異世界は流されるままに

椎井瑛弥

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第2章:冬、活動開始と旅立ち

第9話:健康的な生活はまず食事から

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 レイとサラはここまで二週間少々冒険者として活動し、そこそこ貯金ができはじめました。そうなると当然のように今後の話をするようになります。

「王都まで収入ゼロだと考えて、余裕を持って五〇日。三万キールはあっという間に貯まったな」
「ヒュージキャタピラーなら一五匹から二〇匹でいいもんね」

 故郷を離れるとなると、何をするにも金がかかります。宿屋で寝泊まりするとして、鍵のかかる部屋で素泊まりなら二人で二〇〇キールから四〇〇キールほどになります。
 食事はしっかり食べても二人で一回に一五〇キールから二〇〇キールほどだということがわかりました。もちろん大きな町ならもっと高いでしょうが、それでも二倍くらいです。
 マリオンを出て、最終的には王都に行くでしょう。その前にどこかの町で腰を落ち着けて活動することは十分にありえます。その場合、高く見積もっても一日あたり六〇〇キールは超えないというのが二人ですり合わせた意見です。
 レイたちの場合、町の外に出てヒュージキャタピラーを一匹狩れば、それだけで二、三日分の生活費になります。マジックバッグ様様さまさまですね。

「何度か野営の練習もしといたほうがいいよね?」
「どこか村の近くで場所を借りればいいな。森がなければ魔物もそれほど出ないそうだから」

 マリオンの周りにはいくつも村があります。その村のすぐ外側ですればいいだろうとレイは思っていました。どうして村の外で野営をするのかと不思議がられるでしょうが。

「お屋敷のお庭は?」
「いいけど、使用人たちに見られるぞ」
「ライナス様の離れなら大丈夫じゃない?」
「ああ、あっちは少ないな。兄上たちはしばらく不在になるから、その間にキッチンも借りるか」

 明日からライナスの家族は、ハリエットの実家があるマイトンの町へ三泊四日で出かけることになっています。

 ◆◆◆

「遠慮なく使ってくれ。うまくできたら食べさせてくれよ」
「またレイが作ってくれるのね。楽しみだわ。ね、ウェンディー?」
「うん、たのしみ」
「ええ、味見をお願いします」

 レイはライナスに、離れのキッチンを使わせてほしいと頼みました。もちろんライナスもハリエットも了承します。
 この離れはライナスが暮らすために建てられたもので、この中だけですべて生活できるようになっています。キッチンも最初からありますが、食事は家族みんなで一緒にというのがモーガンの方針なので、食事の際には本館のダイニングに向かいます。だからキッチンはあまり活用されていません。
 レイは変わり者なので、自分自身でキッチンに入ることがありました。ただし、きちんとした料理は料理長や料理人たちの仕事なので、サイモンやウェンディーのために軽食やお菓子を作る程度です。
 当時のレイには日本人としての記憶はなかったはずですが、魂やDNAに染み付いていたのでしょうか、いくつかこの国にはない甘味を作っています。今ではそれらをトバイアスたちも真似て作るようになりました。

「それじゃあ借りてる間に作れるだけ作るか」
「ギルドへ行くのはお休みにする?」
「そうだな。小休止ってことにしてもいいし、ストックを売ってもいいし。その間に野営について確認するか」
「でも町も村も全然ない場所ってあるんだね」

 町から町へは、朝から夕方まで歩けば到着できます。仮に出発が遅れて遅くなっても、一時間から二時間ほど手前にはいくつも村がありますので、そこまでたどり着ければ安全です。
 ところが、領地と領地の境目は違います。領地というのはタイルのように隣同士にくっついているわけではありません。水玉模様コインドットのように少しずつ離れているので、間には空白地帯があるんです。
 日本でも県境付近には山とトンネルくらいしかないでしょう。それと同じで、デューラント王国でも領境の付近には文字どおり何もありません。ただ道が続いているだけです。
 領境付近では二、三日は野営をする必要があります。朝昼晩、毎回お湯を沸かして料理を作るのも面倒なので、出汁をとっておこうと前から二人は話していました。
 本館での普段の食事は料理長の指示で料理人とキッチンメイドたちが作っています。さすがにその邪魔をするわけにもいきませんので、ライナスたちが不在になるこの機会をレイが逃すはずはありません。
 さて、出汁といえば骨や肉、そして野菜を長時間煮込んで作るブイヨンが定番ですが、日本と同じ食材は多くはありません。牛骨・豚骨・鶏ガラなどはなかなか手に入りません。その代わりにホーンラビットやスピアーバードの肉や骨はたくさんありますので、二人はそれらを使ったブイヨンもどきを作っておくことに決めました。

「粉末スープがあれば楽なんだけどな」
「ああいうのって偉大だよね~」

 二人は肉や野菜を切りながら話し合っています。
 固形のブイヨン、粉末スープの素、鶏ガラスープの素などは、日本なら数百円ですぐに手に入るでしょう。ところが、それと同レベルのものを作るには大変な時間と労力が必要です。高価な食材を使うわけではありませんが、美味しいものを作ろうとすると、とてつもなく時間がかかってしまいます。

「ねえ、完成したブイヨンの水分を飛ばせば粉末スープになるよね?」
「理屈の上ではできるぞ」
「やり方ってわかる?」
「スプレードライとフリーズドライの理屈だけはな。できるとすればスプレードライしか無理だと思う」

 熱風の中に噴霧することで、水分を蒸発させて乾燥させるのがスプレードライです。インスタントコーヒーでよく使われますね。高温が加わりますので、どうしても風味が落ちやすくなります。

「風味が飛びにくいのはフリーズドライのほうだけどな」
「フリーズドライってよくわからないんだよね。冷凍庫でカットネギがパリパリに固まるのと同じ?」
「いや、理屈としては高野豆腐と同じだ。あれは大気圧そのままだけど」

 凍らせてから乾燥させると水分が抜けるという意味では高野豆腐が近いですね。
 気圧が下がれば下がるほど、水が沸騰する温度が下がります。山の上に行くと低い温度でお湯が沸くのはそのせいです。それを水分を抜くために使うのがフリーズドライです。
 まずは食品を凍らせます。これを〝予備凍結〟と呼びます。そこから空気を抜いて真空度を上げていくと、つまり気圧をどんどん下げていくと、沸点が下がっていきます。そうすると中の水分が氷点下で沸騰するようになります。
 氷点下なので凍った水分が液体になれないまま蒸発します。この〝昇華〟によって少しずつ水分が抜けていきます。これが〝一次乾燥〟です。
 そして、高真空状態のまま温度を三〇度から五〇度くらいまで上げて仕上げの乾燥を行います。これが〝二次乾燥〟です。これで残った水分を抜きます。
 ざっくりとした説明でした。

「それならフリーズドライは無理だね」
「絶対に設備が必要だからな。スプレードライが現実的だろうけど、今では無理だけどな。それよりも、今はブイヨンだぞ」

 はい。今はブイヨンを作ろうとしているところですね。

「ねえ、ブイヨンって骨は焼いたっけ?」
「フォンは焼いたはずだけど、どうだったかな? そもそも素材が違うからなあ」

 フォンは煮込む前に牛骨を焼いて臭みを飛ばし、香りを立たせます。でも、ブイヨンを作るのに骨を焼いたかどうかまでは二人とも覚えていませんでした。はい、焼きませんよ。
 フォンはソースの元になります。ブイヨンは出汁です。フォンの方がじっくりと長時間煮込んで風味を強くします。ブイヨンの方はそれよりも軽く仕上がりますね。コンソメはブイヨンから作るスープです。

「スープにするなら焼かなくてもいいんじゃない? それと野菜だけで作ったらどう?」
「そうだな。ホーンラビットとスピアーバード、それと野菜だけのと三種類くらい作るか」

 味に飽きないように、素材を代えて三種類作ることになりました。野菜は朝市で売れ残ったものを大量に購入しています。

「料理もまとめて作ったらいいよな?」
「火を通しておいたら楽だよね」
「もっと鍋が必要か」
かめよりはいいよね。洗いやすいし」

 汁気のないものならお皿に盛っていいでしょうが、煮込みなどは鍋のままがいいでしょう。作ってから甕に移し替えてもいいですが、取り回しがしやすいのは鍋に決まっています。

「じゃあ俺が鍋を買ってくるから、アク取りを頼む」
「はいは~い」

 レイはダニールのなんでも屋に鍋を買いに出かけることにしました。

 ◆◆◆

「重ねられると便利ですね」
「置いとくにも邪魔だからな」

 ここに並べられた鍋は、バケツほどではないですが、口が底よりも少し広いので重ねることができます。これなら使っていないときはコンパクトに収納できます。レイにはピッタリですね。

「うちとしてはありがてえけどよ、そんなに鍋ばっかり買ってどうするんだ?」

 大きめの鍋を一〇個買いたいと言ったレイに、ダニールはストレートに聞きました。

「出かける前に出汁をとってストックしておこうかと」

 レイはおそらく来月になればマリオンを離れて王都へ向かうつもりであること、道中の野営に備えて料理を作り置きしておこうと考えていることなどをダニールに伝えました。

「まあ温かい食事は元気の素だが、普通はそこまで準備しねえぞ」

 ダニールは鍋を見ながら、呆れたように言いました。

「そうですか?」
「ああ。そもそも普通はスープの入った鍋なんて運べねえだろ。マジックバッグやスキルがあれば違うだろうが、それでもそんなに数は必要ねえな」

 ダニールはそう言いますが、レイは日本での便利な暮らしを知っています。駅前にあるコンビニとドラッグストア、そしてディスカウントスーパー。食材だけでなく食器や調理器具、さらには衣類や家電ですら買えてしまいます。
 さすがにそのレベルまで求めることは無理だと自分でもわかっていますが、ここでの不便な暮らしを少しでも便利にしたいのです。
 ところが、大半の人には不便な生活が普通です。それに疑問を持つことはありません。「もう少し楽ができれば……」と口にすることはありますが、「こうなってほしい」とか「あれが欲しい」などの具体的なアイデアまでは出せません。解決方法が頭にないからです。
 人はインプットがなければアウトプットはできません。レイには〝前世での暮らし〟というインプットがあるので、ダニールのように普通の頭の持ち主からすると発想がおかしく思えるでしょう。どうしてテーブルを折りたたむのか、どうして料理を作ってから運ぶのかと。
 レイにはマジックバッグがあります。それなのに荷物をコンパクトにしたいと折りたためるテーブルを考案しました。
 そこまでは理解できたダニールですが、そのレイが今度は鍋ばっかり買って出汁を作って持ち運ぶと言い始めました。荷物を減らしたいのか増やしたいのか、ダニールにはわからなくなったのです。

「でも最初に全部作っておけば途中で楽ができるじゃないですか。夜だけじゃなくて朝も昼も」
「そんなに野営の日数があるか? それに二人だろ?」

 ダニールがそう言うのも当然です。基本的に野営が必要なのは領地と領地の間くらいのもので、それ以外は町で泊まれるでしょう。
 順番に見ていくと、ギルモア男爵領からアシュトン子爵領、ダンカン男爵領、ベイカー伯爵領、そして王都のある国王の直轄領。その間だけでしょう。野営はその行程の半分もないはずです。
 昼食は外で食べるしかありませんが、普通は外なら仕方がないと割り切って、硬い黒パンを我慢して食べるものです。レイならマジックバッグから白パンを出せばいいでしょう。

「いや、味に飽きないように種類も増やそうと思いまして」
「いやいや、飽きるとか言ってたら冒険者なんてできねえだろ……」

 ダニールは頭が痛くなってきました。そもそも食事に飽きるという発想が普通はありません。貴族でも毎日違ったものを口にするのはなかなか難しいのです。
 様々な食材が集まる王都とは違い、マリオンは田舎町です。どうしても食材の種類は限られてしまいます。
 冒険者の食事、特に移動中のそれは簡単です。温かいものを食べようと思えば、干し肉を刻んでお湯の中に入れてスープにし、それに黒パンを浸しながら食べるくらいです。チーズやハムなどが付けば十分でしょう。外できちんとした食事をとろうとするほうがおかしいんです。
 ダニールはレイの話を聞いて、頭がよすぎると逆に何かがおかしいのだろうと考えました。
 レイがこのような準備を始めたのは、実はサラがいることがかなり影響しています。レイは本来は現実的なので、自分一人しかいなければここまで大がかりな用意をしようとは思いません。ところがサラがいることで、たまにストッパーが外れることがあるんですよね。

 ◆◆◆

「サラ、一つ提案があるんだけど」

 レイは鍋の中をかき混ぜながらサラに声をかけました。

「成人祝いで倒れてトバイアスに迷惑をかけただろ? いろいろと準備してくれたのに」
「結局は何らかの形で食べたけどね」
「それでもなあ」

 新年を迎えて最初の晩餐、しかも成人祝いを兼ねていたのに自分が倒れたことで台無しにしてしまったとレイは考えています。その日に備えて料理長であるトバイアスが用意してくれたものを結局ほとんど口にできませんでした。
 使用人に対してそこまで気を遣うことはないでしょうが、律儀な彼としては家を出る前に何かしら恩返しをしておきたかったのです。

「ライナス兄さんたちに食べてもらうなら、この際いろんな料理をまとめて作って、屋敷のみんなに見てもらうってのはどうだ?」

 料理を振る舞うとともに、最後にレシピをまとめてトバイアスに渡してしまおうというのがレイの考えです。

「人数が多くなるけど、日数は大丈夫そうだね」
「出汁もあるからどんどん作ればいいよな?」
「よし、それじゃやろう」

 レイとサラは、この町ではあまり見かけない、日本の洋食を中心に作ろうと、アイデアを出し始めました。

「うわっ」
「どしたの?」
「この色」
「うわ~」

 レイは小鍋でアーカーベリーの実を煮込もうとしました。ところが、鍋の中が一瞬でボルシチのように真っ赤になってしまいました。

「アクセントにどうかなと思ったんだけど、これは無理だな」
「色が出ちゃったのか」

 サラは鍋の中からアーカーベリーの実を一つすくい出します。色素が抜けた実は、ややくすんだ緑色をしていました。

「グリーンピースみたいだね」
「もしくはケッパーだな」
「あ、それっぽい」

 レイは色の抜けたアーカーベリーの実を洗ってから舌の上で転がしました。生の実は少々青臭さがありましたが、色が抜ければ無味無臭です。噛んでみると、わずかに弾力があります。

「ケッパーみたいに使うなら、チキンピカタか」
「ケッパーって使ったっけ?」
「それが向こうじゃ使うんだよ」

 レイはアメリカで食べたチキンピカタを再現しているところです。レモンがないので、ユノサという名前の、ユズのような柑橘を使います。チキンの代わりにスピアーバードを使います。

「おおー、本格的」
「食感は違うけど、ケッパーっぽく見えるな。香りがないのはどうしようもないか」
「そりゃ完璧には無理でしょ」

 レイはアーカーベリーの実をピクルスにしてからチキンピカタに乗せました。完成したものを見て、ふとサラは気づきました。

「でもさ、これって洋食じゃないよね?」
「……アメリカ料理だな」

 元はイタリア料理ですね。イタリアでは仔牛肉をバターで焼いてレモン汁をかけた料理です。イタリアとアメリカと日本で全然違う料理になっています。


 ◆◆◆

 夜になると、二人は野営の練習を始めました。

「寒いことは寒いけど、そこまで大変じゃないよね?」
「ありがたいよな」

 ライナスの家族が暮らす離れの裏にテントを張り、夕食と朝食はその前でとります。睡眠も交代でとる練習をする予定です。
 町から町への移動は徒歩でも一日で着きます。ところが、領地と領地の間は何もありません。少なくとも二晩は野営をしなければならないでしょう。魔物が出る可能性を考えれば、町の外で練習するのがいいのでしょうが、今はそこまでしなくてもいいだろうという結論になりました。さらには、そもそも野営は必要なのかという話になってきています。

「町の外で走った感じなら……フルマラソンで二時間は確実に切るよね?」
「それだけの距離は走ってないけど、息の切れなさっぷりを考えたら一時間半を切るかもしれない」

 ここまで三週間近く町の外で魔物を追いかけて走り回りましたが、疲れたとか息が切れたとか、そのような経験は一度もありません。汗をかいたくらいです。体力も心肺機能も格段に上がっているのでしょう。

「たしか一〇〇キロマラソンの記録が六時間くらいだったけど、私たちならそれよりは短くなるでしょ?」
「そうだな。鎧を着てても全然問題ないしな」
「ライルとコクランの間って二〇〇キロはないはずだから、一気に走れるんじゃない?」

 早朝に出れば夜に到着できそうです。それなら頑張って走れば野営をする必要はないとサラは主張します。

「俺たちだけならな。他に人がいたら無理だろ?」
「あ、そっか」

 どのような形で町を出るかはまだ決まっていません。そこまで話をしていないからです。
 もし同行者がいた場合、自分たちだけ先に行くことはできません。場合によっては護衛をするかもしれませんし、他のパーティーと一緒に行動することもありえます。二人だけならどうとでもなりますが、そこに一人加わるだけで自由度はぐっと下がってしまいます。

「じゃあさ、その人を背負って走るってのは無理かな?」
「背負うことはできると思うぞ。背負って走ることも。でも、背負われた人はヤバくないか?」

 それを聞くと、サラは誰かが自分を背負って走ることをイメージしました。上下左右に不規則に揺れる視界。ずり落ちそうになるたびに背負い直され、それが百何十キロの間、延々と続きます。

「……酔う?」
「たぶん顔の真横でリバース」
「やめる」

 賢明でしょうね。
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