ハリネズミたちの距離

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二章・私は那月昴

三十話「お願いします」

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「む、り!」

 無理ですもう無理書けない一文字も思いつかない。
 先生の部屋のお馴染みのローテーブル。ごんっと音をたてながら突っ伏しても、状況は変わらない。
 お昼ご飯はもう食べ終わった。食器洗いもしたし……部屋もぴかぴか。進まないとすぐに掃除を始めるから、ここ最近の先生の部屋はホコリひとつ落ちてない綺麗さ。だと思う。

「先生、お茶しませんか?」
「いいね、ちょうどキリが良くて休憩しようと思ってたんだ」

 テーブルに置いてある紙と先生からもらったお古のパソコンをどかして、ティーカップとお茶菓子を並べる。
 お菓子を作るのは壊滅的に苦手なので、スーパーで半額になってたケーキ。昨日買ったから食べないとって思ってた、いいタイミング。

「先生の作業は順調ですか?」
「今週中には東にデータを渡せそう」
「それは順調……ですね」

 ケーキにフォークを雑に刺して、ぱくっと口に入れる。
 小説を書くのは二年ぶり。長らく書いてなかったのに、久々に書いてるのは長編。目標は十万文字なんだけど……どう頑張っても、八万文字が限界。
 もう物語は終盤。無理矢理伸ばす技術なんてないし絶対に面白くなくなる。頑張りたかったけど、これ以上は絶対無理。

「先生、十万文字で書けって言ってたじゃないですか?」

 恐る恐る、十万文字と提案してくれた先生に聞いてみる。

「もう少しで終わりそうなんですけど、どう足掻いても八万文字強で終わっちゃいそうで……」
「そっか。それなら、一回それで書き切っちゃおう。書き終わったらそれ読ませてね」

 だめとか言われるかと思ったら、先生はすんなり受け入れてくれた。
 良かった……と思いつつ、先生が提示してくれた唯一の条件すら守れない自分が嫌で嫌で仕方ない。
 憧れの四季さいが私のなんかのために考えてくれた上に、書き終わった作品を読んでくれると言うんだから、ありがたい気持ちと恥ずかしい気持ちと申し訳ない気持ちと。いろんな感情がぐちゃぐちゃとして、結果的にプレッシャーになってる。
 これはいいプレッシャーなんだろうけど……なんだか謎の焦りが生まれてしまう。

「いつまでに書き終わりそう?」
「推敲もしたいので……一週間以内でお渡しできると思います」
「わかった。美本の小説読めるの楽しみにしてるね」

 あぁ、可愛らしい笑顔を私に向けないでください。
 その笑顔を見る度に心臓がどくんと飛び跳ねて、ぎゅっと力いっぱい握りしめられたみたいになって、遠分の間は何も出来なくなるんです。
 でも、やっぱり好きな人の笑顔は嬉しいもの。だけど、しんどいものはしんどい。嬉しい悲鳴が私の中を行ったり来たり。

「筆の速さだけは自信が……あったんです」

 とは言っても、先生ほど速くはない。あの人は化け物か?  って思うぐらい筆が速い。私は自分の書く文章にも話の内容にも自信はないけど、筆の速さだけは他の人に負けないって思ってたのに……先生には一つだって勝てない。
 休みの日に本文は仕上げた。推敲に最低でも一週間はかけたいところだけど……早く先生に渡したい気持ちが大きくて、三日目で我慢できずに推敲を初めてしまった。
 八万文字という文字数はそんなに長くないはずなのに、読むのは案外時間がかかったし、辻褄が合わないところが何ヶ所か見つかった。誤字なんて数え切れないぐらいあった。
 なんでこんなことに気づけないんだろう……過去の自分をぶん殴りたい気持ちを抑えつつ推敲は何とか終わった。

「先生、お願いします」

 朝ごはんを食べてる時、今言わないと。あとでって思い始めたらあとでの連鎖になっていつまで経っても渡せない。
 パソコンで書いたものを印刷して先生に渡す。結構な分厚さになっちゃったけど……紙の方がいろいろ書き込みやすいかな、なんて考えた私なりの気遣いのつもり。
 先生に何かを書き込んでもらう前提の自分におこがましいとは思ってる。思ってはいるんだけど、書き込んでほしい願望が勝った。

「ちゃんと一週間で渡してくれたね」
「文字数の規定を守れなかったので、自分で言ったことぐらいは守らないとと思いまして……」
「うん。締切を守るのはとてつもなく大事なことだから、ちゃんできて偉いね」

 年下なのに……年下の先生に褒められて、引けるぐらいに喜んでる。心の中の小さい自分が全身を使って全力で踊りまくってる。
 何この可愛い生物は。何なのまじで!  と半ば八つ当たりのような言葉が次々と湧き出てくる。

「猫の目に映る……ね、うん、すごい惹かれるタイトル」
「あ、りがとうございます……」
「もじもじしちゃってどうしたの?」
「今ここで読むんですか?」
「読もうかなって思ってるけど」

 私の目の前で、憧れの四季さいが私の小説を読むだと……?  嬉しいことではあるはずだけど、そんな気持ちより恥ずかしい方が大きい。目の前で小説を読まれるとか絶対無理。

「お願いですから、私がいないところで読んでください……恥ずかしくて死ねます」
「本当だ、面白いぐらい真っ赤だね」

 先生が耳まで真っ赤っかだ、なんて茶化してくる。

「やめてくださいよ……!」
「だって、美本が可愛い反応するからついついいじめたくなっちゃう」

 生意気な年下め。年上で遊ぶんじゃない。
 それでも、好きな人に可愛いって言われたのが嬉しい。可愛いって言ったって、可愛いとは少し違う気がするけど、やっぱり可愛いって言われるのは嬉しいもので。
 可愛いが飽和してきて何を思ってるのかわからなくなってきた。

「あとでちゃんと読むね」
「……お願い、します」

 慶壱に褒められた作品を先生に読んでもらう。
 先生のおかげで小説を書き始めたし、慶壱のおかげで夢を追いかけられたし、諦めた。
 筆を折ったはずだったのに、先生のおかげでまた書こうって思えたし、慶壱のおかげでこの作品を書き直そうって思えた。
 そんな二人への感謝を込めながら書いた作品です。そんなことを思ってるとは恥ずかしくて言えないけど、たくさんの感謝を込めた小説にはなってると思います。
 いつか、先生にも慶壱にも正直な感謝を伝えたい。
 それが私の夢。必死になって追いかけたいと思わせてくれる、今の夢。
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