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【 22 】
しおりを挟む鄭欣は犬へ目をやったままで、寛承君にうなずく。
「ああそうだ。 正に」
肯定するかのように、ガっ、とその犬はごく小さく吠えた。 近くにいる主人に合図を送るための、声量を抑制した吠え方だ。
「カラッシ? 見つけたの? 」
そこへ馬の荒息と砂利を踏み進む蹄の音に乗って、犬に呼び掛ける嶺鹿が烏毛馬と共に姿を見せ、巧みに手綱を操りながら近寄って来た。 崩れた土壁の陰で焚き火に照らされる鄭欣と目が合って、
「今晩は、髪結いさん! 追いつけて良かった! 」 と破顔する。
「ど、どうも …… 」 鄭欣は、思わぬ人物の来訪にたじろいだ。 「なぜここに? 」
「お忘れ物があったので、届けに参りました」
音もなく下馬すると、少女は掌に載せた一粒の透明な石を差し出した。
「お帰りになってから絨毯を敷き直す時に、毛足に絡まっているこれを英璉が見つけたのです。 きっと、大切な物だと思って」
集光のために磨かれた、曲面を持つ水晶だ。
慌てて傍の壊れた木箱の表面をさらい撫でた鄭欣は、針穴像の小穴が空洞で、何も嵌っていない事を知った。
「本当だ、抜けている …… それです、この箱から落ちたようだ」
「倒れた時に外れたのね」
少女は広い足どりで鄭欣に近付いて、指につまんだ水晶を手渡した。
揃えた両手で慎重に受け取った鄭欣は、感謝すると共に疑問にも気付く。
「誠にわざわざ、ありがとうございました。 それにしても、よくここがおわかりになりましたね。 北側からは焚き火の明かりが死角になる地勢なのに」
当然のように現れた少女には、人を捜して闇雲にさ迷った疲れがなかった。 全く手間を掛けず、無駄なくこの場所まで来たように見える。
「そんなこと」
嶺鹿は小さく自慢するように微笑んだ。
「カラッシがいますもの、馬車の匂いを辿ったのです。 あの犬の鼻の力を使って雨の中、二百里先まで逃げた羊泥棒を捕まえた事もあるんですよ」
泥棒、という主人の言葉の響きにピクリと反応して、犬の毛が少しづつ逆立っていく。
「あいつ、俺を見てるぞ」 寛承君がひるんだ。 「犬が俺だけを見始めた。 あー、失礼だが、お嬢さん ─── 」
そう言って焦る寛承君をじっと見定めると、少女は古来からの典礼に従い二歩退がった。
「遼俄族長キエンルイの長女、リェーグァ、と申します」
正対し、鳩尾に掌を重ねて軽く頭を下げた嶺鹿は、その姿勢を保ったまま地を見つめて、息継ぎをしないまま次の身上を朗々と名乗り上げる。
「かつて周王より賜った御言葉により、金興、月氏、遼狗、円狄の姓名に連なりを許されております、汝ら一族は、北域の遼俄なりと」
「あ …… 」
諸侯の礼を執ったのである。
「ええと …… 」
王族であれば、ここは然るべく答礼する必要があった。
「そ、宋の、寛承君 …… 周玄である」
観念して答えると素早く鄭欣を向き、声なく 『なぜ分かったんだ』 の動きで口だけをぱくぱくするが、今さらどうしようもない。
一拍置いて顔を上げた少女の瞳が、正解を見出した誇りできらきらと輝いた。
「あなたが寛承君さまなのですね」
「なぜ、君は、その」
「落とし物を見て、最初は、髪結いさんが寛承君さま御本人かと考えました。 妹に下さった石もよくよく見れば水晶でしたし、出稼ぎに来た修行中の方としては、お持ち物が高価すぎますから」
焚き火に手をかざして暖を取りながら、姫君は記憶を振り返る。
「でもそれだと辻褄が合わないわ。 結婚相手がどんな女なのかを見物したくて長城の奥からはるばるやって来るくらいに寛承君さまが酔狂なお方だとしても、ただ私を見る事だけが目的なら、英璉の髪結いを終えたところで帰るのが一番自然です。 どうして、幕舎に居続けなければならなかったのか …… そこが分からないの。 考えつくのは、髪結いさんは実は絵描きさんで、連絡がつけやすい所、つまりここで待っている寛承君さまからの指示を細かく受けて、私の顔をできるだけ正確に描こうとしていた …… 、 …… か、それとも ─── 」
そう話しながら移した視界に火明かりを受ける月光蘭が入った途端、ちょっとだけ得意意地悪顔になっていた嶺鹿は、その植物の葉の中にくっきりと写し取られている己自身の姿を認めて息を呑んだ。
「それとも ─── 」
驚きに見開かれた瞳が、そろそろと植物に近付いていく。 緑色の陰影で記録された少女の像は、人の手技とは明らかに異なる精妙さで作り出された、ありのままの記録、もう一人の嶺鹿だった。
「 ─── それとも、思いもよらない …… 、何か別の理由が、あって …… 」
少女の震える指が葉の表面に近付いて遂にはほとんど触りかかり、しかし奇跡の受容を恐れるかのような怯えを見せて最後はぱっと引き退いた。
「これは …… ? 」
「あなたです」
「『 白緑写像 』といいます」
「この服は、私が今日の昼に着ていた踏草衣だわ」
葉から目を上げた嶺鹿と鄭欣は想いを分かち合うように見つめあった。
「あの時なのね」
「そうです。 半分は、事故の影響を未然に防いだあなたの機転によってなし得た成果です。 実にお見事な判断でした」
鄭欣の賛辞に、嶺鹿はなぜか反応しなかった。 しばらく無言でランの葉に写る自分を凝視していたが、ものすごくゆっくりと首が傾げられていく。
「んー。んー、…… 私は …… 、ちょっと、不満」
「ああ確かに、像外縁の一部に余分な着光の痕跡が見られます。 ですが初期状況の過酷さを考えれば …… 」
少女の見ているものは全く違っていた。 妥協を許さない後悔をにじませて 「取っておきの服を着ておけば良かった。 だってこれ、普段着なんですもの」 と言い募ってから、
「いつかまた私を写してくださる?」
と可愛くも真剣な口調で問いかけた。
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