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第3章
030 > 辰樹
しおりを挟む突然のヒートを起こした辰樹は直次郎との事後の翌日、日中は部屋から出てこなかった。
彼がヒートの間、辰樹のいる居宅への出入りが許されるのは唯一お豊だけだ。
『ヒートが終わるまで辰樹は部屋から出てこない』ということになっているため、お豊は2日に一度、食事の作り置きだけを作りに来る。お豊だけが出入りする玄関口もあり監視も十分にできるため、今の所の何の問題もなかった。
夜7時になる頃、岩清水がセットしたアラームの音で目覚めた辰樹はノロノロと起き上がると服を脱ぎ始め、ゆっくりと伸びをした。それから、バリバリと首を掻く。
机の上にあるペン型のボイスレコーダーが再生される。
『……明後日の「託宣」は中止になりました。その代わり……明日、仕事があります。夜の10時に迎えに来ます』
用件だけが録音されたレコーダーの再生が終わると、辰樹は壁にかかっている時計を見上げた。あと3時間はある。
胃袋に何も入っていないのがわかるほど空腹を感じ、嗅覚を研ぎ澄ませて外の気配を探る。人がいないのを確認すると、部屋を出て1階の台所にゆっくり、慎重に階段を降りていく。
いつもの冷蔵庫を苦労しながら開けると、その時の辰樹の大好物が入っていた。
そのタッパーもこれまた苦労しながら開けると、冷えたままのそれにかぶりつき、全て平らげた。
1キロサイズのタッパーに詰められていた全てを食べてしまい、底まで舐めると多少は腹の足しになったものの、まだ空腹は癒えなかった。
だが、多少でも腹が満たされたせいか、またしても眠気が襲ってきたため、あと3時間もしないうちに迎えに来る岩清水をそこで待つことにして、辰樹はそのまま台所の冷たい床にうつ伏せて寝てしまった。
────
満月の夜だというのに生憎の雨が降りしきり、月は厚い雲に隠れて見えない。助手席に辰樹を乗せた岩清水は10年来の愛車──ガンメタの改造済みGラインZTR──を運転する。地下高速道路に入り、時折光るライトに照らされたその姿は夜道を這う大蛇に似ていた。
運転する岩清水は辰樹を迎えに行く前の康樹の言葉を思い出していた。
『私は後で向かう。学会の後だからな。アレと先に行け』
康樹は本宅前の駐機場で自家用ジェットから降りると岩清水にそう指示し、真っ黒いファルヴェイアの後部座席に乗り込んだ。
康樹の口から賢しい単語が出る度に不穏な出来事が起こるため、岩清水の眉間には小皺が増えた。まだ20代──残すところあと2年──だというのになぜ自分がここまでしなければならないのかと釈然としない。
〝考えても仕方ない事だ……〟
康樹の門下に下ったからには康樹に心身を捧げるつもりでいなければならない。例えそれが本心からのものでなくてもだ。
絶対君主に刃向かうなら待つのは破滅だけ。
辰樹が自我の目覚めと共に少しずつヒートの時の記憶を保持するようになったのは康樹の誤算だったのかもしれない。その事を岩清水はまだ康樹に報告していないが、知られる前に片をつける必要があるだろう。
辰樹が仕事の時、ほぼ毎回康樹もその場に現れる。だが、仕事場への送迎と付き添いは岩清水が行う。これも岩清水だけに任された特別な仕事だ。
いつもの場所に移動するのに滝信会の車は使えない。あくまでも岩清水の私用を装う必要があるからだ。
今日も辰樹は言われた時間には玄関の前で待機していた。
この仕事をするようになって5年になるが、この姿の辰樹を見ると、このままでいいのか、と時折、通常時の辰樹とのギャップに悩まされる。
なぜなら、今、彼は常の姿ではない。
人間の理性と知性を奪い、凶暴性と残忍性だけを残すとこの姿になるだろうという──下半身の局部にのみ履き物を着た、四つん這いの1匹の──巨大な獣だった────
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