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終章 真実
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目を覚ますと、白い天井があった。
視界の隅には青い空が見える。
ゆっくりと起き上がり顔を右側に向けると、窓の外には彰の愛する青空が広がっていた。
だがそれを見ても、彰はなんの感情も示さなかった。
空ろな目で空を眺め続けるその表情は、感情どころか生気すらも殆ど宿らない。
五分、十分、一時間と時は流れていくが、彰は空虚な瞳で空を眺め続ける。
そんな中、不意に扉の開く音がした。
「…………あき……ら」
ゆっくりと彰が首だけ回して振り返ると、そこには二人の男女がいた。
「彰!」
二人が駆け寄ってくるのを、表情一つ変えず彰は他人事のように見つめる。
女の方が首に手をまわして抱きついてきても、彰はピクリとも反応を示さなかった。
「良かった……。本当に、良かった」
涙を零しながら女が嬉しさの滲んだ声を耳元で囁く。続いて男の方も笑って話し掛けてきた。
「ったく、心配かけやがって。三日も起きないなんて、寝ぼすけにも程があるぞ」
男の言葉を心の中で反芻し、彰はこの時初めて思考と呼べる作業をした。
三日前、自分は何をしていたのか?
彰がなんの反応も返さない事に疑問を覚えたのか、二人が心配そうに声を掛けてくる。
「どうしたの、彰。もしかして、肩痛むの?」
言われて彰は自分の肩を見た、肩には包帯が巻かれている。
ずきんと彰の頭に痛みが走った。突然の痛みに軽く眉をしかめる。
「おい、本当にどうしたんだよ彰。通り魔に襲われて、頭どうにかなっちまったのか?」
通り魔? 三日前。通り魔に、襲われた……?
はっきりとしない記憶に、彰は混乱する。
「大丈夫だよ、彰。もう怖い事はないんだよ」
そう言って、女が彰の胸にしなだれ掛かってきた。
力なく凭れ掛ってくる小さな身体。真っ赤に染まるナイフを持った腕。そんな中、自分の頬を撫でて崩れ落ちた優しかった女の子。彰の脳裏に鮮烈な光景がフラッシュバックする。
あの時の情景がリアルに呼び起こされ、彰は力任せに女を突き飛ばした。
「…………あきら?」
信じられないような目で女が自分を見てくるが、彰にはもうその意味を理解する頭などなかった。
琴音を殺した時の感覚が、記憶と共に蘇った。
「あああああぁぁぁあぁああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
獣のような咆哮が轟く。
立ち上がろうとし、右手の点滴が邪魔になって、それを無雑作に引っこ抜く。
「彰!」
男が自分の名前を読んだが、彰にはそれがもう自分の名前である事すら分かっていなかった。
感情の激流に流されるまま、彰は手近にある物を破壊する。
ベッドを蹴飛ばし、カーテンを引き千切り、点滴台を力任せにぶん投げる。
男が彰を止めようと羽交い絞めにするも、彰は暴れてそれを振り払った。
騒ぎを聞きつけた白い服を着た女達が部屋の中に入ってきて、彰を止めようと何人かで押さえつけようとする。だが彰は自分に掴みかかってくる女達の存在すらも認識してはいなかった。それどころか、開き始めた肩の傷にすら気付かない。
目の前に映る光景を、手に残る感触を消し去ろうと、彰は暴れ続ける。
(ことね。ことね、ことね、ことね、ことね、ことね、ことね、ことね、ことね、ことね、ことね、ことね!)
「うわぁぁぁあぁぁああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
もはや彰に、理性と呼ばれるものはなかった。自分の動きを阻害する者を手当たり次第に殴り飛ばす。
数分後、白い服を着た女に小さな何かを刺された。
直後、彰の意識が遠のいていく。
自身の身体が倒れていく中、男の愕然とした表情や、女の泣いている姿が視界に映る。
その意味を解する事も出来ず、彰は倒れる。
(……ごめん)
誰に謝ったかも自分で分からないまま、彰の意識は完全に途絶えた。
彰が目覚めてから一週間が経った。
あれから彰は、三日三晩起きては暴れる回るのを繰り返し、しまいにはベッドに拘束具を取りつけられた。四日目にようやく大人しくなったかと思うと、何を話しても上の空。医者の話はおろか、親や友人の言葉にさえなんの反応も示さない状態が続いた。
それは一週間経った現在も同じで、拘束具を外されても食事とトイレの時以外、抜け殻のようにボーっと空を見上げるだけの日々を過ごしている。
見知らぬ見舞い客が来た時も、彰は人形のように身動き一つせず空を見つめていた。
その見舞い客はどうやら、通りに倒れていた自分を見つけて救急車を呼んでくれた恩人だそうだ。その話を医者から告げられても、彰はその恩人の男に一瞥すら向けなかった。
男は彰に傷の具合などを訊ねたり、倒れている彰を発見した時の事を話した。
まるで反応を返さない彰に一通り話し終えると、男は別れの挨拶を告げる。
「それではそろそろ失礼するよ。さようなら、彰君」
肩に手が置かれ、その手が離される瞬間、男は彰の胸元に何かを投げ入れた。男の身体が目隠しになって、医者にその行動は見えていない。
男の奇妙な行動にも彰はなんの感心も示さず、ただただ空を見上げていた。
男はそのまま何も言う事なく、あっさりと病室から出て行った。医者もその後に続いて退室する。
一人になった彰は、しばらくして懐に入れられた何かを取り出した。
それは小さな紙切れだった。
二つ折りになっていた紙を開いて内容に目を通す。
見た瞬間、久しぶりに彰の目に感情の色が宿った。
目を皿にして何度もその文面を読み返す。
五分程その紙切れを睨むように見ていた彰だが、顔を上げると点滴の針を腕から引き抜き、ベッドから降りて着替え始める。
パジャマから私服に着替え、彰は早足で病室を出た。
病院を抜け出して彰が向かった場所は、大して遠くもない公園だった。
辺りを見回して目当ての人物を見つけ出すと、彰は早足でそいつに近付く。
ベンチにのんびりと座っていた先程の見舞い客は、彰が目の前に立っていることに気付いて溜め息をつく。
「まったく、せっかちにも程があるね。待ち合わせは一ヵ月後の今日だと書いてあったはずだろうに」
「どういう事だよ。お前何を知ってんだ!」
彰の怒声をどこ吹く風と受け流し、男は首を振る。
「私は何も知りはしない。ただそれを渡すように命令されただけだ」
「誰に命令された!」
彰の怒鳴り声に、何事かと遠巻きから好奇の視線を向けられるが、それに気にしている場合ではない。
「そうまでして知りたいのなら、今日が終わる頃にまたここに来なさい。全ての真相を教えよう」
それだけ言って、男は歩き去った。
残された彰は火のついた感情のぶつけどころを失って、力任せにベンチを蹴った。
深夜零時。言われた通り彰は公園に戻って来た。
結局あの後は病院に戻らず、適当にその辺を散歩して時間を潰した。一度戻ったら外出禁止を食らうのは予想に難くなかったからだ。病院を出たのが午後三時過ぎだったので、九時間弱も外に居た事になる。
だが一時間も前から公園のベンチに腰掛けて待っているのに、待ち人は一向に現れない。
男の台詞は、やはりその場限りの嘘だったのかもしれないと疑心を抱くが、それでも彰には待つ事しか出来ない。
そしてさらに一時間が経ち、諦めて病院に戻ろうか考え始めた辺りで、遠くから近付いてくる足音があった。
ザッ、ザッと土を蹴る音が段々と大きくなる。
唐突に、闇の中から足音の主が手を叩く音がした。
「プレイヤー・彰、まずは祝福の言葉を送るよ。ゲームクリアおめでとう」
プレイヤーという言葉が出てきた事に、その足音の主が自分の待っていた人物だと彰は確信する。
だがその声には、聞き覚えがある気がした。それも最近、あのゲームの中で聞いた気がする。だがゲームで戦ったプレイヤーの中に、こんな声の人物はいなかったはずだ。
彰は足音の主を見ようと目を凝らすが、暗闇のせいで輪郭すらまともに見えない。
「怪我は治りきってないようだけど、外出をしても良かったのかい? ここで死なれたりしたら、折角病院まで手配したのが無駄になってしまうのだけど」
「いいから、姿見せろよ。ぶち殺すぞ」
殺気の込められた怒声を発する彰とは対照的に、その人物はくすっと笑った。
「君が私を殺すだって? 不可能だね。そんなこと出来るものなら、すぐにやってもらいたいものだよ。あんなゲームにすら手こずった、満身創痍でボロボロの君にさ」
「っ……」
「だけど、姿くらいは見せてあげようか。別に隠してるわけでもないしね」
そう言って、足音の主は数歩ほど歩いて彰の前に姿を表した。
まだ数メートルの距離はあるが、街灯のおかげで顔の細部までしっかりと見て取れる。
その人物は、予想外の小柄であり、彰にとって信じ難い人物だった。
先程までの怒りなど忘れ、彰は目を限界まで開いて立ち尽くす。
明らかにゲームの核心を知るその人物は、彰が琴音と同じくらいに大切に思い、そして失ってしまった、第四ゲームで脱落したはずの秋だった。
「な、なんで……」
震えながら、彰は二、三歩後ろによろけた。
「なんで、か。質問するんじゃなくて自分で考えてみたらどうだい? 仮にも君はMLGに合格したプレイヤーなんだからさ」
幼さをまるで感じさせない秋の口調に、彰は何も言えずに目を瞠る。
そんな彰の様子に、秋は深い溜め息をついた。
「まったく、信じられない事が一つ起きただけで動けなくなる。そんな有様で、よくあのゲームをクリアできたものだね。こんなんじゃ先が思いやられるよ」
「さき……?」
「あっ、そうか。まだ何一つ説明をしていなかったね。じゃあまずは、その事から理解してもらおうかな」
話についていけない彰を置いて、秋は続ける。
「今回のゲームはいわば査定なのさ。これから行ってもらう本当のMLGに参加する資格があるかどうかを監査するための、ふるい落としのようなものさ。だから今回のゲームには多種多様のゲームがあったんだよ。プレイヤーのより多くの素質を観るためにね」
説明されるMLGの概要は、明らかに秋が黒幕側の人間である事を示唆していた。
その事をまだ彰は信じられず、呆然とただ秋の話に耳を傾ける。
「第一ゲームの童話の部屋は、最低限必要な思考力のテストと次からのゲームの伏線。第二ゲームのロシアンルーレットは機転と度胸――あるいは覚悟と言った方がいいかもしれないね、それを試すゲーム。第四ゲームのカジノは技術と普通の知恵とは別種の知慮のテストだ。そして第五ゲームの逃走迷路は、総合力とプレイヤーの適性を判断するテスト」
「適性?」
ようやく金縛りから立ち直った彰は、疑問の声を上げた。
秋が黒幕である事を割り切れたわけではなく、思考が一時的に目の前の理解出来る問題に移っただけではあったが。
「そう、適性。あのゲームはプレイヤーによって攻略の仕方が千差万別になるゲーム。馬鹿正直に暗号を解く者もいれば、すぐさま拳銃を購入して鍵を奪う事だけに集中する者もいる。建物の中に隠れて最後の最後で漁夫の利を狙う奴も、策を巡らせて鍵を掠め取ろうとする奴もいるね。そのそれぞれの攻略の仕方を観る事で、そのプレイヤーがどんな人間性を持っていて、これからのMLGでどんなゲームに参加させるべきかを見極めるゲームだったのさ。まぁ結局、クリアできるのは多くても二人だけなんだけど」
その非人道的な発言を口にする秋は、およそ子供とは思えない顔つきをしていた。これが本来の秋の表情なのだろうか。
「そして最終ゲーム……の前に、第三ゲームの説明をしておこうか。あれは他のゲームと違って失敗しても次のゲームに進めるけど、もし失敗してゲームオーバーになれば罰ゲームが待っている特殊ステージだった。ちなみにあのゲームをクリアできなかったプレイヤーは三人だね。君が殺した鹿島琴音もその一人だよ」
「なっ!」
琴音を殺した事を他人の口から指摘され、彰は思わず叫びだしそうになった。身体を両手で抱く事でそれに耐える。
そんな彰の様子を気にする事なく、秋は続けた。
「あのゲームは第一ゲームよりも高度な思考力を試すゲームだったけれど、それとは別にもう一つの意図がある。それは第二ゲームまで攻略する事は出来たが、これからのゲームで確実に脱落するであろうレベルの低いプレイヤーに、このMLGというゲームをクリア出来なければどうなるのかを見せ、精神的に追い詰めれば下克上が可能になるかどうかを実験する意図だ」
「なん、だって……」
「他のプレイヤーはてんで駄目だったけど、鹿島琴音の進化は目覚ましかったね。機械のように冷静な判断力、勝ちにこだわる異常な執念、そして感情を消し去ったあの豹変ぶり。全てが理想の結果だった。あのまま最終ゲームをクリアしていれば、『人としての一線を超え、それをさらなる進化の足掛かりとする』ことが出来ていたはずなのに、勿体ない事をしたものだ」
溜め息をつきながら、秋はとんでもない事実を口にする。
「まさか君を生かすためだけにゲームをプレイしていたなんて、失望すら通り越して、呆れて物も言えないよ」
彰はその言葉に、秋がMLG側の人間だと知った時よりも数倍衝撃を受ける。
「いま、なんて……」
琴音が、俺を?
彰の態度に、秋はわずかに眉間に皺を寄せた。
「まさか、気付いていなかったのかい? 鹿島琴音が君を生かそうと必死になっていた事に。これはお笑いだね。彼女の存在なくして君がゲームをクリアする事なんて不可能だったのに、本人はまるでその事を理解していないんだから」
秋は肩を震わせて耐えきれないと言った風に笑う。
「第四ゲームではコインを集めながら君の様子をずっと窺って、あげく忠告までしたし、第五ゲームでは露骨に幾度となく君を救っていた鹿島琴音の存在に気付かず、君はゲームクリアを全て自分の手で成し遂げたなんて思い込んでいたわけだ」
想像もしていなかった秋の言葉に、彰は足元が揺らぐのを感じた。
そして琴音が変わってしまってからのゲームを全て思い出す。
「嘘だ。だって、琴音は三島と組んで俺を嵌めた。それに鍵だって、俺から奪って行ったんだぞ……」
彰の言葉に、秋は再度深い溜め息をついた。
「君は本当に何も分かっていないんだな。その程度でよくゲームをクリア出来たものだよ」
失望を隠そうともせずに秋は語る。
「暗号を奪ったのは君を狙っていた三島の溜飲を下げて、あれ以上君を狙わせないため。鍵を奪ったのだって、他プレイヤーのターゲットになるのを自ら引き受けるためだ。他にも鍵を二つとも手に入れた時に情報非公開を使わなかった事や、逆にゲームをクリアしたのにも関わらずその情報をわざわざ隠したのは、全てプレイヤーの目を君ではなく自分に向けさせるためのものだよ。そんな鹿島琴音の献身的な行動がなければ、君はあのゲームで鍵と一緒に命まで奪われていただろうね」
「ことねが……? そんな……」
愕然と、彰は地に膝をついた。
なんと言えばいいのか分からなかった。
自分のために、命懸けで力を尽くし、そして本当に命を投げ打ってくれた少女に、どんな感情を向ければいいのか分からない。
感謝か、謝意か、悔恨か、愛情か。それともそんな感情を抱く前に死ねばいいのか。
それが裏切られたと勘違いして、我が身可愛さに彼女を殺してしまった俺の罰になり得るのか。
「おいおい。こんな所で泣いたり叫んだりしないでくれよ。あとこれも、鹿島琴音から君へのメッセージだ」
彰が涙を零すよりも早く、秋が紙切れを跪いている彰の足元に投げた。
その紙は、第五ゲームの時に闇ショップの前で拾った、あの血染め紙切れだった。
『見落としがちな目の前の真実』
その文字を見た瞬間、彰の目から大粒の雫が溢れ出す。
書く物すら持っていなかったため、自分の血を使って書いたのだろう。他ならぬ彰が、鍵を見つけてあの場所に来る事を信じて。その文章の意味を理解してくれる事を信じて。
なのに俺は、琴音が自分のためだけを思って行動してくれているという真実を、見落としていた。
「う、…………うぅぅ……うわぁぁあぁぁぁああ……!」
深い悲しみを吐き出すように彰は泣き叫んだ。
だがその叫びは、長く続かなかった。
天を見上げて泣き出した彰の横っ面を、秋が容赦なく蹴り飛ばしたからだ。
全く予想外の攻撃に、彰は横倒れになって地面に転がる。
「泣くなとも叫ぶなとも言っただろ。まさかここまで理解力がないとは思わなかったよ」
彰を蹴った格好のまま、苛立ち混じりに秋が吐き捨てる。
「悲しむなら話が終わった後にいくらでも悲しめばいいさ。自己嫌悪に陥って自殺してもいい。だけど私の話は最後まで聞いてもらうよ」
頬を押さえて立ち上がりながら、彰は目の前の人物をあら限りの憎悪を込めて睨みつけた。
その人物が、かつて自分が身代わりになってでも助けようとした相手だという事も忘れて。
「鹿島琴音の話をしたのは私の善意だよ。感謝こそされても憎まれる謂れなんてない。その程度の事実も理解できないプレイヤーに、このゲームが行われている本当の意味について話すなんて、本来ならしたくもないんだけどね」
「本当の意味?」
「つまりは、MLGの真の存在理由だ。このゲームはMLGの名の通り、人を進化させるためのゲームだって事は覚えてるね。その進化とは人と神の間に当たる存在になる事。分かりやすく例えれば、天使とでも言うべき存在かな」
急に荒唐無稽な話になり、彰は眉根を寄せる。
「そんな天上の存在になるためにはどうすればいいか、それを真剣に考えた。学者か誰かはよく知らないけど、とりあえずそいつらは、結果的に進化とは脳の成長だという結論に辿り着いたんだ」
小説か漫画に出てそうな話に、彰は嫌な予感しか感じない。
「猿から人間に進化した時、劇的に変化したのは身体の造りより何より脳だと考えたわけさ。だがそう結論付けたはいいけど、それと同じ進化を辿るには根本的な問題がある。脳を人工的に成長させるのは科学では不可能だという問題さ。どれだけ知識を吸収しても、どれだけ難解な方程式を解けたとしても、それは脳が進化したのではなく、脳が出来る範囲の限界に近付いているだけに過ぎない。つまり元々それだけの事が出来るスペックが、人間の脳には存在しているんだよ。そこでそいつらは考えた。とりあえず脳の限界というものを測定する事から始めよう、ってね。そして長い研究の末、生命の危機に陥るような絶体絶命の状況こそが、脳が最も限界に近付いて能力が発揮される瞬間だという結論に至ったそいつらは、その状況に定期的且つ連続的に遭遇すれば、限界状態に陥らなくても常にその脳は最高の思考レベルを保てるという仮説も立てた。ただし、ただ死にそうになっただけじゃあ大して意味はない。人は大きな絶望の前だと思考する事を放棄したりするからね。だからこそ人と人とがぶつかり合い、相手を蹴落としながら、絶望的な状況を策や能力で打開できそうなゲームをそいつらは作ったんだ」
ニヤっと、彰の思考を読んだように秋が笑う。
「そう。それがこのMLGというゲームというの正体だ。幸い、これに賛同する出資者に困る事はなかったみたいだね。進化をちらつかせれば、いくらでも出資者は現れたそうだ。歪んでるというか貪欲というか、とにかくそれが人なのかもね」
愕然と、彰は拳を震わせる。
そんな馬鹿げた妄想で、あんな狂ったゲームを作り出し、そんなふざけた目的のために、多くの人を犠牲にしている。とても正気の沙汰ではない。
「ちなみに僕は、ゲームをクリアして脳を進化させるという目的のためだけに育てられた、生まれながらのMLGプレイヤーだ。この世に生を受けた瞬間からMLGに参加する事が決定していたし、実際に五歳の頃からゲームに参加して勝ち抜いてきた。他にも同じ境遇の奴らはいるらしいけど、私ほど幼いプレイヤーはいないみたいだね」
唐突に明かされた秋の正体に、彰は驚くよりも先に納得してしまう。その事を内心苦々しく感じた。以前はあれほど守りたいと思っていた相手に、いまはこんな感情しか抱けない事が、彰には堪らなく悔しかった。
「まぁ今回のゲームに参加したのは、ゲームの中から有望そうなプレイヤーを観察しろって命令を受けたからなんだけどね。第五ゲームからはモニターで見た方が好都合だったから、その前のゲームでわざと脱落したけどさ」
自分を生かそうとしてくれた行為が打算のためだったと聞かされ、彰は唇を強く噛んだ。正体を知った今、決して良心的な行為だとは思っていなかったが、本人の口からそれを告げられると、やはり心は重くなる。
「子供っぽい演技も完璧だっただろう? ああした方が警戒されないと思って、歳相応の性格をシミュレートしてみたんだ。ゲームの間はどこかのお人よしが世話してくれたけど、内心笑いが止まらなかったよ」
「お前……!」
「おっと。暴力はやめてもらおうか」
彰がとうとう我慢しきれず殴りかかろうとしたところで、秋は懐から拳銃を取り出してそれをこちらに向けた。
「賢明に生きなよ、プレイヤー・彰。感情で行動を起こしても、プラスの結果はついてこないって事くらい、ゲームをクリアした君なら分かるだろ?」
まだ自分を騙していた時のような、無邪気に見える笑顔を浮かべて秋は話を続ける。
「僕の後ろにある遊具のトンネルに、紙袋が置いてある。今回のゲームの賞金だ。必ず持ち帰ってくれ」
「……いらない」
「そうはいかない。持ち帰らなければ、直接君の口座に振り込む事になる。だけど出来ればそれは避けたいんだ。大きな金が動くと、必ず誰かの目を引いてしまうからね。それで君が逮捕されるなんて事態、私達は望んでいない」
いけしゃあしゃあとそんな事を言う秋を彰は睨みつける。どうせ自分が捕まろうと捕まるまいと、その程度の些事は気にも留めないだろう。
「さてと、そろそろ私は帰るとするよ。君が参加する真のMLGが決まり次第、連絡を入れるからそのつもりでね」
「参加するわけないだろ。そんなもの」
「君はまだ分かってないのかい?」
「……何?」
ドンと言う銃声が轟き、彰の頬を銃弾が軽く裂いた。
「断る術なんてない事を、だよ」
人に向けて銃を撃ったのにも関わらず、秋は全く態度を変える事なく言い放つ。
「君がゲームに参加しようとしなくても、強制的にプレイさせる事は可能なんだ。もしそれを嫌がって君が自殺したり、自ら警察に捕まるような事があれば、君に関係する人間を同じようにMLGに参加させるよ。両親、親戚、恋人、友人。そんな親しい人間達を、君はあんなゲームに参加させたいのかい?」
彰は何も言えなかった。
それを見て、秋はくるりと踵を返す。
「じゃあさようなら、プレイヤー・彰。五分後には銃声を聞きつけた野次馬どもが来るだろうから、お金だけ持ってとっとと帰る事を勧めるよ」
それだけ告げると、秋は暗闇の中に姿を消していった。
取り残された彰は、三日月が浮かぶ夜空を仰ぎ見て、小さく呟いた。
「助かる資格なんて、ないのかな……?」
結局公園に置いてあった賞金は、自宅の部屋の中に隠しておいた。ある程度の額ならば病院に隠しておく事も出来たのだろうが、紙袋の中にはなんと三千万もの大金が入っていたのだ。到底隠しきれるような額ではない。だがゲームが始まる前に見せられた金塊に比べれば、賞金は多いと言えるものではない。おそらくゲームでの彰の評価が低かったため、賞金もそれに応じて少なくなったのだろう。
幸い両親は寝ていたので、部屋の中にお金だけ置いて、誰にも気付かれない内にとっとと家を出た。両親は基本的に勉学以外の事で自分に無関心なので、余計な掃除などで金が見つかる心配もない。
金を置き、疲れ切った彰が病院に戻ると、玄関の辺りで彰を探していた看護士に捕まり、問答無用で病室に叩き込まれた。
どうやら重傷で入院しているはずの彰がいなくなっている事に看護士が気付き、手の空いている人間総出で彰を探していたらしい。あまり自覚していなかったが、肩をナイフで刺された上に銃弾までくらっているのだ。気軽に出歩いていいわけがない。
無理矢理ベッドに寝かしつけられた彰は、溜まっていた疲労のせいか、ものの二分も経たない内に深い眠りについた。
それから翌日の午後の三時まで彰は目を覚まさなかった。
起きてからもベッドの上で半身を起こすだけで、空を見ながら昨日の秋の話についてひたすら黙考を重ねる。
次のゲームがある、と秋は言っていた。それはつまり、あの恐ろしいゲームにまた参加しなければならないという事だ。傷付け、傷付けられ、そして生き残るためには人を殺すことだってやむを得なかったあの狂ったゲームに。自分が渡された賞金や、第五ゲームで舞台となったステージの広大さなどから考えるに、恐らくこのゲームの裏には、国かそれに匹敵するとてつもなく大きな組織が関わっているのだろう。狂った科学者やそこらの犯罪組織なんかには、あんな莫大な費用と権力が必要となるゲームを行えるわけがない。
次のゲームは、自分がクリアしたあのMLGよりもさらに難易度が高いと、秋は話していた。これからが本当のMLG、つまり彰達が行ったMLGは、単に参加資格を得るための前座のような物に過ぎない。その前座のゲームですら、彰は何度も死の危険に冒され、偶然と奇跡がいくつも重なり、そして琴音の自己犠牲があってなんとかクリアしたものだ。正直彰には、秋のようなMLGの熟練プレイヤー相手に勝てる自信など微塵もない。
しかしそれでも、彰に拒否権はない。どんなに死の危険があろうとも、彰はMLGというゲームに参加を拒めない。生き残るためには、ゲームに参加して勝つしかないのだ。
大きな溜め息をついて、彰はゴソゴソとポケットから紙切れを取り出した。
それは琴音の真っ赤な血で書かれた、彰への信頼の証。
琴音が彰を命懸けで守ってくれていたという、たった一つの証明だった。
琴音の事を思い出すと、抑え切れないほどの狂気が心を支配しそうになる。だがそれになんとか耐える事はできていた。思い出す度に狂いそうになって、明日には自分がどうなってしまうかも分からないが、それでもなんとかまだ生きている。琴音が助けてくれた命を、無駄にしたくない一心で。
助けてもらった命に報いて生きる事が、せめてもの贖罪であり、俺の責任だと思うから。
『コンコン』
不意にノックの音がし、続いて「お邪魔しま~す」という呑気な声と共に扉が開いた。
扉の向こうには二人の男女。陸斗と奏が立っていた。
姿を認め、彰は二人に向かって笑い掛ける。
「久しぶり、陸斗。奏」
彰が言葉を発した瞬間、二人の時間が止まった。
呆然と立ち尽くし、限界まで両目を見開く。
止まった時間の中で、遠くから聞こえてくる喧騒だけが、時が流れている事を主張する。
やがて目に溢れんばかりの涙を浮かべながら、奏が笑った。
「もう、一昨日も会ったじゃない。忘れちゃったの?」
続いて陸斗も満面の笑みを彰に返す。
「昨日はどこに行ってたんだよ、重傷人」
照れ臭くて笑う彰に、二人が駆け寄る。
奏は彰の胸に思い切りダイブし、陸斗は後ろに回って彰の首をロックした。
「良かった。彰が元に戻ってくれて、本当に嬉しい」
「心配させやがってコノヤロウ。マジでどうしようかと思ったんだからな」
「痛い、痛いって」
首に回された陸斗の手を叩きながら、彰は久しぶりに思いっきり笑った。
泣きべそをかく奏をからかい、その頭を優しく撫でる。
(これでいいのかな、琴音)
窓の外の空を見上げながら、彰は心の中で、一ヶ月前は会った事もなかった大切な人に話し掛ける。
(お前を殺してしまった事はどうやっても取り返しがつかないし、何をしたって償えるものじゃないけど、それでも俺は、笑って生きてていいかな?)
返事がない事が分かりきった問いを、自己満足と知りながら彰は心の中で呟く。
(どんなにつらくても、悲しくても、死にたくなっても、絶対生きるから。お前が生かしてくれた命を、精一杯生きるから、だから……)
病室で騒ぎ合いながら、彰は思い出の中の彼女に心を込めて告げた。
「こっちの方こそ、ありがとう」
彰の呟きに、陸斗が不思議そうに首をかしげる。
「どうした彰。またボケたか?」
「もう! そういう事は言わないでよ! 陸斗」
「だってこいつまた意味不明な事言ってんだぜ」
「意味不明なのは陸斗でしょ!」
「うわひっでー!」
騒がしい陸斗と奏に挟まれながら、心の底から彰は笑う。
その脳裏に、彼女の笑顔を思い浮かべながら。
視界の隅には青い空が見える。
ゆっくりと起き上がり顔を右側に向けると、窓の外には彰の愛する青空が広がっていた。
だがそれを見ても、彰はなんの感情も示さなかった。
空ろな目で空を眺め続けるその表情は、感情どころか生気すらも殆ど宿らない。
五分、十分、一時間と時は流れていくが、彰は空虚な瞳で空を眺め続ける。
そんな中、不意に扉の開く音がした。
「…………あき……ら」
ゆっくりと彰が首だけ回して振り返ると、そこには二人の男女がいた。
「彰!」
二人が駆け寄ってくるのを、表情一つ変えず彰は他人事のように見つめる。
女の方が首に手をまわして抱きついてきても、彰はピクリとも反応を示さなかった。
「良かった……。本当に、良かった」
涙を零しながら女が嬉しさの滲んだ声を耳元で囁く。続いて男の方も笑って話し掛けてきた。
「ったく、心配かけやがって。三日も起きないなんて、寝ぼすけにも程があるぞ」
男の言葉を心の中で反芻し、彰はこの時初めて思考と呼べる作業をした。
三日前、自分は何をしていたのか?
彰がなんの反応も返さない事に疑問を覚えたのか、二人が心配そうに声を掛けてくる。
「どうしたの、彰。もしかして、肩痛むの?」
言われて彰は自分の肩を見た、肩には包帯が巻かれている。
ずきんと彰の頭に痛みが走った。突然の痛みに軽く眉をしかめる。
「おい、本当にどうしたんだよ彰。通り魔に襲われて、頭どうにかなっちまったのか?」
通り魔? 三日前。通り魔に、襲われた……?
はっきりとしない記憶に、彰は混乱する。
「大丈夫だよ、彰。もう怖い事はないんだよ」
そう言って、女が彰の胸にしなだれ掛かってきた。
力なく凭れ掛ってくる小さな身体。真っ赤に染まるナイフを持った腕。そんな中、自分の頬を撫でて崩れ落ちた優しかった女の子。彰の脳裏に鮮烈な光景がフラッシュバックする。
あの時の情景がリアルに呼び起こされ、彰は力任せに女を突き飛ばした。
「…………あきら?」
信じられないような目で女が自分を見てくるが、彰にはもうその意味を理解する頭などなかった。
琴音を殺した時の感覚が、記憶と共に蘇った。
「あああああぁぁぁあぁああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
獣のような咆哮が轟く。
立ち上がろうとし、右手の点滴が邪魔になって、それを無雑作に引っこ抜く。
「彰!」
男が自分の名前を読んだが、彰にはそれがもう自分の名前である事すら分かっていなかった。
感情の激流に流されるまま、彰は手近にある物を破壊する。
ベッドを蹴飛ばし、カーテンを引き千切り、点滴台を力任せにぶん投げる。
男が彰を止めようと羽交い絞めにするも、彰は暴れてそれを振り払った。
騒ぎを聞きつけた白い服を着た女達が部屋の中に入ってきて、彰を止めようと何人かで押さえつけようとする。だが彰は自分に掴みかかってくる女達の存在すらも認識してはいなかった。それどころか、開き始めた肩の傷にすら気付かない。
目の前に映る光景を、手に残る感触を消し去ろうと、彰は暴れ続ける。
(ことね。ことね、ことね、ことね、ことね、ことね、ことね、ことね、ことね、ことね、ことね、ことね!)
「うわぁぁぁあぁぁああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
もはや彰に、理性と呼ばれるものはなかった。自分の動きを阻害する者を手当たり次第に殴り飛ばす。
数分後、白い服を着た女に小さな何かを刺された。
直後、彰の意識が遠のいていく。
自身の身体が倒れていく中、男の愕然とした表情や、女の泣いている姿が視界に映る。
その意味を解する事も出来ず、彰は倒れる。
(……ごめん)
誰に謝ったかも自分で分からないまま、彰の意識は完全に途絶えた。
彰が目覚めてから一週間が経った。
あれから彰は、三日三晩起きては暴れる回るのを繰り返し、しまいにはベッドに拘束具を取りつけられた。四日目にようやく大人しくなったかと思うと、何を話しても上の空。医者の話はおろか、親や友人の言葉にさえなんの反応も示さない状態が続いた。
それは一週間経った現在も同じで、拘束具を外されても食事とトイレの時以外、抜け殻のようにボーっと空を見上げるだけの日々を過ごしている。
見知らぬ見舞い客が来た時も、彰は人形のように身動き一つせず空を見つめていた。
その見舞い客はどうやら、通りに倒れていた自分を見つけて救急車を呼んでくれた恩人だそうだ。その話を医者から告げられても、彰はその恩人の男に一瞥すら向けなかった。
男は彰に傷の具合などを訊ねたり、倒れている彰を発見した時の事を話した。
まるで反応を返さない彰に一通り話し終えると、男は別れの挨拶を告げる。
「それではそろそろ失礼するよ。さようなら、彰君」
肩に手が置かれ、その手が離される瞬間、男は彰の胸元に何かを投げ入れた。男の身体が目隠しになって、医者にその行動は見えていない。
男の奇妙な行動にも彰はなんの感心も示さず、ただただ空を見上げていた。
男はそのまま何も言う事なく、あっさりと病室から出て行った。医者もその後に続いて退室する。
一人になった彰は、しばらくして懐に入れられた何かを取り出した。
それは小さな紙切れだった。
二つ折りになっていた紙を開いて内容に目を通す。
見た瞬間、久しぶりに彰の目に感情の色が宿った。
目を皿にして何度もその文面を読み返す。
五分程その紙切れを睨むように見ていた彰だが、顔を上げると点滴の針を腕から引き抜き、ベッドから降りて着替え始める。
パジャマから私服に着替え、彰は早足で病室を出た。
病院を抜け出して彰が向かった場所は、大して遠くもない公園だった。
辺りを見回して目当ての人物を見つけ出すと、彰は早足でそいつに近付く。
ベンチにのんびりと座っていた先程の見舞い客は、彰が目の前に立っていることに気付いて溜め息をつく。
「まったく、せっかちにも程があるね。待ち合わせは一ヵ月後の今日だと書いてあったはずだろうに」
「どういう事だよ。お前何を知ってんだ!」
彰の怒声をどこ吹く風と受け流し、男は首を振る。
「私は何も知りはしない。ただそれを渡すように命令されただけだ」
「誰に命令された!」
彰の怒鳴り声に、何事かと遠巻きから好奇の視線を向けられるが、それに気にしている場合ではない。
「そうまでして知りたいのなら、今日が終わる頃にまたここに来なさい。全ての真相を教えよう」
それだけ言って、男は歩き去った。
残された彰は火のついた感情のぶつけどころを失って、力任せにベンチを蹴った。
深夜零時。言われた通り彰は公園に戻って来た。
結局あの後は病院に戻らず、適当にその辺を散歩して時間を潰した。一度戻ったら外出禁止を食らうのは予想に難くなかったからだ。病院を出たのが午後三時過ぎだったので、九時間弱も外に居た事になる。
だが一時間も前から公園のベンチに腰掛けて待っているのに、待ち人は一向に現れない。
男の台詞は、やはりその場限りの嘘だったのかもしれないと疑心を抱くが、それでも彰には待つ事しか出来ない。
そしてさらに一時間が経ち、諦めて病院に戻ろうか考え始めた辺りで、遠くから近付いてくる足音があった。
ザッ、ザッと土を蹴る音が段々と大きくなる。
唐突に、闇の中から足音の主が手を叩く音がした。
「プレイヤー・彰、まずは祝福の言葉を送るよ。ゲームクリアおめでとう」
プレイヤーという言葉が出てきた事に、その足音の主が自分の待っていた人物だと彰は確信する。
だがその声には、聞き覚えがある気がした。それも最近、あのゲームの中で聞いた気がする。だがゲームで戦ったプレイヤーの中に、こんな声の人物はいなかったはずだ。
彰は足音の主を見ようと目を凝らすが、暗闇のせいで輪郭すらまともに見えない。
「怪我は治りきってないようだけど、外出をしても良かったのかい? ここで死なれたりしたら、折角病院まで手配したのが無駄になってしまうのだけど」
「いいから、姿見せろよ。ぶち殺すぞ」
殺気の込められた怒声を発する彰とは対照的に、その人物はくすっと笑った。
「君が私を殺すだって? 不可能だね。そんなこと出来るものなら、すぐにやってもらいたいものだよ。あんなゲームにすら手こずった、満身創痍でボロボロの君にさ」
「っ……」
「だけど、姿くらいは見せてあげようか。別に隠してるわけでもないしね」
そう言って、足音の主は数歩ほど歩いて彰の前に姿を表した。
まだ数メートルの距離はあるが、街灯のおかげで顔の細部までしっかりと見て取れる。
その人物は、予想外の小柄であり、彰にとって信じ難い人物だった。
先程までの怒りなど忘れ、彰は目を限界まで開いて立ち尽くす。
明らかにゲームの核心を知るその人物は、彰が琴音と同じくらいに大切に思い、そして失ってしまった、第四ゲームで脱落したはずの秋だった。
「な、なんで……」
震えながら、彰は二、三歩後ろによろけた。
「なんで、か。質問するんじゃなくて自分で考えてみたらどうだい? 仮にも君はMLGに合格したプレイヤーなんだからさ」
幼さをまるで感じさせない秋の口調に、彰は何も言えずに目を瞠る。
そんな彰の様子に、秋は深い溜め息をついた。
「まったく、信じられない事が一つ起きただけで動けなくなる。そんな有様で、よくあのゲームをクリアできたものだね。こんなんじゃ先が思いやられるよ」
「さき……?」
「あっ、そうか。まだ何一つ説明をしていなかったね。じゃあまずは、その事から理解してもらおうかな」
話についていけない彰を置いて、秋は続ける。
「今回のゲームはいわば査定なのさ。これから行ってもらう本当のMLGに参加する資格があるかどうかを監査するための、ふるい落としのようなものさ。だから今回のゲームには多種多様のゲームがあったんだよ。プレイヤーのより多くの素質を観るためにね」
説明されるMLGの概要は、明らかに秋が黒幕側の人間である事を示唆していた。
その事をまだ彰は信じられず、呆然とただ秋の話に耳を傾ける。
「第一ゲームの童話の部屋は、最低限必要な思考力のテストと次からのゲームの伏線。第二ゲームのロシアンルーレットは機転と度胸――あるいは覚悟と言った方がいいかもしれないね、それを試すゲーム。第四ゲームのカジノは技術と普通の知恵とは別種の知慮のテストだ。そして第五ゲームの逃走迷路は、総合力とプレイヤーの適性を判断するテスト」
「適性?」
ようやく金縛りから立ち直った彰は、疑問の声を上げた。
秋が黒幕である事を割り切れたわけではなく、思考が一時的に目の前の理解出来る問題に移っただけではあったが。
「そう、適性。あのゲームはプレイヤーによって攻略の仕方が千差万別になるゲーム。馬鹿正直に暗号を解く者もいれば、すぐさま拳銃を購入して鍵を奪う事だけに集中する者もいる。建物の中に隠れて最後の最後で漁夫の利を狙う奴も、策を巡らせて鍵を掠め取ろうとする奴もいるね。そのそれぞれの攻略の仕方を観る事で、そのプレイヤーがどんな人間性を持っていて、これからのMLGでどんなゲームに参加させるべきかを見極めるゲームだったのさ。まぁ結局、クリアできるのは多くても二人だけなんだけど」
その非人道的な発言を口にする秋は、およそ子供とは思えない顔つきをしていた。これが本来の秋の表情なのだろうか。
「そして最終ゲーム……の前に、第三ゲームの説明をしておこうか。あれは他のゲームと違って失敗しても次のゲームに進めるけど、もし失敗してゲームオーバーになれば罰ゲームが待っている特殊ステージだった。ちなみにあのゲームをクリアできなかったプレイヤーは三人だね。君が殺した鹿島琴音もその一人だよ」
「なっ!」
琴音を殺した事を他人の口から指摘され、彰は思わず叫びだしそうになった。身体を両手で抱く事でそれに耐える。
そんな彰の様子を気にする事なく、秋は続けた。
「あのゲームは第一ゲームよりも高度な思考力を試すゲームだったけれど、それとは別にもう一つの意図がある。それは第二ゲームまで攻略する事は出来たが、これからのゲームで確実に脱落するであろうレベルの低いプレイヤーに、このMLGというゲームをクリア出来なければどうなるのかを見せ、精神的に追い詰めれば下克上が可能になるかどうかを実験する意図だ」
「なん、だって……」
「他のプレイヤーはてんで駄目だったけど、鹿島琴音の進化は目覚ましかったね。機械のように冷静な判断力、勝ちにこだわる異常な執念、そして感情を消し去ったあの豹変ぶり。全てが理想の結果だった。あのまま最終ゲームをクリアしていれば、『人としての一線を超え、それをさらなる進化の足掛かりとする』ことが出来ていたはずなのに、勿体ない事をしたものだ」
溜め息をつきながら、秋はとんでもない事実を口にする。
「まさか君を生かすためだけにゲームをプレイしていたなんて、失望すら通り越して、呆れて物も言えないよ」
彰はその言葉に、秋がMLG側の人間だと知った時よりも数倍衝撃を受ける。
「いま、なんて……」
琴音が、俺を?
彰の態度に、秋はわずかに眉間に皺を寄せた。
「まさか、気付いていなかったのかい? 鹿島琴音が君を生かそうと必死になっていた事に。これはお笑いだね。彼女の存在なくして君がゲームをクリアする事なんて不可能だったのに、本人はまるでその事を理解していないんだから」
秋は肩を震わせて耐えきれないと言った風に笑う。
「第四ゲームではコインを集めながら君の様子をずっと窺って、あげく忠告までしたし、第五ゲームでは露骨に幾度となく君を救っていた鹿島琴音の存在に気付かず、君はゲームクリアを全て自分の手で成し遂げたなんて思い込んでいたわけだ」
想像もしていなかった秋の言葉に、彰は足元が揺らぐのを感じた。
そして琴音が変わってしまってからのゲームを全て思い出す。
「嘘だ。だって、琴音は三島と組んで俺を嵌めた。それに鍵だって、俺から奪って行ったんだぞ……」
彰の言葉に、秋は再度深い溜め息をついた。
「君は本当に何も分かっていないんだな。その程度でよくゲームをクリア出来たものだよ」
失望を隠そうともせずに秋は語る。
「暗号を奪ったのは君を狙っていた三島の溜飲を下げて、あれ以上君を狙わせないため。鍵を奪ったのだって、他プレイヤーのターゲットになるのを自ら引き受けるためだ。他にも鍵を二つとも手に入れた時に情報非公開を使わなかった事や、逆にゲームをクリアしたのにも関わらずその情報をわざわざ隠したのは、全てプレイヤーの目を君ではなく自分に向けさせるためのものだよ。そんな鹿島琴音の献身的な行動がなければ、君はあのゲームで鍵と一緒に命まで奪われていただろうね」
「ことねが……? そんな……」
愕然と、彰は地に膝をついた。
なんと言えばいいのか分からなかった。
自分のために、命懸けで力を尽くし、そして本当に命を投げ打ってくれた少女に、どんな感情を向ければいいのか分からない。
感謝か、謝意か、悔恨か、愛情か。それともそんな感情を抱く前に死ねばいいのか。
それが裏切られたと勘違いして、我が身可愛さに彼女を殺してしまった俺の罰になり得るのか。
「おいおい。こんな所で泣いたり叫んだりしないでくれよ。あとこれも、鹿島琴音から君へのメッセージだ」
彰が涙を零すよりも早く、秋が紙切れを跪いている彰の足元に投げた。
その紙は、第五ゲームの時に闇ショップの前で拾った、あの血染め紙切れだった。
『見落としがちな目の前の真実』
その文字を見た瞬間、彰の目から大粒の雫が溢れ出す。
書く物すら持っていなかったため、自分の血を使って書いたのだろう。他ならぬ彰が、鍵を見つけてあの場所に来る事を信じて。その文章の意味を理解してくれる事を信じて。
なのに俺は、琴音が自分のためだけを思って行動してくれているという真実を、見落としていた。
「う、…………うぅぅ……うわぁぁあぁぁぁああ……!」
深い悲しみを吐き出すように彰は泣き叫んだ。
だがその叫びは、長く続かなかった。
天を見上げて泣き出した彰の横っ面を、秋が容赦なく蹴り飛ばしたからだ。
全く予想外の攻撃に、彰は横倒れになって地面に転がる。
「泣くなとも叫ぶなとも言っただろ。まさかここまで理解力がないとは思わなかったよ」
彰を蹴った格好のまま、苛立ち混じりに秋が吐き捨てる。
「悲しむなら話が終わった後にいくらでも悲しめばいいさ。自己嫌悪に陥って自殺してもいい。だけど私の話は最後まで聞いてもらうよ」
頬を押さえて立ち上がりながら、彰は目の前の人物をあら限りの憎悪を込めて睨みつけた。
その人物が、かつて自分が身代わりになってでも助けようとした相手だという事も忘れて。
「鹿島琴音の話をしたのは私の善意だよ。感謝こそされても憎まれる謂れなんてない。その程度の事実も理解できないプレイヤーに、このゲームが行われている本当の意味について話すなんて、本来ならしたくもないんだけどね」
「本当の意味?」
「つまりは、MLGの真の存在理由だ。このゲームはMLGの名の通り、人を進化させるためのゲームだって事は覚えてるね。その進化とは人と神の間に当たる存在になる事。分かりやすく例えれば、天使とでも言うべき存在かな」
急に荒唐無稽な話になり、彰は眉根を寄せる。
「そんな天上の存在になるためにはどうすればいいか、それを真剣に考えた。学者か誰かはよく知らないけど、とりあえずそいつらは、結果的に進化とは脳の成長だという結論に辿り着いたんだ」
小説か漫画に出てそうな話に、彰は嫌な予感しか感じない。
「猿から人間に進化した時、劇的に変化したのは身体の造りより何より脳だと考えたわけさ。だがそう結論付けたはいいけど、それと同じ進化を辿るには根本的な問題がある。脳を人工的に成長させるのは科学では不可能だという問題さ。どれだけ知識を吸収しても、どれだけ難解な方程式を解けたとしても、それは脳が進化したのではなく、脳が出来る範囲の限界に近付いているだけに過ぎない。つまり元々それだけの事が出来るスペックが、人間の脳には存在しているんだよ。そこでそいつらは考えた。とりあえず脳の限界というものを測定する事から始めよう、ってね。そして長い研究の末、生命の危機に陥るような絶体絶命の状況こそが、脳が最も限界に近付いて能力が発揮される瞬間だという結論に至ったそいつらは、その状況に定期的且つ連続的に遭遇すれば、限界状態に陥らなくても常にその脳は最高の思考レベルを保てるという仮説も立てた。ただし、ただ死にそうになっただけじゃあ大して意味はない。人は大きな絶望の前だと思考する事を放棄したりするからね。だからこそ人と人とがぶつかり合い、相手を蹴落としながら、絶望的な状況を策や能力で打開できそうなゲームをそいつらは作ったんだ」
ニヤっと、彰の思考を読んだように秋が笑う。
「そう。それがこのMLGというゲームというの正体だ。幸い、これに賛同する出資者に困る事はなかったみたいだね。進化をちらつかせれば、いくらでも出資者は現れたそうだ。歪んでるというか貪欲というか、とにかくそれが人なのかもね」
愕然と、彰は拳を震わせる。
そんな馬鹿げた妄想で、あんな狂ったゲームを作り出し、そんなふざけた目的のために、多くの人を犠牲にしている。とても正気の沙汰ではない。
「ちなみに僕は、ゲームをクリアして脳を進化させるという目的のためだけに育てられた、生まれながらのMLGプレイヤーだ。この世に生を受けた瞬間からMLGに参加する事が決定していたし、実際に五歳の頃からゲームに参加して勝ち抜いてきた。他にも同じ境遇の奴らはいるらしいけど、私ほど幼いプレイヤーはいないみたいだね」
唐突に明かされた秋の正体に、彰は驚くよりも先に納得してしまう。その事を内心苦々しく感じた。以前はあれほど守りたいと思っていた相手に、いまはこんな感情しか抱けない事が、彰には堪らなく悔しかった。
「まぁ今回のゲームに参加したのは、ゲームの中から有望そうなプレイヤーを観察しろって命令を受けたからなんだけどね。第五ゲームからはモニターで見た方が好都合だったから、その前のゲームでわざと脱落したけどさ」
自分を生かそうとしてくれた行為が打算のためだったと聞かされ、彰は唇を強く噛んだ。正体を知った今、決して良心的な行為だとは思っていなかったが、本人の口からそれを告げられると、やはり心は重くなる。
「子供っぽい演技も完璧だっただろう? ああした方が警戒されないと思って、歳相応の性格をシミュレートしてみたんだ。ゲームの間はどこかのお人よしが世話してくれたけど、内心笑いが止まらなかったよ」
「お前……!」
「おっと。暴力はやめてもらおうか」
彰がとうとう我慢しきれず殴りかかろうとしたところで、秋は懐から拳銃を取り出してそれをこちらに向けた。
「賢明に生きなよ、プレイヤー・彰。感情で行動を起こしても、プラスの結果はついてこないって事くらい、ゲームをクリアした君なら分かるだろ?」
まだ自分を騙していた時のような、無邪気に見える笑顔を浮かべて秋は話を続ける。
「僕の後ろにある遊具のトンネルに、紙袋が置いてある。今回のゲームの賞金だ。必ず持ち帰ってくれ」
「……いらない」
「そうはいかない。持ち帰らなければ、直接君の口座に振り込む事になる。だけど出来ればそれは避けたいんだ。大きな金が動くと、必ず誰かの目を引いてしまうからね。それで君が逮捕されるなんて事態、私達は望んでいない」
いけしゃあしゃあとそんな事を言う秋を彰は睨みつける。どうせ自分が捕まろうと捕まるまいと、その程度の些事は気にも留めないだろう。
「さてと、そろそろ私は帰るとするよ。君が参加する真のMLGが決まり次第、連絡を入れるからそのつもりでね」
「参加するわけないだろ。そんなもの」
「君はまだ分かってないのかい?」
「……何?」
ドンと言う銃声が轟き、彰の頬を銃弾が軽く裂いた。
「断る術なんてない事を、だよ」
人に向けて銃を撃ったのにも関わらず、秋は全く態度を変える事なく言い放つ。
「君がゲームに参加しようとしなくても、強制的にプレイさせる事は可能なんだ。もしそれを嫌がって君が自殺したり、自ら警察に捕まるような事があれば、君に関係する人間を同じようにMLGに参加させるよ。両親、親戚、恋人、友人。そんな親しい人間達を、君はあんなゲームに参加させたいのかい?」
彰は何も言えなかった。
それを見て、秋はくるりと踵を返す。
「じゃあさようなら、プレイヤー・彰。五分後には銃声を聞きつけた野次馬どもが来るだろうから、お金だけ持ってとっとと帰る事を勧めるよ」
それだけ告げると、秋は暗闇の中に姿を消していった。
取り残された彰は、三日月が浮かぶ夜空を仰ぎ見て、小さく呟いた。
「助かる資格なんて、ないのかな……?」
結局公園に置いてあった賞金は、自宅の部屋の中に隠しておいた。ある程度の額ならば病院に隠しておく事も出来たのだろうが、紙袋の中にはなんと三千万もの大金が入っていたのだ。到底隠しきれるような額ではない。だがゲームが始まる前に見せられた金塊に比べれば、賞金は多いと言えるものではない。おそらくゲームでの彰の評価が低かったため、賞金もそれに応じて少なくなったのだろう。
幸い両親は寝ていたので、部屋の中にお金だけ置いて、誰にも気付かれない内にとっとと家を出た。両親は基本的に勉学以外の事で自分に無関心なので、余計な掃除などで金が見つかる心配もない。
金を置き、疲れ切った彰が病院に戻ると、玄関の辺りで彰を探していた看護士に捕まり、問答無用で病室に叩き込まれた。
どうやら重傷で入院しているはずの彰がいなくなっている事に看護士が気付き、手の空いている人間総出で彰を探していたらしい。あまり自覚していなかったが、肩をナイフで刺された上に銃弾までくらっているのだ。気軽に出歩いていいわけがない。
無理矢理ベッドに寝かしつけられた彰は、溜まっていた疲労のせいか、ものの二分も経たない内に深い眠りについた。
それから翌日の午後の三時まで彰は目を覚まさなかった。
起きてからもベッドの上で半身を起こすだけで、空を見ながら昨日の秋の話についてひたすら黙考を重ねる。
次のゲームがある、と秋は言っていた。それはつまり、あの恐ろしいゲームにまた参加しなければならないという事だ。傷付け、傷付けられ、そして生き残るためには人を殺すことだってやむを得なかったあの狂ったゲームに。自分が渡された賞金や、第五ゲームで舞台となったステージの広大さなどから考えるに、恐らくこのゲームの裏には、国かそれに匹敵するとてつもなく大きな組織が関わっているのだろう。狂った科学者やそこらの犯罪組織なんかには、あんな莫大な費用と権力が必要となるゲームを行えるわけがない。
次のゲームは、自分がクリアしたあのMLGよりもさらに難易度が高いと、秋は話していた。これからが本当のMLG、つまり彰達が行ったMLGは、単に参加資格を得るための前座のような物に過ぎない。その前座のゲームですら、彰は何度も死の危険に冒され、偶然と奇跡がいくつも重なり、そして琴音の自己犠牲があってなんとかクリアしたものだ。正直彰には、秋のようなMLGの熟練プレイヤー相手に勝てる自信など微塵もない。
しかしそれでも、彰に拒否権はない。どんなに死の危険があろうとも、彰はMLGというゲームに参加を拒めない。生き残るためには、ゲームに参加して勝つしかないのだ。
大きな溜め息をついて、彰はゴソゴソとポケットから紙切れを取り出した。
それは琴音の真っ赤な血で書かれた、彰への信頼の証。
琴音が彰を命懸けで守ってくれていたという、たった一つの証明だった。
琴音の事を思い出すと、抑え切れないほどの狂気が心を支配しそうになる。だがそれになんとか耐える事はできていた。思い出す度に狂いそうになって、明日には自分がどうなってしまうかも分からないが、それでもなんとかまだ生きている。琴音が助けてくれた命を、無駄にしたくない一心で。
助けてもらった命に報いて生きる事が、せめてもの贖罪であり、俺の責任だと思うから。
『コンコン』
不意にノックの音がし、続いて「お邪魔しま~す」という呑気な声と共に扉が開いた。
扉の向こうには二人の男女。陸斗と奏が立っていた。
姿を認め、彰は二人に向かって笑い掛ける。
「久しぶり、陸斗。奏」
彰が言葉を発した瞬間、二人の時間が止まった。
呆然と立ち尽くし、限界まで両目を見開く。
止まった時間の中で、遠くから聞こえてくる喧騒だけが、時が流れている事を主張する。
やがて目に溢れんばかりの涙を浮かべながら、奏が笑った。
「もう、一昨日も会ったじゃない。忘れちゃったの?」
続いて陸斗も満面の笑みを彰に返す。
「昨日はどこに行ってたんだよ、重傷人」
照れ臭くて笑う彰に、二人が駆け寄る。
奏は彰の胸に思い切りダイブし、陸斗は後ろに回って彰の首をロックした。
「良かった。彰が元に戻ってくれて、本当に嬉しい」
「心配させやがってコノヤロウ。マジでどうしようかと思ったんだからな」
「痛い、痛いって」
首に回された陸斗の手を叩きながら、彰は久しぶりに思いっきり笑った。
泣きべそをかく奏をからかい、その頭を優しく撫でる。
(これでいいのかな、琴音)
窓の外の空を見上げながら、彰は心の中で、一ヶ月前は会った事もなかった大切な人に話し掛ける。
(お前を殺してしまった事はどうやっても取り返しがつかないし、何をしたって償えるものじゃないけど、それでも俺は、笑って生きてていいかな?)
返事がない事が分かりきった問いを、自己満足と知りながら彰は心の中で呟く。
(どんなにつらくても、悲しくても、死にたくなっても、絶対生きるから。お前が生かしてくれた命を、精一杯生きるから、だから……)
病室で騒ぎ合いながら、彰は思い出の中の彼女に心を込めて告げた。
「こっちの方こそ、ありがとう」
彰の呟きに、陸斗が不思議そうに首をかしげる。
「どうした彰。またボケたか?」
「もう! そういう事は言わないでよ! 陸斗」
「だってこいつまた意味不明な事言ってんだぜ」
「意味不明なのは陸斗でしょ!」
「うわひっでー!」
騒がしい陸斗と奏に挟まれながら、心の底から彰は笑う。
その脳裏に、彼女の笑顔を思い浮かべながら。
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自分も頭を使いながら読めて、とても面白かったです。一気読みしちゃいました笑
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返信遅れて、すいませんでした。
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すごく良いです!
カイジやライアーゲーム大好きな私にとってはご褒美のような作品です!
とても素晴らしい作品に出会えたことに感謝です!