表紙へ
上 下
17 / 97
2巻

2-1

しおりを挟む




 1 異世界の旅人


「ふぁあ」

 欠伸あくびを一つし、とうきょういちろうはベッドの上で両腕を上げて伸びをした。
 まだ眠気の残るまぶたをこすりながら、後ろの窓から差し込む朝の日差しに振り向く。
 青色と赤色の小鳥がちゅんちゅんと鳴きながら、窓の向こうの屋根の縁に止まっていた。日本と変わらないなと、恭一郎は慣れた手つきで窓を開け、朝の空気を肺に取り入れる。
 少し涼しくなった朝の風が、恭一郎の肌をでた。

「……よしっ」

 目が覚めた顔でうなずき、扉へ向かう。
 今日もまた、あの場所で働くために。
 ねこのしっぽ亭。
 オスーディア大陸に存在する、エルダニアという地方都市。その街のとある通りに建っている、何の変哲もない大衆食堂。
 常連でにぎわう、値段も手頃な庶民のお店。笑い声と酒を注ぐ音が響き渡る、温かい雰囲気。
 その店に変わっているところがあるとすれば、それは――。
 マスターが異世界人、ということ。


  ◆ ◆


「おはようございます。メオさん、相変わらず早いですね」

 階段を下りた先、ねこのしっぽ亭の客席に人影を見つけて、恭一郎は声をかけた。その声に、耳の影がぴょこんと動く。

「あ、旅人さん。おはようございます」

 ネコ耳と尻尾をぴこぴこと動かしながら、メオと呼ばれた少女は恭一郎ににっこりと微笑んだ。

「今、朝ご飯を用意しますね」
「あ、すみません。邪魔しちゃって。続きやっておきますよ」

 濡れきんをよいしょっと仕舞うメオに、恭一郎は申し訳ないと頭を下げる。起きるのが遅れたせいで余計な手間を取らせてしまった。
 そんな恭一郎に笑いながら、ネコ耳の少女は台所へと足を運ぶ。

「そういえば。リュカちゃん、学校生活順調みたいですよ。今朝も、元気に走って出て行きました」

 ミルクがゆが入った鍋を温め直しながら、メオはにゃふにゃふと口元を緩める。
 メオの報告に、恭一郎はテーブルをく手を止めて笑みを浮かべた。

「友達も出来たみたいですしね。リュカちゃんが最年少っていうから、心配してたんですが。よかったですよ」

 布巾を裏返して畳みながら、恭一郎はリザードマンの少女を思い浮かべる。
 恭一郎が妹同然に接している彼女は、念願の学校生活に毎日上機嫌だ。
 学校が楽しいことはいいことだと、恭一郎はうなずいた。

「それにしても、子供って意外と朝早いですよね。僕も、もう少し頑張って起きないと」
「にゃふふ。別に構いませんよ。旅人さん、昼も夜も大忙しなんですから。朝くらいはゆっくりしてください」

 うーんとまゆを寄せる恭一郎に笑いながら、メオはミルクがゆの器をテーブルに置いた。
 恭一郎は、ありがとうございますと言って椅子に座る。

「でも、メオさんなんか僕より何時間も前に起きて家事してるじゃないですか」
「まぁ、私は掃除と洗濯もありますから。いいんですよ、慣れてますし」

 にこにこと微笑みかけるメオの表情は満足気だ。潰れかけていた自分の店に、昔以上の活気が戻った――それだけで、メオは恭一郎に感謝してもしきれない。

「うーん。メオさんがそう言うなら……」

 しかし、恭一郎からすれば話は別だ。
 突然日本からトリップして辿たどり着いた先は、右も左も、文字すら分からない異世界。そこで行き倒れていた自分にメオは、職と寝床と、そして温かな一皿のミルクがゆを与えてくれた。どこの馬の骨かも分からないのに、だ。

「頑張ろう」

 ぼそっと、メオに聞こえないくらいの小ささで、恭一郎の声が漏れる。
 メオに協力しようと思い、これまで恭一郎は何度か家事を手伝ってみた。しかし、家電製品もないこの世界では、想像以上に掃除も洗濯も重労働だ。加えて、同居人が全員女性ということもあって、男の恭一郎が部屋に入ったり洗濯したりするのは気が引けた。
 自分は自分の役割をしっかりこなそうと思い直し、恭一郎はよしと気を引き締める。

「……そういえば。アイジャさんはまだ寝てるんですかね?」

 ミルクがゆを口にしながら、恭一郎はふと姿の見えないエルフの魔法使いを目で探す。酒が好きなうるわしいそのエルフに、恭一郎は何かと思うところが多い。

「酔いつぶれて寝てるんじゃないですかね? 昨日の夜は飲みに下りてきてましたし」

 メオも、天井を見上げながら答える。
 二階の客室に長期滞在中のアイジャは、完全に昼夜逆転の生活を送っていた。最近はかなりマシになってきたようだが、それでも朝は基本的に爆睡している。

「まぁ、起きてこないだろうなぁ」

 今日は昼過ぎまでは寝ているだろうと思いながら、恭一郎は頬をいた。昨日の晩は、この店で飲んだ後も遅くまで恭一郎の部屋で追い酒をしていたからだ。
 先日アイジャに想いを告げられたとき、恭一郎はその想いに応えられないけれど、力になりたいと言った。
 あの日以来、アイジャは思い出したかのように恭一郎の部屋を訪れる。決して二日連続では来ない強がりな寂しがり屋に、恭一郎はくすりと笑みを浮かべた。

「……旅人さん、最近アイジャさんと何かありました?」

 アイジャとの会話を思い出している恭一郎の横に、メオの顔がにゅっと出現する。
 驚いた恭一郎は、ごふっとミルクがゆを詰まらせた。

「怪しいです。そんなびっくりして」

 ごふごふとせきこむ恭一郎の背中を大丈夫ですかとさすりながら、それでもメオはじぃっと恭一郎の顔をのぞき込む。

「ごほっ。メ、メオさんが急に出てくるからですよっ」

 水の入ったグラスをつかんで、恭一郎は何もありませんよと手を振った。
 それを見たメオが、にたりと笑って恭一郎から離れる。

「にゃふふー。分かってますよ。焦りすぎです」

 くすくすと笑いながら台所に戻っていくメオの背中を、恭一郎はやられたなという思いで見送る。その尻尾は、ぴょこぴょこと軽快にダンスしていた。
 何もなかったと言えば、嘘になる。
 アイジャに気持ちをぶつけられた日のことを思い出して、恭一郎は頬をく。

(……どうしたもんかなぁ)

 アイジャは唯一、恭一郎が異世界からやってきたということを知っている。
 異世界人である恭一郎の立場や、助けてくれたメオに恩返しをして支えたいという気持ちをすべて理解したうえで、アイジャは笑って「頑張りな」と言ってくれたのだ。
 結局、アイジャの優しさに甘える形になってしまったと思い、恭一郎はためいきをついた。なんとも情けないと、自分のことながら呆れかえる。
 メオも何かを察しているのだろうが、特別気にしている様子はない。
 こういうとき、女の子は凄いなぁと恭一郎は苦笑した。彼女たちの方が、一枚も二枚も上手うわてなのだ。

「よし。……働こう」

 考えていてもしかたがない。まずは目の前のことに取り組まねば。そう考えて、恭一郎はそでまくって立ち上がった。


  ◆ ◆


「え? マンドラゴラの種ですか?」

 その夜、常連でにぎわうしっぽ亭のカウンターで、恭一郎は聞き慣れない単語を耳にした。

「そうなんだよ。希少種なんだけど、たまたま手に入ってね。キョーちゃんにあげようと思って」

 常連の一人の乾物屋が、うさぎの耳を揺らしながら右手を差し出す。
 ひょいとのぞき込んだ恭一郎の視線の先の手のひらには、確かに植物の種のようなものが四つ載せられていた。

「え、でもいいんですか? 希少種って、珍しいものなんでしょう?」
「へへへ。それなんだけどさ」

 恭一郎の言葉に、乾物屋が照れたように笑う。
 これは何かあるなと、恭一郎は乾物屋の顔をじっと見つめた。

「僕とタイザの分のツケをさ、これで払いたいなぁって」
「あぁ、やっぱり。そういうことですか」

 呆れて声を上げる恭一郎に、乾物屋があははと笑う。
 恭一郎は少し悩んだ。別に疑っているわけではないが、そもそもマンドラゴラが何かさえ分からない。

「何だい何だい、しけた顔してっ」

 乾物屋の手のひらをにらんでいた恭一郎に、すっかり出来上がった声の人物が抱きついてきた。急に重くなった肩に、恭一郎は思わずよろける。

「あっ、アイジャさん。いいところに」

 背中に感じる大きく柔らかな感触に、恭一郎は振り返った。
 黒いとんがり帽子に、セーラー服。黒いくせっ毛を指でいじりながら、アイジャがきょとんとした顔を恭一郎に向けている。
 その綺麗な目元と口元を見ながら、恭一郎は困ったように問いかけた。

「これ、マンドラゴラの種らしいんですけど。どんなもんなんです?」
「マンドラゴラぁ?」

 恭一郎の指し示す先、乾物屋の手のひらの上の種をアイジャは見つめた。んぅうと目を細めて、それをじっくり観察する。

「本物なら、それなりのもんだよ。四粒だろ? 四万ギニーはいくさね」
「えっ、そんなに高価なものなんですか?」

 アイジャの言葉に、恭一郎はぎょっとして目を見開く。
 タイザと乾物屋のツケは合わせて三万ギニーだから、確かに代金の代わりにはなりそうだ。

「魔法薬の素材としては優秀だからね。あたしも、乾燥した奴しか買ったことないなぁ」

 ところでこれがどうしたんだいと、アイジャが恭一郎と乾物屋に視線で問いかける。
 そこで、恭一郎は事情をアイジャに説明した。

「なんだい。そういうことならもらっておきなよ。上手く育てれば、次の種が取れるかもしれないし。というか、あたしが欲しいくらいだ」

 アイジャは乾物屋の手のひらから種を一粒、ひょいとつまみ上げた。
 それを見た恭一郎は、アイジャがそういうなら別にいいかと思い、首を縦に振る。
 目の前の手のひらの上の種は、出番を待ちわびるように恭一郎を見つめていた。


「これがその、マンドラゴラの種なんですか?」
「ちいさーい」

 テーブルの上に置かれた四粒の種を、メオとリュカがふんふんと鼻を鳴らしてのぞき込んでいる。
 それを横目に、アイジャはよいしょとテーブルの上に四つの植木鉢を並べた。
 夜営業の終わったしっぽ亭の店内で、同居人全員が顔をつき合わせてテーブルの上を見つめる。

「せっかく乾物屋が四粒くれたんだ。一人一粒ずつ育てようじゃないか」

 土の入った植木鉢を見下ろしながら、アイジャは満足そうに手を払った。
 メオがきょとんとした表情で質問する。

「一つをみんなで一緒に育てればいいんじゃないですか? 高価なものですし、ちょっと私自信ないです」

 基本的にアイジャさんにお任せしますと、気乗りしない様子のメオ。
 恭一郎も、メオに賛成だとアイジャを見た。

「別に簡単さね。面倒なのは土に入れる魔力の割合で、そこはあたしがやっといた。後は水をやるだけで勝手に育つ」

 アイジャの説明に、へぇと三人がうなずいた。
 流石さすがはアイジャだ。何でもないことのように言っているが、マンドラゴラが高級素材なことを考えると、土を準備する作業は本来は困難を極めるのであろう。

「このマンドラゴラには面白い特性があってね。嘘か真か、育てた奴に似るっていうんだ。あたしは乾いてしおれた奴しか見たことないし、いい機会だから確かめたくてね」

 アイジャの説明に、なるほどと一同はうなずく。
 確かに面白そうな話だと、恭一郎は小さな種を見つめた。

「そういうことなら、僕はこの少し大きめの奴を」
「リュカはこれー!」
「あ、ずるいですっ。じゃ、じゃあ私はこの子でっ」

 とたんに残り一つだけになった種を、アイジャが呆れたように見つめる。それじゃああたしがこいつだねと、アイジャは残りの一粒を手に取った。

「土に完全に隠れるように埋めてごらん。んで、後は一日一回、水やればいいだけさね」
「へぇ。本当に簡単ですね」

 恭一郎は、指でくりくりと土に穴を開けながらアイジャに応える。
 植物を育てるなんて、小学生の頃に朝顔を栽培して以来だ。少しわくわくしながら、恭一郎は慎重にマンドラゴラの種に土を被せた。

「にゃふふー。大きく育つんですよー」

 メオはさっそく、グラスに注いだ水を自分の植木鉢にゆっくりとかけている。

「リュカもお水あげるー」

 その横で、リュカもコップの水をごぼっと植木鉢に注いでいた。

「大きくなったら、アイジャさんがお薬にしてくれるんでしょう? 楽しみですねぇ」

 にこにこしながら、メオは自分の植木鉢をじぃと見つめる。どれくらいで芽が出るかは分からないが、どんなマンドラゴラが育つか楽しみな一同であった。


  ◆ ◆


「あっ、なんですかそれはっ。ずるいです、旅人さん」

 シーツを回収しようと恭一郎の部屋を訪れたメオは、驚いてネコ耳を逆立たせた。
 そのメオの表情に、恭一郎はふふんと自慢げに鼻を高くする。
 メオの目の前では、じょろじょろと、水がまるで雨のように優しく恭一郎の鉢植えに降り注いでいた。

「ふふふ。これはジョウロというものですよ」

 恭一郎の手には、底に小さな穴がいくつも開いたコップが握られている。そこに別のコップで水を注げば、簡易的なジョウロの出来上がりだ。
 得意げな恭一郎に、メオがいいなぁと近づいていく。

「まるで雨みたいですぅ」
「どうです。いい感じでしょう」

 ぱらぱらと降り注ぐ水を、メオがほぇえと言いながら見つめている。
 それを見た恭一郎は、物欲しそうにしているメオに声をかけた。

「メオさんの分も作ってあげましょうか?」

 恭一郎の声に、メオがうーんとまゆを寄せる。

「んー。別にいいです。よく考えたらあんまり意味なさそうですし。コップもったいないですし」

 そう言って、メオはちゃっちゃとシーツを回収して恭一郎の部屋から出ていった。

「……えっ、意味ないのか?」

 一人取り残された恭一郎は、そんなはずは……と思い、自分の植木鉢を見つめる。ゆっくりと濡れていく土の表面を見ながら、恭一郎は大丈夫だと自分に言い聞かせた。


  ◆ ◆


「どうしました? 嬉しそうな顔して」

 客席に座っているメオとリュカの顔を見て、恭一郎は何だろうと思いながら近づいた。今日は夜営業が休みのため、客席に特に用事はないはずだ。

「あ、旅人さんっ! 見てくださいよ、これ」

 恭一郎に気がついたメオが、にこにこしながら尻尾を振って手元の紙を見せてきた。
 恭一郎は二人の手元をのぞき込む。
 文字が分からない恭一郎は、それをじぃと見つめつつ椅子に座った。どうやら数字が沢山書いてあるようだ。

「何です、これ?」
出納すいとう帳だよー。メオねーちゃんと計算してたのー」

 リュカが、疲れたーと机に被さる。
 現在、ねこのしっぽ亭の経理はリュカの担当だ。リュカはまだ小さいが、その仕事の正確さはしっぽ亭でも最高レベルである。

「へぇ。それで、よかったんですか?」
「はいっ! それはもうっ! これも旅人さんたちのおかげですよっ!」

 席に座った恭一郎に向かって、メオは嬉しそうに声をあげた。
 細かい数字は分からないが、メオの様子から考えると、しっぽ亭の経営は上手く行っているらしい。

「半年前からは考えられないですっ。本当、ありがとうございますっ!」

 ぴょこぴょこと耳を動かすメオに、恭一郎も嬉しくなる。
 もともと、この店を立て直すのが目標の一つだったのだ。これからやるべきことはたくさんあるが、ひとまずは第一関門突破と言ったところだろう。

「いえいえ。僕はちょっと手伝っただけですから」
「リュカもがんばったー!!」

 にこにこと笑いながら、恭一郎は隣の席のリュカの頭をでる。よしよしと丸い角まで優しくでると、リュカは、くすぐったそうに身をよじった。

「ふふふー。それでですねぇ。私、考えました。店長として」

 そんな二人を眺めていたメオが、むんと胸を張る。
 自信満々な表情に、恭一郎とリュカは首を傾げた。
 立ち上がったメオは、とてとてと自分の部屋に向かっていく。
 その様子に、恭一郎とリュカは顔を見合わせた。

「これですこれ! 昨日、作ったんですよっ!」

 すぐに部屋から戻ってきたメオは何やら小袋を二つ抱えている。メオは、それを恭一郎とリュカに一つずつ手渡した。

「二人とも頑張って働いてくれてますから。これは、店長としての私の気持ちですっ!」

 ふふーんと、メオは満足げに笑っている。
 じゃらじゃらとした小袋を、恭一郎とリュカは何だろうと思いながら開けた。

「って、うわっ。すごいっ。こんなにいいんですか?」
「ひゃー。まじで? これ、リュカのでいいの?」

 中には、ピカピカ光る硬貨がびっしりと詰められていた。
 恭一郎は、その一枚を手にとってしげしげと見つめる。
 普段目にしているものと違い、あまりにも綺麗に光っているから違和感があるが、紛れもなく本物の一万ギニー硬貨である。ところどころ傷が付いているので新品硬貨というわけではないようだ。綺麗なのは、きっとメオが磨いたからだろう。
 どう見ても、恭一郎達の一月ひとつき分の給料よりも多い。

「いいんです。私の気持ちですから、もらってください。二人とも、それで好きなものでも買ってくださいね」

 そう言って、にっこり微笑むメオ。
 店長として従業員に何が出来るか考えた結果、結局は単純なことに落ち着いたのだ。
 しかし、それは小さな驚きとして恭一郎の胸を打った。

「……ボーナスだ」
「にゃ?」

 ぽつりとつぶやいた恭一郎に、今度はメオが首を傾げる。
 何でもないですと、恭一郎は頬をき、メオから受け取った小袋を握りしめる。

(俺もついに、ボーナスをもらったかぁ)

 この世界に来てから働き出した恭一郎にとっては、もちろん初めてのボーナスだ。感慨深いものがあり、恭一郎はそれをぐっと胸に押し当てた。

「何に使おうかなー」

 横でぎゃおぎゃおとはしゃいでるリュカに、恭一郎は目を向ける。
 確かに大事に使わないとなと思い、右手の小袋をじっと見つめた。


  ◆ ◆


「……うーん」

 恭一郎はテーブルに並べられている布をじいっと見ていた。色とりどりの美しい布を見ながら、恭一郎は悩み顔で腕を組む。

「どうしました?」

 そんな恭一郎に、服飾店の店主であるアランが声をかけた。
 アランには、カフェしっぽ亭の衣装であるメイド服やフリルのアイディアを提供して以来、そのお返しに色々としてもらっている。
 とはいえ、恭一郎が客としてアランの店を訪れるのは珍しい。

「メオさんからボーナス……いえ、店の調子がいいので、特別に給金を頂きましてね。せっかくだから、記念に何か買おうと思いまして」

 悩んでいる様子の恭一郎に、アランはなるほどとうなずく。そういうことならと、アランは一枚の布地を広げた。

「では、前掛けでも新調されたらどうですか? 毎日つけるものですし。そういうものにお金を使った方が、メオさんも喜ばれると思いますよ」
「ああ、確かに。さすがですね」

 アランの提案に、恭一郎はあごに手をかけた。前掛けならそれほど高くはない。この際だから数枚買ってもいいかもしれないなと思いながら、恭一郎は目の前に広げられた布地を見つめる。

「……あっ。だったら、メオさんのエプロンとかも……って、変ですかね?」

 自分の前掛けもそうだが、メオも同じ色のエプロンしか持ってないはずだ。
 プレゼントすれば喜びそうだと思ったものの、そもそもメオからのボーナスでメオに贈り物をするのはどうなんだと、恭一郎は首をひねった。
 恭一郎の葛藤を察し、アランがふむと思案する。

「うーん、どうでしょう。でも、好きなものをと言われたのでしょう? それでプレゼントされて、メオさんは気を悪くする人ではないのでは?」

 しっぽ亭の穏やかな店主の顔を思い浮かべ、アランは大丈夫でしょうと恭一郎にうなずいた。

「それもそうですね。……よーし。なら、この桜色の布と、赤い奴と。僕のはこっちの群青色の奴をください」

 恭一郎も同意して、目の前の布から何色か選んだ。あっちの桜色は、いつかのメオの行きの服の色にも似ているし、きっと気に入ってくれるだろう。
 布を受け取ったアランが、そうだと顔を上げる。

「サービスで名前を入れときましょうか?」
「あ、お願いします」

 ありがたい申し出に、恭一郎は礼を言う。
 しかし、そのときアランがにやりと笑ったことに、恭一郎は気がつかなかった。

しおりを挟む
表紙へ

処理中です...
本作については削除予定があるため、新規のレンタルはできません。

このユーザをミュートしますか?

※ミュートすると該当ユーザの「小説・投稿漫画・感想・コメント」が非表示になります。ミュートしたことは相手にはわかりません。またいつでもミュート解除できます。
※一部ミュート対象外の箇所がございます。ミュートの対象範囲についての詳細はヘルプにてご確認ください。
※ミュートしてもお気に入りやしおりは解除されません。既にお気に入りやしおりを使用している場合はすべて解除してからミュートを行うようにしてください。