痛みは教えてくれない

河原巽

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 「姉さま、次は図鑑が見たい!」

 グイグイと腕を引っ張るアデルの笑顔が晴れ渡る青空の下で眩しく輝く。愛しい弟に請われて今日は街歩きをしている。
 伯爵家の跡取りとして小さいながらも令息然とした衣装を纏うアデルとは違い、エレノアは乗馬服に身を包んでいる。二年前までは街歩きにもドレスを着て回ったものだが、警護団に入団してからは身に着けるものへの意識が変わった。
 時折上がってくる城下内での事件報告書には女性が巻き込まれた事件も多数含まれているのだが、それを読むに緊急時のドレスは致命的であるということ。いざ避難しようとしても身動きが取りづらく、物音を立てやすい。豪奢なレースやリボンが何かに引っ掛かり行動を阻害されることもあれば、ボンネットやハットは視界を悪くする。宝石をふんだんに使った装飾品を奪うために直接狙われることさえある。
 淑やかさを求められる令嬢には必要な諸々も身の危険には代えられない。事件解決のために尽力している団員を間近で見ていると自らを守ることは周囲を守ることにも繋がると考えるようになったのだ。

「姉さま早く早く」
「そんなに急がなくても大丈夫よ」

 駆け出したいと言わんばかりに忙しなく動く弟の付き添いとしては乗馬服の動きやすさは大正解のようだ。
 入団当時のエレノアの様変わりっぷりに家族も屋敷の使用人も、御用達の従業員たちも驚きを見せていた記憶が蘇る。背後に控える護衛たちには「行動が把握しやすくて助かります」と言われたっけ。
 思い出し笑いに頬を緩めていると前方に見慣れた人影を発見した。

「エレノア? こんなところで奇遇だな」
「こんにちは、ルークさん」

 人懐こい笑みで挨拶を投げてきたのは第四支部の先輩団員であるルークだった。制服姿ということは警ら中に出くわしたのだろう。

「可愛い紳士にエスコートされてるじゃないか」
「弟のアデルです。アデル、こちらは姉さまのお仕事仲間のルークさんよ」

 警護団員は基本的に体格が良い。姉よりも高い位置から見下されたアデルはもじもじとエレノアの片腕にしがみつく。それでも伯爵家の教育の賜物か、きちんと挨拶は返すようだ。

「……アデル・ザキーラです。姉さまのおとうとです……」

 それはとても小さい声だったけれども。
 フッと相好を崩したルークがエレノアに視線を戻す。

「仲が良いんだな」
「年が離れているせいか、余計に可愛くて仕方がないんです」
「あぁ、その気持ちはわからんでもない。にしたって随分ベッタリって感じだが」
「男の子なら今くらいの歳だけだと思うので、逆に私も甘えてしまって」
「あぁ、うん。まぁそうか。そっか、なるほどなぁ……」

 空いた手でアデルの頭を撫でるエレノアを見つめるルークが得心したように何度も頷いている。しかし何かを思い出したようにハッと表情を塗り替えた。

「そうだ、エレノア。伝えておくことがある。実は今日のことなんだが――」
「あっ」

 真面目な口ぶりで話し始めたルークの言葉を遮ってしまったのはエレノアの発した声だった。思いがけないものを見てしまったせいで勝手に漏れ出てしまった。
 彼女の視線が自分を通り越していることに気付いたルークが背後を検めると、太陽に照らされて銀色かと思わせるような髪の持ち主が静かに歩み寄ってきた。

「おう、マグラも合流か」

 別段驚いた様子もなく迎え入れるルークの脇に立つマグラは眩しそうに顔を歪めていた。そんな彼を見てエレノアは違和感を覚える。

(夜勤だったマグラさんがどうしてここに?)

 昼どきを過ぎた現時刻だと彼の勤務時間は過ぎているはずだ。にも関わらず、昨晩見たときと同じく制服を纏っている。
 と、新たな大男の登場に驚いたのか、腕にしがみつくアデルの力がキュッと強さを増した。

「アデル、こちらもお仕事仲間のマグラさんよ」
「……こんにちは」

 安心させるために紹介してみても益々か細い声になったアデルはしがみついた姉の影に潜むように身動ぐ。そんな姉弟の様子をマグラは訝しげに観察している。この四ヶ月でとっくに見慣れた顔だ。
 
「……似ているな」
「えっ?」
「それと」
「それ?」

 思わず返答したエレノアだが、内心はとても驚いていた。業務以外で掛けられる言葉は「邪魔」を筆頭とした辛辣なものばかりだし、彼から会話のきっかけを作ることがあるだなんて予想もしていなかった。

「髪と、目と、顔が似ている」
「あ、弟とですか?」
「弟?」
「はい、弟のアデルです」
「血の繋がらない?」
「いえ、繋がっています。似ていると仰ったじゃないですか」

 要領の得ない問いに真面目に返すとマグラは何とも言い難い表情で小さく「弟か」と呟いた。
 家族や知人にはよく似た姉弟だと言われることがある。どこかおかしいところでもあったかしら、と隠れるアデルの顔を覗き込むと、彼はマグラをじっと見つめていた。そしてハッと我に返るとエレノアの腕を下に引き下ろす。話したいことがあるから耳を貸して、の合図だ。

「どうしたの?」
「姉さま、焼き菓子を買いたいです。今日はマルカスのお誕生日なんです」

 マルカスはザキーラ家に長く勤めてくれている執事の名前だ。どうして今その話を、と一瞬疑問が浮かんだが答えはアデルの視線にあった。元々黒髪だったらしい壮年のマルカスは今ではふんわりと優しい灰色の髪の持ち主だ。マグラを見て思い出したのだろう。

「じゃあ忘れないうちに先に買いに行きましょうか」

 心優しい弟にそう返して同僚たちに別れを告げようとしたが、ルークから待ったが掛かる。

「待ってくれ、エレノア。伝えておきたいことがある」
「はい、何でしょう?」
「今朝入った情報だがリンゼイ領で窃盗に関わったとされる行商団の連中が王都で目撃されている。ただの物盗りじゃなく、重傷者も出た物騒なやつだ。不審な者には近寄らず、極力人通りの少ない場所は避けてくれ」

 聞き捨てならない重要な話だった。特に第四支部に所属する人間にとっては市民の安全が脅かされる由々しき問題だ。

(だからマグラさんも勤務明けなのに警らを?)

 早期解決のために非番となるはずの時間を捜索に当てているのだろう。合点がいった。そうとなれば立ち話で時間を浪費させて任務の邪魔をしてはならない。

「ご忠告ありがとうございます。大通りを使って早めの帰宅を心掛けます」
「あぁ、そうしてくれ。悪いな、せっかく姉さまとお出掛けしてたのにな」

 姉の影でふるふると首を振る弟への気遣いがありがたい。

「ルークさんもどうかお気を付けて。マグラさんも夜勤明けですから無理なさらないで下さい」

 ずっとこちらを観察していたらしいマグラはエレノアの視線を受けると、フンと強い一息を鼻から吐いた。しかし何かを言うわけでもなさそうなので愛想笑いだけ返しておく。

「焼き菓子なら隣の通りの新作が美味いらしいぞ」

 耳を寄せたはずの内緒話は筒抜けだったらしい。有益な情報にもう一度「ありがとうございます」と礼を述べて同僚たちに背を向ける。

(現場に出る団員方には頭の下がる思いだわ)

 昼夜問わず、休日でさえ返上して任務に取り組む彼らに改めて尊敬の念を抱いているとアデルの張り付く腕とは逆の半身にトン、と何かが触れた気がした。思わず仰ぎ見る。

「鈍い」
「えっ」

 ちらりと尻目で見下ろし、余計な一言を残したマグラは長い足でエレノアたちを追い越して行った。その後を「全くあいつは」とぼやいて追い掛けるルーク。

「……そちらが避ければいいじゃない」

 弟に悟られないように口の中だけでぼやく。

(本当に何なのかしら、あの人)

 仕事に関する面では尊敬出来るけれど普段の素行にはやはり首を傾げざるを得ない。そもそも会話らしい会話を交わしたのが初めてのことなので、エレノアの知る彼の「普段の素行」はごくごく小さな範囲でのことだけど。

(待って、あれは会話と言っていいもの?)

 どうもマグラに関わると釈然としない気持ちになってしまう。首をひねりながら足を動かしているとルークが教えてくれた店まではあっという間だった。
 件の焼き菓子以外にも多数の品揃えを誇るその店はまるで宝石箱のようで、はしゃぐ気持ちを抑えられない姉弟は執事と両親へのお土産を顔を寄せ合って選びぬき、そして早々に帰路を目指した。

 購入した菓子を左手に、右手にアデルの手を引いて馬車止まりまでの道を歩く。乗合馬車の発着場が大きな通りの至るところに設けられているのに対して、貴族所有の大型馬車は特定の広場に停める必要がある。まだ街歩きに慣れず、きょろきょろと周囲を窺うアデルは、見慣れた馬車を見つけてようやく安堵の色を見せた。

 荷物を携えたエレノアに気付いた御者が素早いこなしで馬車の扉を開き、アデルにエスコートの手を差し伸べる。小さな影が車内に収まり、エレノアも続こうとしたそのときだった。

 急な圧迫感が腹部を襲ったかと思えば全身が後ろに引っ張られる。

「護衛と使用人は無視だ、ガキごと持っていけ!」

 乱暴な言葉が耳を通り抜けた次の瞬間、エレノアの身体に衝撃と痛みが駆け抜けた。思わず瞑ってしまった目を開けて、ようやく自分が投げ倒されたことを理解する。
 何が、誰が、と考える余裕もなかった。
 弟が、アデルの身が危ない。

「アデル!!」

 上体を起こしたエレノアの視界に飛び込んだのは、御者とも護衛とも違う見知らぬなりをした男たちがザキーラ家の馬車に乗り込もうとしている姿だった。
 なりふり構わず、手近な男の上着を掴む。

「誰か……!!」

 引き攣りそうな喉から声を絞り出したと同時に襟首を掴まれる感触があった。それ以上の言葉を発することも出来ず、再び地面に叩きつけられたエレノアの意識は暗い闇に落ちていった。
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