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六話 努力

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殺したいやつがいっぱいいた。
父さんも母さんも名前の知らない妹も塾の先生たちも周りの同級生も。
それは数えきれないほどに。
でも、殺さなかった。
というか殺せなかった。
包丁はいつも調理室にあったから、お手伝いたちの目を盗んで取りに行くことはできた。
だから、一人で調理台の陰に潜んで包丁を握りしめる日が何日もあった。
殺したいやつらを頭に浮かべながら。
ただその先が進まない。
俺はこっそりと包丁を握りしめるだけでどこか安心していた。
まだ殺さないけどいつでも殺せるんだという。
「翔太!どこにいるの!?」
廊下から母さんの声。
いつも信じられないくらい耳障りで、うっとおしい声だ。
俺は昨日と同じように調理室に忍び込んでいた。
「英会話の先生がみえてるから早く来なさい!」
声はだんだんと近づいてくる。
英会話の授業が振替で今日の午後になったのを完璧に忘れていた。
今出て行ったらものすごく怒られて、きっと調理室に二度と入らないように何らかの方法で手配されてしまうだろう。
「翔太!」
声は調理室を通り過ぎていく。
危機は去ったのか。
一度の安息に息をつく。
毎日自室にこもって習い事と勉強ばかり。
友達などというものはいない。
いまだに幻想か何かじゃないかと思っている。
でも、俺には二歳年下の妹がいるらしい。
父さんと母さんがひそひそ声で話していたのを聞いた。
よく聞こえなかったけど、絶対に『妹』と言っていた。
いつのまに妹ができていたんだろう。
まだ見たことはないけど。
家で跡継ぎはもしかしたら俺ではなく、その『妹』になるのかもしれない。
二歳年下だと四歳かあ。小さいなあ。
あの頃はまだ純粋で、毎日が楽しかった。
お手伝いたちは裏表なく俺に接してくれたし、みんな優しかった。
だけど、そんな人生が一変したのは十日ほど前のことだった。

俺は一人で自室にいた。
すでに父さんと母さんに買ってもらった黒くて真新しいランドセルを抱えて、パソコンを起動させていた。
私立小学校の合格通知を見るためだ。
57、58、59、60!!
部屋の時計がぴったり十時になった。
クリックボタンを押す。
すると、画面には桜の花びらなど一枚も舞っていない殺風景な背景があった。
真ん中には不合格の文字。
抱えていたランドセルが床に落ちる。
最初は何かの間違いだと思った。
嘘だ。嘘だ。
俺、こんなに勉強したよ。
こんなに頑張ったよ。
不合格なんて。
そんなわけないじゃないか。
後ろからノックが聞こえた。
「翔太?どうだった?」
母さんが部屋に入ってくる。
「あ…!あの!何かの間違いです!母さん、俺」
母さんはパソコンの画面を覗き見た。
「何、これ?翔太、合格できなかったの?あんなにお金をかけたのに。嘘だよね?ねえ。」
母さんが俺の肩を掴んだ。
顔はこっちを見ているけど、目はどこを見ているのか分からなかった。
その目には光がなく、とても怖かったからだ。
俺は何も言えずに俯いた。
すると、手を離した母さんは足早に部屋を出て行ってしまった。
父さんに報告しに行ったのだろうか。
どう、しよう…。

午後七時。
自室で一人、夕食を食べていたときだった。
ノックが聞こえた。
「失礼します。お父さまが呼ばれております。」
「ああ。ありがとう。」
お手伝いは俺が返事をすると、すぐに行ってしまった。
なんかいつもより態度が少し冷たいような気がする。
それはともかく、早く父さんの書斎に行かないと。
怒られるのは俺にとってとても嫌なことの一つだ。
夕食は冷めてしまうけど、そんなことは言っていられない。
スプーンを置いて、急いで部屋を出た。
この家はおそらく他の家より広く、部屋数も多い。
俺の部屋から父さんの部屋までも結構遠いのだ。
俺の部屋は二階の角部屋。
父さんの部屋は三階の一番奥だ。
階段に敷かれた赤い絨毯を踏みしめ、上っていく。
そして、右に曲がって突き当たりまで行くと、精緻なレリーフがなされたドアがある。
緊張で体がこわばる。心臓の音がうるさい。
三回、ノックする。
「入れ。」
すぐにドアの向こうからくぐもった声が聞こえた。
「…失礼します。」
部屋に足を踏み入れ、音を立てないようにゆっくりとドアを閉める。
父さんが口を開いた。
「…翔太。お前は小学校に行かなくていい。とりあえず公立小学校に入学して、式のときだけ登校しなさい。あと、遊んでいないで家でちゃんと勉強を見てもらいなさい。」
「…。」
頭の理解が追いつかなかった。
当然私立小学校に落ちたなら公立小学校に行くとは思っていたけど、学校に行くな?
それに俺は遊んでいない。
友達だって作ってこなかったし、勉強も言われた量は全部こなしていた。
それなのに…父さんは…。
「返事はどうした!!」
父さんは目を見開き、声を荒げた。
「分かりました…。失礼します。」
もうこれ以上同じ部屋にいたくはなかった。
ドアを開けて廊下に出ると、また静かに閉めた。
これで俺の六年間の未来は決まってしまった。
きっとほとんど外に出ることは許されず、父さんと母さんとお手伝い、先生以外の人と話すことも許されないんだろう。
軽く軟禁じゃないか?
これからおそらく私立中学への受験勉強がみっちりと行われる。
もう失敗も絶対に許されない。
周りの期待に必ず、何としても応えるのが俺の役目だ。
もっと頑張らなければいけない。もっと。
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