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1巻
1-3
しおりを挟む「アイジャさーん。いますかー? 開けますよー?」
何にせよ、会ってみなければどうしようもない。そう恭一郎が考え、心を決めたあたりでメオの手がアイジャの部屋のドアにかかる。
「あ、やっぱり。また飲んでたんですか?」
がちゃりとドアが開いた瞬間、中から猛烈な匂いが恭一郎の鼻に襲いかかってきた。
「……うっ」
息を吸うだけで酔っ払ってしまいそうな、濃厚な酒の香り。
ドアが開くことで流れ込んだ空気が、ベッドの上で横たわる人物の肌に触れる。
「あー、メオ。そんなに大声でしゃべるな。頭に響く」
足を組み辛そうに頭を押さえたアイジャは、弱々しい声でメオに向かって手のひらで制した。
その表情は、恭一郎には窺い知ることはできない。仰向けに横たわるアイジャの顔の上には、日避けのためか、大きな黒いとんがり帽子が載せられていた。
恭一郎はごくりと唾を呑んだ。アイジャはおそらく女性だろう。声もそうだが、身にまとう黒いローブのシルエットが、女性であることを強烈に物語っていた。
(魔法使いって……。まんまじゃねーか)
恭一郎は、アイジャの格好に呆気にとられてしまった。
まるで、ゲームやアニメの魔法使いがそのまま現れたかような、そんな格好だ。
「で、どうした? 夕飯には、まだ少し早いだろう?」
アイジャは、苦しそうな声でベッドの横に立てかけてある酒瓶に手を伸ばした。部屋のあちこちに酒瓶が散乱し、よく見ると奥には酒樽まで確認できる。
「はい。それが、今日うちの新しい看板メニューが出来たんですよ。アイジャさんにはお世話になってますし、食べていただこうと思いまして」
メオはそんなアイジャに慣れているのか、にこにこと笑いながら、ベッドの横の机にサンドイッチの載った皿をかたんと置いた。
「新作ぅ? おいおい、やめときなメオ。気持ちは分かるけどね、お前さんにゃ無理だ。いっそのこと、ミルク粥専門店にしたほうがマシってもんだよ」
アイジャは、手を振りながらメオの無謀を止めようとする。彼女の意見には、恭一郎も少し賛成だ。
「もう。分かってますよ。でも大丈夫です、今回は私が考えたんじゃありませんから」
メオはほっぺたを膨らませながら、しかし楽しそうな声でアイジャに話しかける。早く、このサンドイッチを食べて欲しくて仕方ないといった様子だ。
「あぁ? お前じゃないって。じゃあ、誰が……」
そこで初めて、アイジャの興味が頭痛以外に向いたようだ。むくりと起き上がると、帽子がベッドの上に落ちた。
「なんだぁ? お前」
アイジャの瞳が、メオの横に立つ恭一郎に向けられる。恭一郎は、目の前に立つアイジャに圧倒された。
切れ長の、突き刺すような視線。肩までの、美しい黒髪。目も口も鼻も、美しいとはこういうことだと言わんばかりに整っている。そして、極めつけの長く尖った耳。
エルフ。恭一郎もよく知る、神秘の種族。
しかし、そんな神秘を吹き飛ばすほどの存在感を放って、それは目の前に鎮座していた。
(で、でけぇッッッ!!)
ベッドで横たわった姿を見た時から思ってはいた。しかし、立ち上がると、想像を遥かに凌ぐ破壊力だ。
つまり何が言いたいかというと、恭一郎の視線はアイジャの胸に釘付けになっていた。
黒いローブ。本来なら、身体のラインなど覆い隠してしまう服装である。しかし、アイジャのそれはローブを柔らかな塊として膨らませていた。
腰にベルトを巻いているせいで、くびれがこれでもかというほどに強調されている。むちむち? ぱつぱつ? 少なくとも恭一郎は、目の前の奇跡を言い表す言葉を持ち合わせていない。
「旅人さんですよ。一昨日行き倒れているところを、私が連れてきたんです。すごいんですよ! そこのサンドイッチ! 旅人さんが考えてくれたんです!」
恭一郎がアイジャの胸元に目を奪われている間、メオは興奮した様子でサンドイッチの皿を指さしていた。
「あぁ? サンドウィッチぃ? ……これかい。美味そうだね」
アイジャの視線が机の上のサンドイッチに移る。興味深げに手にとって、がぶりと大口で囓り付いた。
「むぐむぐ。……ん、いけるね。サンド・ウィッチか。北の国の言葉で、砂の魔女だね。洒落てていいじゃないか。これ、お前さんが考えたのかい?」
アイジャはサンドイッチを口に放り込むと、もぐもぐとあっという間に全部平らげてしまう。顔に似合わず、豪快な食べっぷりだ。
「え、いえ。考えたっていうより、僕の故郷の料理なんですよ。ここの人は、知らないみたいだったんで」
ローブに落ちたパンくずを払うアイジャを見ながら、恭一郎はとりあえず謙遜しておく。メオのように持ち上げられてばかりでは、少し居心地が悪い。恭一郎自身は、平凡な人間なのだ。
それにしても、揺れる。さっとパンくずを払っただけなのに、ゆっさゆっさといった感じだ。柔らかそうだ。恭一郎は素直にそう感じた。
「まぁ、いいんじゃないかい? ここの名物にしちまいな。あんたが来たのも、何かの縁だろ。なにより、メオでも作れる料理って貴重すぎるしね」
アイジャは大口を開けて笑うと、よかったなとメオの肩を叩く。メオは少しふくれっ面になったものの、すぐににこやかな笑顔で頷いていた。
「それより。お前さん、けったいな格好してるねぇ。どこから来たんだい? 北のほうかい?」
アイジャはそんなメオをよしよしと撫でつつ、恭一郎の全身を不思議そうに眺める。その時、アイジャが自分の耳に視線を止めたことに、恭一郎は気が付かなかった。
「えっと、はい。その、恭一郎といいます。なにぶん田舎の山奥だったもんで。世事に疎くて」
恭一郎は、内心びくっとしながらも、あははと適当に誤魔化した。そもそも、恭一郎はこの世界の知識がまるでない。今後も奇妙に思われることはあるだろう。
「……ふーん。まぁ、この街はでかいからね。何にせよ、運が良かったよ。普通なら身ぐるみ剥がされてポイだ。メオに感謝するんだね」
動揺する恭一郎を尻目に、アイジャはメオの耳をさわさわと触る。触られたメオは、くすぐったそうに身をよじらせた。
その様子を眺めながら、恭一郎はアイジャの言葉を胸に刻む。そうなのだ。街の入口で意識を失って何事もなかったことは、奇跡だ。日本でさえ、無事でいられる保証はないだろう。
「もちろんです。メオさんは俺の恩人ですよ。自分に出来ることなら、何だってするつもりです」
恭一郎は、はっきりと宣言する。その言葉を聞いたメオが驚いたように顔を赤くした。
「た、旅人さん! な、何言って!?」
顔を真っ赤にしたメオが、恭一郎とアイジャを交互に見ながら取り乱す。耳も尻尾もぴこぴこと、落ち着きがない。
「あ、すみません。勝手に。……迷惑ですかね?」
メオがあまりに慌てるので、恭一郎は少し入れ込みすぎたかと思った。考えてみれば、恭一郎は金もない。迷惑だと言われれば、出ていくしかないだろう。
「い、いえ。迷惑だなんて! その、お願いします! これから! おかまいなく!」
迷惑じゃないと必死に全身で語りながら、メオは恭一郎に向かって頭を下げた。どことなく変な挨拶になってしまい、それのせいでさらに顔が赤くなる。
「はははっ! なかなかやり手だねメオ! よかったじゃないか! これで跡取り問題も解決、この店も安泰ってもんだ! 」
二人の様子を見ていたアイジャは、心底楽しそうにメオの頭を撫でた。二日酔いはもう治ったのだろうか。祝いだとばかりに新しい酒瓶のコルクを抜いて、直接ごくごくと飲み干していく。
「も、もう! アイジャさん! ち、違うんですよ旅人さん! 私、そんなつもりはけっして!」
アイジャにからかわれ、メオは恭一郎に勢いよく詰め寄った。半泣きになりながら、アイジャの言葉を信じないで欲しいと訴えている。
そんな光景を眺めながら、恭一郎は思わず笑っていた。
◆ ◆
「旅人さんが来てくれて、ほんとよかったです」
メオはにこにこしながら、隠しきれない笑顔を恭一郎に向けた。
「いえ、これくらいは。居候の身ですし。まかせてください」
恭一郎は肩にかかる重みを顔に出さないように、にこりとメオに笑う。
恭一郎が肩に乗せた袋の中には、麦粉がぎっしりと詰まっている。先ほど粉屋で買い求めたものだ。
朝早くから、恭一郎はメオの手伝いをしていた。久しぶりの店の稼働にメオはすっかりご機嫌で、今はサンドイッチの材料を求めて恭一郎と市場に向かっている。
「ポアンは買いましたし、テーズは後で持ってきてもらえますし。後はお野菜とかですかね」
恭一郎は日が昇ってすぐ目が覚めたのだが、その時にはすでに、メオは水汲みや掃除などの粗方の雑務は終えていたようだった。
おはようございますと言いながら差し出されたミルク粥に、恭一郎は頑張らなくてはと気を引き締め直したものだ。
「この粉もそうですけど、ちょっと色々見て回りたいんですよね。僕、ここらへんの食材とか全然分かりませんし」
すでに、出先とねこのしっぽ亭を三往復はしている足に気だるさを感じながら、恭一郎はちらりと目に入る風景に感動しっぱなしだった。
「やっぱり、場所が変わると食べ物も違うんですね。私はここを出たことがあまりないので、気にしたことありませんでした」
メオはうんうんと頷く。昔お父さんに連れてってもらった隣町のお店で食べた焼ンドゥーが美味しかったですと恭一郎に報告するが、恭一郎にはそもそもンドゥーが動物か野菜かすら分からない。
「それにしても、大きな街ですね。気絶してたんで、分かりませんでした」
恭一郎は、目の前に広がる世界に高揚を隠せないでいた。
石と木と土で作られた建物。街行く人々は多種多様で、目に映るもの全てが衝撃だった。
恭一郎が最初に森で遭遇し、ドラゴンだと勘違いした巨大トカゲのような怪物。あれほど恐怖した存在が、手綱を付けて荷台を引かされているかと思えば、全身毛むくじゃらの犬娘が忙しそうに開店の準備をしている。
「道も広いし。正直、ここまで発展してるとは思ってませんでした。人も多いですね」
言ったあとで、上から目線過ぎたかと恭一郎は反省した。しかし、当のメオはむふーと鼻を広げて得意げだ。
「ふふふ、そうでしょう。都には劣るものの、何せ地方の都市では一番との声も高いですからね。このエルダニアは」
まぁ、私はあまり他の街を知らないんですが、とメオは続ける。しかし、その顔は故郷が賞賛された嬉しさで満ち溢れていた。
「私も、行ったことない区画がありますからね。人口とかも、よく分からないです。すごくたくさんって感じですね」
ざっくりとしたメオの説明に恭一郎は笑いそうになるが、そういえば恭一郎も自分の住んでいたところの詳しい人口なんかは、考えたこともなかったと気がつく。
道行く店先の全てが新鮮な体験の恭一郎は、メオと話しながらもきょろきょろと辺りを見回した。
「何屋か分からない店も多いですけど、とりあえず何かは商売してる感じですね」
店先に並べられたものは、食べ物かなと分かるものがあったり、使い道が分からない道具が積み上がっていたりと様々だ。
そういえば、言葉は分かるのに看板が読めないことに恭一郎は気がつく。とはいえ、半分以上の店は看板のシンボルや絵から大体想像はついた。
まさか現実で、剣と盾の看板を掲げている店を見ることができるとはと、恭一郎は一人で感動する。お金があれば、自分でも買えたりするのだろうか。
「私の店の前もそうですけど、ここらへんは市場通りなんですよ。少し外れたら、居住区とかに入っちゃうと思います」
「なるほど。ここらへんは特別賑やかなんですね」
メオの話に納得して、恭一郎は漂ってくる香ばしい匂いに鼻を向ける。この店はどうやら食堂のようだ。メオには悪いが、ねこのしっぽ亭よりも流行っていることは間違いない。
まだ朝なので客はいないが、通りではかなりの数の店員が慌しく開店準備に追われている。昼頃には、もっと賑わいが増すのだろう。
「あ、ここらへんから食べ物市場ですね。いいものがあるといいんですが」
恭一郎の失礼な感想を知る由もなく、メオは目の前の通りを指し示す。
「おお、これはすごい」
指の先には、なるほど、賑やかな市場が広がっていた。奥の方は、肉眼ではよく分からないほど店が立ち並んでいる。人混みも一気に増えたようだ。
少し慣れてきたとはいえ、やはり圧巻の光景だった。
ハチマキを巻いた豚が、豚肉のようなものを売っている店。客の方も、鎧をがっちり着込んだ犬男がいるかと思えば、可愛らしいエルフ耳の少女がお使いに来たりしている。
「それにしても、さっきから何かじろじろ見られてる気がしますね」
先ほどから、恭一郎は道行く人々の視線を感じていた。
よそ者に対する、厳しい目線ではない。何か、奇怪なものを見るような、そんな眼差しだ。
「にゃ? えと。その。ほら、旅人さん変わった服着てるから」
メオに言われて、恭一郎は改めて自分の格好に目をやった。
ジャケットにジーンズ。足元にはスニーカー。日本では至って普通の格好だが、言われてみればメオたちからすると奇妙なことこの上ないだろう。
昨日もそういう視線はあったのだろう。しかしあまりの忙しさと、初めて触れる異世界の住人たちに面食らっていた恭一郎には、それに気づく余裕はなかった。
「なんなら、今日帰ったらお父さんの服をあげますよ。背格好もよく似てますし。ちょっとお腹回りは大きいかもですけど」
急に人の視線が気になり出し、落ち着きのなくなった恭一郎に、メオはそうしましょうと提案した。
「え? いや、しかしそれは……」
ありがたい申し出だが、恭一郎は遠慮してしまう。言ってしまえば、メオのお父さんの形見だ。この世界でも、親の形見は大事なものなはずだ。
「いいんですよ。置いておいても、どうなるものでもありませんし。……いっそのこと、雑巾にでもしようと思ってたくらいですから」
明るい口調でおどけるメオは、裁縫は得意なんですよと笑顔で胸を張った。
「そう、ですか。なら遠慮なく。大事に着ますね」
そうしてくださいと笑うメオは、今度こそ本当に嬉しそうだった。
「あら、メオちゃん久しぶりね! いらっしゃい!」
「へへ、今日は買出しですよ」
メオはにこにことして、とある店先で立ち止まった。
簡易的な屋根が張り出された、なんとも簡素な作りのお店だ。
恭一郎は歩いてきた市場を見やり、いつか行ったアジアンマーケットを思い出していた。
お店は石で出来ているものの、見かけは日本の古き良き八百屋とそう違いない。店先の棚の奥には、でっぷりと肥えた猫のおばさんがどっしりと座っていた。
店には様々な野菜が並べられており、中にはどうやって食べるのか分からないものもある。
「おや。そっちの変わった格好した人は、もしかしてメオちゃんの連れかい?」
棚の中の紫色のごつごつとした塊を見ている恭一郎を見て、おばさんのヒゲがぴこぴこと動いた。
「はい。旅人さんですよ。ちょっと今、一緒にお店の切り盛りをしてもらってるんです」
メオは嬉しそうな顔で、猫耳がついたおばさんに笑いかける。
そういえば、このおばさんのように毛むくじゃらで、猫そのもののような人もいれば、メオと同じく耳と尻尾以外は殆ど人間みたいな人もいる。恭一郎は興味深げに、メオとおばさんを見比べた。
「どうも」
恭一郎は、にこりとして頭を下げる。横目で見たメオの尻尾は、右へ左へ嬉しそうだ。
街を見た感じ、全身動物な人とメオのような人の割合は、半々といったところか。中にはほとんど人間の顔立ちだけど鼻だけ猫っぽくなった人とかもいて、その境界線ははっきりしない。
「まあ! そうなの! いいわねぇ。いや、よかったわ。メオちゃん、心配してたのよ。いいわ。今日はまけちゃう。買っていきなさい」
「わあ。ほんとですか。ちょうど、新しいメニューに使う材料を買いに来たんですよ。たくさん買っていきますね」
メオの言葉に、おばさんがぴーんと耳を立てた。何か誤解されている気がしないでもないが、メオが嬉しそうにしているため恭一郎は何も言えない。
「ふふ、どうです旅人さん。何か使えそうなお野菜あります?」
粉袋を丁寧に地面に下ろしていた恭一郎に、メオがわくわくとした目で聞いてきた。確かに、品揃えは良さそうな店だ。メオと縁もあるようだし、ここで買っていくのがいいだろう。
とは言え、やはり恭一郎にはこの世界の食べ物は分からない。
「そうですね。なにぶん見慣れない食材ばかりで。……ん?」
メオに一つずつ説明してもらうしかないかと、じーっと棚の商品を眺めていると、見慣れた色と形の野菜がふと目に留まる。
「これは……」
赤い色、丸々とした形。恭一郎はそれを手にとってマジマジと見つめた。どこからどう見ても、トマトである。
「あぁ、それはドメドですね。私は苦手なんですけど、好きな方も結構いらっしゃいますよ」
メオが、てへへと笑いながら説明してくれる。
「へぇ。これなんかは、僕の住んでたとこでも採れましたね」
メオにドメドをかざしながら、恭一郎は改めて店の棚を見渡す。
赤に黄色に、そして緑。食材の色で綺麗に区分けされた店先は、恭一郎にとっては見ているだけで少し楽しい。
なるほど。ポアンやテーズの時も思ったことだが、どうやらこの世界の食べ物には、恭一郎が慣れ親しんできたものによく似ているのも多いようだ。
名前がどことなく似ているのは、言葉がなぜか通じることと関係があるのかもしれない。
「言われてみれば、ちらほら似たようなものが……」
ドメドの奥に並べられた、長く太い赤い果実にも見覚えがあった。かなり大きいが、間違いなくトウガラシだ。その横には、色は赤いもののミカンのような果物も見える。
色で棚を分けるのも面白い文化だと思いながら、恭一郎はトウガラシのようなものを手にとった。見るからに辛そうだ。サンドイッチに使えるかはともかく、これも何かに使えるだろう。
恭一郎は先ほどのドメドを右手に持っておばさんに見せる。
「あの。これを一つ買うんで、味見していいですか?」
いくら見た目が似ていようと、味は食べてみないと分からない。ドメドを見つめ、味を想像する。味もトマトに似ているのなら、サンドイッチには是非とも欲しいところだ。大量に買うのなら、味見はしておくべきだろう。
それを聞いたメオが、慌てて財布を取り出した。さすがに、お金の管理はメオの仕事だ。
「いいよいいよ、一個くらい。たくさん買ってくれるみたいだし、好きに味見しな」
ご機嫌のおばさんは、手を振りながらメオが出そうとした代金を突っ返す。なんとも豪気な印象で、店を切り盛りするおばさんはどこの世界でも肝っ玉だ。
「ほんとですか。ありがとうございます。……じゃあ、遠慮なく」
人情味あふれるおばさんに感動しながら、恭一郎はドメドを口に運ぶ。こういうものは、がぶりといかなければ美味しさが分からない。
「ちょっ! た、旅人さん!?」
「あらっ!?」
突如として上がったメオとおばさんの声に、何だろうと恭一郎は思う。しかし、すでに大口を開けていたので、そのままドメドにかぶりついた。
じゅぷりとした瑞々しい食感とともに、ほのかな酸味が口の中に広がる。
「うん。美味しいっ……て、あれ。か、からっ。って、い、いた!? 痛い! 何か痛い!?」
フルーティな酸っぱさが口の中から消えて行き、ヒリヒリとした痛みが広がっていく。
「た、旅人さん!? 大丈夫ですか!?」
ごくんと、口の中の唾を呑み込んだ。
「……ぎ、ぎゃあああああああああああああああああああ!!」
恭一郎の叫び声が、慌しい人ごみの中に響き渡る。
「いやあ、まいった。まさか、あんなことになるとは」
恭一郎はねこのしっぽ亭のカウンターに突っ伏しながら、未だひりひりする口元を指でさすった。
「大丈夫ですか? 私の方こそ、すみません。まさか、いきなりかぶりつくとは思わなかったもので」
メオは水の入った器を持ってくると、ことりと恭一郎の横に置く。申し訳なさそうな顔で、とにかく心配しているようだ。
「それにしても、地方によってドメドとトカラシの味が逆なんてあるんですね。私びっくりしちゃいました」
礼を言いながら水を受け取ると、恭一郎はありがたくそれを飲み干す。先ほどの店先での失態を、恭一郎は口の中の冷えゆく熱とともに思い出した。
「まぁ、でも。色々手に入ってよかったです。夕方の営業には、間に合わせましょうか」
何者かの悪意のあるようなシャッフルに納得できないまま、恭一郎はカウンターに並べられた本日の戦利品たちを横目で眺める。さすがに、今日の昼営業は無理だろう。
「ちょっとお昼に開けれないのは残念ですけど、これだけあれば当分は営業できそうですね」
メオも、積み上げられた食材の山を見て満足そうに頷く。
昨日の売上はほとんど使っちゃいましたけどねと、メオはえへへと耳を掻いた。
「そうですね。基本的な材料は買いだめできましたし、日替わりの分は朝の買い出しでなんとかなるでしょう」
恭一郎は、カウンターの上の茶色く丸い玉を一つ掴む。
野球ボールサイズのそれは、日本のものと比べると表面が少しざらついているが、充分綺麗だ。
「コケチョウの卵ですか。美味しいですけど、悪くなりやすいから早く使わないとですね」
メオは恭一郎の手の卵を、興味深げに見つめる。何に使うのか見当もつかないといった表情だ。
「ああ、今日中に使うから大丈夫ですよ。今日の日替わりは、目玉焼きでいきましょう」
メオの好奇心に彩られた顔に、恭一郎は卵を割る仕草を見せた。料理が苦手といっても、目玉焼きくらいならば大丈夫だろう。
「め、目玉……焼き、ですか?」
突然のメオの震え声に、恭一郎は何事かとメオの顔を見やる。先ほどまでのわくわくとした様子は消え失せ、びくびくとした表情だった。
「そ、その。なんの目玉を焼くんでしょうか? 卵の中は、多分まだ黄身だと思うんですが……」
身構えるメオを見て、恭一郎は思わず噴き出しそうになる。こらえきれずに、とうとう笑いが漏れてしまった。
「っぷ、あはは。……いや、失礼。そうか、目玉焼きって言わないんですね。いえ、別に何かの目玉を焼くわけじゃないんですよ」
恭一郎はおもむろに立ち上がると、火にかけられた鍋をよいしょと脇によけ、フライパンを火にかけた。
「要は卵を焼くだけですよ。たぶん、ここにもあるんじゃないかなあ」
恭一郎は、手をかざしてフライパンの熱を確認すると、右手に持ったコケチョウの卵を台の隅に軽くぶつける。
こつん。
「……ん? 硬いな」
ごっ、ごつん。……ごつんッ!!
「……あのぅ、何してるんですか?」
繰り返し卵をぶつけては表面を確認する恭一郎に、メオが不思議そうな視線を向けた。
「え、いえ。ちょっと。あれ、おかしいな。なんか硬いですね、この卵」
恭一郎は先ほどから結構な力で叩きつけているのだが、いっこうにヒビが入る気配がない。表面が少し白くなっただけである。
焦る恭一郎に、メオはトンカチを差し出した。
「卵を割るなら、これを使わないと。無茶ですよ、素手は」
「……マジですか?」
きょとんとした顔のメオに、恭一郎はただ笑うしかなかった。
「はぁ。はぁ。……なんで、目玉焼きがないか分かりました。無理です。この卵では」
恭一郎は右腕の気だるさを感じながら、疲れきった様子で天井を見上げた。
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