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四章・私にしかできないこと
五十三話「玄雅にとって知世ちゃんは」
しおりを挟む今日も先生は相変わらず。作業してて私のことなんて全然気にしてくれない……先生との距離がどんどん遠くなってる気がする。
全部私のせいだから文句を言える立場じゃないけど、やるせない気持ちがぐるぐる。
「やっほー知世ちゃん」
「……こんにちは」
まだ約束の一時じゃないのに、東さんは人の家の前にあぐらをかいて座り込んでる。
「暑くなかったですか?」
「暑かった。知世ちゃん早く帰って来ないかなーって待ちわびてた」
「それなら連絡くださいよ」
「どうせ玄雅のとこ行ってたんでしょ? 知世ちゃんってば真面目だよね」
相変わらず東さんは苦手。嫌いとは思わなくなったけど、確実に苦手。好きにはなれない。
どうぞ、と部屋に案内するとずかずかと部屋に入り込みテーブルの前にどすんと座り込む。何回も私の部屋に来てるとはいえその態度はどうなのよ。
「麦茶と緑茶どっちがいいですか?」
「緑茶がいいな」
私がお茶を淹れてる間に東さんはテーブルになんかいっぱい広げてる。紙? なんか文字がびっしり書いた紙が綺麗に置いてある。
「お茶置けないじゃないですか、もっとまとめて……えっ」
見たことのあるタイトルと見覚えのある文章が書かれた紙。
「お茶ありがとう」
東さんは固まってる私なんて気にすることなく、お茶を一気に飲み干す。
「那月昴先生」
どくん、嫌な音がする。
どくんどくん、嫌な音は止まるどころかどんどん大きくなる。大きく大きく、私の思考を奪うぐらいに体中に響き渡る。
「今回の大賞は猫の目に映るに決まった。大賞は書籍化されるってわかってるよね」
予感はあった。
東さんが先生って呼んだ時にもしかして、とは思った。
「正式な発表はまだだけど、知世ちゃんには先に伝えようと思って」
「で、でも……私は」
「そう言うと思ってたから、俺は知世ちゃんを説得するためにここに来た」
嫌な音はまだ聞こえてきてる。
嬉しい? そんな感情は一切ない。応募した時は中間に残れたらいいな、そんなことを思ったけど中間発表のことすらすっかり忘れてた。
応募したあとに先生はすぐ倒れて、私は生きるのに必死で、今は先生の小説が一番大事で。
今の私に自分の小説なんて必要ない。
「玄雅のこともあって時間的にも忙しくて、精神的にも余裕がないとは思う。それでも俺は」
「嫌です」
東さんの話を聞く気はない。何を言われても、どう思われても、どれだけ迷惑をかけたとしても、私は自分の小説を書く気はない。
「応募したのに大変申し訳ないとは思ってます。けど、辞退させてください」
高校生の時の夢だった小説家。その職業になれるチャンスかもしれないのに、実家を飛び出してまでなりたかったのに、なんで今なの? なんで、なんでこのタイミングでこんなことになるの?
「私は今先生の小説を第一優先したいんです。先生はリハビリをものすごく頑張ってて、少しならひらがなも読めるようになってて……」
「わかってる。今玄雅は頑張ってて、知世ちゃんはそれを一番大事にしたいってことはわかってる。それでも、俺はこの話にも向き合ってほしい」
東さんもこんな顔をするのか。真面目で真剣で、真っ直ぐな目で私を見つめる。
いつものチャラついた東さんはどこにもいない。私の前にいるのは、間違えなく編集者の東さん。
「玄雅がなんであんなに知世ちゃんに小説を書いてほしかったかわかる?」
「……わかりません」
「玄雅はね、恩返しをさせてほしいって言ってたんだ」
恩返し?
恩があるのは私の方で、今となっては罪もあって。一生かけたって私は先生に恩を返せる気も罪が許される気もしない。
「せんたくの話は聞いたでしょ? 茜さんがーみたいな話」
「聞きましたけど、」
「その話を聞いた時の知世ちゃんの言葉。あれね、知世ちゃんが思ってるのの数倍は玄雅に響いて、そして救ってあげた言葉なんだよ」
「でも……私は好きって伝えただけなんです」
「そう。それだけ。その一言で玄雅は救われた」
東さんは私が書いた文字を指さす。
「知世ちゃんの文字、なーんか見たことあるなって思ってたんだ。最近思い出したけど、玄雅にファンレター書いたことあるでしょ?」
「あ、りますけど……何年も前に一度だけですよ」
「やっぱり。玄雅が大事に取ってあって定期的に見てたから印象に残ってた」
「せん、せいが? 私の手紙を……大事に?」
「うん。俺にも何回も見せてきてた。俺が気づくんだから玄雅はもっと前から気づいてたと思うよ」
せんたくを読んだあとに勢いで書いた感想を大事に取ってある恥ずかしさと、先生が昔の私の手紙を持っていてくれてる嬉しさと、なんて表現すればいいかわからない。
「当時の玄雅はあの手紙に救われたってよく言ってた。その救ってくれた人に出会えて、その人が相変わらず好きでいてくれて。それって奇跡だと思うよ。玄雅にとって知世ちゃんは奇跡そのもの……俺の勝手な憶測だけどね」
奇跡そのもの。私が? ただの一般人の私が先生にとって奇跡?
馬鹿らしいと鼻で笑って吹き飛ばしたい。けど、そうであったらなって願う私もいる。
「そんな奇跡が諦めてた夢を自分の影響でまた追いかけ始めて。玄雅は俺と会う度に豊見親より知世ちゃんの話をするもんだから、何回ぶん殴ったか」
「……でも、なんて言われても」
東さんのよく回る口に惑わされるな。
今の私には優先順位がある。たくさんのものを一気に抱えられるほど私は器用じゃない。
一つのものを落とさずに抱えるのが精一杯なの。欲張ったら全部だめになる。
「今日じゃなくていい。ゆっくり考えてから答えは出してよ。まだ発表まで時間はあるからさ」
考えるまでもない。
今この場でこの話は終わり。もうこれ以上東さんと話すことなんてない。
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