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32 秘密へ足を踏み入れる
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ついてきてくれ。
また家から出てきた斗歩は、いつものボディバッグを斜めに掛けてた。言われるまま、オレらは後ろに続いていき、電車に乗った。
「どこ行くんだよ?」
オレが尋ねると、やっと斗歩は行き先告げた。
「病院つーか、クリニック?」
「クリニック?」
オレと田井の声が重なった。斗歩が、ああって応じる。
「北島さんがラインくれててさ。お前らがオレのこと心配してるって、そんで金曜、調子悪そうだから理由知りたがってるって」
オレはジャー……北島を見た。眉間に力が入ってて、目ぇ険しくなってんのが自分で分かる。こっちの視線に気づいたらしく、北島はヘラッと苦そうな笑み浮かべた。
「しょうがないでしょ。あんたら二人じゃ、まともに話せないと思ったんだもん。現に全然違う話になってたじゃん」
「でも、僕たちに何も言わないで勝手に連絡するのは――」
「いいじゃん! 澤上だって素直に教えてくれる気ンなってくれたんだし」
ね? と言うようにジャー……北島は斗歩へ視線振った。斗歩は、ああっつって俯く。足の底から響いてくる電車の音しか聞こえなくなった。
かと思うと、北島が一人でペラペラ喋りだした。ていうかさ、あたしと澤上が連絡取れるって、意外でしょ? こないだ、ズーイーの森ランドに行った時にライン交換してたんだ。あれから、あたし、たまに連絡しててさぁ。返信は素っ気もないけどねー。
北島ばっか喋ってる間に、電車は目的の駅に到着した。
小さな駅の改札くぐって階段を下りた先には、閑静な街並みがあった。駅前横切る狭い道路に惣菜屋がいくつか並んでて、手ぇ繋いだ親子が何組か歩いてる。斗歩はその道に沿って歩いてった。
二分も経ってねぇだろうってくらいすぐ、立ち止まった。
「ここだ」
言われて、見上げれば、窮屈そうに家と家に挟まれた三階建ての建物があった。入口上部の壁面には、『すずき認知症しあわせクリニック』って看板が掲げられてる。
「認知……症?」
田井が疑問を漏らした。斗歩は「ああ」つって、さっさと自動ドアの向こうへ行っちまう。
「おい」
オレが声かけっと、振り返ってきょとんとした。
「なんだ?」
「てめぇ、いいのかよ?」
つい、出た言葉だった。今、斗歩が招き入れようとしてるとこは、他人が土足で踏み込んじゃいけねぇとこだ。けど、斗歩は「いいよ」って返してきた。あんまりにも、あっさりと。
「もともと、隠してた訳じゃないんだ。聞かれなかったから言わなかっただけで」
それに、と顔伏せる。オレが、嫌なんだ。隠してるみたいなの。恥ずかしいことじゃ、ないからさ。そういう風に、思いたくないから。
また斗歩が歩き出す。オレは田井、北島へ目配せした。二人の目には、行こうって意志が光ってる。肩で息ついてオレも決意固めっと、斗歩についてった。
受け付け済ませ、それぞれに首から「面会」って書かれた札ぶら下げて、階段上った。
「三階が入院病棟なんだ」
「誰かが入院してるのか?」
「ああ」
斗歩が応えた時、ちょうど階段上りきった。そうして、一番手前にある引き戸の前で立ち止まる。斗歩は少し頭前に傾けた。無言の背中見つめてっと、肩が上下して、深呼吸してんのが分かる。それから、ゆっくり頭が持ち上がり、ドアが開いた。
ベッドが二つ、並んでんのが見える。その他にカーテン引かれたとこが二つあった。おそらく人のいるベッドなんだろう。斗歩はゆっくり、一つのカーテンを開けた。
「おばあちゃん」
今まで聞いた斗歩の声ン中でも、一番優しい声だった。吐息でそっと撫でるような感じ。それだけで胸の辺りがギュッと痛くなる。ベッドへ目ぇ向ければ、一人のばあさんが目ぇ閉じて横ンなってた。グシャグシャに潰した和紙を広げ直したような、しわくちゃな顔してる。
斗歩は手ぇ伸ばし、ばあさんの頬に触れた。触った感触を手のひらに閉じ込めてるみてぇに、丁寧な手つきだった。
「眠っちゃってるな。昨日、大変だったから」
「大変って?」
北島が訊くと、斗歩は「ちょっとな」つって、ばあさんの額を撫でた。そんで立ち上がり、カーテンを閉める。
「悪い、今日は起きそうもないから、行こう」
そう言うと、さっき通ってきた廊下へ歩を向けた。
ジジジジジジ。どこかで蝉が鳴いてた。空気が肌にまとわりついてくる。つ、と頬を伝ってった汗を拭い、オレは口開いた。
「あちぃな」
「悪い、歩かせちまって」
「そういう意味じゃねぇんだよ、死ね」
「高橋くん、そういう言い方は良くないんじゃ――」
「いいんだよ、田井。高橋が澤上に言う『死ね』は『愛してる』だから」
「違ぇっての。てめぇも死ね」
「高橋くん、女子に対して――」
田井を遮ったのは立ち止まった斗歩だった。
「どうしたの? 澤上くん」
「いや、なんか、何も話さないまま連れ回しちまったから、ちゃんと説明しなきゃって思って」
オレは後ろから、思い切り斗歩の頭小突いた。
「だからって急に止まんじゃねぇよ。マイペース過ぎだろ。まず駅まで歩け。話くらい、そこで聞いてやる」
自分の言葉が耳に入った途端、嫌な感じが突き上げてきた。「そこ」では聞きたくねぇって思いだった。田井と北島のいる所で聞きたくなかった。オレにだけ、打ち明けてほしかった。ぐっと拳を握り込む。
「早くしろ」
歩きだし、背後に向かって言うと、三人の足音がついてきた。
駅ホームに着く。斗歩、田井、北島の三人をベンチに座らせた。
「あんた、座んないの? 席空いてんのに。澤上の隣、座ったら?」
「座りたくねぇから立ってんだよ。いちいちうるせぇ」
オレの言葉の後、次の電車の時間を伝えるアナウンスが流れた。どうやら、あと十分は来ないらしい。舌打ちして、俯いた。
「あのさ」
斗歩の声がして心臓縮んだ。思わず顔背ける。
「分かってると思うけど、あの人、オレの祖母なんだ。結構長いこと、ああいう状態みたいでさ。今はオレのこと見ても、誰だか分かってない。ずっと会ってなかったから、しょうがないんだけど」
「会ってなかった?」
田井が訊くと、「ああ」って返事があった。
「会えなかったんだ。入院しっぱなしンなっちまったのは、オレが小学生の頃だったんだけど、それから、ちょっと……事情があって、オレ、元々いた家から離れてさ、そのまま会いに行けなくなった。会いに行っちゃ、ダメだって言われてて。でも、オレ、ずっと気がかりで、それで昔住んでたとこから近い高校選んで、一人暮らし始めたんだ。おばあちゃんのこと探したくて。前に入院してた病院にはいなくて、人づてに聞いてったら老人ホームみてぇな施設に入ったって分かってさ。それで、少し前に体調悪くなって、施設に近いあのクリニックに入院したんだって」
斗歩の説明が途切れた。ファーンって音がして、反対のホームに電車が走り込んでくる。
「他に家族って、いないの? おばあちゃんの面倒見てる人は、他にいないの?」
北島の言葉が胸を抉った。他の家族。あいつしかいない。
オレは咄嗟に斗歩の顔を窺ってた。きっとオレなんかより、もっともっと深く心抉られてるはずだ。そう思ったけど、その目は「おばあちゃん」のことを語る時の切なさを映したままで、恐怖の陰は差してなかった。
「いるにはいるけど、もう何年も、顔出してないらしい。連絡しても何の返事もないって。金だけ払って、あとは全部任せ切りだってさ」
少しほっとして、力が抜けた。
田井が遠慮がちに口開く。
「それが、金曜日の不調とどう関係してるの?」
斗歩が息をついた。
「見舞いに行くの、木曜でさ。バイトのシフト重なってて、次の日の金曜は疲れちまうんだ。本当は曜日ずらしたいんだけど、おばあちゃん、木曜日に誰か来るってことは分かってるみたいで、行かないと探しちまうらしい。前に学校で調子悪くなったことあっただろ? あの日は前日の木曜、病院行かなかったんだ。そしたら、おばあちゃん、夜中にいなくなったらしくて。オレんとこにも連絡きて、ずっと探してた。だからあの日は寝不足で」
胸に熱いモンが突き上げてきて、オレは斗歩を見た。伏せた目ン中で、瞳が揺れてるような気がした。
「おかしいんだけどさ、あの日、おばあちゃん『オレのこと』探してたみたいなんだ。いつ行ってもオレが誰だか分かってないのに、あの日は木曜に来る誰かじゃなくて、『斗歩が来ない』つってたんだって。でも、やっと見つけても、やっぱりおばあちゃんはオレのこと誰だか分かんないんだ。オレを目の前にして、キョロキョロオレのこと探してんだ。訳分かんねぇよな」
言葉が止まる。見計らったかのように、アナウンスが響いた。まもなく、二番線に電車がまいります。
オレが肩で息ついて斗歩から視線外した時、視界の隅で田井が動いた。斗歩の背中に、そっと手ぇ当てる。
「ごめん。辛いこと話させて」
「いいよ」
斗歩が言った後、田井の声は少し詰まった。
「その、話せないことを無理に話せとは言えないけど、君の意志は尊重すべきだけど、でも……」
そこで声に力がこもる。
「僕は君の力になりたいと思ってるから。だから誰かに話したくなったら、僕はいつでも聞くから」
宣言したかと思うと、田井は急に、舌絡みそうなくらいごにょごにょした口調ンなった。いや、それも僕のエゴなのかもしれないけど、でもやっぱり友だちだから、力になりたいって気持ちはあって、何でも話してほしいって思ってはいて、すごく君のことが心配で、迷惑だって分かってるけど――
「田井」
斗歩の声が田井を遮った。
「迷惑じゃない。ありがとな」
ファーンという音と共に、電車がホームに入ってきた。
帰りの電車に乗ってる間、オレは何も話さなかった。靴底から伝わってくるガタゴトいう振動が、切り傷に吹く風みてぇに胸の疼きを強める。いつもシレッとした面してやがった斗歩は、その裏でばあさんのことに胸痛め続けてたのか。誰にも言えずに一人で痛てぇの我慢してるしかなかったのか。そう考えると田井の言葉が頭でリフレインした。
『なんで気づいてやらないんだよ』
本っ当だ。田井の言う通りだ。斗歩の身に起こったこと知ってんのはオレだけだったんだから、オレが気づいてやんなきゃなんなかったんだ。オレ以外の人間には話せることだって限られてんだから、オレが気づいて話聞いてやるべきだった。なのに、オレは斗歩に対する自分の気持ちで手一杯だった。斗歩のこと考えてるつもりで、ちゃんと斗歩のこと見てやれてなかった。せり上がってくる悔しさに、奥歯をぐっと噛み締めた。
斗歩を見る。視線の先で、目ぇ伏せて手の甲見つめる顔が、ガキの頃の不安げな表情と重なった。
また家から出てきた斗歩は、いつものボディバッグを斜めに掛けてた。言われるまま、オレらは後ろに続いていき、電車に乗った。
「どこ行くんだよ?」
オレが尋ねると、やっと斗歩は行き先告げた。
「病院つーか、クリニック?」
「クリニック?」
オレと田井の声が重なった。斗歩が、ああって応じる。
「北島さんがラインくれててさ。お前らがオレのこと心配してるって、そんで金曜、調子悪そうだから理由知りたがってるって」
オレはジャー……北島を見た。眉間に力が入ってて、目ぇ険しくなってんのが自分で分かる。こっちの視線に気づいたらしく、北島はヘラッと苦そうな笑み浮かべた。
「しょうがないでしょ。あんたら二人じゃ、まともに話せないと思ったんだもん。現に全然違う話になってたじゃん」
「でも、僕たちに何も言わないで勝手に連絡するのは――」
「いいじゃん! 澤上だって素直に教えてくれる気ンなってくれたんだし」
ね? と言うようにジャー……北島は斗歩へ視線振った。斗歩は、ああっつって俯く。足の底から響いてくる電車の音しか聞こえなくなった。
かと思うと、北島が一人でペラペラ喋りだした。ていうかさ、あたしと澤上が連絡取れるって、意外でしょ? こないだ、ズーイーの森ランドに行った時にライン交換してたんだ。あれから、あたし、たまに連絡しててさぁ。返信は素っ気もないけどねー。
北島ばっか喋ってる間に、電車は目的の駅に到着した。
小さな駅の改札くぐって階段を下りた先には、閑静な街並みがあった。駅前横切る狭い道路に惣菜屋がいくつか並んでて、手ぇ繋いだ親子が何組か歩いてる。斗歩はその道に沿って歩いてった。
二分も経ってねぇだろうってくらいすぐ、立ち止まった。
「ここだ」
言われて、見上げれば、窮屈そうに家と家に挟まれた三階建ての建物があった。入口上部の壁面には、『すずき認知症しあわせクリニック』って看板が掲げられてる。
「認知……症?」
田井が疑問を漏らした。斗歩は「ああ」つって、さっさと自動ドアの向こうへ行っちまう。
「おい」
オレが声かけっと、振り返ってきょとんとした。
「なんだ?」
「てめぇ、いいのかよ?」
つい、出た言葉だった。今、斗歩が招き入れようとしてるとこは、他人が土足で踏み込んじゃいけねぇとこだ。けど、斗歩は「いいよ」って返してきた。あんまりにも、あっさりと。
「もともと、隠してた訳じゃないんだ。聞かれなかったから言わなかっただけで」
それに、と顔伏せる。オレが、嫌なんだ。隠してるみたいなの。恥ずかしいことじゃ、ないからさ。そういう風に、思いたくないから。
また斗歩が歩き出す。オレは田井、北島へ目配せした。二人の目には、行こうって意志が光ってる。肩で息ついてオレも決意固めっと、斗歩についてった。
受け付け済ませ、それぞれに首から「面会」って書かれた札ぶら下げて、階段上った。
「三階が入院病棟なんだ」
「誰かが入院してるのか?」
「ああ」
斗歩が応えた時、ちょうど階段上りきった。そうして、一番手前にある引き戸の前で立ち止まる。斗歩は少し頭前に傾けた。無言の背中見つめてっと、肩が上下して、深呼吸してんのが分かる。それから、ゆっくり頭が持ち上がり、ドアが開いた。
ベッドが二つ、並んでんのが見える。その他にカーテン引かれたとこが二つあった。おそらく人のいるベッドなんだろう。斗歩はゆっくり、一つのカーテンを開けた。
「おばあちゃん」
今まで聞いた斗歩の声ン中でも、一番優しい声だった。吐息でそっと撫でるような感じ。それだけで胸の辺りがギュッと痛くなる。ベッドへ目ぇ向ければ、一人のばあさんが目ぇ閉じて横ンなってた。グシャグシャに潰した和紙を広げ直したような、しわくちゃな顔してる。
斗歩は手ぇ伸ばし、ばあさんの頬に触れた。触った感触を手のひらに閉じ込めてるみてぇに、丁寧な手つきだった。
「眠っちゃってるな。昨日、大変だったから」
「大変って?」
北島が訊くと、斗歩は「ちょっとな」つって、ばあさんの額を撫でた。そんで立ち上がり、カーテンを閉める。
「悪い、今日は起きそうもないから、行こう」
そう言うと、さっき通ってきた廊下へ歩を向けた。
ジジジジジジ。どこかで蝉が鳴いてた。空気が肌にまとわりついてくる。つ、と頬を伝ってった汗を拭い、オレは口開いた。
「あちぃな」
「悪い、歩かせちまって」
「そういう意味じゃねぇんだよ、死ね」
「高橋くん、そういう言い方は良くないんじゃ――」
「いいんだよ、田井。高橋が澤上に言う『死ね』は『愛してる』だから」
「違ぇっての。てめぇも死ね」
「高橋くん、女子に対して――」
田井を遮ったのは立ち止まった斗歩だった。
「どうしたの? 澤上くん」
「いや、なんか、何も話さないまま連れ回しちまったから、ちゃんと説明しなきゃって思って」
オレは後ろから、思い切り斗歩の頭小突いた。
「だからって急に止まんじゃねぇよ。マイペース過ぎだろ。まず駅まで歩け。話くらい、そこで聞いてやる」
自分の言葉が耳に入った途端、嫌な感じが突き上げてきた。「そこ」では聞きたくねぇって思いだった。田井と北島のいる所で聞きたくなかった。オレにだけ、打ち明けてほしかった。ぐっと拳を握り込む。
「早くしろ」
歩きだし、背後に向かって言うと、三人の足音がついてきた。
駅ホームに着く。斗歩、田井、北島の三人をベンチに座らせた。
「あんた、座んないの? 席空いてんのに。澤上の隣、座ったら?」
「座りたくねぇから立ってんだよ。いちいちうるせぇ」
オレの言葉の後、次の電車の時間を伝えるアナウンスが流れた。どうやら、あと十分は来ないらしい。舌打ちして、俯いた。
「あのさ」
斗歩の声がして心臓縮んだ。思わず顔背ける。
「分かってると思うけど、あの人、オレの祖母なんだ。結構長いこと、ああいう状態みたいでさ。今はオレのこと見ても、誰だか分かってない。ずっと会ってなかったから、しょうがないんだけど」
「会ってなかった?」
田井が訊くと、「ああ」って返事があった。
「会えなかったんだ。入院しっぱなしンなっちまったのは、オレが小学生の頃だったんだけど、それから、ちょっと……事情があって、オレ、元々いた家から離れてさ、そのまま会いに行けなくなった。会いに行っちゃ、ダメだって言われてて。でも、オレ、ずっと気がかりで、それで昔住んでたとこから近い高校選んで、一人暮らし始めたんだ。おばあちゃんのこと探したくて。前に入院してた病院にはいなくて、人づてに聞いてったら老人ホームみてぇな施設に入ったって分かってさ。それで、少し前に体調悪くなって、施設に近いあのクリニックに入院したんだって」
斗歩の説明が途切れた。ファーンって音がして、反対のホームに電車が走り込んでくる。
「他に家族って、いないの? おばあちゃんの面倒見てる人は、他にいないの?」
北島の言葉が胸を抉った。他の家族。あいつしかいない。
オレは咄嗟に斗歩の顔を窺ってた。きっとオレなんかより、もっともっと深く心抉られてるはずだ。そう思ったけど、その目は「おばあちゃん」のことを語る時の切なさを映したままで、恐怖の陰は差してなかった。
「いるにはいるけど、もう何年も、顔出してないらしい。連絡しても何の返事もないって。金だけ払って、あとは全部任せ切りだってさ」
少しほっとして、力が抜けた。
田井が遠慮がちに口開く。
「それが、金曜日の不調とどう関係してるの?」
斗歩が息をついた。
「見舞いに行くの、木曜でさ。バイトのシフト重なってて、次の日の金曜は疲れちまうんだ。本当は曜日ずらしたいんだけど、おばあちゃん、木曜日に誰か来るってことは分かってるみたいで、行かないと探しちまうらしい。前に学校で調子悪くなったことあっただろ? あの日は前日の木曜、病院行かなかったんだ。そしたら、おばあちゃん、夜中にいなくなったらしくて。オレんとこにも連絡きて、ずっと探してた。だからあの日は寝不足で」
胸に熱いモンが突き上げてきて、オレは斗歩を見た。伏せた目ン中で、瞳が揺れてるような気がした。
「おかしいんだけどさ、あの日、おばあちゃん『オレのこと』探してたみたいなんだ。いつ行ってもオレが誰だか分かってないのに、あの日は木曜に来る誰かじゃなくて、『斗歩が来ない』つってたんだって。でも、やっと見つけても、やっぱりおばあちゃんはオレのこと誰だか分かんないんだ。オレを目の前にして、キョロキョロオレのこと探してんだ。訳分かんねぇよな」
言葉が止まる。見計らったかのように、アナウンスが響いた。まもなく、二番線に電車がまいります。
オレが肩で息ついて斗歩から視線外した時、視界の隅で田井が動いた。斗歩の背中に、そっと手ぇ当てる。
「ごめん。辛いこと話させて」
「いいよ」
斗歩が言った後、田井の声は少し詰まった。
「その、話せないことを無理に話せとは言えないけど、君の意志は尊重すべきだけど、でも……」
そこで声に力がこもる。
「僕は君の力になりたいと思ってるから。だから誰かに話したくなったら、僕はいつでも聞くから」
宣言したかと思うと、田井は急に、舌絡みそうなくらいごにょごにょした口調ンなった。いや、それも僕のエゴなのかもしれないけど、でもやっぱり友だちだから、力になりたいって気持ちはあって、何でも話してほしいって思ってはいて、すごく君のことが心配で、迷惑だって分かってるけど――
「田井」
斗歩の声が田井を遮った。
「迷惑じゃない。ありがとな」
ファーンという音と共に、電車がホームに入ってきた。
帰りの電車に乗ってる間、オレは何も話さなかった。靴底から伝わってくるガタゴトいう振動が、切り傷に吹く風みてぇに胸の疼きを強める。いつもシレッとした面してやがった斗歩は、その裏でばあさんのことに胸痛め続けてたのか。誰にも言えずに一人で痛てぇの我慢してるしかなかったのか。そう考えると田井の言葉が頭でリフレインした。
『なんで気づいてやらないんだよ』
本っ当だ。田井の言う通りだ。斗歩の身に起こったこと知ってんのはオレだけだったんだから、オレが気づいてやんなきゃなんなかったんだ。オレ以外の人間には話せることだって限られてんだから、オレが気づいて話聞いてやるべきだった。なのに、オレは斗歩に対する自分の気持ちで手一杯だった。斗歩のこと考えてるつもりで、ちゃんと斗歩のこと見てやれてなかった。せり上がってくる悔しさに、奥歯をぐっと噛み締めた。
斗歩を見る。視線の先で、目ぇ伏せて手の甲見つめる顔が、ガキの頃の不安げな表情と重なった。
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