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第1章:目覚めと始まりの日々
第13話:酒が入ると口論も起きる
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「ま、次は買い出しに行くか」
「その前にあっちもチェックしておかない?」
レイが掲示板のチェックを終えて薬剤師ギルドに向かおうとすると、サラが酒場のほうに指を向けました。
「そうだな。軽く腹ごしらえしておくか」
「よっし。何を食べよっかな~」
ギルドの建物には酒場があります。酒場の入り口を見て、ふとレイは気がつきました。これまでは貴族の息子としていいものばかり食べていました。冒険者になるならある程度は割り切るしかありませんが、不味いものばかりを無理して食べたくはありません。
そう考えているレイですが、もちろんそれが贅沢なことだと本人もわかっています。それが嫌なら高級店に入るか、それとも自分で作るかでしょう。
「俺は入ったことがないからわからないけど、サラはどんなメニューがあるかわかるか?」
「ウォルターさんに聞いたら、基本はエールとミード、お肉、ジャガイモ、パンらしいよ。お肉は魔物のがほとんどらしいね」
「そのへんは想像の範囲内か」
領主の屋敷の守衛隊長なら、かなりの高給取りです。普段からそこそこいい酒場に出入りしているとサラは聞いています。
一般的な酒場は、昔ながらのイギリスのパブ、アメリカのバー、日本の大衆酒場のイメージすれば間違いないでしょう。多くの料理は作り置きがほとんどです。やや高級な店では、値段は高いですが、注文に応じて調理してくれます。
「混んでないね」
「ほどほどだけど、まだ午前だからな。これってどうなんだ?」
レイとサラは中を覗いてから、三分の一ほど客がいる酒場に足を踏み入れました。
◆◆◆
「お、さっきのやつらじゃないか」
「さっきのって、新人か?」
「ああ、そうだ。シーヴさんと同じ空気を吸ってたやつらだ。妬ましい」
レックスはその言葉を聞いて、本当に相棒のことが心配になりました。この一年ほど、こんな状態になることが増えたからです。
「なあ、ノーマン。一度その頭の中を調べてもらったらどうだ?」
「失礼なやつだな。俺の脳みそはいつでもキラキラしてるぞ」
「いや、蜘蛛の巣だらけみたいだから言ったんだ」
一方で『天使の微笑み』の二人もレイとサラに気づきました。
「あ、さっきの子!」
「登録が終わったみたいですね」
レイを見たアンナの目つきが変わりました。獲物を狙う肉食獣の目です。
「親切な先輩を装ってさりげなく近寄ってみようかな~」
「装う時点でダメでしょう」
「親切は親切だと思うよ、私的には」
「ちなみにどうやってその親切さを見せるんですか?」
「……ベッドで優しくリード?」
「……経験がないでしょうが」
「でもイメージトレーニングは何度もしたからっ!」
酒場に入ったレイたちの耳に、あちこちで言い合いをしている声が聞こえました。でも、席が遠いので細かな内容まではわかりません。
「揉め事か?」
「飲んでケンカすることもあるらしいね。パーティー内でも意見が合わなかったりとか」
「冒険者って自分に自信があって我が強い人が多そうだからなあ」
実際は喧嘩でも口論でもありませんが、レイにわかるはずがありません。二人は言い合いをしているパーティーから遠い席を選ぶと腰を下ろします。するとすぐに給仕がやってきました。
「いらっしゃいませ。メニューは壁に貼ってあります。読めますか?」
「ええ、大丈夫です」
メニューの下には値段も書かれています。エールやミードは一杯一五キール。料理は簡単なものなら一〇キールからですが、手の込んだ料理は一〇〇キールを超えているようですね。
「えーっと……本日のスープと黒パン、キャタピラー炒めと……エールをお願いします」
「私はサラダとホーンラビットのモモの煮込み、それとミードを」
「あ、ジャーマンポテトを追加で。取り皿をもらえますか?」
軽くと言いながらも本格的な食事になってしまいました。
「はい、かしこまりました。先に飲み物をお持ちします。料理は少しお待ちください」
給仕が戻るとレイはサラに顔を寄せて小声で話しかけます。
「日本人が来てるよな」
「ジャーマンポテト?」
「そう。懐かしくてつい注文してしまった」
ジャーマンポテトという名前は日本での呼び方です。ドイツにはジャーマンポテトという料理はなく、一番近いのはブラートカルトッフェルンという料理です。英語ではジャーマンフライズと呼ばれます。
もちろんこの世界にはドイツはありませんので、それを考えると日本人が付けたとしか思えません。ジャーマンという品種のジャガイモを使っていたり、ジャーマンという人が考案したのでない限りは。
「あ、しまった。端のほうに焼きそばらしいのがあった。あのへんが麺類だな」
「え? あ、ホントだ。ヤキソーバって焼きそばだよね」
「俺たちだけじゃないかもしれないな」
「意外と多いのかな?」
「実は近くにいたりとかな」
この広い世界に異世界からどれだけ来ているのでしょうか。レイもサラも生まれ変わって記憶が戻りました。自分たちという例があるので、他にいても不思議ではないと二人は考えました。
「お待たせしました。お先にエールとミードです」
「ありがとう。はい、チップ」
先に飲み物が運ばれてきたので、レイはポケットからから銅貨を二枚取り出して渡しました。
レイはアメリカでの一人暮らしのせいで、レストランでチップを渡すことに慣れています。この世界に来てから、出先でチップを渡すこともありましたので、自然と渡すようになってしまいました。
「ありがとうございます。ボクはサンディーといいます。何かあれば声をかけてください」
チップを受け取ると給仕は大きく頭を下げ、レイに腰を押し付けるようにしてから戻っていきました。
「ボクっ娘っているんだな。いて悪いわけじゃないけど」
「屋敷にはいないけど、街中にはいるらしいよ。私も初めて会ったけどね」
見た目がロングヘアーのお嬢様で一人称がボクなら二人とも違和感を感じたかもしれません。しかし、サンディーはショートカットなので、妙に似合っていました。
「あ、そうだ。渡してから聞くのもあれだけど、酒場にもチップの習慣ってあるよな?」
「あるけど、チップは高級店が多いんじゃないかな」
ルールではなくてマナーですが、それなりの店で食事をすれば代金の一割から二割を渡すことが多くなっています。
今回は黒パンが一〇キール、エールとミードがそれぞれ一五キール、スープとサラダがそれぞれ二〇キール、他の三品がそれぞれ三〇キール。全部で一七〇キール。チップが合計金額の一割強の二〇キールなのでおかしくはありません。
でも、酒場でのチップには別の意味もあるんですよ。
「まあ、あるならいいか。それじゃ冒険者登録を祝って乾杯」
「乾杯」
レイは木でできたジョッキを傾けてエールを喉に流し込みます。屋敷でエールやミードを飲むことはあまりありません。庶民向けの安酒とみなされているからです。
レイは部屋ではサラと一緒にリンゴのワインをよく飲んでいました。サラは普段はメイド仲間とミードを飲んでいます。女性にはエールよりもミードのほうが人気がありますね。
ジョッキのエールは冷やされてはいませんが、話で聞くような酸っぱさはなく、むしろ苦味が際立っています。木のジョッキなので色がわかりにくいですが、かなり濃い色をしていますので、スタウトに近いのではないかとレイは思いました。
「意外に悪くない。ていうか好きだな、この苦味」
「レイは苦いのが得意だったもんね。私はダメだったけど」
レイは甘いものがそれほど得意ではありませんでした。お酒もカクテルや甘口の日本酒は苦手でした。
「俺は甘いのがそこまで得意じゃなかったからなあ。そのミードは甘いのか?」
「甘くはないよ。ほんのり甘く香る苦味の少ないビールって感じ。でも大きな声じゃ言えないけど、お屋敷で飲んでるミードの方が美味しいよ」
蜂蜜を水で割って発酵させるミードですが、糖分が分解されてアルコールになるので、蜂蜜水のように甘くはありません。むしろ風味としてはビールに近いでしょう。
二人がエールとミードを味わっていると、また大きな声が聞こえました。
「まだ言い合いをしてるのか?」
レイはそちらをチラッと見ました。ですが、遠いのでよくわかりません。
「ラノベだとこういう場で『君には僕たち勇者パーティーを辞めてもらうよ』とか、リーダーの勇者が荷物持ちの主人公に言うんだよね。実は一番の実力者に向かって」
「それもテンプレなのか?」
レイはあまり詳しくありません。サラたちに押し付けられるようにして読んだ作品が少しあるだけです。
「そうだよ。いわゆる追放系ね。何から何まで主人公に頼ってたから、主人公を追放してから自分たちが困ることになって落ちぶれるって話」
「勇者なのに性格が悪いな。その前に他のメンバーが止めるんじゃないのか?」
「そういう話なんだって」
◆◆◆
「お料理をお持ちしました!」
サラがラノベのテンプレについて説明していると、サンディーがテーブルに料理を並べ始めました。その間に何度もレイに腰を押し付けます。それを見ていたサラは、サンディーがいなくなってから口を開きました。
「さっきの続きだけどね、酒場でチップを渡すと二階へのお誘いと受け取られることもあるよ」
そう言われた瞬間、レイの手がピタッと止まりました。
「男女で来てるのにありえないだろ?」
ここにはレイだけではなくサラもいます。二人は恋人同士ではありませんが、仮にデート中に酒場でチップを渡すこともあるのではないかと。
そもそもこの酒場には宿屋部分はありません。店員も娼婦ではないはずです。だから普通ならお誘いとは受け取らないはずだとレイは考えましたが、酒場のことを守衛たちに聞いていたサラは首を横に振りました。
「あくまで可能性だけど、『あのお客さんは女性と一緒に来てるけど、あれは単なるパーティーメンバーかも。だから私にチップを渡して気を引こうとしてるのね』って受け取り方をしたのかもしれないよ」
「面倒な見方だな」
チップはサービスに対する謝礼の意味もありますが、給仕に気に入ってもらおうとする下心も含まれているとサラは説明しました。
「何度も腰を押し付けてたでしょ? あれが交渉に乗ってもいいってサインらしいよ。値段交渉をするなら腰に手を回せばいいんだって」
「ここは宿屋はやってないだろ?」
はい、やっていません。酒場だけです。
「外で待ち合わせてどっかの宿屋に入ればいいんじゃない? 上がりの時間を聞くんなら、旦那様にはレイは外泊するって言っておくけど?」
「やめてくれ。そんなつもりはないから」
飲食のみの店は高級店か公的な場所にある飲食店、または軽食のみの店がほとんどです。宿屋のみという宿屋はなくて、普通は一階が酒場になっています。宿泊客に食事を出すことが多いからです。
酒場によっても違いますが、純粋な店員としての給仕——主に店主の家族など——と、娼婦を兼ねている給仕がいます。単なる給仕にしつこく声をかけると、店の奥からゴツい肉切り包丁を持った店主が出てくることもありますので注意が必要ですよ。
そっちの仕事をしている給仕は、それと分かるように胸元に適当な飾りを付けることが多いですね。彼女たちの賃金は安いですが、その代わりに客をとることで稼げます。そして宿屋は安い賃金で給仕を雇える上に、客の払う部屋代まで入るのです。誰にとってもWin-Winですね。
やってしまったことは仕方ありません。レイはサンディーのことを頭から追い出すと、食事に集中することにしました。過ぎたことは過ぎたことです。今さらチップを返せとも言えません。
「黒パンはやっぱり硬いな。スープで柔らかくしてちょうどいいのか」
「これぞファンタジーだね」
二人はほぼ初めて街中で食べる食事に舌鼓を打ちます。スープはきちんと出汁が利いたもので、単にお湯に肉と野菜と塩を放り込んだだけではありませんでした。キャタピラー炒めはしっかりとした歯ごたえと旨味があります。ホーンラビットのモモ肉は脂が乗っています。
料理長のトバイアスと比べれば落ちるのは当然ですが、酒場の料理も悪くないと感じました。黒パンも思っていたほど不味くはありません。でも、保存性を高めるために硬いのは仕方がありませんね。
この黒パンですが、デューラント王国ではライ麦パンを指します。小麦を使った白パンと違って酸味が強く、冷暗所に置いておけばそう簡単にはカビが生えません。
硬いといっても所詮はパンなので、最初はしっかりと詰まったパンというくらいですが、一か月も経つとカッチカチになります。切ろうとするとゴリッと音がするくらいです。薄切りにしても折れませんので、上に具材を乗せられるんです。白パンならクタッとなりますからね。
「ここが美味いだけってこともあるのかもしれないな」
「ギルド直営だからいいものを使ってるかもね」
ここはギルド直営なので、食材はギルドに入ったものを使っています。もちろん訳ありで卸せないようなものを使っていますが、傷んだりはしていません。その代わりに街にある酒場よりも若干値段が高くなっています。ギルドの酒場が安すぎると街中の酒場から不満が出ますので、配慮している感じです。
「食べ終わったら薬剤師ギルドに行って登録して、それから買い物だな。最低限必要なものは……武器と防具は当然として、荷物を入れるカバン、植物の採集などに使うナイフ。あとはダミーのカバンか」
「テントにマット、枕と毛布、薪とランタンと着火具、鍋にフライパン、包丁とまな板」
「……いきなり野営か?」
「そのうちするでしょ?」
二人はしばらくマリオンで活動すると決めています。最初から遠くまで行けるはずはありません。まずは冒険者生活に慣れるのが大切です。大切なのは間違いありませんが、いきなり野営は難しいはずです。
「そのうちな。しばらくは日帰りだぞ」
いきなり泊まりがけの依頼を受けて成功するとはレイには思えませんでした。
「着替えも何着かいるよな」
「【浄化】があるのに?」
その言葉を聞いたレイは、腰が砕けそうになりました。
「そりゃ【浄化】を使えばサッパリするけど、毎日同じのを着っぱなしか?」
「でもその分だけ荷物は減らせるでしょ?」
「いや、二人ともマジックバッグがあるだろ」
「あ、そっか」
たしかに【清浄】や【浄化】は風呂代わりにも使えます。特に【浄化】は雑菌も殺してくれますし、臭いもなくなります。それでもレイは、服を着替えるという選択肢をサラに捨ててほしくありません。
「【解毒】は使えるけど、万が一に備えて解毒薬は欲しいな」
「回復用のポーションも一本か二本は欲しいね」
「そうだな。保険として用意しておくか」
食事が終わるころには買い物リストが完成していました。
「さて、腹もふくれたし、薬剤師ギルドにも行くか」
二人は支払いを済ませて酒場から出ると、薬剤師ギルドに向かうことにしました。
◆◆◆
「あれ? あいつは?」
「ん? だいぶ前に出たぞ」
シーヴの素晴らしさについて蕩々と語っていたノーマンが店内を見回すと、レイたちはすでにいませんでした。それはアンナたちも同じです。
「いつの間に⁉」
「五分ほど前に席を立ちましたよ。あなたが長々と理想の男性について話すからでしょう」
「また来るかな?」
「冒険者になったのなら来るでしょう。でも朝夕に張るのはダメですからね」
「その前にあっちもチェックしておかない?」
レイが掲示板のチェックを終えて薬剤師ギルドに向かおうとすると、サラが酒場のほうに指を向けました。
「そうだな。軽く腹ごしらえしておくか」
「よっし。何を食べよっかな~」
ギルドの建物には酒場があります。酒場の入り口を見て、ふとレイは気がつきました。これまでは貴族の息子としていいものばかり食べていました。冒険者になるならある程度は割り切るしかありませんが、不味いものばかりを無理して食べたくはありません。
そう考えているレイですが、もちろんそれが贅沢なことだと本人もわかっています。それが嫌なら高級店に入るか、それとも自分で作るかでしょう。
「俺は入ったことがないからわからないけど、サラはどんなメニューがあるかわかるか?」
「ウォルターさんに聞いたら、基本はエールとミード、お肉、ジャガイモ、パンらしいよ。お肉は魔物のがほとんどらしいね」
「そのへんは想像の範囲内か」
領主の屋敷の守衛隊長なら、かなりの高給取りです。普段からそこそこいい酒場に出入りしているとサラは聞いています。
一般的な酒場は、昔ながらのイギリスのパブ、アメリカのバー、日本の大衆酒場のイメージすれば間違いないでしょう。多くの料理は作り置きがほとんどです。やや高級な店では、値段は高いですが、注文に応じて調理してくれます。
「混んでないね」
「ほどほどだけど、まだ午前だからな。これってどうなんだ?」
レイとサラは中を覗いてから、三分の一ほど客がいる酒場に足を踏み入れました。
◆◆◆
「お、さっきのやつらじゃないか」
「さっきのって、新人か?」
「ああ、そうだ。シーヴさんと同じ空気を吸ってたやつらだ。妬ましい」
レックスはその言葉を聞いて、本当に相棒のことが心配になりました。この一年ほど、こんな状態になることが増えたからです。
「なあ、ノーマン。一度その頭の中を調べてもらったらどうだ?」
「失礼なやつだな。俺の脳みそはいつでもキラキラしてるぞ」
「いや、蜘蛛の巣だらけみたいだから言ったんだ」
一方で『天使の微笑み』の二人もレイとサラに気づきました。
「あ、さっきの子!」
「登録が終わったみたいですね」
レイを見たアンナの目つきが変わりました。獲物を狙う肉食獣の目です。
「親切な先輩を装ってさりげなく近寄ってみようかな~」
「装う時点でダメでしょう」
「親切は親切だと思うよ、私的には」
「ちなみにどうやってその親切さを見せるんですか?」
「……ベッドで優しくリード?」
「……経験がないでしょうが」
「でもイメージトレーニングは何度もしたからっ!」
酒場に入ったレイたちの耳に、あちこちで言い合いをしている声が聞こえました。でも、席が遠いので細かな内容まではわかりません。
「揉め事か?」
「飲んでケンカすることもあるらしいね。パーティー内でも意見が合わなかったりとか」
「冒険者って自分に自信があって我が強い人が多そうだからなあ」
実際は喧嘩でも口論でもありませんが、レイにわかるはずがありません。二人は言い合いをしているパーティーから遠い席を選ぶと腰を下ろします。するとすぐに給仕がやってきました。
「いらっしゃいませ。メニューは壁に貼ってあります。読めますか?」
「ええ、大丈夫です」
メニューの下には値段も書かれています。エールやミードは一杯一五キール。料理は簡単なものなら一〇キールからですが、手の込んだ料理は一〇〇キールを超えているようですね。
「えーっと……本日のスープと黒パン、キャタピラー炒めと……エールをお願いします」
「私はサラダとホーンラビットのモモの煮込み、それとミードを」
「あ、ジャーマンポテトを追加で。取り皿をもらえますか?」
軽くと言いながらも本格的な食事になってしまいました。
「はい、かしこまりました。先に飲み物をお持ちします。料理は少しお待ちください」
給仕が戻るとレイはサラに顔を寄せて小声で話しかけます。
「日本人が来てるよな」
「ジャーマンポテト?」
「そう。懐かしくてつい注文してしまった」
ジャーマンポテトという名前は日本での呼び方です。ドイツにはジャーマンポテトという料理はなく、一番近いのはブラートカルトッフェルンという料理です。英語ではジャーマンフライズと呼ばれます。
もちろんこの世界にはドイツはありませんので、それを考えると日本人が付けたとしか思えません。ジャーマンという品種のジャガイモを使っていたり、ジャーマンという人が考案したのでない限りは。
「あ、しまった。端のほうに焼きそばらしいのがあった。あのへんが麺類だな」
「え? あ、ホントだ。ヤキソーバって焼きそばだよね」
「俺たちだけじゃないかもしれないな」
「意外と多いのかな?」
「実は近くにいたりとかな」
この広い世界に異世界からどれだけ来ているのでしょうか。レイもサラも生まれ変わって記憶が戻りました。自分たちという例があるので、他にいても不思議ではないと二人は考えました。
「お待たせしました。お先にエールとミードです」
「ありがとう。はい、チップ」
先に飲み物が運ばれてきたので、レイはポケットからから銅貨を二枚取り出して渡しました。
レイはアメリカでの一人暮らしのせいで、レストランでチップを渡すことに慣れています。この世界に来てから、出先でチップを渡すこともありましたので、自然と渡すようになってしまいました。
「ありがとうございます。ボクはサンディーといいます。何かあれば声をかけてください」
チップを受け取ると給仕は大きく頭を下げ、レイに腰を押し付けるようにしてから戻っていきました。
「ボクっ娘っているんだな。いて悪いわけじゃないけど」
「屋敷にはいないけど、街中にはいるらしいよ。私も初めて会ったけどね」
見た目がロングヘアーのお嬢様で一人称がボクなら二人とも違和感を感じたかもしれません。しかし、サンディーはショートカットなので、妙に似合っていました。
「あ、そうだ。渡してから聞くのもあれだけど、酒場にもチップの習慣ってあるよな?」
「あるけど、チップは高級店が多いんじゃないかな」
ルールではなくてマナーですが、それなりの店で食事をすれば代金の一割から二割を渡すことが多くなっています。
今回は黒パンが一〇キール、エールとミードがそれぞれ一五キール、スープとサラダがそれぞれ二〇キール、他の三品がそれぞれ三〇キール。全部で一七〇キール。チップが合計金額の一割強の二〇キールなのでおかしくはありません。
でも、酒場でのチップには別の意味もあるんですよ。
「まあ、あるならいいか。それじゃ冒険者登録を祝って乾杯」
「乾杯」
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ジョッキのエールは冷やされてはいませんが、話で聞くような酸っぱさはなく、むしろ苦味が際立っています。木のジョッキなので色がわかりにくいですが、かなり濃い色をしていますので、スタウトに近いのではないかとレイは思いました。
「意外に悪くない。ていうか好きだな、この苦味」
「レイは苦いのが得意だったもんね。私はダメだったけど」
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二人がエールとミードを味わっていると、また大きな声が聞こえました。
「まだ言い合いをしてるのか?」
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「それもテンプレなのか?」
レイはあまり詳しくありません。サラたちに押し付けられるようにして読んだ作品が少しあるだけです。
「そうだよ。いわゆる追放系ね。何から何まで主人公に頼ってたから、主人公を追放してから自分たちが困ることになって落ちぶれるって話」
「勇者なのに性格が悪いな。その前に他のメンバーが止めるんじゃないのか?」
「そういう話なんだって」
◆◆◆
「お料理をお持ちしました!」
サラがラノベのテンプレについて説明していると、サンディーがテーブルに料理を並べ始めました。その間に何度もレイに腰を押し付けます。それを見ていたサラは、サンディーがいなくなってから口を開きました。
「さっきの続きだけどね、酒場でチップを渡すと二階へのお誘いと受け取られることもあるよ」
そう言われた瞬間、レイの手がピタッと止まりました。
「男女で来てるのにありえないだろ?」
ここにはレイだけではなくサラもいます。二人は恋人同士ではありませんが、仮にデート中に酒場でチップを渡すこともあるのではないかと。
そもそもこの酒場には宿屋部分はありません。店員も娼婦ではないはずです。だから普通ならお誘いとは受け取らないはずだとレイは考えましたが、酒場のことを守衛たちに聞いていたサラは首を横に振りました。
「あくまで可能性だけど、『あのお客さんは女性と一緒に来てるけど、あれは単なるパーティーメンバーかも。だから私にチップを渡して気を引こうとしてるのね』って受け取り方をしたのかもしれないよ」
「面倒な見方だな」
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「何度も腰を押し付けてたでしょ? あれが交渉に乗ってもいいってサインらしいよ。値段交渉をするなら腰に手を回せばいいんだって」
「ここは宿屋はやってないだろ?」
はい、やっていません。酒場だけです。
「外で待ち合わせてどっかの宿屋に入ればいいんじゃない? 上がりの時間を聞くんなら、旦那様にはレイは外泊するって言っておくけど?」
「やめてくれ。そんなつもりはないから」
飲食のみの店は高級店か公的な場所にある飲食店、または軽食のみの店がほとんどです。宿屋のみという宿屋はなくて、普通は一階が酒場になっています。宿泊客に食事を出すことが多いからです。
酒場によっても違いますが、純粋な店員としての給仕——主に店主の家族など——と、娼婦を兼ねている給仕がいます。単なる給仕にしつこく声をかけると、店の奥からゴツい肉切り包丁を持った店主が出てくることもありますので注意が必要ですよ。
そっちの仕事をしている給仕は、それと分かるように胸元に適当な飾りを付けることが多いですね。彼女たちの賃金は安いですが、その代わりに客をとることで稼げます。そして宿屋は安い賃金で給仕を雇える上に、客の払う部屋代まで入るのです。誰にとってもWin-Winですね。
やってしまったことは仕方ありません。レイはサンディーのことを頭から追い出すと、食事に集中することにしました。過ぎたことは過ぎたことです。今さらチップを返せとも言えません。
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「これぞファンタジーだね」
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料理長のトバイアスと比べれば落ちるのは当然ですが、酒場の料理も悪くないと感じました。黒パンも思っていたほど不味くはありません。でも、保存性を高めるために硬いのは仕方がありませんね。
この黒パンですが、デューラント王国ではライ麦パンを指します。小麦を使った白パンと違って酸味が強く、冷暗所に置いておけばそう簡単にはカビが生えません。
硬いといっても所詮はパンなので、最初はしっかりと詰まったパンというくらいですが、一か月も経つとカッチカチになります。切ろうとするとゴリッと音がするくらいです。薄切りにしても折れませんので、上に具材を乗せられるんです。白パンならクタッとなりますからね。
「ここが美味いだけってこともあるのかもしれないな」
「ギルド直営だからいいものを使ってるかもね」
ここはギルド直営なので、食材はギルドに入ったものを使っています。もちろん訳ありで卸せないようなものを使っていますが、傷んだりはしていません。その代わりに街にある酒場よりも若干値段が高くなっています。ギルドの酒場が安すぎると街中の酒場から不満が出ますので、配慮している感じです。
「食べ終わったら薬剤師ギルドに行って登録して、それから買い物だな。最低限必要なものは……武器と防具は当然として、荷物を入れるカバン、植物の採集などに使うナイフ。あとはダミーのカバンか」
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「……いきなり野営か?」
「そのうちするでしょ?」
二人はしばらくマリオンで活動すると決めています。最初から遠くまで行けるはずはありません。まずは冒険者生活に慣れるのが大切です。大切なのは間違いありませんが、いきなり野営は難しいはずです。
「そのうちな。しばらくは日帰りだぞ」
いきなり泊まりがけの依頼を受けて成功するとはレイには思えませんでした。
「着替えも何着かいるよな」
「【浄化】があるのに?」
その言葉を聞いたレイは、腰が砕けそうになりました。
「そりゃ【浄化】を使えばサッパリするけど、毎日同じのを着っぱなしか?」
「でもその分だけ荷物は減らせるでしょ?」
「いや、二人ともマジックバッグがあるだろ」
「あ、そっか」
たしかに【清浄】や【浄化】は風呂代わりにも使えます。特に【浄化】は雑菌も殺してくれますし、臭いもなくなります。それでもレイは、服を着替えるという選択肢をサラに捨ててほしくありません。
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食事が終わるころには買い物リストが完成していました。
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「あれ? あいつは?」
「ん? だいぶ前に出たぞ」
シーヴの素晴らしさについて蕩々と語っていたノーマンが店内を見回すと、レイたちはすでにいませんでした。それはアンナたちも同じです。
「いつの間に⁉」
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手違い鑑定でスキルを間違われて無能と追放されたが冒険者ギルドで間違いに気付いて無双を始める。
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伯爵家の三男は冒険者を目指す!
おとうふ
ファンタジー
2024年8月、更新再開しました!
佐藤良太はとある高校に通う極普通の高校生である。いつものように彼女の伶奈と一緒に歩いて下校していたところ、信号無視のトラックが猛スピードで突っ込んで来るのが見えた。良太は咄嗟に彼女を突き飛ばしたが、彼は迫り来るトラックを前に為すすべも無く、あっけなくこの世を去った。
彼が最後に見たものは、驚愕した表情で自分を見る彼女と、完全にキメているとしか思えない、トラックの運転手の異常な目だった...
(...伶奈、ごめん...)
異世界に転生した良太は、とりあえず父の勧める通りに冒険者を目指すこととなる。学校での出会いや、地球では体験したことのない様々な出来事が彼を待っている。
初めて投稿する作品ですので、温かい目で見ていただければ幸いです。
誤字・脱字やおかしな表現や展開など、指摘があれば遠慮なくお願い致します。
1話1話はとても短くなっていますので、サクサク読めるかなと思います。
欲張ってチートスキル貰いすぎたらステータスを全部0にされてしまったので最弱から最強&ハーレム目指します
ゆさま
ファンタジー
チートスキルを授けてくれる女神様が出てくるまで最短最速です。(多分) HP1 全ステータス0から這い上がる! 可愛い女の子の挿絵多めです!!
カクヨムにて公開したものを手直しして投稿しています。
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うっかり『野良犬』を手懐けてしまった底辺男の逆転人生
野良 乃人
ファンタジー
辺境の田舎街に住むエリオは落ちこぼれの底辺冒険者。
普段から無能だの底辺だのと馬鹿にされ、薬草拾いと揶揄されている。
そんなエリオだが、ふとした事がきっかけで『野良犬』を手懐けてしまう。
そこから始まる底辺落ちこぼれエリオの成り上がりストーリー。
そしてこの世界に存在する宝玉がエリオに力を与えてくれる。
うっかり野良犬を手懐けた底辺男。冒険者という枠を超え乱世での逆転人生が始まります。
いずれは王となるのも夢ではないかも!?
◇世界観的に命の価値は軽いです◇
カクヨムでも同タイトルで掲載しています。
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少し冷めた村人少年の冒険記
mizuno sei
ファンタジー
辺境の村に生まれた少年トーマ。実は日本でシステムエンジニアとして働き、過労死した三十前の男の生まれ変わりだった。
トーマの家は貧しい農家で、神から授かった能力も、村の人たちからは「はずれギフト」とさげすまれるわけの分からないものだった。
優しい家族のために、自分の食い扶持を減らそうと家を出る決心をしたトーマは、唯一無二の相棒、「心の声」である〈ナビ〉とともに、未知の世界へと旅立つのであった。
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ペット(老猫)と異世界転生
童貞騎士
ファンタジー
老いた飼猫と暮らす独りの会社員が神の手違いで…なんて事はなく災害に巻き込まれてこの世を去る。そして天界で神様と会い、世知辛い神様事情を聞かされて、なんとなく飼猫と共に異世界転生。使命もなく、ノルマの無い異世界転生に平凡を望む彼はほのぼののんびりと異世界を飼猫と共に楽しんでいく。なお、ペットの猫が龍とタメ張れる程のバケモノになっていることは知らない模様。
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