痛みは教えてくれない

河原巽

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「姉さま! 姉さまっ!!」

 訪れた部屋でエレノアの姿を確認したアデルがぎゅうぎゅうと腰に抱きついてくる。さぞ怖い思いをさせたのだろう、と眦に涙を湛える姿に胸が痛くなる。
 事件現場にほど近い治療院の応接間でアデルと再会出来た。エレノアが訪れるまでルークが付き添ってくれていたようで、事情を説明するからと勧められた長椅子に腰を下ろすとアデルが隣に張り付くように腰掛ける。
 そして何故か、反対隣にはマグラが腰を据えた。対面に座るルークの横が空いているにも関わらず、アデルのようにピッタリと真横に。
 エレノアにとっては思わず隣を二度見してしまうほどの事態だったのだが、ルークは構わずに事の経緯を教えてくれた。


 ザキーラ家の馬車を襲ったのは事前に教えられていた、窃盗を犯した行商たちだった。リンゼイ領での戦果を王都で捌こうとした彼らだったが、職業柄顔が割れているためにお尋ね者として追われていることを知り、貴族の馬車を盗んで王都を脱出しようと目論んだらしい。そこで街歩きをしていたアデルに目を付けられてしまった。

「エレノアはその格好のせいで護衛の一人だと思われたみたいだな」

 あわよくば身代金も要求出来る、そんな浅はかな考えで貴族令息と思しきアデルごと馬車を盗もうとしたが、常に寄り添う乗馬服の女が邪魔になった、ということなのだろう。アデルから引き離され、投げ飛ばされる結果となった。

「奴ら、焦ってたんだ。事を急いて武器を使われずに済んだのは幸運だった」

 捕縛した犯人への聴取で、犯行団はリンゼイ領から王都までの道のりで名の通った商会の大型荷馬車も奪取したことが明らかになっている。その際にも御者が斬り付けられて怪我を負ったというから、エレノアの軽傷――地面に打ち付けられて出来た顔の擦り傷と打ち身で済んだのは確かに幸運と言える。
 あの広場に停めた大型荷馬車から貴族家の馬車へ乗り換えて逃走するには時間の勝負で、犯人側からすれば成功も目前だったのだろうが。

「私は途中で気を失ってしまったのですが、どのような経緯で捕縛に?」

 アデルには傷ひとつなく、御者も護衛も殴られたり倒されたりはあったものの、大きな怪我には繋がっていない。ザキーラ家の馬車は広場から動かされてすらいなかった。

「マグラがすっ飛んでいった」
「え?」
「弟の名を叫んだのが聞こえた。現場に着いたらエレノアが地面に伏せたところだった」

 真横を仰げば不機嫌そうに顰めた顔でマグラはそう言った。彼の頭上にはピンと立った三角耳。

「救援を呼んで駆け付けた頃には全員伸びてたよ。こいつすばしっこいからな」
「あの、ルークさんはご存知だったんですか?」
「ん、何をだ?」
「マグラさんがその、獣人と」
「支部のみんな知ってると思うが」

 あっけらかんとした回答に喉がひくりと震えた気がした。

「私、は、存じませんでし、た」

 唯一、自分だけが知らされなかったのだろうか。彼の本質に触れる部分を。

(現場に出ないから……知らせる必要はないと思われたのかもしれないけれど)

 しかしエレノアの下に就く事務補佐たちも知っているというのならば、立場による分別でないことは明らかだ。日頃の彼の態度を鑑みれば導き出される答えは自ずと見えてくる。

「問題があるか?」

 沈みかけた思考を断ち切ったのはマグラ本人だった。見上げたその瞳は真剣味を帯びて、じっとりとエレノアを見据えている。

「俺が獣人でエレノアに問題はあるか?」
「いえ、ありませんが……」
「そうか、ならいい」

 コクリとひとつ頷いてみせた彼は微かに口元を緩めていた。そんな表情を見るのも、当たり前のように名前を呼ばれるのも、腕の触れ合う位置に座るのも初めてのことで、頭に浮かびかけた仄暗い感情が勘違いなのかと混乱する。
 エレノアの腹部に縞模様の尻尾がするりと滑り、腰を抱くように巻き付いた。

「腹に触れたやつには厳罰を与えておくから」
「いや、お前にそんな権限はないからな」
「エレノアを引き倒したやつもぶん殴っておく」
「待て、私刑は処分対象だぞ」

 不穏な言葉が頭上を飛び交う中、撫でさするように腹を上下する尻尾は意思を持ったかのような動きだ。思わず目を奪われるエレノアの隣でアデルもまた好奇心に満ちた視線でその動きを追い掛けていた。

「お前たち、近くないか」

 灰色の頭が眼前に迫る。同じ言葉をそっくりそのままお返ししたかった。

「いつもいつもその匂いだ」
「匂い?」
「弟とまた密着しただろう? 顔を寄せたりとか」
「顔、ですか。お買い物の最中にしたかしら?」

 アデルに尋ねると素直に首肯された。

「弟だから許すけど。他の男の匂いは必要ないから」

 ツンとそっぽを向くくせに、絡み付く尻尾を引っ込める気配は感じられない。
 救いの眼差しをルークに送れば、笑いを噛み殺して教えてくれた。

「相手が弟で良かったよ」

 かつて彼が抱いた怒りの矛先とその払拭方法。

「力加減ってもんをわかってないんだよなぁ」

 強けりゃいいってわけじゃないんだよ、とケラケラ笑うルークをマグラが唸って睨み付けたのは言うまでもない。


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 事件に巻き込まれてしまったエレノアは自身が負傷したこと、また幼い弟の精神面を考慮して一週間の休暇を与えられた。打ち付けた身体の痛みに動きがぎこちなく、顔の傷も少々酷かったのでこれ幸いと上層部の判断に甘えることにした。顔の傷に関しては薬を塗る前に激しく舐められたせいで余計に酷くなったのでは、とエレノアはこっそり疑っているけれど。

 そうして迎えた休暇明け、詰所で顔を合わせた支部長は困りきった顔だった。

「補佐の手だけじゃ追い付かなくてな。悪いが報告書と嘆願書が溜まってしまってるんだ」

 なるほど、これは急がなければと思わせる量だった。託された紙束を抱えて自分の執務机に戻ろうとしたそのとき、突然背後から影が差した。確信を持ってそっと肩越しに振り返ると眉を顰めたマグラが見下ろしている。エレノアはじっと息を潜めて彼の挙動を見守ることにした。
 音もなくエレノアの右頬に顔を寄せたマグラはスンと鼻を鳴らして更に眉根を歪める。出勤前にアデルに「いってらっしゃい」としがみつかれたのはこちら側だっただろうか。
 大きな一歩で反対側に立ってスンスンと二度鼻を鳴らした彼は、今度は満足気な頷きを見せ、ついでとばかりにかさぶたの残る頬をザラリと舐め上げた。

「ひっ」
「邪魔」
「でも、弟なので」
「弟だから許してるんだ」

 恩着せがましい物言いをする彼の尻尾は、エレノアの半身をゆったりと這って行く。これがルークの言うところの匂いの上書きというものなんだろう。

(直接触られているわけではないけど、こういうのっていいのかしら……?)

 手段が変わったとは言え、なんだかんだで彼のペースに引き込まれて好き勝手にされてしまっている。
 眉尻を下げるエレノアとは裏腹に、吊り気味の瞳を細めたマグラは獣人の特徴を瞬時に引っ込めると扉に向けて歩き出した。

「じゃあ行ってくる。他の男は必要ないからな」

 聞こえよがしに何を言ってるんだろう、彼は。
 この先何度も――ずっとずっと先の未来でも繰り返されるその言葉を、やっぱり今日のエレノアも思わずにはいられなかった。

(もう、何なの)



--終わり--
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