夢 幻 花

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夢・幻・花

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夢・幻・花
                   (prologue)
 男は女の一番柔らかいところを舌と唇で翻弄し、女は男の、今は最高に怒張したものを口に含む。密閉された部屋には、吐息と互いに貪り合う隠微な音が混ざり合う。
「そろそろ繋がる?」男が言う。女は無言で頷き、仰向けに寝た男に跨る。
 つきあいはじめて一年になる。いつの頃からか、最初の体位は女が上になる形をとるようになった。女はこの姿勢を一番に好んだ。男も女の嗜好をいつの頃からか把握していた。
 女は男のものに手を添え自分に誘い腰を落とす。女の口から無音に近い微かな音が漏れる。女は男の体の上に屹立し、ゆっくりと上下運動を繰り返す。男自身はなんら動くことなく、揺れる豊満な乳房を下から見つめ、女の動きに身を委ねる。
 女の律動が激しくなるが、男は決して腰を動かさない。女の動きが上下運動からローリングに変わる。次の瞬間、女は低く声をあげる。繋がったまま男の胸に倒れこむ。
「逝った?」男が訊く。女が頷く。「上になるの好きだね」男が言う。「自分のペースで絶頂までもっていけるでしょ。それに男を――あなたを征服した気分になる」女が呟く。「じゃあ、次は俺が奥さんを征服する。後ろからと前からどっちがいい?」「そうね、今日が最後だから正常位にする」

 男の動きが激しくなる。女は悶えながら首を左右に激しく揺さぶり、「あたし―――も、もう逝く! きて! 」吐息と共に切れ切れの声をはきだす。「お、俺も―――もうだめだ! 奥さんいっしょに―――」男の尻が高速で上下する。女の膣がぴくぴくと顫動し始めるのを、最高に怒張した男の分身は感知する。ウッ!と声をあげ、男は女の芯から引き抜く。充血した女の膣は、男が放出した魂を貪ろうと、ひくひくと痙攣を繰り返すが、既にそこに目当てのものはない。一瞬前までは男のものだったそれは、女の口中に放出されている。

「本当に今日が最後なの?」男が言う。「だから、どちらか一方が都合が悪くなれば、すっぱりと別れる。最初からそういう約束でしょ」女が言う。「今日限りとなると、なんか情がわくというか、未練というか」「あなたは私を楽しませてくれた、セックスだけじゃなく―――今までありがとう」「うーん。奥さんと俺って身体の相性もぴったりだったしな。なんだか子供が大切な宝物なくしたような―――そんな感じ」「あなた他にも女いるんでしょ」「そりゃまあ。で、奥さん今後どうすんのよ?」「そうねえ」女は遠くを見るような目で言う。「優しいお母さんしようかな」男は考える風をする「……… ん? それって、あの、まさか………。俺の………」「さあ、どうかしらね」女が嗤う。


 
 いちめんに白い花が咲き乱れている。花の名は知らない。
 突然に花の色は真っ赤に変わる。血の様な赤。
 やがて、赤から黒へ変色する。
 そして漆黒の闇が辺りを包む。
 意味の解らぬ恐怖が俺を侵食する。
 もがく。闇の中で俺はもがく。
 闇の中に白いドレスの女が滲みだす。
 女は俺の眼を見て嗤う。悪意に満ちた嗤い。顔は朧にぼやけているが、嗤っていることだけは、判りすぎるほど判る。
 女の全身から、悪意の塊が俺に向かって放たれる。
 憎悪、苦悩、恐怖、軽蔑、憐憫、嫌悪、嘲笑、――女のあらゆる感情が一緒くたになって、悪意に相乗りしている。
 それらは俺に絡みつく。
 女の白いドレスの左胸の辺りが赤く染まり、その赤が急激に全身に拡がっていく。
 次に、ドレスは赤黒く変色し、やがて全ての色を呑み込む真の黒へと変貌する。
 そして、女は闇に融ける。
 
 目が覚めた。喉が渇いている。俺は思わず唾を呑み込む。
 また夢を見た。何時も同じ夢。
 女が闇と同化し、俺はやっと恐怖から解き放たれ、そして目覚める。いつも同じだ。
 喉がカラカラ。汗を掻いている。首が痛い。
 いつの頃からだろうか、同じ夢を見る様になったのは。
 もう随分前からの様な気がする。
 最初は白い花畑が赤く変色したシーンで目が覚めていた。そんな夢が続いた。
 そして次に、花が赤から黒に変わり、辺りを漆黒の闇が支配する場面で、忍び寄るような恐怖に、目が覚める。その夢も長く続いた。
 夢の中に女が現れる様になったのは、ここ数か月の事だ。
 もう数十回は見ている。
 一週間以上見ないこともあった。しかし、ごく最近は、ほぼ毎日のように女は夢の中に立った。
 
 俺はベッドから起き上がり、傍らに置いてあるスマホを取り上げ、時間を確かめた。
 4時20分。液晶画面の頼りない光が揺らぐ。
 眠たい。もう少し眠っていたかった。しかし、二度寝をすると起きる自信が無い。優しく起こしてくれる人も今は無い。妻とは三年前に別れていた。
 インスタントコーヒーを、うんと濃くしてブラックで胃に流し込んだ。
 濃霧の中で道に迷ったような、ぼんやりとした頭が徐々に覚醒していく。
 俺はオーブントースターに食パンを放り込みながら、先程の嫌な夢も、一緒にオーブンの中で燃えてくれればスッキリするのにと思った。
 夢を思い起こしていた。夢って連続ものなのか? テレビドラマみたいに。そんな訳はない。
 しかし、最初の夢から、段々エスカレートしている。いや、夢の内容が具体性を持ち始めたと言うべきか。
 夢なのだが、あの女の悪意は正直怖い。俺を心から憎悪しているのが感じられる。
 まて、まて……。馬鹿な! 夢は夢だろう。単なる夢だ。俺は少し疲れているのかもしれない。夢に脅かされているなんて人に言えるか。馬鹿にされる。軽蔑の対象。特に俺の会社では。特に俺の、会社での立場では。
 俺はこれまで強気でやってきたのだ。強気が功を奏した。同期では出世頭。離婚と言う負の要因はあったものの、一番に営業課長の席に辿り着いたのは、この俺だった。 レースは続く。これからも負けるわけにはいかない。
 俺は掌で両頬をパンと叩く。戦闘態勢に入る。



 部下との打ち合わせのため、会議室に入った。
 テーブル中央の、一輪挿しの白い花が、毒矢の様に俺の眼を射た。
 何故か言い知れぬ不安が、俺の心を占領する。不安の原因が、形を整えぬまま、薄霧の様に拡がる。
「課長。その花、どうかしましたか?」部下は俺の視線の先を捉え、怪訝そうに聞く。
「この花は……?」かろうじて我を取り戻し、部下の顔に目をやる。
「以前からAさんが……」部下はベテラン女子事務員の名を口にした。
 花が趣味で、自宅マンションの小さなベランダで育て、週替わりで持参し活けている。
「課長のデスクにも、以前から活けてくれているじゃないですか」
「……?」
 おかしい。嘘だ? 部下は嘘をついている。何故かそう思った。
 それは、心の深い部分で、確信じみた錘となって俺を支配しようとしていた。
 隙間風に抗う、蝋燭の焔の様に、心がユラリと揺れた。
 気を取り直し、スーツの内ポケットから煙草を取り出し、火を点ける。
 大きく吸って煙を吐く。
 煙はわだかまり、長い滞空時間の後、中空に消えてゆく。
「課長って、以前から煙草喫っていましたっけ? 酒も煙草もやらなかったのじゃあ」部下が煙を見て咎める様に言う。
 やはり何かがおかしい。俺は訳の解らぬ不安感から、声を荒らげる。
「うるさい! 君に俺の何が判ると言うのだ!」思わず部下をねめつけた。
「その強気の喋り方。……そんな喋り方していましたっけ……。本来あなたは気の弱い小心者ではなかったですか? 強がりはもうよしましょうよ。……大体判りかけているのでしょう?」部下は俺を見て、片頬を吊り上げて嗤う。
 何なのだ! 不安が押し寄せる。得体のしれない恐怖が心を蝕む。
 何かが間違っている。何かが狂いはじめている!
 また、心がユラリと揺れた。

 自分の席に戻ると、ベテラン女子事務員が、デスクの上の一輪挿しの花を差し換えていた。
 赤だ! 赤い花! 衝撃が走る!!
  またもや、不安と恐怖が、これでもかという風に俺を叩きのめそうとする!
 狂っている。何かが狂い始めている。
「もう止めろ! お前、何の権利があって、俺を苦しめる」俺は女の手から、赤い花をむしり取る。
「明日は黒い花」女が嗤う。朽ち往く花の様に奇妙に歪んだ唇で。俺にはそう見えた。
「止めろ! 止めてくれ! 俺の生活を奪い取らないでくれ」俺は女に殴りかかる。
 後ろから羽交い絞め。部長の声。「落ち着き給え。君はもう判っている筈だ」
 先程の若い部下が駆けつける。
「あなたは卑怯者だ。まだ、逃げるつもりですか。もういいじゃないですか」妙に落ち着いた声で言う。
「嫌だ! 俺の生活を壊さないでくれ。……俺の……私の安寧を……。俺の……俺の……私の……私の幸せを……イヤダー! お願いしますぅー……」最後は涙声になっていた。涙がこぼれた。
 営業部フロアの全員が、椅子から立ち上がり、私を指さし大声で笑う。哄笑がエコーする。
 目に映る全てのものが、熱を吸った飴細工の様にぐにゃりと曲がる。
 私は堪らず、固く目を閉じる。
 やがて、笑い声は営業部独特の喧騒をも伴って、汐が引く様にフェイドアウトする。

 目を開ける。
 全てが消えている。
 室内に残されたのは部長、部下、女事務員、それに私。
 彼らは三人とも白っぽい服装に代わっている。
 部屋も三人の服装のごとく、白くて小さい部屋に変貌している。
 机が一つ。その前に回転椅子。
 部長はその椅子に掛けている。
 くるりと椅子を回し、私の眼を覗き込む。
 いや。彼は……部長じゃない!彼は……彼は彼は彼は彼は・・・・・・
 そうだ! そうだ! そうだ! 思い出した……彼は、彼は医者だ! そうなのだ! 彼は……彼は私の担当医師だ。
 そして机の両側に立つ男と女。
 彼らは……。彼らは……彼らは。
 そう! 男は臨床心理士。女は看護師。
 そして……そして、この部屋は診察室。
 私はイヤイヤをする子供の様に首を振り、突き刺さるような医師の視線を外し、窓を見る。
 窓に架かった半開きのブラインドに、若葉を伴った木立の影が、狙いを定めた様に、暗い染みを落としていた。

 濃い霧が強い風に吹き散らかされるように、急激に私の記憶は甦る。
 私は永くて遠い暗黒から目覚める。

 妻の左胸を刺した瞬間のあの感触。驚愕の妻の目。恐怖から憎悪へと変わる妻の目。
 全ての記憶が、永い眠りから覚める様に甦る。



「法律では君を裁くことが出来なかった。君は逮捕された時、既に自分の心の中に逃げ込んでいた。自分一人の世界に閉じ籠もってしまった」医師は縁なしの眼鏡の奥で、目を細くして私の顔を見た。
「あなたは狂った妄想の中で、別の人格で暮しているようでした」傍らに立った臨床心理士が医師の言葉を引き取った。
「本来のあなたは、真面目な、気の小さい人でした。妄想の中では、正反対の、強気でやり手の営業課長を演じていました。納得がいく人生を歩んでいるようでした」臨床心理士は言葉を切り、隣の看護師を見た。
「ここ最近、変化がみられる様になりました」看護師が続ける。
「あなたは苦しんでいるようでした。本来の人格が、交代した人格と戦っているように見受けられました。本来の人格も、交代人格も、どちらもあなた自身なのです。心の奥底では、もう十分判っている。そう思いました」
「少し荒療治かも知れないと思ったのだが、薬物療法と並行して暗示療法を試した」医師が言葉を継いだ。
「君の心に賭けた。そして君は目覚めた。目覚めなかった方が、君にとっては幸せだったかもしれない。しかし……」医師は思いたどる様な眼を天井に向け、次の言葉を探すようだった。
「人間には無くなって欲しい事、忘れてしまいたい事、そんなものが沢山ある。でも、無くなってはくれないし、忘れることは出来ない。時には逃避も必要かもしれない。しかし……苦しいかもしれないが……」押し黙ったまま続く言葉は無く、眼鏡の中で細い目が光った。
 

 妻の顔を、遠い記憶から手繰り寄せる。

――こんな僕でも結婚してくれるの? こんな面白くもなんともない僕と――
「私はそんなあなたを好きになったの」

「こんなはずじゃあなかった。あなた退屈なのよ。ホントつまんない男」
――しかし、あの時はこんな私が好きになったと――
「親が残した少しの遺産。それがあなたのたったひとつの取柄」

――あ、あの、あの男は一体誰なんだ! ――
「あんたよりは私を十倍楽しませてくれる。それにあっちの方はあんたの百倍――」
 

 涙が溢れた。
 三人に何か言葉を返そうとした。
 しかし、思いつく言葉はみな、意味を成す前に喉元で砕け散り、言葉の代わりに涙が頬を伝った。


(epilogue)
「これから徐々に記憶が蘇るんでしょうね、先生」
「そうだなー。彼が一番思い出したくないのは、殺害した時、奥さんのお腹の中に子供がいたことだろうね」
「奥さんが浮気をしていたのが、殺害動機でしょ?」
「奥さんが浮気をしていたのは警察の調べで確認されている。浮気相手の若い男は参考人聴取で、ただの遊びだったと」
「お腹の子の父親は?」
「彼ら夫婦の子に間違いない。DNA鑑定ではっきりしている。それを考えると哀れというか」
「むなしいですね」
「妄想の中で生きている方が、彼にとっては幸せだったかもしれない」
「そうですね。なんかやりきれないというか」
「しかし我々は医療者だ。………」
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