1 / 1
夢・幻・花
しおりを挟む
夢・幻・花
(prologue)
男は女の一番柔らかいところを舌と唇で翻弄し、女は男の、今は最高に怒張したものを口に含む。密閉された部屋には、吐息と互いに貪り合う隠微な音が混ざり合う。
「そろそろ繋がる?」男が言う。女は無言で頷き、仰向けに寝た男に跨る。
つきあいはじめて一年になる。いつの頃からか、最初の体位は女が上になる形をとるようになった。女はこの姿勢を一番に好んだ。男も女の嗜好をいつの頃からか把握していた。
女は男のものに手を添え自分に誘い腰を落とす。女の口から無音に近い微かな音が漏れる。女は男の体の上に屹立し、ゆっくりと上下運動を繰り返す。男自身はなんら動くことなく、揺れる豊満な乳房を下から見つめ、女の動きに身を委ねる。
女の律動が激しくなるが、男は決して腰を動かさない。女の動きが上下運動からローリングに変わる。次の瞬間、女は低く声をあげる。繋がったまま男の胸に倒れこむ。
「逝った?」男が訊く。女が頷く。「上になるの好きだね」男が言う。「自分のペースで絶頂までもっていけるでしょ。それに男を――あなたを征服した気分になる」女が呟く。「じゃあ、次は俺が奥さんを征服する。後ろからと前からどっちがいい?」「そうね、今日が最後だから正常位にする」
男の動きが激しくなる。女は悶えながら首を左右に激しく揺さぶり、「あたし―――も、もう逝く! きて! 」吐息と共に切れ切れの声をはきだす。「お、俺も―――もうだめだ! 奥さんいっしょに―――」男の尻が高速で上下する。女の膣がぴくぴくと顫動し始めるのを、最高に怒張した男の分身は感知する。ウッ!と声をあげ、男は女の芯から引き抜く。充血した女の膣は、男が放出した魂を貪ろうと、ひくひくと痙攣を繰り返すが、既にそこに目当てのものはない。一瞬前までは男のものだったそれは、女の口中に放出されている。
「本当に今日が最後なの?」男が言う。「だから、どちらか一方が都合が悪くなれば、すっぱりと別れる。最初からそういう約束でしょ」女が言う。「今日限りとなると、なんか情がわくというか、未練というか」「あなたは私を楽しませてくれた、セックスだけじゃなく―――今までありがとう」「うーん。奥さんと俺って身体の相性もぴったりだったしな。なんだか子供が大切な宝物なくしたような―――そんな感じ」「あなた他にも女いるんでしょ」「そりゃまあ。で、奥さん今後どうすんのよ?」「そうねえ」女は遠くを見るような目で言う。「優しいお母さんしようかな」男は考える風をする「……… ん? それって、あの、まさか………。俺の………」「さあ、どうかしらね」女が嗤う。
いちめんに白い花が咲き乱れている。花の名は知らない。
突然に花の色は真っ赤に変わる。血の様な赤。
やがて、赤から黒へ変色する。
そして漆黒の闇が辺りを包む。
意味の解らぬ恐怖が俺を侵食する。
もがく。闇の中で俺はもがく。
闇の中に白いドレスの女が滲みだす。
女は俺の眼を見て嗤う。悪意に満ちた嗤い。顔は朧にぼやけているが、嗤っていることだけは、判りすぎるほど判る。
女の全身から、悪意の塊が俺に向かって放たれる。
憎悪、苦悩、恐怖、軽蔑、憐憫、嫌悪、嘲笑、――女のあらゆる感情が一緒くたになって、悪意に相乗りしている。
それらは俺に絡みつく。
女の白いドレスの左胸の辺りが赤く染まり、その赤が急激に全身に拡がっていく。
次に、ドレスは赤黒く変色し、やがて全ての色を呑み込む真の黒へと変貌する。
そして、女は闇に融ける。
目が覚めた。喉が渇いている。俺は思わず唾を呑み込む。
また夢を見た。何時も同じ夢。
女が闇と同化し、俺はやっと恐怖から解き放たれ、そして目覚める。いつも同じだ。
喉がカラカラ。汗を掻いている。首が痛い。
いつの頃からだろうか、同じ夢を見る様になったのは。
もう随分前からの様な気がする。
最初は白い花畑が赤く変色したシーンで目が覚めていた。そんな夢が続いた。
そして次に、花が赤から黒に変わり、辺りを漆黒の闇が支配する場面で、忍び寄るような恐怖に、目が覚める。その夢も長く続いた。
夢の中に女が現れる様になったのは、ここ数か月の事だ。
もう数十回は見ている。
一週間以上見ないこともあった。しかし、ごく最近は、ほぼ毎日のように女は夢の中に立った。
俺はベッドから起き上がり、傍らに置いてあるスマホを取り上げ、時間を確かめた。
4時20分。液晶画面の頼りない光が揺らぐ。
眠たい。もう少し眠っていたかった。しかし、二度寝をすると起きる自信が無い。優しく起こしてくれる人も今は無い。妻とは三年前に別れていた。
インスタントコーヒーを、うんと濃くしてブラックで胃に流し込んだ。
濃霧の中で道に迷ったような、ぼんやりとした頭が徐々に覚醒していく。
俺はオーブントースターに食パンを放り込みながら、先程の嫌な夢も、一緒にオーブンの中で燃えてくれればスッキリするのにと思った。
夢を思い起こしていた。夢って連続ものなのか? テレビドラマみたいに。そんな訳はない。
しかし、最初の夢から、段々エスカレートしている。いや、夢の内容が具体性を持ち始めたと言うべきか。
夢なのだが、あの女の悪意は正直怖い。俺を心から憎悪しているのが感じられる。
まて、まて……。馬鹿な! 夢は夢だろう。単なる夢だ。俺は少し疲れているのかもしれない。夢に脅かされているなんて人に言えるか。馬鹿にされる。軽蔑の対象。特に俺の会社では。特に俺の、会社での立場では。
俺はこれまで強気でやってきたのだ。強気が功を奏した。同期では出世頭。離婚と言う負の要因はあったものの、一番に営業課長の席に辿り着いたのは、この俺だった。 レースは続く。これからも負けるわけにはいかない。
俺は掌で両頬をパンと叩く。戦闘態勢に入る。
部下との打ち合わせのため、会議室に入った。
テーブル中央の、一輪挿しの白い花が、毒矢の様に俺の眼を射た。
何故か言い知れぬ不安が、俺の心を占領する。不安の原因が、形を整えぬまま、薄霧の様に拡がる。
「課長。その花、どうかしましたか?」部下は俺の視線の先を捉え、怪訝そうに聞く。
「この花は……?」かろうじて我を取り戻し、部下の顔に目をやる。
「以前からAさんが……」部下はベテラン女子事務員の名を口にした。
花が趣味で、自宅マンションの小さなベランダで育て、週替わりで持参し活けている。
「課長のデスクにも、以前から活けてくれているじゃないですか」
「……?」
おかしい。嘘だ? 部下は嘘をついている。何故かそう思った。
それは、心の深い部分で、確信じみた錘となって俺を支配しようとしていた。
隙間風に抗う、蝋燭の焔の様に、心がユラリと揺れた。
気を取り直し、スーツの内ポケットから煙草を取り出し、火を点ける。
大きく吸って煙を吐く。
煙はわだかまり、長い滞空時間の後、中空に消えてゆく。
「課長って、以前から煙草喫っていましたっけ? 酒も煙草もやらなかったのじゃあ」部下が煙を見て咎める様に言う。
やはり何かがおかしい。俺は訳の解らぬ不安感から、声を荒らげる。
「うるさい! 君に俺の何が判ると言うのだ!」思わず部下をねめつけた。
「その強気の喋り方。……そんな喋り方していましたっけ……。本来あなたは気の弱い小心者ではなかったですか? 強がりはもうよしましょうよ。……大体判りかけているのでしょう?」部下は俺を見て、片頬を吊り上げて嗤う。
何なのだ! 不安が押し寄せる。得体のしれない恐怖が心を蝕む。
何かが間違っている。何かが狂いはじめている!
また、心がユラリと揺れた。
自分の席に戻ると、ベテラン女子事務員が、デスクの上の一輪挿しの花を差し換えていた。
赤だ! 赤い花! 衝撃が走る!!
またもや、不安と恐怖が、これでもかという風に俺を叩きのめそうとする!
狂っている。何かが狂い始めている。
「もう止めろ! お前、何の権利があって、俺を苦しめる」俺は女の手から、赤い花をむしり取る。
「明日は黒い花」女が嗤う。朽ち往く花の様に奇妙に歪んだ唇で。俺にはそう見えた。
「止めろ! 止めてくれ! 俺の生活を奪い取らないでくれ」俺は女に殴りかかる。
後ろから羽交い絞め。部長の声。「落ち着き給え。君はもう判っている筈だ」
先程の若い部下が駆けつける。
「あなたは卑怯者だ。まだ、逃げるつもりですか。もういいじゃないですか」妙に落ち着いた声で言う。
「嫌だ! 俺の生活を壊さないでくれ。……俺の……私の安寧を……。俺の……俺の……私の……私の幸せを……イヤダー! お願いしますぅー……」最後は涙声になっていた。涙がこぼれた。
営業部フロアの全員が、椅子から立ち上がり、私を指さし大声で笑う。哄笑がエコーする。
目に映る全てのものが、熱を吸った飴細工の様にぐにゃりと曲がる。
私は堪らず、固く目を閉じる。
やがて、笑い声は営業部独特の喧騒をも伴って、汐が引く様にフェイドアウトする。
目を開ける。
全てが消えている。
室内に残されたのは部長、部下、女事務員、それに私。
彼らは三人とも白っぽい服装に代わっている。
部屋も三人の服装のごとく、白くて小さい部屋に変貌している。
机が一つ。その前に回転椅子。
部長はその椅子に掛けている。
くるりと椅子を回し、私の眼を覗き込む。
いや。彼は……部長じゃない!彼は……彼は彼は彼は彼は・・・・・・
そうだ! そうだ! そうだ! 思い出した……彼は、彼は医者だ! そうなのだ! 彼は……彼は私の担当医師だ。
そして机の両側に立つ男と女。
彼らは……。彼らは……彼らは。
そう! 男は臨床心理士。女は看護師。
そして……そして、この部屋は診察室。
私はイヤイヤをする子供の様に首を振り、突き刺さるような医師の視線を外し、窓を見る。
窓に架かった半開きのブラインドに、若葉を伴った木立の影が、狙いを定めた様に、暗い染みを落としていた。
濃い霧が強い風に吹き散らかされるように、急激に私の記憶は甦る。
私は永くて遠い暗黒から目覚める。
妻の左胸を刺した瞬間のあの感触。驚愕の妻の目。恐怖から憎悪へと変わる妻の目。
全ての記憶が、永い眠りから覚める様に甦る。
「法律では君を裁くことが出来なかった。君は逮捕された時、既に自分の心の中に逃げ込んでいた。自分一人の世界に閉じ籠もってしまった」医師は縁なしの眼鏡の奥で、目を細くして私の顔を見た。
「あなたは狂った妄想の中で、別の人格で暮しているようでした」傍らに立った臨床心理士が医師の言葉を引き取った。
「本来のあなたは、真面目な、気の小さい人でした。妄想の中では、正反対の、強気でやり手の営業課長を演じていました。納得がいく人生を歩んでいるようでした」臨床心理士は言葉を切り、隣の看護師を見た。
「ここ最近、変化がみられる様になりました」看護師が続ける。
「あなたは苦しんでいるようでした。本来の人格が、交代した人格と戦っているように見受けられました。本来の人格も、交代人格も、どちらもあなた自身なのです。心の奥底では、もう十分判っている。そう思いました」
「少し荒療治かも知れないと思ったのだが、薬物療法と並行して暗示療法を試した」医師が言葉を継いだ。
「君の心に賭けた。そして君は目覚めた。目覚めなかった方が、君にとっては幸せだったかもしれない。しかし……」医師は思いたどる様な眼を天井に向け、次の言葉を探すようだった。
「人間には無くなって欲しい事、忘れてしまいたい事、そんなものが沢山ある。でも、無くなってはくれないし、忘れることは出来ない。時には逃避も必要かもしれない。しかし……苦しいかもしれないが……」押し黙ったまま続く言葉は無く、眼鏡の中で細い目が光った。
妻の顔を、遠い記憶から手繰り寄せる。
――こんな僕でも結婚してくれるの? こんな面白くもなんともない僕と――
「私はそんなあなたを好きになったの」
「こんなはずじゃあなかった。あなた退屈なのよ。ホントつまんない男」
――しかし、あの時はこんな私が好きになったと――
「親が残した少しの遺産。それがあなたのたったひとつの取柄」
――あ、あの、あの男は一体誰なんだ! ――
「あんたよりは私を十倍楽しませてくれる。それにあっちの方はあんたの百倍――」
涙が溢れた。
三人に何か言葉を返そうとした。
しかし、思いつく言葉はみな、意味を成す前に喉元で砕け散り、言葉の代わりに涙が頬を伝った。
(epilogue)
「これから徐々に記憶が蘇るんでしょうね、先生」
「そうだなー。彼が一番思い出したくないのは、殺害した時、奥さんのお腹の中に子供がいたことだろうね」
「奥さんが浮気をしていたのが、殺害動機でしょ?」
「奥さんが浮気をしていたのは警察の調べで確認されている。浮気相手の若い男は参考人聴取で、ただの遊びだったと」
「お腹の子の父親は?」
「彼ら夫婦の子に間違いない。DNA鑑定ではっきりしている。それを考えると哀れというか」
「むなしいですね」
「妄想の中で生きている方が、彼にとっては幸せだったかもしれない」
「そうですね。なんかやりきれないというか」
「しかし我々は医療者だ。………」
(prologue)
男は女の一番柔らかいところを舌と唇で翻弄し、女は男の、今は最高に怒張したものを口に含む。密閉された部屋には、吐息と互いに貪り合う隠微な音が混ざり合う。
「そろそろ繋がる?」男が言う。女は無言で頷き、仰向けに寝た男に跨る。
つきあいはじめて一年になる。いつの頃からか、最初の体位は女が上になる形をとるようになった。女はこの姿勢を一番に好んだ。男も女の嗜好をいつの頃からか把握していた。
女は男のものに手を添え自分に誘い腰を落とす。女の口から無音に近い微かな音が漏れる。女は男の体の上に屹立し、ゆっくりと上下運動を繰り返す。男自身はなんら動くことなく、揺れる豊満な乳房を下から見つめ、女の動きに身を委ねる。
女の律動が激しくなるが、男は決して腰を動かさない。女の動きが上下運動からローリングに変わる。次の瞬間、女は低く声をあげる。繋がったまま男の胸に倒れこむ。
「逝った?」男が訊く。女が頷く。「上になるの好きだね」男が言う。「自分のペースで絶頂までもっていけるでしょ。それに男を――あなたを征服した気分になる」女が呟く。「じゃあ、次は俺が奥さんを征服する。後ろからと前からどっちがいい?」「そうね、今日が最後だから正常位にする」
男の動きが激しくなる。女は悶えながら首を左右に激しく揺さぶり、「あたし―――も、もう逝く! きて! 」吐息と共に切れ切れの声をはきだす。「お、俺も―――もうだめだ! 奥さんいっしょに―――」男の尻が高速で上下する。女の膣がぴくぴくと顫動し始めるのを、最高に怒張した男の分身は感知する。ウッ!と声をあげ、男は女の芯から引き抜く。充血した女の膣は、男が放出した魂を貪ろうと、ひくひくと痙攣を繰り返すが、既にそこに目当てのものはない。一瞬前までは男のものだったそれは、女の口中に放出されている。
「本当に今日が最後なの?」男が言う。「だから、どちらか一方が都合が悪くなれば、すっぱりと別れる。最初からそういう約束でしょ」女が言う。「今日限りとなると、なんか情がわくというか、未練というか」「あなたは私を楽しませてくれた、セックスだけじゃなく―――今までありがとう」「うーん。奥さんと俺って身体の相性もぴったりだったしな。なんだか子供が大切な宝物なくしたような―――そんな感じ」「あなた他にも女いるんでしょ」「そりゃまあ。で、奥さん今後どうすんのよ?」「そうねえ」女は遠くを見るような目で言う。「優しいお母さんしようかな」男は考える風をする「……… ん? それって、あの、まさか………。俺の………」「さあ、どうかしらね」女が嗤う。
いちめんに白い花が咲き乱れている。花の名は知らない。
突然に花の色は真っ赤に変わる。血の様な赤。
やがて、赤から黒へ変色する。
そして漆黒の闇が辺りを包む。
意味の解らぬ恐怖が俺を侵食する。
もがく。闇の中で俺はもがく。
闇の中に白いドレスの女が滲みだす。
女は俺の眼を見て嗤う。悪意に満ちた嗤い。顔は朧にぼやけているが、嗤っていることだけは、判りすぎるほど判る。
女の全身から、悪意の塊が俺に向かって放たれる。
憎悪、苦悩、恐怖、軽蔑、憐憫、嫌悪、嘲笑、――女のあらゆる感情が一緒くたになって、悪意に相乗りしている。
それらは俺に絡みつく。
女の白いドレスの左胸の辺りが赤く染まり、その赤が急激に全身に拡がっていく。
次に、ドレスは赤黒く変色し、やがて全ての色を呑み込む真の黒へと変貌する。
そして、女は闇に融ける。
目が覚めた。喉が渇いている。俺は思わず唾を呑み込む。
また夢を見た。何時も同じ夢。
女が闇と同化し、俺はやっと恐怖から解き放たれ、そして目覚める。いつも同じだ。
喉がカラカラ。汗を掻いている。首が痛い。
いつの頃からだろうか、同じ夢を見る様になったのは。
もう随分前からの様な気がする。
最初は白い花畑が赤く変色したシーンで目が覚めていた。そんな夢が続いた。
そして次に、花が赤から黒に変わり、辺りを漆黒の闇が支配する場面で、忍び寄るような恐怖に、目が覚める。その夢も長く続いた。
夢の中に女が現れる様になったのは、ここ数か月の事だ。
もう数十回は見ている。
一週間以上見ないこともあった。しかし、ごく最近は、ほぼ毎日のように女は夢の中に立った。
俺はベッドから起き上がり、傍らに置いてあるスマホを取り上げ、時間を確かめた。
4時20分。液晶画面の頼りない光が揺らぐ。
眠たい。もう少し眠っていたかった。しかし、二度寝をすると起きる自信が無い。優しく起こしてくれる人も今は無い。妻とは三年前に別れていた。
インスタントコーヒーを、うんと濃くしてブラックで胃に流し込んだ。
濃霧の中で道に迷ったような、ぼんやりとした頭が徐々に覚醒していく。
俺はオーブントースターに食パンを放り込みながら、先程の嫌な夢も、一緒にオーブンの中で燃えてくれればスッキリするのにと思った。
夢を思い起こしていた。夢って連続ものなのか? テレビドラマみたいに。そんな訳はない。
しかし、最初の夢から、段々エスカレートしている。いや、夢の内容が具体性を持ち始めたと言うべきか。
夢なのだが、あの女の悪意は正直怖い。俺を心から憎悪しているのが感じられる。
まて、まて……。馬鹿な! 夢は夢だろう。単なる夢だ。俺は少し疲れているのかもしれない。夢に脅かされているなんて人に言えるか。馬鹿にされる。軽蔑の対象。特に俺の会社では。特に俺の、会社での立場では。
俺はこれまで強気でやってきたのだ。強気が功を奏した。同期では出世頭。離婚と言う負の要因はあったものの、一番に営業課長の席に辿り着いたのは、この俺だった。 レースは続く。これからも負けるわけにはいかない。
俺は掌で両頬をパンと叩く。戦闘態勢に入る。
部下との打ち合わせのため、会議室に入った。
テーブル中央の、一輪挿しの白い花が、毒矢の様に俺の眼を射た。
何故か言い知れぬ不安が、俺の心を占領する。不安の原因が、形を整えぬまま、薄霧の様に拡がる。
「課長。その花、どうかしましたか?」部下は俺の視線の先を捉え、怪訝そうに聞く。
「この花は……?」かろうじて我を取り戻し、部下の顔に目をやる。
「以前からAさんが……」部下はベテラン女子事務員の名を口にした。
花が趣味で、自宅マンションの小さなベランダで育て、週替わりで持参し活けている。
「課長のデスクにも、以前から活けてくれているじゃないですか」
「……?」
おかしい。嘘だ? 部下は嘘をついている。何故かそう思った。
それは、心の深い部分で、確信じみた錘となって俺を支配しようとしていた。
隙間風に抗う、蝋燭の焔の様に、心がユラリと揺れた。
気を取り直し、スーツの内ポケットから煙草を取り出し、火を点ける。
大きく吸って煙を吐く。
煙はわだかまり、長い滞空時間の後、中空に消えてゆく。
「課長って、以前から煙草喫っていましたっけ? 酒も煙草もやらなかったのじゃあ」部下が煙を見て咎める様に言う。
やはり何かがおかしい。俺は訳の解らぬ不安感から、声を荒らげる。
「うるさい! 君に俺の何が判ると言うのだ!」思わず部下をねめつけた。
「その強気の喋り方。……そんな喋り方していましたっけ……。本来あなたは気の弱い小心者ではなかったですか? 強がりはもうよしましょうよ。……大体判りかけているのでしょう?」部下は俺を見て、片頬を吊り上げて嗤う。
何なのだ! 不安が押し寄せる。得体のしれない恐怖が心を蝕む。
何かが間違っている。何かが狂いはじめている!
また、心がユラリと揺れた。
自分の席に戻ると、ベテラン女子事務員が、デスクの上の一輪挿しの花を差し換えていた。
赤だ! 赤い花! 衝撃が走る!!
またもや、不安と恐怖が、これでもかという風に俺を叩きのめそうとする!
狂っている。何かが狂い始めている。
「もう止めろ! お前、何の権利があって、俺を苦しめる」俺は女の手から、赤い花をむしり取る。
「明日は黒い花」女が嗤う。朽ち往く花の様に奇妙に歪んだ唇で。俺にはそう見えた。
「止めろ! 止めてくれ! 俺の生活を奪い取らないでくれ」俺は女に殴りかかる。
後ろから羽交い絞め。部長の声。「落ち着き給え。君はもう判っている筈だ」
先程の若い部下が駆けつける。
「あなたは卑怯者だ。まだ、逃げるつもりですか。もういいじゃないですか」妙に落ち着いた声で言う。
「嫌だ! 俺の生活を壊さないでくれ。……俺の……私の安寧を……。俺の……俺の……私の……私の幸せを……イヤダー! お願いしますぅー……」最後は涙声になっていた。涙がこぼれた。
営業部フロアの全員が、椅子から立ち上がり、私を指さし大声で笑う。哄笑がエコーする。
目に映る全てのものが、熱を吸った飴細工の様にぐにゃりと曲がる。
私は堪らず、固く目を閉じる。
やがて、笑い声は営業部独特の喧騒をも伴って、汐が引く様にフェイドアウトする。
目を開ける。
全てが消えている。
室内に残されたのは部長、部下、女事務員、それに私。
彼らは三人とも白っぽい服装に代わっている。
部屋も三人の服装のごとく、白くて小さい部屋に変貌している。
机が一つ。その前に回転椅子。
部長はその椅子に掛けている。
くるりと椅子を回し、私の眼を覗き込む。
いや。彼は……部長じゃない!彼は……彼は彼は彼は彼は・・・・・・
そうだ! そうだ! そうだ! 思い出した……彼は、彼は医者だ! そうなのだ! 彼は……彼は私の担当医師だ。
そして机の両側に立つ男と女。
彼らは……。彼らは……彼らは。
そう! 男は臨床心理士。女は看護師。
そして……そして、この部屋は診察室。
私はイヤイヤをする子供の様に首を振り、突き刺さるような医師の視線を外し、窓を見る。
窓に架かった半開きのブラインドに、若葉を伴った木立の影が、狙いを定めた様に、暗い染みを落としていた。
濃い霧が強い風に吹き散らかされるように、急激に私の記憶は甦る。
私は永くて遠い暗黒から目覚める。
妻の左胸を刺した瞬間のあの感触。驚愕の妻の目。恐怖から憎悪へと変わる妻の目。
全ての記憶が、永い眠りから覚める様に甦る。
「法律では君を裁くことが出来なかった。君は逮捕された時、既に自分の心の中に逃げ込んでいた。自分一人の世界に閉じ籠もってしまった」医師は縁なしの眼鏡の奥で、目を細くして私の顔を見た。
「あなたは狂った妄想の中で、別の人格で暮しているようでした」傍らに立った臨床心理士が医師の言葉を引き取った。
「本来のあなたは、真面目な、気の小さい人でした。妄想の中では、正反対の、強気でやり手の営業課長を演じていました。納得がいく人生を歩んでいるようでした」臨床心理士は言葉を切り、隣の看護師を見た。
「ここ最近、変化がみられる様になりました」看護師が続ける。
「あなたは苦しんでいるようでした。本来の人格が、交代した人格と戦っているように見受けられました。本来の人格も、交代人格も、どちらもあなた自身なのです。心の奥底では、もう十分判っている。そう思いました」
「少し荒療治かも知れないと思ったのだが、薬物療法と並行して暗示療法を試した」医師が言葉を継いだ。
「君の心に賭けた。そして君は目覚めた。目覚めなかった方が、君にとっては幸せだったかもしれない。しかし……」医師は思いたどる様な眼を天井に向け、次の言葉を探すようだった。
「人間には無くなって欲しい事、忘れてしまいたい事、そんなものが沢山ある。でも、無くなってはくれないし、忘れることは出来ない。時には逃避も必要かもしれない。しかし……苦しいかもしれないが……」押し黙ったまま続く言葉は無く、眼鏡の中で細い目が光った。
妻の顔を、遠い記憶から手繰り寄せる。
――こんな僕でも結婚してくれるの? こんな面白くもなんともない僕と――
「私はそんなあなたを好きになったの」
「こんなはずじゃあなかった。あなた退屈なのよ。ホントつまんない男」
――しかし、あの時はこんな私が好きになったと――
「親が残した少しの遺産。それがあなたのたったひとつの取柄」
――あ、あの、あの男は一体誰なんだ! ――
「あんたよりは私を十倍楽しませてくれる。それにあっちの方はあんたの百倍――」
涙が溢れた。
三人に何か言葉を返そうとした。
しかし、思いつく言葉はみな、意味を成す前に喉元で砕け散り、言葉の代わりに涙が頬を伝った。
(epilogue)
「これから徐々に記憶が蘇るんでしょうね、先生」
「そうだなー。彼が一番思い出したくないのは、殺害した時、奥さんのお腹の中に子供がいたことだろうね」
「奥さんが浮気をしていたのが、殺害動機でしょ?」
「奥さんが浮気をしていたのは警察の調べで確認されている。浮気相手の若い男は参考人聴取で、ただの遊びだったと」
「お腹の子の父親は?」
「彼ら夫婦の子に間違いない。DNA鑑定ではっきりしている。それを考えると哀れというか」
「むなしいですね」
「妄想の中で生きている方が、彼にとっては幸せだったかもしれない」
「そうですね。なんかやりきれないというか」
「しかし我々は医療者だ。………」
0
お気に入りに追加
1
この作品の感想を投稿する
あなたにおすすめの小説
[完結]彼女の居場所
夏伐
ホラー
大人たちが林と呼ぶ、この山に俺たちは秘密基地を作った。
そこで出会った一人の少女。十数年後、再会し出会った彼女はおかしな事を言う。
それは彼女の小さな一つの秘密だった。
怖めの話
りんりん
ホラー
怖い話の短編集です。
実はこれ、自分の書いたやつではないんです。
自分の友達から送られてきた物が、すごい面白かったのでぜひ他の人にも読んで欲しいと思ったので書きます。
感想など寄せて頂けたら嬉しいです。
螺旋の操り人形
角砂糖
ホラー
ある日のこと。蛍(けい)はふと考えた。
「この世界って、本当に、本物なのかな…?」
考えても終わりが見つからない考え事の末、蛍が辿り着いた真実とは...?
少しミステリー要素含みます。
【厳選】意味怖・呟怖
ねこぽて
ホラー
● 意味が分かると怖い話、ゾッとする話、Twitterに投稿した呟怖のまとめです。
※考察大歓迎です✨
※こちらの作品は全て、ねこぽてが創作したものになります。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる