痛みは教えてくれない

河原巽

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 エレノアにとって愕然とする出来事が起こったのは例の顔合わせから僅か四日後のことだった。
 事務作業を引き受けるエレノアは主に詰所での勤めとなるが、城下の安全維持を担う第四支部団員は現場で警らに当たる者と詰所で待機する者とが日毎に割り当てられている。彼らには日勤と夜勤もあるので日中の詰所にいるエレノアとはそう毎日顔を合わせるものでもない。
 地方支部から異動したばかりのマグラは規定ルートを覚え込むために城下の警らを立て続けに行っていたようだが、その日は詰所待機を命じられたらしく、顔合わせぶりに対面した。
 いや、対面したと言って良いのだろうか。

 ドン、と後ろからを肩の辺りを押されたような気がした。

 突然の感覚に弾みで手にしていた冊子を床に取り落とす。エレノア自身も衝撃でよたよたとたたらを踏み、危うく冊子に足跡を付けてしまうところだった。
 元凶を確認するために肩越しに振り返ってみれば、ほんの数日前に知り合ったばかりの男が立っていて、逆光で影の差した顔で見下ろしている。その視線はとても冷たかった。

「邪魔」

 投げ付けられた言葉にも温度は感じられないようだった。

「ご、ごめんなさい」

 思わず謝罪を口にしたエレノアだけれども、ふと周囲を見渡して思う。
 ここは彼女の本営とも言えるべき場所で、たった今も一段落した仕事の資料を片付けるために席を立っただけだ。他に待機している団員はいるがエレノアの机周りに人はいないので別段混雑しているわけでもない。なぜ自分が責められなければならないのか、と理不尽に思ってしまう。

「邪魔をしたことは謝りますけど、ぶつかることはないんじゃないかしら?」

 なので率直に意見を述べてみた。述べてみたのだが。

「邪魔なものは邪魔」

 もう用はないと言わんばかりに踵を返したマグラは訓練場に繋がる扉へ向けて去っていく。そんな二人のやり取りを武器の手入れをしている待機中の団員たちが不可思議な顔をして見守っていたのだが、あまりの言い草に思考力が抜け落ちたエレノアにはそれすらも気付けなかった。

「何なの……」

 思わず零れた言葉をこれから先も幾度と呟くことになるとは、このときの彼女は知る由もない。



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「本当に何なのかしら」

 日勤者と夜勤者の入れ替わりも落ち着きを見せたのでエレノア自身も帰り支度を整えて馬車止まりに向かう。伯爵家の送迎馬車に乗り込むと思わず愚痴めいた独り言を吐いてしまった。
 彼――マグラ・イレンが入団してからこの四ヶ月、このような感情の吐露を幾度したことか。

 初めて「邪魔」とそしられたあの日からマグラの仕打ちは何度も繰り返されている。本当にもう数え切れないくらいに。
 最初の頃は気を付けて欲しいとお願いしたりもしたのだがまるで聞く耳を持たれなかった。気付けば背後から腕や肩を弾くようにぶつかってくる。幸いなことに転倒して怪我をするとまでは行かないものの、大柄な男性に当たればそれなりの衝撃は来る。そして毎回のように冷たく睥睨されて、時には「鬱陶しい」だの「邪魔」だのと言葉で仕留めてくるのだ。
 そんな行為が繰り返されれば言っても無駄なのだと悟ってしまう。

 ふとエレノアは、マグラは空間把握能力が乏しいのではないかと思い始めた。
 自分の体格と近くの物や人に対しての距離を上手く掴めないのではないか、と。そうであれば彼が接近してくる前にこちらが予測して回避するという対処法が取れる。ぶつかられるたびにムッとする気持ちも抱かなくて済むかもしれない。けれどエレノアの見込みは甘かった。

 こっそりと彼の行動を観察してみたのだが他の誰かにぶつかる姿を一度として見ることが出来なかったのだ。詰所待機の団員たちに聞き取りをしてもぶつかられたことはないと否定もされた。
 そもそも彼は体術が得意だと支部長は言っていた。空間把握能力に乏しい人間が接近戦を得意と出来るわけがない。
 と、なれば。

(どうしてこんなに嫌われているのかしら)

 揺れる馬車にゆらゆら身を任せ、ぼんやりと考える。
 顔合わせのあのときからマグラのエレノアに対する印象が悪いのはわかっている。しかし理由がわからない。令嬢として教育も受けているのだし、挨拶に問題もなかったと自負しているからこそ、心当たりが浮かんでこないのだ。

(こんな考え方が傲慢に見えるのかもしれないわね)

 自分に非がないだなんて一方的な言い分だ。マグラにはマグラの主張があるに違いない。
 でも、けれど。

(せっかくなら仲良くなりたかったわ)

 エレノアはこの仕事が大好きだった。
 かつて要職に就いていた祖父の市民から慕われ尊敬される姿はエレノアにとって大きな自慢であり、強い憧れの的でもあった。彼の部下と社交界で知り合ったのをきっかけに第四支部入団への話がとんとんと進み、祖父に笑顔で送り出されたのも嬉しい思い出だ。
 実際に治安維持のために動けるわけではないけれど、国を守る任務に携われることは自身の誇りであり、生き甲斐でもある。だからこそ大切な仕事仲間とはお互いに居心地の良い関係を保ちたかったのに。

 速度を落とした馬車が屋敷前に辿り着く。御者のエスコートで馬車から降り立つと玄関前の小さな人影がこちらに駆けてきた。

「おかえりなさい、姉さま!」
「ただいま、アデル」

 八つになったばかりの小さな腕が伸びてきたので受け止めるように抱きしめ返す。この小さな可愛い弟がいるおかげで伯爵家の三女でありながらも警護団での仕事が許された。ゆくゆくは領地を治めるこの弟を守ることにも繋がっていると信じて日々の仕事に打ち込んでいる。

「姉さま、元気ない?」

 くりくりの青い瞳が真っ直ぐに見つめてくる。赤色がかった金髪も深海を思わせる濃いめの瞳も、エレノアとアデルはそっくりそのまま父から受け継いでいる。

「大丈夫よ。明日のお出掛けが楽しみね」

 せっかくの休日をアデルと約束しているので落ち込んだ姿は見せられない。
 約束のことを思い出したのか、照れ笑いを浮かべる幼い弟の手を引いて屋敷に入る。結論の出ない人間関係はちょっとだけ棚上げすることにした。
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