おっさんが願うもの

猫の手

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王都編 〜赤い月〜

151.おっさん、待機する

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 午後4時38分。

 旧訓練場が夕陽に真っ赤に染まり、それと同時に、地平線の向こう側から赤く染まった月が顔を覗かせる。

「ぐううっぅ…」
 腹の底から響くような唸り声を上げ、湧き上がってくる衝動に飲み込まれないように必死に押さえ込む。
 前日の、月がピークに達した時以上の衝動がすでにロイを襲い、己を抱きしめるように両腕を抱え込み、その腕に爪が食い込んで血を流していた。
「うう…うぅ…」
 地面に跪き、前後に体を揺すって閉じられない口から呻き声と唾液が絶えず溢れる。
 必死に呼吸を繰り返して、襲ってくる衝動に耐えようとするが、時折体内をゾロリと何かが動くような感覚に耐えきれず、前方に倒れ込むと頭を地面に打ちつけた。
「ガ…ァ」
 ゴリゴリと額を地面に押し付け、細かい石で擦られ傷つき、血を滲ませる。

 耐えろ。欲しい。
 耐えろ。食らいたい。
 耐えろ。貪りたい。

 耐えようとすればするほど、衝動が反発する。頭の中で俺の声がする。

 奪え。犯せ。食らえ。貪れ。

 心の中の暗い部分からゆっくりと顔を覗かせる俺の姿をした欲望が見え、目を見開くと大きな咆哮を上げ、その欲望の顔を殴り付けるように、結界壁をその拳で殴った。




「始まるぞ!
 4から6班!!魔法結界起動!!!
 起動完了と共にその場で攻撃体勢に入れ!!
 9から11班は現在の結界が構築出来次第起動しろ!!!
 1から3班!魔法防御壁を各班に展開!!
 7、8班!!同じく物理防御壁を展開しろ!!!」
 エイベルが大声で叫んだ。
 指示された各班が一斉に動き出し、次の瞬間、構築された全結界が起動し、半透明の光の壁が出現した。
 その数33枚。
 今構築中の結界がさらに追加されれば36層の結界の壁が完成する。
 当初の予定では33枚だったが、途中からロマも結界構築に参加したため、予定よりも3枚多く構築することが出来た。

 ガイの時はロマとイヴ、数人の弟子達で5枚ほどの結界を張り、それで充分だったが、ロイはその7倍以上という結界に、いかにロイが恐れられているのかを痛感する。
 ロマは後ろに下がり、全体を見渡しながら、魔導士の後方支援に回ることになる。

「魔力を出し惜しみするなよ!!
 枯渇しそうになったらすぐに退避することも忘れるな!!」
 エイベルが魔導士団の団員に叱咤激励しつつ各班の状況を確認して回る。
「ロイを封じ込めるぞ!!
 魔導士団の底力を見せてやれ!!!」
 大声で叫び、自分もロイの正面に陣取ると、訓練場を包み込む広範囲の魔法・物理防御壁を同時に展開させた。



「タンク!!前へ!!!」
 グスタフが目の前に並ぶフルアーマーを身につけた団員に叫ぶ。
「魔導士団各班の前に大楯の壁を作り、ロイの攻撃に備えよ!!
 行け!!」
 グスタフの号令と共に、団員が大楯をドンと地面に打ち付けて返事をする。
「1から3班は右舷!!
 4から6班は左舷に!!
 残りは正面魔導士団を守れ!!!」
 グスタフも巨大な大楯を持ちエイベルの元へ向かう。
「グレイ!!後は頼んだぞ!!」
「おうよ」
 グレイが手を上げて応えると、自分の前にいる小型の手持ち盾を持った団員に向き直る。
 タンク達と違い、俊足で小回りの効く獣人で構成されている部隊を見渡す。
「打ち合わせ通り、魔力枯渇で退避する魔導士をツーマンセルで保護しつつ、安全ラインまで後退させろ。
 シンの班は右舷、サイラス班は左舷、ライラ班は中央。
 後は状況を良く見て個別に判断しろ」
「了解!!」
「よし、行け」
 グレイの前から団員が走り去り、グレイは向きを変えて、暴れ始めたロイを見つつ歩き始める。
 訓練場を見下ろせる高台に上がると、そこにいたミネルヴァの隣に立った。
 彼女もまたフルアーマーをすでに着用していて、2本の細い片手剣を両腰に下げていた。彼女の剣は特殊で、真っ直ぐではなく日本刀のように反りがある剣だった。
 グレイの武器はその拳で、ロイと同じように剣よりも体術で戦闘するタイプだった。その両拳には魔法で物理強化された手甲が嵌められている。
「いつまで持つかしら」
「おそらく満月までは大丈夫だろうよ。問題はそこからだ」
 2人で翔平が作った一層目の結界壁に拳をぶつけるロイの姿を見下ろす。
「あれは…壁を破ろうとしているんじゃなく、痛みで衝動を抑えようとしているのね」
「多分な」
 グレイが眉間に皺を寄せる。

 咆哮を上げながら壁を殴り続けるロイの腕から血しぶきが飛ぶ。骨が折れ、血管が傷付く。だがそれでも打ち付けるのをやめようとしない。
 腕の腱が切れ、動かなくなった腕をダラリと下げた後は、頭を壁に打ち付け始め、その額からも血飛沫が飛んだ。
 しばらくすると自己修復して治った腕でまた壁を殴り始める。

「俺たちは、今はまだ見守ることしか出来ねぇ」
「そうね…」
 グレイがヨイショと地面に腰を下ろした。






「始まったようです。
 今はまだ自我を保ち、ショーヘイさんの結界内で暴れていると」
 連絡を受けたキースが天幕内にいる全員に聞こえるように言った。
 その言葉を聞いて、膝の上の両手をギュッと握りしめた。
 隣のディーがそっと俺の肩を抱き引き寄せ、手を重ねる。
「ロイも戦っています。信じましょう」
「うん…」
 小さく震える俺をディーが慰めるが、重ねられたディーの手もまた小さく震えていた。


 
 
 午後8時12分。

 満月を迎えるまで残り30分を切った頃、ロイの様子が変わる。
 それまで結界壁を殴り、蹴り続けていた行動がピタリと止むと、ヨロヨロと壁から数歩下がり、そしてガクリと地面に膝を着き座り込むと、脱力した腕をダラリと下げ首を垂れてゆらゆらと揺れ始める。
 そのロイの頭上に、満月を迎えつつある血のように真っ赤に染まった月が輝いていた。


 なんだ…これ…。

 ついさっきまであんなに体内で沸き起こり暴れまくっていた欲望が、波が引くように消えた。
 消えたのだが、体が動かない。動かせない。
 痛みも苦しみもなく、ただ虚無の中に放り込まれたような、フワフワした感覚に包まれた。
 散々自分で痛めつけ、傷付いた体が、徐々に回復していくのがわかる。
 消費した魔力も、その器が膨らみ、どんどんと魔力が満ちていくのを感じ、例えようのないほどの多幸感に包まれた。

 気持ちい…。
 イッちまいそうだ…。

 呆然としながらも、体を脳を包み込む快感に侵されて行く。
 細胞の一つ一つが快感にのまれ、ゆっくりとした侵食になす術がなかった。
 頭では、衝動に犯されているとわかっている。今まさに本能がゆっくりと表に出てこようとしているのが手に取るようにわかるのに、それに抗うことが出来なかった。

 ショーへー…。
 ショーへー、愛してる…。

 頭の片隅で、理性が愛を囁く。

「ショー…へー…」

 ロイの目から涙が落ちた。





「限界だ」
 グレイが立ち上がると、両腕をブンブンと降りまわし、胸の前で拳をガンガンと打ち鳴らした。
「全魔法起動しろ!!来るぞ!!!」
 エイベルが、グスタフが叫び、ミネルヴァが静かに抜刀した。


 午後8時34分。

 月が満月を迎えた。

 俯いていたロイの頭が突然持ちあがり、頭上の満月を見上げる。
 カッと見開いた目が赤く染まった月を凝視し、その瞳にくっきりと赤い月が映った。
「あ…」
 口を開け、小さく声をあげた瞬間、ロイの体が激しく痙攣を始めた。
 ガクガクと大きく揺れ動き、その無意識に動く体を抑えることも忘れて、そのまま仰向けに倒れ込む。だが、その目は瞬き一つせず、赤い月を凝視し続けていた。
「ガ…アァ…」
 口から悲鳴のような、呻くような声が漏れ始め、さらに大きく体が跳ねた。
「ガアアァァ!!!!!」
 次の瞬間、ロイの口から咆哮が上がった。
 周囲の空気を切り裂くような魔力を含んだ咆哮に、数十メートル離れた魔導士達が、ヒッと小さい悲鳴を上げた。
「グウゥ…」
 ロイの目の色が灰色から金色へ変わっていく。
 魔力が極限まで高められ、目だけではなく体も変化を始めた。

 メキ、ミシ、と骨と肉が軋む音が続き、ロイの体が大きく跳ね上がると、月から視線を逸らし、体を捻って四つ這いになる。
 その尻尾がビンッと真っ直ぐに立ち上がり、大きく膨れ上がった。
 さらに、腕や足の筋肉がミシミシという音と共に膨れ、来ていたシャツやズボンが内側から盛り上がった筋肉に耐えきれずに、ビリビリと避けた。
 両手両足の爪が伸び、鉤爪のような形に変形し、履いていた靴を突き破り、その指が地面を抉り取った。
「ショー…へー…」
 口を開け、ダラダラと涎を垂らしながら翔平の名を呼ぶ。犬歯が伸び、その歯をガチガチと鳴らした。
 ロイの変貌が終わり、その両手がガリガリと地面を引っ掻いて、湧き上がる強大な力を持て余した。

 欲しい。
 欲しい。
 欲しい。
 ショーへーが欲しい。

 どこだ。
 どこにいる。

 奪え。
 奪いに行け。
 奪って、犯せ。
 犯して、食らえ。
 食らって、貪れ。
 貪り尽くせ。
 何もかも、全てを。

 ショーへーを奪え。

 頭の中で本能が叫ぶ。
 ひたすら翔平だけを求め、翔平のことしか考えられない。

 鼻が動き、翔平の匂いを探す。
 すぐに翔平のいる方向がわかり、四つ這いのまま向きを変えると、思い切り地面を蹴って跳躍する。

 ガン!!!

 だが、翔平が張った結界壁がロイの体を弾き返した。
「グルルル…」
 壁にぶち当たり反動で後ろにひっくり返ったが、それでも何度も何度も壁に突進する。

 ガン!!!ガン!!!ガン!!!
 
 何度ぶつかっても壊れることのない壁に、ロイが首を少しだけ捻り、グルグルと唸り声を上げた。
 四つ這いからゆらりと立ち上がり、ゆっくりと壁に近付き、両手を壁につけると、その匂いを嗅いだ。

 ニヤァと口を開けておおきく笑い、長い舌を突き出すと、ベロォ…と涎を垂らしながらその壁を舐めた。

 壁からショーへーの匂いがする。

 その匂いを食らうように、何度も壁を舐める。
「はぁ…」
 大きな犬歯を剥き出しにして恍惚な表情を浮かべながら舐め回す姿に、じっと様子を見ていた全員の背筋に悪寒が走った。



「まるで魔獣ね」
 ミネルヴァがロイを見下ろしながら、獣そのものに変貌したロイに顔を顰める。
「自我も理性もぶっ飛んでんだ。理屈から言えば魔獣だろ」
 グレイが苦笑する。
「それもそうね」
「災害から厄災へ昇格か」
 今朝、ロイに言った言葉を思い出し、笑う。
「上手いこと言うわね」
 ミネルヴァが声に出して笑った。




 ロイの両手の伸びた爪が壁を引っ掻く。
 何度かそれを繰り返しながら、壁を舐め続けていたが、その行動がピタリと止まると、長い舌でペロリと唇を舐めた。
 次の瞬間、手の爪がメキッという音を立てて壁にめり込んだ。
 そのまま手をグググと力を入れ、開いた手を閉じて行くと、めり込んだ爪の間から血飛沫が飛び、数本の爪がそのまま剥がれた。
 それでもなお、めり込んだ爪から穴を広げるように手を握り込んで行く。

 ピシッ

 壁にその穴から亀裂が入った。



「聖女の結界が破られます!!」
 魔導士が叫んだ。
「全員、臨戦態勢に移行!!」
 エイベルの掛け声が響き、緊張が走る。

 その声とほぼ同時に、結界が割れた。
 ガラスが割れるように10m四方の箱が1箇所の綻びから砕け散り、キラキラしたカケラがあたりに飛び散った。

 ロイが嬉しそうに顔を歪ませ、そのまま左手を前方に突き出す。
 その瞬間、ロイの周辺に無数の魔法陣が出現し、その魔法陣からありとあらゆる魔法弾が炸裂した。
 火や雷、水、風、礫、無茶苦茶な魔法がロイを中心に360度全方位に向かって放たれ、バリンバリンと次々と結界が破られて行く。

「一気に5層突破されました!!」
「続けて第2波来ます!!!」

 ロイの両手が左右に広げられると、ロイの背後に巨大な魔法陣が出現し、今度は巨大な氷の塊がいくつも放たれる。

「7層突破されました!!!」
「残り23層です!!!」

「っち!」
 エイベルが舌打ちする。
「全員でロイの全方位に魔法防御壁を展開!!!」
 エイベルの指示でロイの周囲に無数の魔法防御壁が張られた。

 だが、ロイが大きく口を開けて嬉しそうに歪むと、瞬き一瞬でその場から消えた。
「3時方向よ!!!」
 高台からミネルヴァが叫ぶ。
 咄嗟に反応できたエイベルや隊長クラスの魔導士が、その方向に物理魔法壁を展開させた。
 だが、分厚く巨大な壁が壊れるような音が聞こえ、ロイの拳によって、新たに展開された魔法壁もろとも、4層破壊された。
「残り19層です!!」

 たった30分ほどで半分以上の結界が破壊され、エイベルが奥歯を噛み締める。


「重、圧、落」
 後方からロマの声が響いた。
 その瞬間、ロイの体が地面にベシャッと押しつぶされ、地面に這いつくばる。
「グウウウゥゥ」
 ロイの上に重力魔法がのしかかり、苦しそうな呻き声を上げた。
「重力魔法が使えるものは、重ねがけしろ!!」
 エイベルが指示を出し、数十人が一斉にロイの圧力をかけて行く。
 ロイの体が地面に押しつぶされ、地面にめり込みながら、その地面も重さでベコッと沈み込んだ。
「1分でも長く!!
 ロイをこの場に留めろ!!」
 エイベルが怒鳴った。
 重力魔法が使えない魔導士が、使える魔導士へ自分の魔力を流し込み、少しでも長く魔法が続くように支える。

 だが、それも長時間続けることは出来なかった。
 地面に押さえ込んで20分後に、1人、また1人と、魔力が枯渇寸前まで追い込まれ、倒れて行く。
 獣士団員が、倒れた魔導士を素早く担ぎ上げ、安全ラインまで下がらせる。
「グルルルル…」
 魔導士がいなくなるたびに、ロイにかけられる重みは減って行き、地面にめり込んだロイも、両手を地面につき、僅かに体を動かせるほどになっていた。
 

「まずいわ」
 ミネルヴァが出る。
 同時にグレイも走り出し叫ぶ。
「タンク!!構えろ!!!」
 重力魔法をかけている魔導士の前に、大楯が並び、壁を作った。
 そして次の瞬間、ロイが押しつぶされながらも周囲に無数の魔法陣を展開させると、そこから放たれた魔法弾が一気に全魔法壁を貫き、さらに魔導士達へ襲いかかった。
 ロイが放った弾丸のような魔法は、細く鋭い軌道でロケット花火のように四方八方に飛んだ。

 周囲から叫び声と悲鳴が起こり、雨のように降ってくる魔法弾から逃げまどい、タンクが大楯を傘のように頭上に掲げて魔導士を守る。
 それでもその魔法弾全てを防ぎ切ることは出来ず、残りをミネルヴァが剣で弾き返し、ロマが舌打ちしつつ重力魔法を解除すると、広域魔法防御壁を魔導士の頭上に展開させた。

「結界壁…、全消失…」
 たった一度の魔法攻撃で、残り19層の壁が打ち破られ、魔導士が腰を抜かしてへたり込む。

 ロイが重力魔法の圧から解放されて、ゆっくりと立ち上がり、そのまま体をゆらゆらさせながら、凹んだ地面から一歩一歩前に進んだ。

 その顔は笑っていた。

「退避しろ」
 エイベルが呟く。
「魔導士団、退却!!ここまでだ!!」
 その号令が響き渡り、当初の予定通り、魔導士が一斉にその場から退避を始めた。

 ロイが笑う。
 ペロリと長い舌で唇を舐め、両手を左右に大きく開くと、さらに魔法陣を展開させる。
 だが、そのロイの真横からグレイの拳が横顔にヒットし、ロイが吹っ飛ばされて地面を滑って行った。
「久しぶりに相手したらぁ」
 ゴキゴキとグレイが指の関節を鳴らし、ロイに歩いて近づいて行く。
「第2ラウンドといこうや」
 ロイがむくりと起き上がり、グレイを見るとニヤリと笑う。
「なんて目ぇしてやがる…」
 その目は金色に輝き、歓喜に満ち溢れていた。

 ロイとグレイが対峙したことを見たロマが、2人の周囲に魔法と物理、両方の魔法壁を展開し、その衝撃波が退避する魔導士へ届かないようにした。
 ミネルヴァもそのロマの障壁の中に入り、2対1の構図が出来上がる。
「ミネルヴァ、お前は少しでも温存しとけよ」
「わかってるわ」
 2人の会話が終わるや否や、ロイがグレイに向かって突進してきた。
 その速さにグレイは出遅れ、両腕でガードするが間に合わず、顔面に強烈な一撃を食らう。
「グ!」
 大きくのけ反ったグレイに畳み掛けるように、ロイの回し蹴りがグレイの頭を襲うが、今度はグレイのガードの方が早く、頭を狙った足を掴むと、その蹴りの勢いを利用して、ロイの体を担ぎ上げると地面に叩きつけた。
「お前の戦闘パターンはお見通しなんだよ!!」
 そのまま地面に仰向けに倒れたロイの顔面に向かって拳を打ち込むが、顔に当たらず地面に拳がめり込んだ。
 一瞬でグレイの拳から逃れたロイが、そのままグレイから離れ、ミネルヴァに向かい、体術の連撃を彼女に仕掛ける。
 だが、ミネルヴァは剣2本としなやかな動きで、スルスルとロイの攻撃を交わしつつ背後に回り込むと、剣の柄を首の後ろに叩きつけ、バランスを崩したロイの背中へ蹴りを放った。
 前のめりに倒れ込みそうになったロイだったが、体操選手のように両手を地面に着くと、くるりと前方宙返りで地面に着地し、そのまま四つ這いになり2人を見つめた。
「前は今の首への一撃で気を失ったんだけど…」
 ミネルヴァが呟く。
 ロイの目が細められ、本当に嬉しそうに笑っていた。グルグルと唸り声を上げながら、両手で地面をガリガリと削る姿に、理性を失い、本能で戦闘を楽しんでいると2人は理解した。






 午後9時50分。
 翔平が天幕の中で湧き起こる悪寒と戦っていた。
 1時間程前、満月を迎え、ロイが本能に支配されたと連絡があった。
 それから逐一報告される向こうの状況に汗が止まらない。
 つい20分程前、全結界壁が消失したと報告があり、天幕に居た全員が唾を飲み込んだ。

 早すぎる。

 予測では、2時間はかかると思っていたが、1時間も経たずに突破された。
 魔導士団はすでに撤退し、今は、グレイとミネルヴァがロイと対峙し、少しでも長くロイをこちらに向かわせないように戦闘中との報告があった。
 さらに、念入りに立てられた計画が功を奏し、魔力枯渇者が数名出たが、負傷者は1人も出ていないということが救いだった。

 だが、満月を迎え、ロイが本能に乗っ取られた瞬間から、翔平の体にも異変が起こっていた。
 かなり遠く離れているが、ロイの魔力を感じとり、その圧倒的な波動に体の底から悪寒が走る。

 ロイが俺を求めているのが、わかる。

「ショーヘイさん…」
 ディーが俺を抱きしめてくれる。
 カタカタと震える俺を抱きしめ、背中や腕をさすってくれていた。
「ロイが…、俺を探してる…」
 その震えは恐怖や怯えからくるものではないことはわかっていた。
 ただ、ロイの衝動的な魔力を感じ取り、それにあてられて無意識に体が反応しているだけだった。
「ロイ…」
 己の体を包むように体を縮め、服を強く握り込む。

 ロイ、ロイ、ロイ。

 何度も何度も心の中でロイの名を呼んだ。
 本能に支配されたロイが、何を感じているのかがわかる。
 今、ロイは戦いに歓喜している。
 アドレナリンが暴走し、目の前にいるグレイとミネルヴァとの戦闘に喜び、楽しんでいるのが、感じる魔力から伝わってきた。

 駄目だ。ロイ。
 止めろ。
 仲間を傷つけるな。

 心の中で必死に戦うのを止めるように懇願した。

 ロイ。
 ロイ…。






 ドン!ガン!!
 ロイとグレイが互いの拳を、蹴りをぶつけ合う。
 だが、自己治癒能力が極限まで高められたロイは、内出血も折れた骨も数分で治ってしまう。
 片やグレイは満身創痍の状態になっていた。
 元々ロイは捨て身で戦う戦法を良く使う。多少の傷や痛みを顧みず戦う姿はまさしく戦闘狂だった。今の怪我が治ってしまうという状況の中では、明らかにグレイは不利だった。
 さらに、ロイは全く本気を出していないこともわかる。
 そう。
 じゃれているのだ。
 いつもの模擬戦となんら変わらず、己の体術の技術を磨いているような戦い方に、グレイはとっくに自分は遊ばれていると気付いていた。

 ロイが正気を失って1時間30分が経過しようとしていた。
 このまま続けることは出来ない。
 グレイはもう限界が近い。
 こんな状態のロイを相手に、30分近く戦い続けたグレイに、ミネルヴァは止めさせるタイミングを見計らっていた。

 だが、ロイの動きがピタリと止まる。
 突然立ち尽くし、夜空を見上げたかと思うと、クンクンと匂いを嗅いだ。

「ショー…へー」
 ロイの口が微かに動き、闘争本能が薄まり、生殖本能が再びロイを支配し始めたことがわかった。

 それは、遠く離れた翔平がロイを想うのと同時に起こっていたことは、グレイもミネルヴァも知る由もない。
 だが、ロイはもうグレイに興味をなくし、ゆらりと翔平の匂いの方へ歩き始める。

 犯したい。
 貪りたい。
 食らいたい。

 その欲望だけがロイを支配する。
 クンクンと匂いを嗅ぎ、翔平の匂いを辿る。

 いい匂い。
 美味そうな、いい匂い。
 欲しい。
 食べたい。
 食らい尽くしたい。

 欲しい。
 欲しい。
 欲しい。

 ロイの足が地面を蹴った。



「グレイ、お疲れ様。行くわね」
 ミネルヴァがグレイに微笑みかけ、ロイの後を追った。
 残されたグレイがその場に座り込む。
「はぁ…あの野郎。正気に戻ったら覚えてろよ」
 グレイが笑い、その場に仰向けに転がると、意識を失った。






 午後10時2分。
 翔平の体が大きく跳ねる。
「来る」
 はっきりと言った。
「わかるんですね?」
 ディーに聞かれ、大きく頷く。
「ロイ様が訓練場を離れたそうです」
 すぐ後にキースが通信からの内容を報告する。
 レイブンが、ギルバートが、レインが立ち上がり、天幕から出て行った。
「予測より30分ほど早いですね」
 キースが苦笑する。
「ええ。でも、まだ予測範囲内ですよ」
 ディーも立ち上がり、長剣を手に持つ。
「ディー、待ってくれ」
 天幕から出て行こうとするディーを引き留め、俺も立ち上がる。
 そして、ディーのアーマーの首の部分を掴むと、自分に引き寄せて唇を重ねた。
 ディーも片手で俺の頭を掴むと、キスを深くする。
「無事で…。ロイを…頼む」
「ええ」
 ディーが微笑み、再び軽い口づけを落とすと、天幕から出て行った。
「ショーヘイさん…」
 キースがそっと俺の肩を掴み、天幕の奥へと引き戻す。

 俺は椅子に座らず、そのまま天幕の中央の床に座った。
 ゆっくりと目を閉じ感知魔法を広範囲に展開させると、外にいる騎士達の位置を把握した。
 感知魔法とは別に、俺の中の直感がロイがこちらに向かって、徐々に近付いてくるのを感じていた。
 おそらく2時間もかからない。
 深夜0時前にはここに到着して、戦闘が始まる。


 ロイ…。
 必ず救ってみせる。
 
 皆もどうか無事で…。


 膝の上で祈るように手を組み、深呼吸を繰り返しながら、全員の無事をひたすら願い続けた。




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