられ、あっと言う間もなく、香恋はふわりと抱え上げられた。
 ――えっ……
 人生初のお姫様だっこ。
 すごい。本当にロマンス小説の世界みたいだ。まさか、生まれて初めてめぐり会った理想の人に、お姫様だっこまでしてもらうなんて。

「くそ、重い」

 その声で香恋の夢想はたちまち吹き飛んだ。王子じゃなくて、黒いじいの方だった。なんてことだろう。人生初のお姫様だっこの相手が、意地悪な爺だなんて。だいたいこの男、いつの間に土手を上がってきたんだろう。
 しかも、いったんずり落ちた香恋を再び持ち上げる手の、デリカシーのなさといったら!

「ちょっと、一応女子高生なんで、気安くお尻とか触らないでくださいよ」
「はぁ?」

 香恋をにらむように見下ろした爺の顔は、予想に反して若かった。
 思わずあごを引いた香恋は、ちょっとだけ戸惑ってその顔を見上げる。
 凛々りりしい眉に鋭い目。骨ばったほほと厚みのある唇。無造作に分けた硬そうな黒髪。王子とは対照的な、ひどく男らしい顔である。それが、今にも爆発寸前レベルに怒っているように見える。

「……おい、ふざけるなよ。クソガキ。誰がお前のケツを触ったって?」
「タカツカサ。彼女は僕のお客様だ、丁寧ていねいに扱うように」

 前を行く白の王子が、振り返って言った。

「……承知しております」

 その時のタカツカサの顔といったらなかった。苦虫をつぶしたような表情、というのはまさにこの顔のことかもしれない。
 ちょっと得意になった香恋だったが、すぐにギクッとして首をすくめた。タカツカサの肩越しに、車から降りてきた連中が数人、土手を駆け下りてくるのが見えたからだ。が――

「あっ、ガキがツーベンに拉致らちられてる!」
「やべぇ、とっとと逃げるぞ」

 ベンツの威力、マジすごい。
 そもそもこんな山陰の田舎町いなかまちでは、ベンツなんてまず見ることがない。まさにドラマか漫画の世界の乗り物である。香恋にしたって、最初は驚いて死んだふりを決めこんだほどだ。

「お客様」

 その時、全く心のこもっていない笑みを唇だけに浮かべて、タカツカサが香恋を見下ろした。

「申し訳ございませんが、手を離していただけますか。私のスーツが汚れてしまいますので」
「……え?」

 しまった。いつの間にか、この男のスーツにしがみついていたようだ。

「……す、すみませんでした」
「いいえ」

 上辺だけの微笑を浮かべたまま、男は車の後部座席の扉を開けて、車内に香恋を投げ入れた。
 比喩ひゆではない。本当に物みたいに投げられた。シートのひじ置きにぶつかった腰のあたりがゴキッと音を立てたほどである。

「い、いだっ」

 しかしそのおかげなのか、ようやく下肢かしにも力が入る。香恋はふかふかのシートに座り直し、やっと人心地ひとごこちを取り戻した。


「じゃあ、さっきの若者たちとは面識はないんだね」
「まぁ、……基本、知らない人たちです」

 助手席に座る白の王子の質問に、香恋は少し迷いながらそう答えた。

「顔だけは、街でちょいちょい見かける程度っていうか。今夜はナンパされた友達を助けに行って、そしたら、……逆恨さかうらみされたっていうか」
「それは……とんでもなくされたものだね」

 車数台で追いかけ回された挙句あげく、なおも執拗しつように探し回されていたのだから、王子から戸惑った声が返るのも無理はない。しかしそのあたり、さすがに全てを詳しく説明するのははばかられた。
 実は、こういったことは今日が初めてではないのである。クラスメイトがトラブルに巻きこまれたら香恋が呼ばれ、相手方と話をつける――なんとなく、それが当たり前な感じになって、自分でも意図しないうちに、他校の不良連中に顔が売れてしまったのだ。
 香恋自身はヤンキーでも、夜遊び好きなギャルでもない。ちょっと腕っぷしが強いだけだ。それが原因で、昨年、ある事件を起こしてしまい、この田舎町ではすっかり有名になっただけで――

「病院とかは別にいいので、そのあたりで降ろしてください。あの、お礼は改めてってことで」

 なにしろ財布も携帯も、転倒したはずみで飛び散ってしまった。それに、置いてきたバイクも気になる。

「心配しなくても、夜間外来のある外科をタカツカサが押さえてくれているよ」

 少しだけこちらを振り返り、穏やかな口調で王子は言った。

「ついでに言えば、君の原付バイクや落とし物も、回収するよう手はずしているはずだ。後でタカツカサに連絡先をいて、引き取りにいきなさい」

 なんで、そこまで? 香恋は本気で驚いていた。王子が社長で、車や身なりからも大層な金持ちだというのはわかったが、気まぐれにしても親切すぎる。
 というより、そんな細やかなフォローを、この短時間で黒のじいがしてくれたというのだろうか。

「あの、……タカチカサさんが、そういった手配をしてくださったんですか」
「タカチカサじゃなくて、タカツカサね」

 くっくっと笑いながら、白の王子は視線を再び前に戻した。
 そのタカツカサは運転中で、先ほどから二人の会話には一切入ってこない。

「彼は、僕の秘書でね」
「秘書、ですか」
「とても優秀な男で、僕はもう彼なしでは生きていけないんだ。僕は用事があるから先に降りるけど、後はタカツカサに任せておけばいいよ」

 え、そんな、もうお別れなんですか。香恋が口を開こうとすると、車は市内の大きなホテルの前で停まった。

「じゃあね、お姫様。もう無茶な真似をしては駄目だよ」

 最後にウインク。再びきゅん……となった香恋は、ここで肝心な情報をいていないことに気がついた。王子の名前、そして連絡先である。

「あ、あの!」

 急いで車のウインドウを開けた香恋は、ホテルマンに付き添われてエントランスに消えようとしている王子の背中に呼びかけた。

「名前……名前を教えて下さい。もう一度会って、お礼がしたいんですけど!」

 足を止めて振り返った王子は、少し意外そうにまばたきをした後、優しく微笑ほほえんだ。

「また会うのは難しいかもしれないね。それにお礼なんて必要ないよ。じゃあ、元気で」
「ちょっと、待っ」

 香恋の声をさえぎるように、いきなりウインドウが閉まった。間髪かんはついれず、車が勢いよく発進する。
「あうっ」と、ウインドウに額をぶつけた香恋は、むっとして運転席の男をにらんだ。

「ちょっと、まだ話の最中なんですけど!」
「お客様は、常識が足りないのでしょうか」

 はい?

「このようなおおやけの場で大声を出されますと、否応いやおうなしに周囲の注目を集めてしまいます。取引をさせていただいている相手の前で、うちの社長が思わぬ恥をかくことになりかねません」

 何、その厭味いやみな口調は。確かに、言う通りなんだけどさ。
 その時、携帯の着信音が車内に響いた。タカツカサがイヤフォンを取り上げ、耳につける。

「はい、タカツカサです。ああ、いつもお世話になっております。予約の件ですが、今から一時間後に、宮里みやさと外科の前にお願いします。お客様は十代の女性で、お名前は――」

 感情のない声が、香恋に投げかけられた。

「お客様、お名前は」
「え、し、白鳥……」

 だいたいどこで名乗っても一度は聞き返され、そして失笑される名前。香恋はこの名前をつけた亡き母親を少しだけ恨みつつ赤らんだ。とはいえ、本音を言えばこの名前は結構好きだ。今に名前負けしないレディーになるぞという意気込みも湧いてくる。

「し、白鳥、香恋ですっ」

 思い切ってげると、一瞬、不思議な沈黙があった。
 よく聞こえなかったのか、あるいは本気にされなかったのかと思い、香恋はもう一度繰り返した。

「あの……白鳥香恋ですが」

 はっとはじかれたように、タカツカサがイヤフォンに手を添える。

「え、ああ、――お待たせしました。お客様のお名前は白鳥香恋様。ご自宅まで送っていただけますでしょうか、よろしくお願いします。では」

 何? 今までこの名前では色んな反応を見てきたけど、こんなのは初めてだぞ。
 しかしその疑念は、今の電話がタクシーの予約だとわかったとたんに吹き飛んだ。

「あの、そこまでしてもらう意味がわからないんですけど。だいたい私、お金とか持ってないし」
「社長の気まぐれで車にお乗せしたのですから、最後まで送り届けるのは当然でございます」

 香恋の声をさえぎるようにタカツカサは言った。

生憎あいにく私も仕事がございますので、病院の前で失礼させていただきます。必要な手続きなどは全て済ませてございますので、受付ではこの名刺をお出しください」

 運転席から名刺を差し出されたので、香恋は仕方なくそれを受け取った。そして目を見開いた。


 総合警備保障 株式会社ライフガーディアンズ(LGS)
 東京本社 総務部秘書課 主任 鷹司脩二たかつかさしゅうじ


「……ライフガーディアンズ……あの、もしかして、CMとかでよくやってるあの会社ですか!」
「ご存知でいらっしゃいますか」
「はい、はい。大ファンです。あ、会社じゃなくて、CMに出てる元柔道選手の」
「……小杉こすぎ選手ですか」
「そうそう、あやちゃん!」

 香恋は目を輝かせてうなずいた。
 オリンピックで三回連続金メダルを取った小杉絢。通称、絢ちゃん。初めて金メダルを取ったのは、なんと高校一年生の時だ。その愛くるしい笑顔で一躍いちやく人気者になった彼女は、今から三年ほど前に現役を退しりぞき、タレントに転身した。

「もーっ、昔から大ファンなんですよ。絢ちゃんのことなら、大抵のことは知ってます」

 ライフガーディアンズに関しては、何をしている会社なのかさっぱりわからないが。

「それに私、絢ちゃんに憧れて柔道を始めたんです。握手してもらったこともあるんです。すごい、すごい、あの絢ちゃんがCMに出てる会社なんて。これ、マジ運命じゃないですか!」

 ここで香恋は、自分の封印していた過去を、無意識に口にしてしまったことに気がついた。

「――あ、まぁ、柔道やってたっていっても、ちょっとかじってたというか、たしなんでいた程度で」
「先ほどの方はライフガーディアンズの代表取締役社長で、創業一族直系の御曹司おんぞうしでございます」

 香恋の話に興味がないのか、鷹司はあっさりと話題を変えた。

「ですから、お礼は結構ですし、もう二度とお会いする機会もございませんでしょう」

 辛辣しんらつな言葉は、丁寧ていねいな口調で言われるとよりキツくなるものだと香恋は知った。
 そりゃ……そんな雲の上の人に普通に会えるとは思えないけど、でもでも、その人がもしかしたら、私の運命の人かもしれないじゃない。
 だって、白いベンツに乗って現れた。こじつけだけど、白馬の王子様みたいだった。
 さらに言えば、憧れの小杉絢も絡んでいる。柔道を始めた時のように、これってもしかして、自分の人生の転機かもしれない。そう思った香恋は、衝動的に口を開いていた。

「どうしたらいいですか」
「はい?」
「たとえばですね。私が鷹司さんみたいに、あの人のそばに――つまり、秘書になるためには、どうしたらいいですか!」
「…………はい?」

 たっぷり一分ほど鷹司は黙っていた。香恋はドキドキしながら彼の言葉を待っていたが、やがて病院の看板が右斜め前方に見えてくる。

「お客様、病院に着きました。エントランスに車をつけますので、お忘れ物のないようご注意ください」

 え、何、無視ですか。
 そりゃあ、馬鹿なことをいてしまったとは思っているけど。
 鷹司はきっちりエントランス中央に車を停めると、先に車を降り、優雅な動作で後部座席の扉を開けてくれた。

「……ありがとうございます」

 嫌な奴だけど、今夜、窮地きゅうちを助けてもらったことだけは間違いない。ぺこり、と頭を下げて車を降りようとした時だった。
 いきなり鷹司がドアに片手をかけ、香恋の前に立ちふさがった。
 びっくりして見上げると、鋭く光る怖い目が、香恋を見下ろしている。

「お前、高校、何年生だ」

 口調までもガラッと変わる。香恋はドキリとして、あごを引いた。

「さ、三年……あっ、そういえば就活中です!」

 そうだ。ライフガーディアンズに就職するという手があった。しかし鷹司は、いかにも馬鹿にしたように鼻先で笑った。

「もう来年の採用枠は埋まってる。というより、高卒は本社じゃ採らない。うちの会社に来たけりゃ、大学に行くんだな」

 え、無理……。卒業すら危うい成績なのに、そんなの、逆立ちしたって無理っていうか。

「逆立ちしても無理なら、バク転でもしたらどうだ」
「はっ?」

 何、この人。さっきから、私の内心ズバズバズバズバ言い当ててない?

「仕事柄、人の気持ちを先読みするくせがあるんだよ」

 鷹司は腕を組み、眉間にかすかなしわを寄せた。

「秘書の仕事をめるなよ。お前みたいな根性なしに務まるような甘い仕事じゃない。二十四時間自分を殺してひたすら相手にサービスしつつ、複数の頼まれ事を同時進行でさばいていくんだ。高度な事務処理能力はもちろん、コミュニケーション能力と忍耐力、柔軟で迅速なトラブル処理能力が必要とされる。お前みたいな女には、まず無理だ」

 香恋はぐっと言葉に詰まる。そりゃ、今言われた能力なんて、ひとつも私にはないですけど。

「お、お前みたいな女にって、初対面のあなたに、私の何が」
「わかるね。ただ怠惰たいだに日々を過ごしているだけの女子高生。短気で思慮しりょが浅く、今の環境に漠然ばくぜんとした不満はあっても、それをなんとかしようという気はない。低いレベルに順応する力はあるみたいだがな。そんな奴には、夢も希望も未来もない。俺から見れば、最低の人種だ」

 香恋は唖然あぜんとしたまま、男の顔を見ていた。
 そこまで、言う? ――初対面の女子高生に、そこまで言う? 
 本当にこいつ、最低だ。今まで色んなことを色んな人に言われてきたけど、ここまで徹底的に全否定されたのは初めてだ。ドアから離れた鷹司に向かって、香恋は言った。

「行きますよ。大学」

 香恋は車を降り、拳を握りしめる。

「行きますよ。そしておたくの会社に就職します。絶対に社長の秘書になります」

 今度は、鷹司が呆れたような表情になる。

「ま、頑張るんだな。無駄な努力が好きならば」
「言っときますけど、努力は必ずむくわれるんです!」

 そう口にしたとたん、香恋は自分の言葉に驚いてまばたきをした。その言葉はかつての香恋の座右ざゆうめいであり、そして自分で捨て去った言葉でもあったからだ。
 努力は、報われない。それが一年前の理不尽な事件で、香恋が学んだ教訓である。
 一瞬眉根を寄せた鷹司は、しかしすぐに冷笑を浮かべた。

「じゃあ俺も言わせてもらうが、その言葉を吐けるのは、人生の勝者だけだ」
「だ、だから、今はそうかもしれないけど」
「この世には報われない努力もある。もっともお前には、それを口にする資格すらないんじゃないか」

 え、何。――どういう、こと?

「じゃあな。もう二度と会わないで済めばいいな。お互いに」
「あっ、あの、鷹司さん」

 もしかして私のこと――知ってるんですか?
 その時、くらい眼差しが香恋をとらえたような気がしたが、鷹司は何も言わずに車に乗りこんだ。駆け寄った香恋の目の前で扉が閉まる。
 白いベンツが夜の闇に消えていく。香恋はしばらく身動みじろぎもできず、その場に立ち尽くしていた。



   第一章 新入社員と鬼上司


「え? じゃあ五月にもなって、今日が初出勤ってこと? しかも午後から?」

 携帯を耳と肩で挟んだまま、香恋はその言葉にうなずいた。

「そう。とにかく最初の一ヶ月は研修ばっかでさ。今日の午前中も説明会と社内見学で――あ、もうそろそろ電話切ってもいい? 昼休憩終わっちゃうから」

 言葉を切った香恋は、残りのサンドイッチを野菜ジュースで流しこんだ。

「しっかし、香恋がOLさんねぇ」

 電話の相手――親友の前田藍は、心底感心したような声で言った。その背後で「カツ丼上がり」と威勢のいい声が聞こえるのは、実家の定食屋の手伝いをしているからだろう。

「あの香恋が大学に行ったことさえ天変地異の前触れかと思ったけど、まさかまさか、テレビでもおなじみの有名企業に本当に就職しちゃうとはね。世の中何が起こるかわかんないもんだ」
「まぁ、なんつーの?」
「……運命!」

 ロマンス小説が三度のご飯より好きな藍と、その影響を幼少時から否応いやおうなしに受け続けてきた香恋は、そろって黄色い歓声をあげた。
 隣のベンチに座るサラリーマン風の男から、ちょっと迷惑げな目を向けられる。香恋は慌てて口を押さえ、ぺこりと小さく頭を下げた。
 五月の陽光の下。川沿いにある小さな公園。可愛いベンチが点在し、背後のビル群が芝生に影を落としている。ここは、昼休憩ともなればオフィス街から流れてきたOLやビジネスマンたちのいこいの場となるようだ。入社式以来、ずっと外部の施設で研修を受けていた香恋にとって、こんな洒落じゃれた場所でランチを取るのは、今日が初めてのことだった。

「まぁ、努力はむくわれるってことだよね」

 香恋は出来上がったばかりの名刺をポケットから取り出し、しみじみとつぶやいた。


 総合警備保障 株式会社ライフガーディアンズ(LGS)
 東京本社 総務部秘書課 第二係 白鳥香恋


 この肩書を手に入れるために、これまでどれだけ血の涙を流したかは語るまい。
 故郷の人たちからは、奇跡とまで言われた大学進学。浪人時代には体重が四十キロを切り、血尿が出て、十円ハゲが三つもできた。そして大学進学後も辛かった。生活費は自分でかせぐという条件で県外の大学に行かせてもらったから、勉強の合間にバイトをし、バイトの合間に勉強をした。――まぁ、語ってしまったが、それくらい苦労したのである。


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