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第1章 崩壊
#8 消えた真実の中で
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——人間は、しばしば矛盾する。
「科学と魔法が同じ世界に存在する」などといったことよりも、ずっと多くの矛盾を人間は抱えている。
きっと、誰もがそうやって生きている。
百合ヶ丘ランの最大のアイデンティティは「真実の探求」であった。
ランの幼い頃、3歳のときのことだった。
彼女は「三平方の定理」を発見した。
有名な定理であって、それを知らぬ科学者はいない。
しかし彼女は系統だった読み書きを始める以前に、自力でそれがわかったという。
「本質的な真実を発見する」という営みは、ランにとってはこれが始まりであった。
だが、そのとき彼女は「彼女が知った三平方の定理」を表現する言葉を知らなかった。それが悔しくてたまらなかった。
それから1年後、「証明」というプロセスの存在を彼女は知った。どうやら、ある確かな事実Aをもとにして、他の事実Bを導く、というものらしい。
つまり、これは彼女にとって「彼女が知った三平方の定理」が証明できる可能性であった。
算数をスキップして、両親に懇願して数学の書籍を買ってもらった。
「自分が知っていた真実がついに他の人にわかってもらえる」と、幼いランは期待に胸を膨らませた。
その数学書の最初の「証明」の例題として書いてあったのは「ピタゴラスの定理」であった。
要するに、「彼女の三平方の定理」とは、「ピタゴラスの定理」だった。
幼かったランは絶望した。
結局自分のやっていることは、すでに先人がやっているのだと、そう思うようになった。
その後は読書や音楽鑑賞といった、受動的な趣味を楽しむようになった。しかし、何か満たされないままだった。
それは偶然だった。
ある日、ランの父は学会でAIの研究の発表をする予定だったのだが、肝心のノートパソコンを忘れてしまった。
ランの父は母の携帯に電話をして、ノートパソコンを届けてもらうように頼んだ。往復では発表に間に合わないためだ。
ランは家で待っているという選択肢はあったが、なんとなく母についていった。
父の発表する講堂の入り口で、母がノートパソコンを父に渡した。発表の数分前だった。
「せっかくだし、たまにはあなたのくだらない研究でも聴こうかしら」
母が小声で話しかける。
「いや、くだらないってことはないだろう。この手法で世界中のチェスプレイヤーが倒せるんだぞ」
「ふふ、そういうところが、くだらないのよ。でも、頑張ってね」
そういって母は踵を返した。
しかし、ランは帰ろうとしなかった。
一言、つぶやいた。
「少し、お父さんの話を聞いてみたい」
母は微笑んで、ランを講堂の入り口近くの席に座らせた。
「百合ヶ丘さん、お久しぶりです」
若い男の声だった。母が会社で研究をしていたころに、インターンでやってきた学生だった。
「あら、久しぶり。行き詰まってた証明は書けた?」
「いや、まだ半分いってるかどうか……」
「まあ、でもテーマが難しいだけだから、きっとそのうち——」
そう言っている間に、準備を終えた父が挨拶を始めた。
「ABC工科大学人工知能研究所の百合ヶ丘です。本日は『チェス対戦AIのためのマルコフ連鎖モンテカルロ法の高速化手法』について発表を行います。まずはじめに——」
幼いランには、その発表の内容はわからなかった。
だが、目の前の発表のスライドの、きっと何か複雑な事象を表している数式の連続に対して、父が理知的で整然かつ熱意を持って発表している様子——それは彼女の心を揺さぶった。
ふと周りの人を見てみる。みな真剣な表情をして父の話を聞いている。
ただのチェスがテーマなのに、なぜこんなに数式が出てくるのだろう。
ただの数式に対して、なぜ父からこれほどの情熱を感じるのだろう。
父が発表を締めくくった。パチ、パチ、パチと、拍手が講堂に響いた。
ランはそのあと家に帰ると、本棚の一番奥にひそめてあった数学書を手に取って、最初の例題「ピタゴラスの定理」の証明を読んでみた。
「こんな定理はつまらないけど、それでも科学者は皆、これを大事にしているのか——」
彼女はそう呟いた。
実際にはもう少し何か、より大きな観念を大事にしているのだと、そう思ったのだが、そのときはちょっと馬鹿らしくて言えなかった。
「科学に人生を賭けてみるのもいいかもしれないな」と、ランはそう思った。
こうして彼女は、科学、とくにAIを学び、研究した。
その速度は驚くべきものであった。
17歳にして博士課程を修了し、大学教授を努めているのもそれが所以だ。
「真実の探求」とは、彼女が生きてきた証であった。
しかし、彼女はいま、それを否定する——。
「あまりにも過剰なる真実の消失」
彼女が結界の中に入って静かにそう唱えると、破損した原子炉の周辺にあった放射線の量は、事故以前の数値に戻っていた。
原子炉の損壊も治っていた。
結界も、消えていた。
その事故は、一切「なかったこと」になった。
少なくとも、「科学の観点」からすれば。
「なかったこと」になるまでの少しの間、ランには時が止まっているように感じた。
実際には、「あったこと」を「なかったこと」にする「嘘をつく関数」となった彼女は、時間という概念を超越していた。
彼女は過去をかき消すような甲高い声で笑っていたが、その声は泣いていた。
しかし同時にそれは未来への覚悟でもあった。
これから彼女が「創造」する、「守るべきものを守る」ための——
「虚構を締めくくる……」
彼女がそういうと、「嘘をつく関数」と化していた彼女は現実に戻り、元の世界と調和した。
彼女のアイデンティティは、もう、消えていた。
「百合ヶ丘先生!え……」
シュウとアイルは状況を理解できなかった。
いや、理解したくなかったのかもしれない。
結界に向かって歩いていたランが、一瞬消えたように見えた。
そして次の瞬間、そこから3メートルほど離れたところで、ランが笑いながら泣き崩れている。
彼女を中心として数十メートルの風景が鮮やかに、そして虚しく輝いていた。
「科学と魔法が同じ世界に存在する」などといったことよりも、ずっと多くの矛盾を人間は抱えている。
きっと、誰もがそうやって生きている。
百合ヶ丘ランの最大のアイデンティティは「真実の探求」であった。
ランの幼い頃、3歳のときのことだった。
彼女は「三平方の定理」を発見した。
有名な定理であって、それを知らぬ科学者はいない。
しかし彼女は系統だった読み書きを始める以前に、自力でそれがわかったという。
「本質的な真実を発見する」という営みは、ランにとってはこれが始まりであった。
だが、そのとき彼女は「彼女が知った三平方の定理」を表現する言葉を知らなかった。それが悔しくてたまらなかった。
それから1年後、「証明」というプロセスの存在を彼女は知った。どうやら、ある確かな事実Aをもとにして、他の事実Bを導く、というものらしい。
つまり、これは彼女にとって「彼女が知った三平方の定理」が証明できる可能性であった。
算数をスキップして、両親に懇願して数学の書籍を買ってもらった。
「自分が知っていた真実がついに他の人にわかってもらえる」と、幼いランは期待に胸を膨らませた。
その数学書の最初の「証明」の例題として書いてあったのは「ピタゴラスの定理」であった。
要するに、「彼女の三平方の定理」とは、「ピタゴラスの定理」だった。
幼かったランは絶望した。
結局自分のやっていることは、すでに先人がやっているのだと、そう思うようになった。
その後は読書や音楽鑑賞といった、受動的な趣味を楽しむようになった。しかし、何か満たされないままだった。
それは偶然だった。
ある日、ランの父は学会でAIの研究の発表をする予定だったのだが、肝心のノートパソコンを忘れてしまった。
ランの父は母の携帯に電話をして、ノートパソコンを届けてもらうように頼んだ。往復では発表に間に合わないためだ。
ランは家で待っているという選択肢はあったが、なんとなく母についていった。
父の発表する講堂の入り口で、母がノートパソコンを父に渡した。発表の数分前だった。
「せっかくだし、たまにはあなたのくだらない研究でも聴こうかしら」
母が小声で話しかける。
「いや、くだらないってことはないだろう。この手法で世界中のチェスプレイヤーが倒せるんだぞ」
「ふふ、そういうところが、くだらないのよ。でも、頑張ってね」
そういって母は踵を返した。
しかし、ランは帰ろうとしなかった。
一言、つぶやいた。
「少し、お父さんの話を聞いてみたい」
母は微笑んで、ランを講堂の入り口近くの席に座らせた。
「百合ヶ丘さん、お久しぶりです」
若い男の声だった。母が会社で研究をしていたころに、インターンでやってきた学生だった。
「あら、久しぶり。行き詰まってた証明は書けた?」
「いや、まだ半分いってるかどうか……」
「まあ、でもテーマが難しいだけだから、きっとそのうち——」
そう言っている間に、準備を終えた父が挨拶を始めた。
「ABC工科大学人工知能研究所の百合ヶ丘です。本日は『チェス対戦AIのためのマルコフ連鎖モンテカルロ法の高速化手法』について発表を行います。まずはじめに——」
幼いランには、その発表の内容はわからなかった。
だが、目の前の発表のスライドの、きっと何か複雑な事象を表している数式の連続に対して、父が理知的で整然かつ熱意を持って発表している様子——それは彼女の心を揺さぶった。
ふと周りの人を見てみる。みな真剣な表情をして父の話を聞いている。
ただのチェスがテーマなのに、なぜこんなに数式が出てくるのだろう。
ただの数式に対して、なぜ父からこれほどの情熱を感じるのだろう。
父が発表を締めくくった。パチ、パチ、パチと、拍手が講堂に響いた。
ランはそのあと家に帰ると、本棚の一番奥にひそめてあった数学書を手に取って、最初の例題「ピタゴラスの定理」の証明を読んでみた。
「こんな定理はつまらないけど、それでも科学者は皆、これを大事にしているのか——」
彼女はそう呟いた。
実際にはもう少し何か、より大きな観念を大事にしているのだと、そう思ったのだが、そのときはちょっと馬鹿らしくて言えなかった。
「科学に人生を賭けてみるのもいいかもしれないな」と、ランはそう思った。
こうして彼女は、科学、とくにAIを学び、研究した。
その速度は驚くべきものであった。
17歳にして博士課程を修了し、大学教授を努めているのもそれが所以だ。
「真実の探求」とは、彼女が生きてきた証であった。
しかし、彼女はいま、それを否定する——。
「あまりにも過剰なる真実の消失」
彼女が結界の中に入って静かにそう唱えると、破損した原子炉の周辺にあった放射線の量は、事故以前の数値に戻っていた。
原子炉の損壊も治っていた。
結界も、消えていた。
その事故は、一切「なかったこと」になった。
少なくとも、「科学の観点」からすれば。
「なかったこと」になるまでの少しの間、ランには時が止まっているように感じた。
実際には、「あったこと」を「なかったこと」にする「嘘をつく関数」となった彼女は、時間という概念を超越していた。
彼女は過去をかき消すような甲高い声で笑っていたが、その声は泣いていた。
しかし同時にそれは未来への覚悟でもあった。
これから彼女が「創造」する、「守るべきものを守る」ための——
「虚構を締めくくる……」
彼女がそういうと、「嘘をつく関数」と化していた彼女は現実に戻り、元の世界と調和した。
彼女のアイデンティティは、もう、消えていた。
「百合ヶ丘先生!え……」
シュウとアイルは状況を理解できなかった。
いや、理解したくなかったのかもしれない。
結界に向かって歩いていたランが、一瞬消えたように見えた。
そして次の瞬間、そこから3メートルほど離れたところで、ランが笑いながら泣き崩れている。
彼女を中心として数十メートルの風景が鮮やかに、そして虚しく輝いていた。
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