痛みは教えてくれない

河原巽

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 背後から肩にドン、と衝撃を受けたエレノアは半歩つんのめって壁に手を添えた。

 場所は王立警護団第四支部の団員詰所でのこと。
 王立と銘打っているだけあってその部屋はけして狭くはなく、また夕暮れ時で入れ替わる日勤者と夜勤者が複数人いるとは言え、身体が触れ合う程の混み具合ではない。
 この警護団に事務として勤めるエレノアは女性にしては上背のある方だけれど、あくまで他の女性と比較しての話であって肉体自慢の団員が詰めるこの場所では小さい方から数えた方が早い。
 だから彼女は低い位置から衝撃の原因を見上げた。

「チッ」

 追い越し際に舌打ちを吐き捨てた男はエレノアの視線に冷たい一瞥だけを返すと長い足で扉へ向かっていく。パリッと音がしそうな制服を着ているところを見ると、彼はどうやら夜勤組でこれから警らに向かうらしい。
 黒がところどころ混じった灰色の後頭部を見送りながら、少なくとも彼と三日後までは顔を合わせることはなさそうだ、と安堵しながらぶつかった肩を軽く撫でた。


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 事の起こりは四ヶ月前だった。
 王都に構える王立警護団は王城内の警備から要人の警護、犯罪の取り締まりまで仕事が多岐にわたる。いくつかに分かれた支部によって請け負う仕事が割り振られており、エレノアの所属する第四支部では王都城下の治安維持が主な担当となっている。
 一方、王都から離れた有力貴族の治める領地では地方支部という名の警護団が各地で結成されており、領主の警護に領内の警ら、領地を跨ぐ街道の監視まで一つの支部で一手に請け負っているらしい。
 人の集まる王都とは違い、少数精鋭での組織活動では必然的に優秀な人材が育ちやすく、王都を守る数字付きの支部長たちは度々勧誘をしに地方へ足を伸ばしていた。優秀者を皆引き抜いてしまうと地方の安全が脅かされることになる。熟考に熟考を重ねた結果、選ばれた灰色髪の彼――マグラ・イレンも第四支部長の誘いを受けて、ここ王都へやってきたのだ。


(勧誘者の受け入れを見るのは初めてだわ)

 その日、エレノアは微かに浮き立つ気持ちを自覚していた。
 警護団で要職に就いていた祖父に連なる縁で伯爵家三女でありながら第四支部に入団したのが十八歳になったばかりの二年前のこと。他の支部で勧誘者を受け入れた話は聞いたことがあるし、第四支部の先輩団員には勧誘によって地方から異動してきた者もいるが、エレノアが入団してからの勧誘者受け入れは初めてのことだった。

(せっかくだから仲良くなれるといいのだけど)

 現場に出る団員同士の結束はもちろんのことだが、事務として彼らに関わる自分だって円滑な人間関係を築いておくに越したことはない。地方と王都では色々と勝手が違うかもしれない。僅かばかりでもサポート出来れば、そんなことを考えながら他の団員たちと共に支部長と新入りの入室を詰所で待ちわびた。


「彼がエンフォ地方から来てくれたマグラ・イレンくんだ」

 背後に控える新人の姿がよく見えるように支部長がスッと身を引く。
 一際大柄な支部長の影から現れたのは警護団員にしてはやや細身の男だった。その髪は暗めの灰色で筋を描くように黒色が混じっていて、耳やうなじがすっきり見える長さに刈られている。

「よろしくお願いします」

 軽く一礼しながら発された声は大きすぎないのによく通った。顔を上げたマグラはサッと周囲を見渡すと、もう挨拶は終わったとばかりに支部長に視線を送る。そんな様子に苦笑を漏らした支部長が言葉を継いだ。

「彼には今日、俺がルートの案内をするから各々の自己紹介は後日現場でやってくれ。夜勤組や休暇組にもそう通達しておく。マグラは体術を得意としているから武器を携帯しないのでそれも覚えておいて欲しい。それとエレノア」
「はい」

 不意に呼び掛けられて驚きつつも前方に立つ団員の脇から顔を出して返答する。

「お前は現場に出ないからな、ここでちゃんと紹介しておこう。他の者は解散。持ち場に当たってくれ」

 散り散りになる団員を横目にエレノアは支部長の前に静々と歩み出た。支部長に並び立つマグラの体躯は遠目から見ると細身だったが、やはり近付くと背丈もあって圧迫感を覚える。

「マグラ、彼女は第四支部ここで事務をしているエレノア・ザキーラだ。現場には出ないがスケジュール管理や住民との橋渡し役をしてくれているから何かと接点も多いだろう。頼ってやってくれ」
「初めまして、エレノア・ザキーラと申します。他に事務補佐もいますが大きな取りまとめは私がしておりますので、これからお世話になると思います。よろしくお願いします」

 ここでエレノアは初めてマグラと視線をかち合わせた。
 新しい職場で不安な気持ちを払拭出来るように、今後に向けて良好な人間関係が育めるように、同僚として頼れる存在として認めてもらえるように。諸々の気持ちを存分に込めて穏やかな笑みで挨拶を述べたつもりだった。
 しかし、マグラ・イレンその人は盛大な皺を眉間に刻んでいた。

 エレノアの印象としてはマグラは端正かつ怜悧な顔の持ち主だった。少し吊り上がった切れ長の瞳は冷たさもあるが理知的に物事を見据えているようで、挨拶を発した以外は引き結ばれたままだった口元も雄弁を良しとしない思慮深さを感じる。
 なのにエレノアが挨拶を始めた途端に訝しげな色が瞳に宿り、微笑みかけるその様を珍獣でも見るかのような胡乱な眼差しで返してくる。

(何か……変なことでも言ってしまったのかしら)

 ごくごく普通の自己紹介をしたつもりだった。後輩団員が入団したときにも似たようなことを言ったはずだが、こんな反応を返されたことはない。円滑な人間関係が一歩遠のいたような感覚ににわかに焦りを覚えたとき。

「……どうも」

 やはりよく通る声が小さく言葉を発した。
 けれどその顔はまるでそっぽを向いていて、綺麗な横顔の僅かにツンとした唇が会話をさっさと終わらせたいと言わんばかりだった。
 伯爵令嬢としても王立警護団の団員としてもあまり取られたことのない態度に半ば呆然と立ち尽くしてしまう。

「まぁ、そういうことだからよろしく頼むな、二人とも」

 良い雰囲気とは言い難い応酬を一部始終見ていたはずの支部長が締めくくり、釈然としない顔合わせは幕を閉じた。
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