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第40話 償い

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 室内の気配はひどく強ばり、僅かな音を立てることさえはばかられた。きっとビンセントは、生き延びるために喰ったという友人の話をしようとしているのだ。トミーは、そしておそらくはサミーとビリーも、息を詰めてビンセントを見つめた。
 
「あれは何年前になるかな。もう三十年以上経ってるはずだ。オレは十を少し過ぎたくらいのガキだった。その頃は掃除兵として働いててな。毎日毎日、砂や煤にまみれて、大人たちに小突かれて、ろくに飯にも水にもありつけなくて、そんな生活を送ってたよ。
 それでも、オレがなんとか生きていられたのは水売りの孤児、ケンがいたからだ。孤児っていうと、狂犬みたいな野郎ばっかだけどな、奴は違った。戦車の大人に言われてオレが水を買いに行くと、あいつはオレが飲めるように必ずちょっと多めにくれてな。それに捕まえた獲物や、村で買った食い物を少し残しておいて、分けてくれることもあった。オレだけにじゃない。水を買いに来る掃除兵みんなにそうしてた。
 人間ってのは育った環境で変わるというが、それは違う。本当に心根の優しい奴ってのはいるもんだ。ケンはそういう奴だった」
 ビンセントが深く落とした息で、他のあらゆる息遣いが遠のく感じがした。部屋を満たす空虚さにするりと入り込むように、再び彼の声が語り始める。
「オレはケンのことが好きだった。誰よりいい奴だったからな。だからだったんだろうな、ある日、水を買いに行った時、たまたまあいつが襲われそうになってるとこに出くわして、オレは何も考えず向かっていった。それであいつを犯そうとしてたクソ野郎を追い払った。ケンは何度も何度も礼を言ったよ。あんなの、あいつがオレにしてくれてたことに比べれば何でもなかったのにな。とにかく、それがきっかけで、オレとケンはそれまでよりもずっと親しくなった」
 ビンセントの話は、また途切れた。言葉を重ねるごとに増していた寂寥感にはっきりと意識を捕えられる。それが嫌で、トミーは顔をうつむけた。
「そのうちに、オレは考えるようになった。大人にこき使われて、体力も精神もすり減って、そのまま戦闘の流れ弾に当たっていつ死ぬともしれない生活を続けるより、逃げちまった方がいいんじゃないか、ってな。ケンと一緒に。砂漠で生き抜く術を心得たあいつがいれば、きっと上手くいく。それに、あいつがまた犯されそうになったら、オレは何度だって助けてやる。絶対にそれがいい。オレにとっても、ケンにとっても。その時はそうとしか思えなかった」
 ビンセントは枯葉みたいに乾いた笑い声を上げた。
「バカだったんだよ、オレは。二人で自由に生きていけるんだって、妙な夢を見てたんだ。
 オレはケンに、その話を持ちかけた。今から思えば、あいつは気づいてたんだろう。そんなの無理だってな。でも優しいやつだから、そうは言えなかったんだ。
 とにかく、それでオレとケンは二人で逃げた。最高の気分だったよ。どんなことでもできそうな気がした。けどな、そんなくだらない夢に浸っていられたのは一瞬だった。
 ケンは戦車に水を売れなくなった。そんなことしたら、オレはすぐにとっ捕まっちまうからな。そのせいで、戦車の後ろ盾がなくなった。その時は知らなかったが、水売りのガキってのは、安く水を売る代わりに戦車からの庇護を受けてたんだよ。だから、襲われて水を奪われることがなかったんだ。でも、戦車に水を売れないんじゃあ、そんな庇護は受けられない。すぐにオレらは水を奪われた。金も手に入らなくなったオレらは、何日もひどい渇きと飢えに苦しんだよ。たまにケンが蛇やサソリを捕まえてくれたが、そんなんで腹がふくれるわけもない。そのうち、まともに考えられなくなったオレは、とにかくでかい獲物を捕まえようと考えた。近くをうろついてたコヨーテを殺して食おうと思ったんだ。逆に食われるに決まってるのにな。それでオレはある日、持ってた小せぇナイフでもってコヨーテを襲おうとした。当然、敵わない。食い殺されそうになったオレを、追いかけてきたケンが助けてくれた。オレをかばって噛み付かれたが、ナイフでコヨーテの目を潰してな、コヨーテは逃げてったよ」
 ビンセントは何もない宙をじっと見つめていた。目はつい先刻までの恐ろしいビンセントからは考えられないほど穏やかで、それでいて悲しげな光が湛えられていた。
「ケンは食い殺されはしなかったが、噛まれた傷がひどくてな。何とかしたかったが、その時のオレには手当の仕方も分からなかった。それで、ケンはオレに言ったんだ。自分を殺して食べればいいってな。そんなことできないと答えても、あいつは譲らなかった。この傷じゃあ自分はそのうち死ぬ。それなら、お前が生き延びた方がいい。そう言ってな。それで――」
 ビンセントの声が、急に詰まった。一瞬の、けれど全身を冷たくするような沈黙が落ちてきた。
「オレはケンを殺して食った。そうするしかなかった。でもな、後にも先にも、あんなに不味いものはなかった。ひどかったよ、本当にな。でも、オレはなんとかそれで生き延びた。だから決めたんだよ。せっかくケンに貰った命を無駄にはしねえって。世の中を変えるくらいでかい人間になってやろうってな。そのために必要なら、誰のことだって殺す。そうじゃなきゃ、ケンに申し訳が立たない。生きるためにあいつを殺したことを考えれば、似たような目的のために他の奴を殺すのは当然だし、屁とも思わねえ。たとえ相手がガキでもな」
 ビンセントの目元に鋭い敵意が現れた。彼は憎悪に凍ったままの目をビリーへ向けた。
「ランディとお前らが戦った時、一人逃げたらしいな。元々ランディのとこにいたチビだって話だが、お前か?」
 ビリーはすっかり恐怖で固まってしまったらしく、数秒、肯定も否定もせず、瞬きすら忘れて立ち尽くしていた。けれど、ふと我に帰り、慌てた様子で首を振った。ビンセントは、しばし、ビリーを凝視してから表情を緩めた。
「そうだな、お前は体に目立った傷跡もないし、ランディの野郎の好みからは外れそうだ。もしそいつだったらすぐに殺してやろうと思――」
「ふざけんな」
 遮られたビンセントは、ゆっくりと首を回して声の主――トミーを見た。
「なんか気に障ること言っちまったか?」
 飄々とした態度が頭に来た。トミーの眉間は嫌悪に歪む。
「ケンって野郎が気の毒だ。死んだ後まで、てめぇが気に入らない野郎を殺す言い訳にされてんだからな。それに、てめぇは何でも分かったような振りしてやがるが、何にも分かってねぇ。ディッキーはあの変態野郎にヤリ殺されるくらいにボロボロにされてたんだ。それを何でもねぇことみたいに言いやがって。てめぇはディッキーみたいな仕打ち、受けなさたことねぇんだろうが」
「自分はあるみたいな言い方だな」
 そこでビンセントは何か閃いたように目を光らせ、そして笑った。
「そうか、お前、孤児だったんだっけな。それなら犯されたことがあっても不思議じゃない。図星だろ?」
 悔しさと羞恥で体が一気に熱くなった。ぐっと拳を握ると、汗ばんだ手の中で銃が、ぐぐぐ、と滑っていく。
「そうか、そりゃあ随分と無神経なことを言っちまったなぁ」
 ビンセントの嘲るような口ぶりが、胸の古傷を抉った。こんな奴にこんなことを言われる筋合いはない。そう思った時、サミーが声を上げた。
「もうやめてください! 一体、何が狙いなんですか? 殺す気ならいつだって殺せるのに、わざわざぼくたちに自分の話をして、動揺させて、傷つけて、どうしようっていうんですか?」
 今度はサミーへ振り向き、ビンセントは話す。
「言っただろう? オレは話がしたいだけだ。ケンのことはな、よくいろんな奴に話してんだよ。今のオレには怖いものなんてほとんどないが、でも、ケンのことを忘れるのは怖い。あの時のいろんな感情が風化してっちまうことが、オレは怖いんだよ。だから機会があれば話すようにしてんだ。でも、オレだけこんな打ち明け話すんのもおかしいだろう。お前たちの話も聞きたいんだよ」
 それから、ビンセントは再びにたりと口角を吊り上げた。
「お前も何かありそうだな。さっき、そこの孤児のガキのこと話してた時、お前、嫌そうな顔してやがったよな? 縄張りに入った奴は手当り次第に身ぐるみ剥がしてたって噂だったとオレが言った時だ。なんて言うか、悔しそうな、怒ってそうな、そんな顔じゃなかったか?」
 瞬時に、サミーの表情から色が失せた。
「そんなことないです」
「嘘つくんじゃねぇ」
 ビンセントの声に凄味がかかった。
「オレは目が良いのが自慢なんだよ。大抵のことは見逃さないし、見間違うこともほとんどない。それに嘘つきは大嫌いだ」
 ビンセントは初めて腰から拳銃を抜くと、サミーへ向けた。
「話せ。正直にな」
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