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第7章 ゲト
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なにか悪い事をしてきたような気がする。
テレビに映る政治家を笑い、同じ笑顔を、紙袋を被ったコメディアンに向ける。俺はそういう奴を殺してきた。
ドブの底から生と死があふれ出した時、それを掻き出しもせず真っ先に天を仰ぎ、違う誰かさんに助けを求める。俺はそういう奴を見殺しにしてきた。
弾の代わりにポークビーンズが詰まった、腐れ撃鉄の銃を権力と呼ぶ。俺はそういう奴のために働いてきた。
歯車を打ち砕き、タービンをへし折り、石炭を根こそぎ谷底へ放り込んでやった。今や奴らは、地の底を這いずり回るネズミや虫けらのことすら嗤えない。
俺はとにかく、やたらめったらに松明を振り回した後、一本しかない利き手の人差し指でそいつら全部を指し示し、大笑いしながら言ってやった。
「バカめ」
なにも善い事をしてこなかったような気がする。
ある日、誰かが口走った。「世界を壊す大槌が完成したぞ!」その声はコンスタンティヌスだったか、オッペンハイマーだったか、それとも違う誰かだったか、明らかじゃないが、俺にはウラジーミル・シチェルビツキーの声だったように感じた。ヒトラーでも、フセインでも、ましてやカストロでもなかった。
ある日、酒に酔った運転手がハンドルを切りながら叫んだ。「畜生」と。そのタイヤは、燃える火の玉のように赤く、同じ色の雫を滴らせていた。
ある日、世界一大きな爆弾が町を呑み込んだ。あまりに多くの死が生まれちまったせいで、それは最早、死ですらなくなっていた。
だから俺は言ってやった。
「こんなのはゴミだ」
どこにでも闇はある。
ベッドの下、タンスの裏、マンホールの奥。幾重にも重なった影が織り成す、黒よりも濃い闇。それは、驚くほど人々の身近にある。
もちろん、人の体内にも闇はある。皮膚の裏、筋肉の奥、骨の中には、確実に物理的な闇が存在している。そこには如何なる光も届かない事が、容易に想像出来る。
故に、「世界にはそれ程の数の闇があるのだから、その闇は人の心の中にも存在しているに違いない」と考える者がいた所で、別段奇妙な事ではないだろう。
そして、そう考えた者は自身の心の闇を肯定し、それに基づく独自の道徳を作り上げる。即ち、良心の欠如と、それを正当化する言い訳の構築である。
ここすすきのは、そう言った事を生業にまで昇華させている連中が集まる場所だ。分かりやすく言うならば、犯罪都市、という月並な言葉が似合うだろう。
そして、どこよりも濃い闇に塗れた都市で、彼は壁を見上げながら突っ立っていた。
彼、Wはスラムの路地裏で、何をするでもなく腕を組んで壁の落書きを見つめている。
赤いペンキとスプレーで彩られた壁には、精神異常者が書いたような、意味をなさぬ文言が書き殴られている。或いは、チンピラ達が身内にしか分からない遊びを、この壁で行ったのかもしれない。
しかし、どちらにしろ落書きは落書き。理性と狂気を、そのどちらでもない性格によって理解する彼が注視する程の価値はないだろう。
「MとW。Wにチェックマーク。その後に無意味な文章」
とはいえ、そんな下らない謎解きに思考を巡らせてでも、彼は暇を潰す必要があった。彼は人を呼びつけ、その人物をここで待っているのだ。そして待つ間の暇潰しとして、落書きの前でぶつぶつと解読の手がかりを読み上げているのである。
「アイスボックス、私を閉じ込めて。か」
赤いペンキの最初の文字を読み上げる。単なる暇潰しだったが、それなりには堪能したようだ。
「こんにちは、Wさん」
やがて、路地の奥から一人の少女が現れた。みすぼらしい身なりの彼女は、名をカランと言い、この界隈のストリートチルドレンを束ねている。
「なに、やってるの?」
彼女はWに歩み寄りながら、壁の落書きを見上げる。
「暇潰しだ、気にするな」
落書きを見上げながら腕を組むW。彼の視線は落書きをなぞっているが、彼の意識はもうカランに向けられている。
「そう。それで、今日はどうしたの?」
カランは落書きから視線を外し、少し俯いた。
Wは一瞬だけ、その姿を横目で見やる。
「ゲトの居場所が知りたい」
「ゲトの……どうして?」
「少し話す事があってな」
Wは再び横の少女を見やる。外見上は微動だにしていないが、彼女が誰に対しても隙を見せたりしない事を、Wは知っていた。外見で彼女は量れない。
「それぐらいなら、Kさんに調べてもらえば……」
「あいつは今別の作業で忙しいからな。もしゲトがこの街に来ているなら、その断片的な情報でもお前の所には来るはずだ。『ビリー』は何かと情報が多すぎて面倒でな、なんとか頼む」
ゲトは様々な国に傘下の組織を持っているため、常に忙しなく飛び回っている。しかし、本拠地であるこの街に滞在する期間は、必ずある。
ましてや、彼は今この街で、アークランドグループの支部移転という重要なビジネスに関わっている。彼自身の身柄がここにあっても不思議ではない。
だからこそ、この街で確固たる勢力を築いているカランならば、この街のどこにゲトがいるのか、調べやすいはずなのだ。
問題は、彼女が頼みを聞いてくれるかどうかだが――
「報酬は?」
――どうやら問題なさそうだ。
「一万ドルでどうだ?」
「うん、ОK」
「よし。だが、ゲトは暗殺を恐れている。移動ルートは秘密にしているだろうし、警戒も厳重なはずだ。十分に用心しろ」
「わかってる」
Wは遠ざかっていく足音を聞いた。もう彼女を横目で見るような事はしない。ここを去っていくのが音でわかるのなら、それ以上の情報は必要ないからだ。
「やれやれ」
Wは懐からタバコを取り出して指に挟む。そして火を点けぬまま、落書きから視線を切って、事務所がある方角へ歩き出した。
「大損かな?」
彼は呆れ返りながら、タバコを銜えた。裏路地から出ても、火は点けなかった。
「ただいま」
火の点いてないタバコをつまみながら、Wは事務所を見回した。
そこには、大量に山積みされた資料と思しき紙束と、それらに囲まれて一心不乱にキーボードを叩いているKの姿があった。
Kの瞳には、真剣さと疲労とが半々で含まれており、Wの帰宅には気付いていない様子である。
「おかえり、ぐらい言ったらどうだ? K」
「ああ、おかえり。思ったより早いね」
Kは、一瞬手を止めてWを見上げた。しかし、Wが「続けろ」と言うと、再び本能のように仕事を再開する。
「資料は大分集まったようだが、作業の方はどうだ?」
Kと対面するようにソファに腰掛ける。無論、そこを占領していた資料の山は丁寧にどけておいて、だ。
「あー、あと二日ぐらいかかる。そっちはどう?」
「情報待ち、だな」
タバコを箱に戻す。彼は、暫くの間タバコ代を節約することにしていた。
「しかし、こんな事やってていいのかねぇ」
Kが思わずこぼした。このように、自分の仕事に疑いを抱く事を、Wが好まない事は知っていた。が、連日の作業に次ぐ作業によって蓄積した疲労は、Kの本音という袋の口紐を緩くした。
「怖気づいたか? らしくないな」
しかし、Kがそういった性質を持っていない事も、Wは熟知している。Wは寛容を以って、Kの迂闊な発言を許した。というより、受け流した。
「いや、そうじゃねぇよ。こんな事で、本当に野郎を追い詰められんのかな、てね」
「これ以外に方法は無い。それに、お前が今やっている作業は、奴を追い詰めることを目的としていない」
「わかってるけど……本当に大丈夫なのかよ」
Kはキーボードから手を離し、ソファに背を沈める。
FIRE HAMMERのメッセージが完成してから九日間が経過していた。その間、加速していく世間の混乱とは裏腹に、連続爆破事件はピタリと止んでいた。
尤も、世間はこの事件をテログループによるものとしか認識していない。警察の方でも、一部のお偉方以外はそう思っているだろう。
それが、事件の捜査を更に困難なものにしているのだろう。警察の動きは緩慢で、連携も取れていない。
新たな爆破事件が暫く起こってないとはいえ、それはかえって大衆の不安を煽る結果となり、世界中が漠然とした不安と恐慌に陥っていた。
更に、世界各国の市場に深く食い込んでいたアークランドグループの関連企業株価が、事件によって軒並み低下。屋台骨を失いつつある世界経済への不安も、混乱を加速させる要因となっていた。
だが、人類はこの危機を乗り越えるだろう。大きな犠牲と混乱と恐慌に曝されながらも、ほぼ現状の社会構造を維持したまま、脅威だけを正確に摘出するだろう。人類が数千年もの間営々と積み上げてきた「人類社会の知恵」には、それだけの力が具わっている。
Wはそれを知っている。それでいて尚、FIRE HAMMERを追っている。
アークランドグループからの依頼ということもある。叩きつけられた、敗北という二文字の雪辱ということもある。
だが、確実に、それ以上の衝動によって、彼はこの事件を暴こうとしていた。
「つべこべ言うな。例の資料はどこだ」
Kが次々と漏らす弱音にいい加減辟易したのか、口調には少しだけ刺々しいものがあった。
「ああ、ちゃんと『ビリー』から取り寄せてあるよ。警察記録がこっちで、株価推移がこっち」
しかし、疲労によって感受性の鈍っているKは、けろりとして二つの書類を引っ張り出した。
Wはそれを奪い取ると、素早くめくっていく。眠そうな半開きの瞼の奥で、二つの瞳が鋭く左右上下に動き回っていた。
「いっつも思うけど、株価推移の書類はともかく、記録を情報組織に流して小遣い稼ぎにするようなヤツが、警察にもいるもんなんだねぇ」
「どんな組織にも、はねっ返りや悪玉はいる」
警察記録は、アークランドグループのすすきの支部周辺の地域で起こった、過去の事件の記録。傷害、火事、窃盗、この街でなら何処ででも起こっているような事件の記録が事細かに記されている。
株価推移は、ゲト傘下の各企業の株価変動記録だ。ゲト本人は裏社会の人間だが、彼は金融や貿易関係の企業の幾つかを、裏から支配している。株の大多数を握っていたり、役員や社長を抱き込んだり、部下に起業させたり、様々な手段で表の市場にも食い込んでいる。それらの、表か裏かわからない曖昧な企業の株価も、ちゃんとデータとして開示されるのが株式市場というものだ。
「ふぅん。ま、俺らもそのはねっ返り野郎の一つだけどね」
「どっこいしょ」とソファの背もたれから離れ、再びパソコンに向き合うK。そして、書類に目を通していくWの横で、作業を再開する。
忙しなく、僅かの間も惜しいと言ったふうに書類をめくっていくW。慣れを通り越して、飽きが来ている作業を緩々と自分のペースで進めていくK。
彼は集中によって、彼女は疲労によって、この空間に沈黙を生み出していた。
そして意外にも、この沈黙を破ったのはお喋りなKではなく、寡黙的な性質のあるWの方だった。
「火事」
とはいえ、その糸口は非常に断片的で、意図的に発した言葉というよりも、思わず口を衝いて出てしまったといったものであった。そして、そういった言葉こそが彼の中で非常に重要な意味を持っている事を、Kは知っていた。
「ん? どうした?」
故に、その言葉に彼女が食いつくのは、ある種当然の成り行きであると言えた。
だが、Wは応えず、警察記録の書類の中から二枚を抜き出し、それに視線を注ぐ。
「K」
そして視線を固定したまま、Kを呼ぶ。
「なに?」
「今回の連続爆破事件、最初の事件が起きたのは何日だったっけかな?」
「えーと……六月十七日だったと思うけど」
「およそ二ヶ月前か」
「うん、そうだと思うけど、それがどしたの?」
「でかしたぞ」
Wは二枚の紙を潰すように乱暴に懐に押し込むと、Kの肩を叩いた。
「確信を得た。少し出かけてくる」
返す動きで、彼は素早くコートを取って袖を通していく。Kは眉を顰めながら、作業の手を止めた。
「でかけるって、どこに?」
「清掃会社だ。後で説明するから、作業を続けていろ」
それだけ言うと、彼はさっさと出て行ってしまった。
やはり、Kの抱いた根本的な疑問は、解決される事はなかった。しかし、彼の言葉の文脈から、どうやら自分は役に立ったらしいという事だけは感じ取れたので、それでいいや、と前向きに考える事にした。
テレビに映る政治家を笑い、同じ笑顔を、紙袋を被ったコメディアンに向ける。俺はそういう奴を殺してきた。
ドブの底から生と死があふれ出した時、それを掻き出しもせず真っ先に天を仰ぎ、違う誰かさんに助けを求める。俺はそういう奴を見殺しにしてきた。
弾の代わりにポークビーンズが詰まった、腐れ撃鉄の銃を権力と呼ぶ。俺はそういう奴のために働いてきた。
歯車を打ち砕き、タービンをへし折り、石炭を根こそぎ谷底へ放り込んでやった。今や奴らは、地の底を這いずり回るネズミや虫けらのことすら嗤えない。
俺はとにかく、やたらめったらに松明を振り回した後、一本しかない利き手の人差し指でそいつら全部を指し示し、大笑いしながら言ってやった。
「バカめ」
なにも善い事をしてこなかったような気がする。
ある日、誰かが口走った。「世界を壊す大槌が完成したぞ!」その声はコンスタンティヌスだったか、オッペンハイマーだったか、それとも違う誰かだったか、明らかじゃないが、俺にはウラジーミル・シチェルビツキーの声だったように感じた。ヒトラーでも、フセインでも、ましてやカストロでもなかった。
ある日、酒に酔った運転手がハンドルを切りながら叫んだ。「畜生」と。そのタイヤは、燃える火の玉のように赤く、同じ色の雫を滴らせていた。
ある日、世界一大きな爆弾が町を呑み込んだ。あまりに多くの死が生まれちまったせいで、それは最早、死ですらなくなっていた。
だから俺は言ってやった。
「こんなのはゴミだ」
どこにでも闇はある。
ベッドの下、タンスの裏、マンホールの奥。幾重にも重なった影が織り成す、黒よりも濃い闇。それは、驚くほど人々の身近にある。
もちろん、人の体内にも闇はある。皮膚の裏、筋肉の奥、骨の中には、確実に物理的な闇が存在している。そこには如何なる光も届かない事が、容易に想像出来る。
故に、「世界にはそれ程の数の闇があるのだから、その闇は人の心の中にも存在しているに違いない」と考える者がいた所で、別段奇妙な事ではないだろう。
そして、そう考えた者は自身の心の闇を肯定し、それに基づく独自の道徳を作り上げる。即ち、良心の欠如と、それを正当化する言い訳の構築である。
ここすすきのは、そう言った事を生業にまで昇華させている連中が集まる場所だ。分かりやすく言うならば、犯罪都市、という月並な言葉が似合うだろう。
そして、どこよりも濃い闇に塗れた都市で、彼は壁を見上げながら突っ立っていた。
彼、Wはスラムの路地裏で、何をするでもなく腕を組んで壁の落書きを見つめている。
赤いペンキとスプレーで彩られた壁には、精神異常者が書いたような、意味をなさぬ文言が書き殴られている。或いは、チンピラ達が身内にしか分からない遊びを、この壁で行ったのかもしれない。
しかし、どちらにしろ落書きは落書き。理性と狂気を、そのどちらでもない性格によって理解する彼が注視する程の価値はないだろう。
「MとW。Wにチェックマーク。その後に無意味な文章」
とはいえ、そんな下らない謎解きに思考を巡らせてでも、彼は暇を潰す必要があった。彼は人を呼びつけ、その人物をここで待っているのだ。そして待つ間の暇潰しとして、落書きの前でぶつぶつと解読の手がかりを読み上げているのである。
「アイスボックス、私を閉じ込めて。か」
赤いペンキの最初の文字を読み上げる。単なる暇潰しだったが、それなりには堪能したようだ。
「こんにちは、Wさん」
やがて、路地の奥から一人の少女が現れた。みすぼらしい身なりの彼女は、名をカランと言い、この界隈のストリートチルドレンを束ねている。
「なに、やってるの?」
彼女はWに歩み寄りながら、壁の落書きを見上げる。
「暇潰しだ、気にするな」
落書きを見上げながら腕を組むW。彼の視線は落書きをなぞっているが、彼の意識はもうカランに向けられている。
「そう。それで、今日はどうしたの?」
カランは落書きから視線を外し、少し俯いた。
Wは一瞬だけ、その姿を横目で見やる。
「ゲトの居場所が知りたい」
「ゲトの……どうして?」
「少し話す事があってな」
Wは再び横の少女を見やる。外見上は微動だにしていないが、彼女が誰に対しても隙を見せたりしない事を、Wは知っていた。外見で彼女は量れない。
「それぐらいなら、Kさんに調べてもらえば……」
「あいつは今別の作業で忙しいからな。もしゲトがこの街に来ているなら、その断片的な情報でもお前の所には来るはずだ。『ビリー』は何かと情報が多すぎて面倒でな、なんとか頼む」
ゲトは様々な国に傘下の組織を持っているため、常に忙しなく飛び回っている。しかし、本拠地であるこの街に滞在する期間は、必ずある。
ましてや、彼は今この街で、アークランドグループの支部移転という重要なビジネスに関わっている。彼自身の身柄がここにあっても不思議ではない。
だからこそ、この街で確固たる勢力を築いているカランならば、この街のどこにゲトがいるのか、調べやすいはずなのだ。
問題は、彼女が頼みを聞いてくれるかどうかだが――
「報酬は?」
――どうやら問題なさそうだ。
「一万ドルでどうだ?」
「うん、ОK」
「よし。だが、ゲトは暗殺を恐れている。移動ルートは秘密にしているだろうし、警戒も厳重なはずだ。十分に用心しろ」
「わかってる」
Wは遠ざかっていく足音を聞いた。もう彼女を横目で見るような事はしない。ここを去っていくのが音でわかるのなら、それ以上の情報は必要ないからだ。
「やれやれ」
Wは懐からタバコを取り出して指に挟む。そして火を点けぬまま、落書きから視線を切って、事務所がある方角へ歩き出した。
「大損かな?」
彼は呆れ返りながら、タバコを銜えた。裏路地から出ても、火は点けなかった。
「ただいま」
火の点いてないタバコをつまみながら、Wは事務所を見回した。
そこには、大量に山積みされた資料と思しき紙束と、それらに囲まれて一心不乱にキーボードを叩いているKの姿があった。
Kの瞳には、真剣さと疲労とが半々で含まれており、Wの帰宅には気付いていない様子である。
「おかえり、ぐらい言ったらどうだ? K」
「ああ、おかえり。思ったより早いね」
Kは、一瞬手を止めてWを見上げた。しかし、Wが「続けろ」と言うと、再び本能のように仕事を再開する。
「資料は大分集まったようだが、作業の方はどうだ?」
Kと対面するようにソファに腰掛ける。無論、そこを占領していた資料の山は丁寧にどけておいて、だ。
「あー、あと二日ぐらいかかる。そっちはどう?」
「情報待ち、だな」
タバコを箱に戻す。彼は、暫くの間タバコ代を節約することにしていた。
「しかし、こんな事やってていいのかねぇ」
Kが思わずこぼした。このように、自分の仕事に疑いを抱く事を、Wが好まない事は知っていた。が、連日の作業に次ぐ作業によって蓄積した疲労は、Kの本音という袋の口紐を緩くした。
「怖気づいたか? らしくないな」
しかし、Kがそういった性質を持っていない事も、Wは熟知している。Wは寛容を以って、Kの迂闊な発言を許した。というより、受け流した。
「いや、そうじゃねぇよ。こんな事で、本当に野郎を追い詰められんのかな、てね」
「これ以外に方法は無い。それに、お前が今やっている作業は、奴を追い詰めることを目的としていない」
「わかってるけど……本当に大丈夫なのかよ」
Kはキーボードから手を離し、ソファに背を沈める。
FIRE HAMMERのメッセージが完成してから九日間が経過していた。その間、加速していく世間の混乱とは裏腹に、連続爆破事件はピタリと止んでいた。
尤も、世間はこの事件をテログループによるものとしか認識していない。警察の方でも、一部のお偉方以外はそう思っているだろう。
それが、事件の捜査を更に困難なものにしているのだろう。警察の動きは緩慢で、連携も取れていない。
新たな爆破事件が暫く起こってないとはいえ、それはかえって大衆の不安を煽る結果となり、世界中が漠然とした不安と恐慌に陥っていた。
更に、世界各国の市場に深く食い込んでいたアークランドグループの関連企業株価が、事件によって軒並み低下。屋台骨を失いつつある世界経済への不安も、混乱を加速させる要因となっていた。
だが、人類はこの危機を乗り越えるだろう。大きな犠牲と混乱と恐慌に曝されながらも、ほぼ現状の社会構造を維持したまま、脅威だけを正確に摘出するだろう。人類が数千年もの間営々と積み上げてきた「人類社会の知恵」には、それだけの力が具わっている。
Wはそれを知っている。それでいて尚、FIRE HAMMERを追っている。
アークランドグループからの依頼ということもある。叩きつけられた、敗北という二文字の雪辱ということもある。
だが、確実に、それ以上の衝動によって、彼はこの事件を暴こうとしていた。
「つべこべ言うな。例の資料はどこだ」
Kが次々と漏らす弱音にいい加減辟易したのか、口調には少しだけ刺々しいものがあった。
「ああ、ちゃんと『ビリー』から取り寄せてあるよ。警察記録がこっちで、株価推移がこっち」
しかし、疲労によって感受性の鈍っているKは、けろりとして二つの書類を引っ張り出した。
Wはそれを奪い取ると、素早くめくっていく。眠そうな半開きの瞼の奥で、二つの瞳が鋭く左右上下に動き回っていた。
「いっつも思うけど、株価推移の書類はともかく、記録を情報組織に流して小遣い稼ぎにするようなヤツが、警察にもいるもんなんだねぇ」
「どんな組織にも、はねっ返りや悪玉はいる」
警察記録は、アークランドグループのすすきの支部周辺の地域で起こった、過去の事件の記録。傷害、火事、窃盗、この街でなら何処ででも起こっているような事件の記録が事細かに記されている。
株価推移は、ゲト傘下の各企業の株価変動記録だ。ゲト本人は裏社会の人間だが、彼は金融や貿易関係の企業の幾つかを、裏から支配している。株の大多数を握っていたり、役員や社長を抱き込んだり、部下に起業させたり、様々な手段で表の市場にも食い込んでいる。それらの、表か裏かわからない曖昧な企業の株価も、ちゃんとデータとして開示されるのが株式市場というものだ。
「ふぅん。ま、俺らもそのはねっ返り野郎の一つだけどね」
「どっこいしょ」とソファの背もたれから離れ、再びパソコンに向き合うK。そして、書類に目を通していくWの横で、作業を再開する。
忙しなく、僅かの間も惜しいと言ったふうに書類をめくっていくW。慣れを通り越して、飽きが来ている作業を緩々と自分のペースで進めていくK。
彼は集中によって、彼女は疲労によって、この空間に沈黙を生み出していた。
そして意外にも、この沈黙を破ったのはお喋りなKではなく、寡黙的な性質のあるWの方だった。
「火事」
とはいえ、その糸口は非常に断片的で、意図的に発した言葉というよりも、思わず口を衝いて出てしまったといったものであった。そして、そういった言葉こそが彼の中で非常に重要な意味を持っている事を、Kは知っていた。
「ん? どうした?」
故に、その言葉に彼女が食いつくのは、ある種当然の成り行きであると言えた。
だが、Wは応えず、警察記録の書類の中から二枚を抜き出し、それに視線を注ぐ。
「K」
そして視線を固定したまま、Kを呼ぶ。
「なに?」
「今回の連続爆破事件、最初の事件が起きたのは何日だったっけかな?」
「えーと……六月十七日だったと思うけど」
「およそ二ヶ月前か」
「うん、そうだと思うけど、それがどしたの?」
「でかしたぞ」
Wは二枚の紙を潰すように乱暴に懐に押し込むと、Kの肩を叩いた。
「確信を得た。少し出かけてくる」
返す動きで、彼は素早くコートを取って袖を通していく。Kは眉を顰めながら、作業の手を止めた。
「でかけるって、どこに?」
「清掃会社だ。後で説明するから、作業を続けていろ」
それだけ言うと、彼はさっさと出て行ってしまった。
やはり、Kの抱いた根本的な疑問は、解決される事はなかった。しかし、彼の言葉の文脈から、どうやら自分は役に立ったらしいという事だけは感じ取れたので、それでいいや、と前向きに考える事にした。
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