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33 走って、走って、走って、走った2

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 恐怖に底光った目、ってのを、オレは斗歩に会って初めて知った。恐怖を唇噛み締めて全部飲み込んじまう奴にも、初めて会った。それに戦隊ヒーローん中でも一番ダセェキャラのカード手にして喜ぶ奴なんか見たことなかったし、同じくらいの歳で自分より足速い奴がいるってことに衝撃受けた。しかも、そいつが足速いって自覚をまるで持ってねぇことにも、びっくりした。
 オレに色んな「初めて」を見せた斗歩は、数年後に再会した時、全く違う奴になってた。瞳の奥に宿した恐怖と、それ全部噛み込んじまう唇だけ残して。

「友矢斗歩! 今度のリレー、オレは絶対、てめぇに勝つ!」
 六年生の五月、運動会が三週間後に迫ってた日に、オレは宣言した。学校から帰る途中の並木道で奴を追いかけ、後ろから殴りつけるくらいの気持ちで叫んだ。
 斗歩は立ち止まったけど、振り返りはしなかった。頭上を覆う木の葉が風に吹かれ、木漏れ日がゆらゆらした。
「何とか言えよ、コラ」
 オレは足踏み鳴らして斗歩ンとこまで行き、髪引っ掴んでこっち向かせた。
「舐めてんのか、てめぇ」
 斗歩は「うるせぇ」つってオレの手ぇ払いのけた。
「お前、走る時のフォーム、変だ。そんなんで勝てるわけないだろ」
 一瞬、何を言われたか分からなかった。払われた手にジンと痛みが来たのと同時に、理解が押し寄せる。稲妻みてぇな怒りに駆られた。
「てめぇ、オレのことコケにしてんのか?」
 胸倉掴み上げても、斗歩は一切の怯みを見せず、ただオレの手ぇ掴み返してきた。
「オレはお前なんかに負けるわけいかねぇんだよ」
 強い力で手ぇ振りほどかれて、カチンとなった。『お前なんか』だと? ふざけんじゃねぇ。
「てめぇ、ぶっ殺すぞ!」
 声凄めて、また胸倉掴み、反対の腕振り上げる。それを力一杯、斗歩の頬へ打ち下ろそうという間際、熱くたぎってた血が急に冷めて引いてった。目の前の瞳が恐怖映してたからだ。こっち向いたまんま、瞬き忘れちまったみてぇにゆらゆら揺れてる。
 ついさっきまで、ムカつくくらい平気な面してたくせに。
 ゆっくり下ろした腕に、もう力はこもってなかった。
「てめぇ、ビビってんじゃねぇか。ダッセェ」
 顔背けて言った。視界に斗歩の顔、入れたくなかった。怒りとは全く別の感情で、手が震えた。それ知られたくなくて、オレは斗歩の横掠めて走ってった。頭空っぽにして、足の動くまんま、家までダッシュした。

 その後、運動会までの三週間、オレは猛特訓した。斗歩からフォームがおかしいって言われたのが悔しくて、一から走り方見直そうって、そんでリレーで勝って見返してやろうって、思った。小遣いはたいて速く走るコツ書いた本何冊も買ったし、その一つ一つを実践した。効果ありそうなヤツは体に叩き込もうと何度も何度も反復した。そうやって練習しまくり、迎えた運動会当日、オレは斗歩よりも早くバトンを受け取った。
 走り出してすぐ、背中に迫ってくる気配を感じた。たぶん、一秒も差はなかったんだろう。オレは、抜かれてたまるかと力を込めて腕振った。そう、腕だ。走る時、意識して速く動かすのは足じゃない。腕を動かせば連動して足も速く動く。姿勢はまっすぐ。地面へ力がしっかり伝わるように、頭から足まで一本串が刺さってるイメージで腰も背中も一直線にする。三週間、何度も何度も繰り返し練習してきた通りに走った。
 一蹴りで、ぐんと体が前へ進む。景色が一気に迫ってきて、どんどん後ろへ行っちまう。自分でもびっくりするくらいのスピードだった。それでも、背中についてくる気配は離れない。斗歩の奴、ずっとこんな感じで走ってたのか。これが本当に足速い奴が見る景色なのか。
 心が熱くなってた。
 負けたくねぇって気持ちが、ぐるんと回って別物ンなってた。ずっとこの景色を見ていたいって、斗歩と二人で見ていたいって、そう、思った。この景色はオレたち二人にしか見えない景色だって、だからこの景色はオレたち二人だけの世界だって、そんな気持ちンなった。
 気がついた時、オレはゴールのテープを切ってた。心がひときわ高く鳴り、けど、満たされてた胸のどっかが、急に空っぽになった感じもした。
 足ゆるめ、後ろへ振り返る。斗歩の顔、見たかった。今だったら二人で笑って「お前、やっぱ足はえぇな」って、言い合える気がした。
 けど、そうはならなかった。オレと顔合わせても、斗歩の目はオレとは全く別の何かを見てるみてぇに、ピントがズレてた。オレの背後にある、何か遠いものに向けた瞳が、ガラス玉かと思うくらい黒くテラテラしてた。でも、斗歩は瞼から溢れそうな感情を抑え込むように、唇ギュッと噛んでオレに背ぇ向けた。

 その日、帰宅すっと、親父もお袋も、それに珍しく姉貴までもがオレを褒めた。
 知らないうちに、ずいぶん足速くなってたんだな。
 最後は二位の子とすごい競ってたしね。カッコよかったよ。
 あんたにしては、よくやったんじゃない?
「うるせぇ」
 オレは三人がかけてくれる労いの言葉をピシャンと払って、部屋にこもった。ドアの向こうから「なに拗ねてんだ?」って困惑と苛立ちの混ざった声が聞こえてきたけど、そんなのどうでもよかった。頭ン中は、斗歩のことで一杯だった。
 真っ黒なガラスみてぇな目だった。テラテラ光って見えたのは、涙が溜まってたからだ。けど、悔しいって感じじゃなかった。あれは――と考えて、オレは脳裏に浮かんできた斗歩の顔を、より鮮明に描こうも瞼下ろした。黒く光る瞳、歪んだ眉に引きつった頬、噛み込まれた唇。くっきりとなっていくイメージは、小六のあの時よりもずっと前、幼稚園の頃にかけっこした時の顔と重なった。デカいつり目ン中で、不安げに揺れる瞳。オレが『トモヤのキョカがないとあそべない』なんてバカなこと言った瞬間、一気に歪んで土砂降り間際の空みてぇンなった、あの面。なのに涙全部飲み込んじまう唇。チビだった頃のイメージが浮かぶと、数珠繋ぎンなってるみてぇに思い出した。あいつは、オレがあいつの親父のことを口にした途端、目を不安に凍らせた。かけっこしてオレに勝ったのに「足が遅くていつも怒られる」つってた。五、六歳だった上にあんなチビで、それでもあれだけ走れてたのに「足が遅くて怒られる」? その異常さに初めて気がつき、オレはベッドへ横たえてた体ガバリと起こした。チビの斗歩と、さっき目にした面の両方がチラチラしてた。あれは悔しいって顔じゃねぇ。怖いって顔だ。何かに怯えてる面だ。その「何か」ってのは、きっと――。
 そう思って走り出した。靴に足突っ込み外へ出る。閉まってくドアに「どこ行くの?」って声が飲み込まれてった。

 走った。走って、走って、走って、走った。早くしねぇと、早くしてやらねぇとって、そればっかりで、その他にはなんにも考えらんなかった。斗歩ん家は、三週間前にオレが「勝つ」って宣言した並木道ら辺のはずだった。五年生の時、女子から押し付けられたらしいプロフィール帳のページに、その辺りの住所を書いてんのを見たことがあった。近くまで行くと、オレはシラミ潰しに戸建ての家の表札確認してった。友矢、友矢、友矢、友矢――頭ン中で呟きながら探す。なかなか見つからねぇ。時間がオレのこと取り残してどんどん過ぎてっちまう気がした。ドッ、ドッ、ドッ、ドッ、と心臓が速くなる。急がねぇと、急がねぇと。
 しばらくそうしてると、やっと見つけた。「友矢」って書かれた表札のある家。結構デカかった。オレは格子ンなってる鉛色の門扉を押し開けようとした。
 けど、ノブに手ぇかけた手は、ビクッと止まった。
「かけっこくらいでまけてんじゃねぇよ! クズが!」
 空気をビリビリ震わせるくらいの怒声だった。心臓が一気に縮み上がって、手がブルブルした。ビビったオレに追い討ちかけるようにドスの効いた声は続いた。たかが小学校の運動会で一位になれねぇでどうすんだ!? それにてめぇ、こないだの理科のテストで間違えやがっただろ。足も遅い、頭も悪い、そんなゴミみてぇなガキに、なんでオレが食わせてやんなきゃなんねぇんだよ!
 凄味のかかった声の間に、人を殴り付ける生々しく重い音や、ガラスかなんかを叩き割る音が響いてきた。空気が揺れた。手をかけた硬いドアノブも震えてる気がした。たぶん、オレの手が震えてたせいだ。怒気が肌に突き刺さってきて、動けなかった。けど、
 ごめんなさい。
 震えや潤みを無理やり押さえ込んだような、振り絞るみてぇに必死な声だった。
 オレはガチガチ鳴りだしそうな歯を食いしばった。手に力を込め、ぐっとノブを押す。敷地へ足を踏み入れる。その間にも男の罵声と重い殴打の音は続いていた。謝る前に、もっとマシになれ! ゴミのまんま謝ったって意味ねぇんだよ! そんで「あっ」ってうっかり何か踏んずけたような声がした。
「また吐きやがったな、汚ぇんだよ」
 拳に力が入り、気づいたらオレは走ってた。声がしたのは正面の部屋じゃない。もう少し遠い。側面の壁に回って、口汚ぇ男の声をたよりに探した。
 ここだ。
 すぐ見つかったその場所は、掃き出し窓ンなってる部屋だった。ピッタリ閉められたカーテンの向こうから聞こえる音は、それまでより一段と近く、生々しかった。オレは落ちてたデカめの石引っ掴むと、思い切り窓に向かって投げた。割れない。クソと思って、もう一度、今度は手に持ったまま窓ぶっ叩いた。ミシ、と手応えがした。もっかいだ。そう頭で言葉にした時、「なんだ?」って声がした。どっしりした重い足音が近づいてくる。心臓が跳ね上がった。膝がガクガクする。今にもへたり込んじまいそうな足を、それでも踏ん張った。チャンスだ。窓開けた瞬間に、家ン中入っちまえばいい。そんで、斗歩連れて逃げる。走って、逃げ切るんだ。
 窓へ視線を貼り付ける。鍵開ける音がした途端、腹にぐっと力が入った。ガラス戸が横へスライドし始めたのを見計らって、オレは飛び込んだ。デカい男の腕の下くぐり、両手ついて床に向かってえずいてる斗歩へ駆け寄った。
「立て! 行くぞ!」
 こっち見た斗歩の面は、涙やらゲロやら鼻血やらで汚れてて、ゾッとした。前歯も一本折れちまってる。突き上げた悪寒を何とか飲み込み、斗歩を引っ張り起こす。ごっそり力が抜け落ちてるみてぇな体は、その細さに反して重かった。
「てめぇ、ちったァ自分で動けよ!」
 オレがほとんど叫んで言うと、それまでただ呆然とするばっかだった目に、色が差した。苦しそうな悲しそうな痛そうな表情に、ちょっとだけ、ほんの、ちょっとだけ、ほっとしたような気配があって、こっちの気持ちの方が溢れそうになる。
「行くぞ!」
 また手に力込めて引っ張る。今度は軽く持ち上がった。
「おい! 誰だ!? 勝手に何して――」
すげぇ圧かけて近づいてくるオッサンに向かって、オレはその辺にあったビール瓶を投げつけた。夢中でどこに当たったかは分かんなかったが、それでもどっかには当たったらしく、オッサンの動きが鈍くなる。その隙に、開け放たれた掃き出し窓ンとこから外へ出た。
 走った。走って、走って、走って、走った。地面を蹴る度、ぐんぐん進んだ。眼前に迫ってくる景色が一瞬で後ろへ行く。斗歩の手を引いてはいたけど、走ってるその感覚は一人ン時と、あのリレーで走ってた時と、変わんなかった。当たり前だ。だって、斗歩はめちゃくちゃに足速ぇんだから。リレーで勝ったのは、オレが先にバトンもらったからだ。走んの自体は、斗歩のが速かった。分かってた。特訓して、やっとオレが追いついたんだ。やっと、入れたんだ。本当に足速い奴だけの世界に。斗歩がいる、世界に。図体ばっかデケェあんなオッサンには分かりっこない世界に。今、斗歩と走ってるこの世界は、オレたちだけの世界なんだ。だって、この景色は、オレたちにしか見えねぇんだから。
 ひたすらに、めちゃくちゃに走って、気がついたら自分ん家の前にいた。

 あの後、びっくりする家族に分かる範囲で説明した。その傍で、斗歩は何も言わずに俯いてた。
 すぐに親父が警察と病院に連絡し、お袋と姉貴とで斗歩の汚れた服を着替えさせてた。オレの服、貸してやったが、当時の斗歩はちっさくて、ブカブカだった。それから家にあるしょぼい救急箱に入ってるモンで、気休め程度の手当てをした。そん時、初めて気づいた。靴履かせずに飛び出してきちまったせいで、斗歩の足は傷だらけんなってた。尖った石やガラスを踏んだんだろう。心臓が痛てぇくらい強く打った。大丈夫か? ごめんな。喉まで上がってきた言葉が、口から出ることはなかった。
 処置してる間も、警察の到着待ってる間も、斗歩は一言も喋らなかった。黙ってお袋や姉貴にされるままンなってて、「痛い?」とか「大丈夫?」とかいう質問に、首振ったり頷いたりして応えてた。
 最後まで声を出さないまま警察に引き取られてった細くてちいせぇ背中は、ずっと頭に残ってる。それが、ついこの間まで、オレの見た最後の斗歩の姿だったから。

 近所の人たち、絶対気づいてたよね。
 最初に言い出したのは姉貴だった。智也が家の前まで行って、すぐにおかしいってなったくらいなんだからさ。毎日その状態を耳にしてた人たちに、分かんないわけないじゃん。見て見ぬふりする人って、本当にいるんだ。信じらんない。
 親父もお袋も頷いたけど、すぐに親父が付け加えた。
「でも、おかしいって思っても、行動に移すのは勇気がいるよ。本当かなって、ちょっとでも疑えばブレーキがかかるし、一度躊躇って疑いを引っ込めたら、さらに動きにくくなる。だから、まっさきに動けた智也はすごいよ」
 褒められても、ちっとも嬉しくなかった。感情は一ミリも動かなかった。心ン中にいくつも鉛が沈んでるみたいで、ただ、ただ、胸が重くて苦しかった。目の前にあるものは、ぜんぜん意識に上ってこなくて、オレの頭には斗歩の顔だけが浮かんでた。涙やらゲロやら血やらで汚れて、歯までへし折られた顔。黙って手当て受けながら伏せてた瞼。そういうモンで一杯だった。
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