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ケーキ
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さっき通った所を逆に辿り、リッキーの家を囲む塀から出ると、急に辺りの空気が軽くなった気がした。ふうー、と大きく息を吐く。私は清水さんと二人で聞いたおばあさんの電話の内容を、宮崎くんと、それからずっと入り口で待っていた上島くんに話した。宮崎くんは目を見張って、高い声を出した。
「リッキー、家出しちゃったってこと!?」
「そうかも。でも、行先は分かってるって言ってたから、無事ではあるはずだけど」
私が言うと、上島くんが困ったような顔をした。
「どこにいるんだろう?」
うーん、とみんなで首をひねった。おばあさんが知っていて、すぐ連絡ができて、リッキーが頼って行けるところ……。
「ゴリラかな……」
私がボソリとつぶやくと、みんなが目を丸くした。私は声に力を込めた。
「ゴリラのとこかもしれないよ。だって、あの人はリッキーのいとこなんでしょ? だったらあの人もおばあさんの孫なんだし、お父さんかお母さんはおばあさんの子どもってことじゃん。すぐ連絡もできる。東鴨野中の生徒なら歩いて行ける距離に住んでるはずだから、リッキーだって一人で――」
「君たち、何してるんだ?」
話の途中で、不快さがぎゅっとつまった、冷たい声がした。ドキッとして振り返ると、少し癖っぽい、カラスみたいに艶のある黒い髪をした男の人が、スマートフォンを片手に立っている。担任の先生と同じくらいに見えるから、歳は三十前後だろうか。背はそう高くはなかったけれど、唇を一の文字みたいにまっすぐ閉じ、睨むように目を細めた表情は威圧的で、見た瞬間、口調の鋭さを余計にきつく感じた。
「ここは余所の家だろ。迷惑だ。どこか他のところで遊びなさい」
「余所の家じゃない! 友達ん家だよ!」
宮崎くんが声を上げると、男の人の眉間がいっそう険しくなる。
「友達の家は余所の家だ。いいから行くんだ」
男の人は、そう言って私たちの前へぐいと体を入れて、門の横のインターフォンを押した。それからこっちへ振り返って、うるさいハエでも見るみたいに、目を細める。
「行こうよ……」
上島くんが、ためらいがちに言う。だって、と私が文句を言いかけた時、インターフォンから声がした。
『はい』
おばあさんだ。
男の人は、私たちにかけたのと同じくらい尖った声で応じた。
「オレだ。入るぞ」
『ああ、近藤さん、早いですね。今から行きます』
「いい、自分で入る」
近藤さんと呼ばれたその人は、大きな音がなるくらい乱暴に門の向こうへ足を踏み出した。私たちは、彼がリッキーの家の中へ消えていくのを黙って見ているしかなかった。
もう一度、中に入ろう。宮崎くんがそう言っても、上島くんは首をブンブン振って反対した。またあの人に怒られるよ。人ん家に勝手に入んだもん。怒られて、当然だよ。やりたくもない悪いことして、怒られたくない。
「かみっちょ、リッキーのこと心配じゃないのかよ?」
宮崎くんが、珍しく声をすごめた。目にも真剣な怒りがこもっている。上島くんの表情へ、悲しそうな気配が差した。
「心配だよ。でも、怖いもんは怖いし、嫌なもんは嫌だ。怖くて入っていけないからって、薄情な奴みたいに言われたくない」
宮崎くんは悔しそうに唇を噛んでうつむいて、それから顔を上げると、
「じゃあ、オレ、一人で行ってくる」
ぱっと門の方へ向き直った宮崎くんを、待って、という声が止めた。清水さんだ。
「私も、やめといた方がいいと思う。だって、なんか……」
そこで清水さんは声のボリュームを下げた。
私たち、知っちゃいけないこと、知っちゃいそうな気がする。
それは私も感じていた。知っちゃいけないこと。リッキーの家の秘密。それが少し、見えてしまった。たぶん、今中へ入ったら、もっともっといろんなことが見えてくる。それは、バクバク心臓が暴れるくらい気になることで、でもすごく怖いことだ。
清水さんは、ゆっくり息をついた。
「あと、私、あの人、どっかで見たことある気がする。思い出せないけど……」
「え?」
私、宮崎くん、それに上島くんの声が重なった。清水さんは、ハッとしたように声の調子を戻す。
「分かんない。勘違いかもしれない。なんとなくってくらいだから」
そっか、と言って、私たちはみんな、深くは聞かなかった。宮崎くんも、肩を落とし、もう中へ入ろうとは言わなかった。その代わり、彼はゴリラにLINE送ってみると言い、スマートフォンを取り出した。
「よし、これで、ひとまず返事を待つしかないな」
黙って宮崎くんが連絡する様子を見つめていた私たちは、みんなで深く息をついた。肺を空っぽにした私の胸は、不安に大きく波立っていた。
でも、きっとリッキーはゴリラのところにいる。そして、ゴリラのところにいれば、きっとリッキーは大丈夫だ。だって、ゴリラは自分が大ケガしたその日に、リッキーを心配して訪ねて行ったんだから。そのくらいリッキーを気にかけてるんだから。
それから、四時を知らせる鐘が鳴るまで、私たちは、近くの公園でなんとなしに一緒にいた。その間、宮崎くんは何度もスマホを取り出して確認していたけれどゴリラからの連絡はなかったらしい。肩を落とした彼の反応に私もがっかりした。
「ゴリラが何か言ってきたら、教える」と宮崎くんが約束すると、私たちは解散した。
帰宅するまでの間、一人で黙々と足を動かしつつ、私はずっとグルグルグルグル考えていた。おばあさんは「あの子も許せないところがあったのだと思う」と言っていた。それに「私は助かっている」「私一人であの子を養ってはいけない」とも。それって、電話の相手からお金の面で助けてもらっているってことじゃないだろうか? そして、リッキーはそのことが嫌で出ていってしまった、とか。じゃあ、電話の相手は誰なんだろう? そう思うと、さっきの、あの、癖のある真っ黒な髪をした人の顔が浮かんでくる。やっぱりあの人なんだろうか? あの人が電話の相手で、おばあさんにお金を渡しているのだろうか? でも、なんでそんなことするんだろう? もしかして、あの人がリッキーの――と頭で言葉にしかけると、ゾッと首筋が寒くなり、私はその考えを振り払った。そんなわけない。義理の息子とは思えないくらい、あの人のおばあさんへの態度は、偉そうだったじゃないか。きっと、もっと別の何かがあるんだ。
頭の中で粘土みたいにおばあさんの言葉やあの男の人のことをこねくり回しているうちに、気がついたら家の前まで来ていた。
「ただいま」
ドアを開けると、おかえりー、とリビングから返事が来た。お母さんの高い声に、もう一つ、低く底から響くような声が重なっている。お父さんだ。
「お父さん、今日、早いね」
リビングへ入り、ソファにどかりと座ってテレビを見るお父さんの広い背中に向かって声をかけた。お父さんが振り返り、機嫌良さそうに目を細めた顔が現れた。
「早いねって、お前、今日誕生日だろ」
ハッとなった。十二月七日。確かに私の誕生日だ。リッキーのことばかり考えていて、すっかり忘れていた。
だから早く帰ってきたのに。お父さんは笑い混じりに言って、冷蔵庫を指さした。
「お前の好きなケーキ、買ってきたぞ。でっかいの」
冷蔵庫へ行き、開けてみれば、お父さんの言った通り、大きな四角い箱が三段に分かれた冷蔵室の一番下を占領していた。
「そんなに大きいの、食べきれないって言ってたのよ。全く」
台所の流しで洗い物をするお母さんが、私が思ったのと同じことを口にした。
食べきれない。
でも、頭の中で言葉にしてみると、急にぽっと灯りがともったように思いついた。すごく素敵なことを。今すぐに、やりたいことを。
「お母さん、これ、ちょっと切って友だちにあげてもいい?」
お母さんは、突然耳慣れない言葉を聞いたみたいな顔をして、私を見た。
「友だちにって、今から? 誰に?」
「誰でもいいじゃん」
私は箱を取り出し、切って、とお母さんに突き出した。お母さんは疑うように眉を寄せて、私を見ている。
「だって、今日は私の誕生日でしょ。私のしたいことしたって、いいじゃん」
そうだ。誕生日だ。そう思うと気持ちが大きくなって、多少のわがままも、無理も、押し通していいような気がしてくる。誕生日をいい日にする権利くらい、私にはある。
まっすぐ見つめ返すと、お母さんは、はぁとため息をついてケーキを切り分けてくれた。
お母さんと一緒に、すっかり暗くなった道を歩いた。本当は一人で行きたかったのだけど、お父さんが「暗くなってから女の子が一人で出歩いちゃだめだ」とお母さんについて行くように言った。お母さんは、私の横でブツブツ文句を零していた。なんで自分で行かないのよ。どうせテレビ見てるだけじゃない。私はこれからご飯の支度もお風呂の用意もしなくちゃいけなくて忙しいのに。でも、しばらくすると私の方へ顔を向けて、聞いてきた。
「榎本くんの家?」
言い当てられて、ドキリとした。
「うん」
私はなんで分かったの? と目で訴えた。お母さんは笑う。
「あんたの考えつくようなことは、すぐ分かる」
そうしてそっと、大切な言葉を手渡すように、
「榎本くんが好きなんでしょ?」
今度は心臓が飛び上がるくらい、びっくりした。とっさに見ると、お母さんは優しく目元をゆるめて、あんたの考えてることは分かるの、と言った。
「あの子、昔からいい子だったもんね。今はちょっと感じ変わったけど、でも、いい子なんでしょ?」
私がうつむいてうなずくと、お母さんの笑う気配がした。
「メガネ取るとかわいいしね」
またドキッとした。そうだ。かわいい。リッキーはお母さんによく似ていて、素顔はとてもかわいいのだ。メガネのせいで目がギョロギョロして変な顔に見えるけど。
話している間に、リッキーの家に着いた。いつもリッキーがみんなを待っているところは、門が閉まっていた。昼間は常に開け放たれているので、私はここに扉があることにすら気づいていなかった。門扉のすぐ横のインターフォンを、お母さんが押す。
『はい』
インターフォンから声がした。お母さんが、普段より少し声のボリュームを上げて応じる。
「いつもお世話になっています、山崎です。娘が力也くんに渡したいものがあると言っていて、夜分に失礼なんですが、受け取っていただけますか?」
お待ちください、という声がし、冷たく感じるほど急にインターフォンの向こうの気配が途切れた。
でも、小走りにやってきたおばあさんは頬にやわらかな笑みを浮かべていて、「わざわざすみません」と言うその声にも表情があった。機械を通すだけで、こんなにも感じが変わるんだな、と思う。
「せっかく来ていただいたのに、申し上げにくいんですけど、力也は、今、家にいないんです」
「ゴリラの家でしょ?」
つい言葉が出て、すぐに、しまった、と後悔した。おばあさんの眉間でかすかに疑問の気配が漂った。
「ええ、そう。リュウキくんのところ。どうして知ってるの?」
どうしよう。家に忍び込んで電話の内容を聞いたなんて言えないし――。困った末、とにかく渡してしまおうと、私はおばあさんに向かってケーキの包みを差し出した。
「あの、ケーキです。私、今日誕生日で、お父さんが大きいケーキ買ってきてくれたから、リッキーにも食べてもらいたくて。すごくおいしいから。おいしいもの食べたら、私は元気になるから。だからゴ――リュウキくんの家に届けてもらえますか?」
私がひといきに言うと、きょとんとしていたおばあさんの口元に笑みが浮かんで、優しさが顔いっぱいに広がった。
「ありがとう。そうね。届けておきます」
「ご迷惑じゃないですか? その、リュウキくん? のお家、遠かったら――」
「いえ、近いですよ。駅の近くに中学校があるでしょう。その辺りなんで。もともと、別の届けものもあったから、ちょうど良かったですよ」
おばあさんは、私へ優しげに細まった目を向けた。
「力也のこと、心配してくれてありがとう。山崎さんみたいな優しい友だちに囲まれて、最近の力也は毎日とても楽しそうなのよ。こっちに戻ってきたばかりの頃からは、信じられないくらい本当に毎日幸せそう」
おばあさんは、ふぅと浅く息をついた。
「今は、ちょっと気持ちの整理がつかなくなっちゃってるだけだと思うの。だから、しばらくして落ち着いたら、すぐ元気に学校にも行くからね。それに、こういうこと、初めてじゃないから大丈夫よ」
穏やかで優しい、けれどやっぱり疑問を差し挟む余地がない感じの口ぶりだった。
「ありがとうございます」
本当はいろいろ聞きたいけれど、それができる雰囲気じゃなかったから、私にはそういうしかなかった。
帰り道、お母さんにちょっと怒られた。力也くんいないって知ってたなら、遠慮しなさいよ。親切にああ言ってくれたけど、迷惑よ。本当に、全く。
家に帰ると、けれど、お母さんは私への文句を全部お腹にしまったらしく、ご機嫌な様子で私の好物のハンバーグやクリームシチューを運んできた。食事の後は、五分の一ほど欠けた誕生日ケーキに十二本のろうそくが立てられた。灯された火を吹き消した私を、お母さんもお父さんも拍手でお祝いしてくれた。
三角形に切り分けられたケーキ。その先の細くなったところをフォークで切って食べる。口に入れた瞬間にクリームが溶け、ほんのりと甘さが広がり、気持ちがふわっと軽くなる。おいしい。おいしい。だから心もやわらかくなる。
リッキーも、今、このケーキを食べているだろうか。食べて、この甘さを、このおいしさを感じて、こんな風に気持ちが軽やかに、心がやわらかになっているだろうか。そうだったら、嬉しい。リッキーが私と同じものを食べて、私と同じようにおいしい幸せを感じてくれて、そうして少しでも気持ちが楽になったとしたら、すごくすごく、嬉しい。
「リッキー、家出しちゃったってこと!?」
「そうかも。でも、行先は分かってるって言ってたから、無事ではあるはずだけど」
私が言うと、上島くんが困ったような顔をした。
「どこにいるんだろう?」
うーん、とみんなで首をひねった。おばあさんが知っていて、すぐ連絡ができて、リッキーが頼って行けるところ……。
「ゴリラかな……」
私がボソリとつぶやくと、みんなが目を丸くした。私は声に力を込めた。
「ゴリラのとこかもしれないよ。だって、あの人はリッキーのいとこなんでしょ? だったらあの人もおばあさんの孫なんだし、お父さんかお母さんはおばあさんの子どもってことじゃん。すぐ連絡もできる。東鴨野中の生徒なら歩いて行ける距離に住んでるはずだから、リッキーだって一人で――」
「君たち、何してるんだ?」
話の途中で、不快さがぎゅっとつまった、冷たい声がした。ドキッとして振り返ると、少し癖っぽい、カラスみたいに艶のある黒い髪をした男の人が、スマートフォンを片手に立っている。担任の先生と同じくらいに見えるから、歳は三十前後だろうか。背はそう高くはなかったけれど、唇を一の文字みたいにまっすぐ閉じ、睨むように目を細めた表情は威圧的で、見た瞬間、口調の鋭さを余計にきつく感じた。
「ここは余所の家だろ。迷惑だ。どこか他のところで遊びなさい」
「余所の家じゃない! 友達ん家だよ!」
宮崎くんが声を上げると、男の人の眉間がいっそう険しくなる。
「友達の家は余所の家だ。いいから行くんだ」
男の人は、そう言って私たちの前へぐいと体を入れて、門の横のインターフォンを押した。それからこっちへ振り返って、うるさいハエでも見るみたいに、目を細める。
「行こうよ……」
上島くんが、ためらいがちに言う。だって、と私が文句を言いかけた時、インターフォンから声がした。
『はい』
おばあさんだ。
男の人は、私たちにかけたのと同じくらい尖った声で応じた。
「オレだ。入るぞ」
『ああ、近藤さん、早いですね。今から行きます』
「いい、自分で入る」
近藤さんと呼ばれたその人は、大きな音がなるくらい乱暴に門の向こうへ足を踏み出した。私たちは、彼がリッキーの家の中へ消えていくのを黙って見ているしかなかった。
もう一度、中に入ろう。宮崎くんがそう言っても、上島くんは首をブンブン振って反対した。またあの人に怒られるよ。人ん家に勝手に入んだもん。怒られて、当然だよ。やりたくもない悪いことして、怒られたくない。
「かみっちょ、リッキーのこと心配じゃないのかよ?」
宮崎くんが、珍しく声をすごめた。目にも真剣な怒りがこもっている。上島くんの表情へ、悲しそうな気配が差した。
「心配だよ。でも、怖いもんは怖いし、嫌なもんは嫌だ。怖くて入っていけないからって、薄情な奴みたいに言われたくない」
宮崎くんは悔しそうに唇を噛んでうつむいて、それから顔を上げると、
「じゃあ、オレ、一人で行ってくる」
ぱっと門の方へ向き直った宮崎くんを、待って、という声が止めた。清水さんだ。
「私も、やめといた方がいいと思う。だって、なんか……」
そこで清水さんは声のボリュームを下げた。
私たち、知っちゃいけないこと、知っちゃいそうな気がする。
それは私も感じていた。知っちゃいけないこと。リッキーの家の秘密。それが少し、見えてしまった。たぶん、今中へ入ったら、もっともっといろんなことが見えてくる。それは、バクバク心臓が暴れるくらい気になることで、でもすごく怖いことだ。
清水さんは、ゆっくり息をついた。
「あと、私、あの人、どっかで見たことある気がする。思い出せないけど……」
「え?」
私、宮崎くん、それに上島くんの声が重なった。清水さんは、ハッとしたように声の調子を戻す。
「分かんない。勘違いかもしれない。なんとなくってくらいだから」
そっか、と言って、私たちはみんな、深くは聞かなかった。宮崎くんも、肩を落とし、もう中へ入ろうとは言わなかった。その代わり、彼はゴリラにLINE送ってみると言い、スマートフォンを取り出した。
「よし、これで、ひとまず返事を待つしかないな」
黙って宮崎くんが連絡する様子を見つめていた私たちは、みんなで深く息をついた。肺を空っぽにした私の胸は、不安に大きく波立っていた。
でも、きっとリッキーはゴリラのところにいる。そして、ゴリラのところにいれば、きっとリッキーは大丈夫だ。だって、ゴリラは自分が大ケガしたその日に、リッキーを心配して訪ねて行ったんだから。そのくらいリッキーを気にかけてるんだから。
それから、四時を知らせる鐘が鳴るまで、私たちは、近くの公園でなんとなしに一緒にいた。その間、宮崎くんは何度もスマホを取り出して確認していたけれどゴリラからの連絡はなかったらしい。肩を落とした彼の反応に私もがっかりした。
「ゴリラが何か言ってきたら、教える」と宮崎くんが約束すると、私たちは解散した。
帰宅するまでの間、一人で黙々と足を動かしつつ、私はずっとグルグルグルグル考えていた。おばあさんは「あの子も許せないところがあったのだと思う」と言っていた。それに「私は助かっている」「私一人であの子を養ってはいけない」とも。それって、電話の相手からお金の面で助けてもらっているってことじゃないだろうか? そして、リッキーはそのことが嫌で出ていってしまった、とか。じゃあ、電話の相手は誰なんだろう? そう思うと、さっきの、あの、癖のある真っ黒な髪をした人の顔が浮かんでくる。やっぱりあの人なんだろうか? あの人が電話の相手で、おばあさんにお金を渡しているのだろうか? でも、なんでそんなことするんだろう? もしかして、あの人がリッキーの――と頭で言葉にしかけると、ゾッと首筋が寒くなり、私はその考えを振り払った。そんなわけない。義理の息子とは思えないくらい、あの人のおばあさんへの態度は、偉そうだったじゃないか。きっと、もっと別の何かがあるんだ。
頭の中で粘土みたいにおばあさんの言葉やあの男の人のことをこねくり回しているうちに、気がついたら家の前まで来ていた。
「ただいま」
ドアを開けると、おかえりー、とリビングから返事が来た。お母さんの高い声に、もう一つ、低く底から響くような声が重なっている。お父さんだ。
「お父さん、今日、早いね」
リビングへ入り、ソファにどかりと座ってテレビを見るお父さんの広い背中に向かって声をかけた。お父さんが振り返り、機嫌良さそうに目を細めた顔が現れた。
「早いねって、お前、今日誕生日だろ」
ハッとなった。十二月七日。確かに私の誕生日だ。リッキーのことばかり考えていて、すっかり忘れていた。
だから早く帰ってきたのに。お父さんは笑い混じりに言って、冷蔵庫を指さした。
「お前の好きなケーキ、買ってきたぞ。でっかいの」
冷蔵庫へ行き、開けてみれば、お父さんの言った通り、大きな四角い箱が三段に分かれた冷蔵室の一番下を占領していた。
「そんなに大きいの、食べきれないって言ってたのよ。全く」
台所の流しで洗い物をするお母さんが、私が思ったのと同じことを口にした。
食べきれない。
でも、頭の中で言葉にしてみると、急にぽっと灯りがともったように思いついた。すごく素敵なことを。今すぐに、やりたいことを。
「お母さん、これ、ちょっと切って友だちにあげてもいい?」
お母さんは、突然耳慣れない言葉を聞いたみたいな顔をして、私を見た。
「友だちにって、今から? 誰に?」
「誰でもいいじゃん」
私は箱を取り出し、切って、とお母さんに突き出した。お母さんは疑うように眉を寄せて、私を見ている。
「だって、今日は私の誕生日でしょ。私のしたいことしたって、いいじゃん」
そうだ。誕生日だ。そう思うと気持ちが大きくなって、多少のわがままも、無理も、押し通していいような気がしてくる。誕生日をいい日にする権利くらい、私にはある。
まっすぐ見つめ返すと、お母さんは、はぁとため息をついてケーキを切り分けてくれた。
お母さんと一緒に、すっかり暗くなった道を歩いた。本当は一人で行きたかったのだけど、お父さんが「暗くなってから女の子が一人で出歩いちゃだめだ」とお母さんについて行くように言った。お母さんは、私の横でブツブツ文句を零していた。なんで自分で行かないのよ。どうせテレビ見てるだけじゃない。私はこれからご飯の支度もお風呂の用意もしなくちゃいけなくて忙しいのに。でも、しばらくすると私の方へ顔を向けて、聞いてきた。
「榎本くんの家?」
言い当てられて、ドキリとした。
「うん」
私はなんで分かったの? と目で訴えた。お母さんは笑う。
「あんたの考えつくようなことは、すぐ分かる」
そうしてそっと、大切な言葉を手渡すように、
「榎本くんが好きなんでしょ?」
今度は心臓が飛び上がるくらい、びっくりした。とっさに見ると、お母さんは優しく目元をゆるめて、あんたの考えてることは分かるの、と言った。
「あの子、昔からいい子だったもんね。今はちょっと感じ変わったけど、でも、いい子なんでしょ?」
私がうつむいてうなずくと、お母さんの笑う気配がした。
「メガネ取るとかわいいしね」
またドキッとした。そうだ。かわいい。リッキーはお母さんによく似ていて、素顔はとてもかわいいのだ。メガネのせいで目がギョロギョロして変な顔に見えるけど。
話している間に、リッキーの家に着いた。いつもリッキーがみんなを待っているところは、門が閉まっていた。昼間は常に開け放たれているので、私はここに扉があることにすら気づいていなかった。門扉のすぐ横のインターフォンを、お母さんが押す。
『はい』
インターフォンから声がした。お母さんが、普段より少し声のボリュームを上げて応じる。
「いつもお世話になっています、山崎です。娘が力也くんに渡したいものがあると言っていて、夜分に失礼なんですが、受け取っていただけますか?」
お待ちください、という声がし、冷たく感じるほど急にインターフォンの向こうの気配が途切れた。
でも、小走りにやってきたおばあさんは頬にやわらかな笑みを浮かべていて、「わざわざすみません」と言うその声にも表情があった。機械を通すだけで、こんなにも感じが変わるんだな、と思う。
「せっかく来ていただいたのに、申し上げにくいんですけど、力也は、今、家にいないんです」
「ゴリラの家でしょ?」
つい言葉が出て、すぐに、しまった、と後悔した。おばあさんの眉間でかすかに疑問の気配が漂った。
「ええ、そう。リュウキくんのところ。どうして知ってるの?」
どうしよう。家に忍び込んで電話の内容を聞いたなんて言えないし――。困った末、とにかく渡してしまおうと、私はおばあさんに向かってケーキの包みを差し出した。
「あの、ケーキです。私、今日誕生日で、お父さんが大きいケーキ買ってきてくれたから、リッキーにも食べてもらいたくて。すごくおいしいから。おいしいもの食べたら、私は元気になるから。だからゴ――リュウキくんの家に届けてもらえますか?」
私がひといきに言うと、きょとんとしていたおばあさんの口元に笑みが浮かんで、優しさが顔いっぱいに広がった。
「ありがとう。そうね。届けておきます」
「ご迷惑じゃないですか? その、リュウキくん? のお家、遠かったら――」
「いえ、近いですよ。駅の近くに中学校があるでしょう。その辺りなんで。もともと、別の届けものもあったから、ちょうど良かったですよ」
おばあさんは、私へ優しげに細まった目を向けた。
「力也のこと、心配してくれてありがとう。山崎さんみたいな優しい友だちに囲まれて、最近の力也は毎日とても楽しそうなのよ。こっちに戻ってきたばかりの頃からは、信じられないくらい本当に毎日幸せそう」
おばあさんは、ふぅと浅く息をついた。
「今は、ちょっと気持ちの整理がつかなくなっちゃってるだけだと思うの。だから、しばらくして落ち着いたら、すぐ元気に学校にも行くからね。それに、こういうこと、初めてじゃないから大丈夫よ」
穏やかで優しい、けれどやっぱり疑問を差し挟む余地がない感じの口ぶりだった。
「ありがとうございます」
本当はいろいろ聞きたいけれど、それができる雰囲気じゃなかったから、私にはそういうしかなかった。
帰り道、お母さんにちょっと怒られた。力也くんいないって知ってたなら、遠慮しなさいよ。親切にああ言ってくれたけど、迷惑よ。本当に、全く。
家に帰ると、けれど、お母さんは私への文句を全部お腹にしまったらしく、ご機嫌な様子で私の好物のハンバーグやクリームシチューを運んできた。食事の後は、五分の一ほど欠けた誕生日ケーキに十二本のろうそくが立てられた。灯された火を吹き消した私を、お母さんもお父さんも拍手でお祝いしてくれた。
三角形に切り分けられたケーキ。その先の細くなったところをフォークで切って食べる。口に入れた瞬間にクリームが溶け、ほんのりと甘さが広がり、気持ちがふわっと軽くなる。おいしい。おいしい。だから心もやわらかくなる。
リッキーも、今、このケーキを食べているだろうか。食べて、この甘さを、このおいしさを感じて、こんな風に気持ちが軽やかに、心がやわらかになっているだろうか。そうだったら、嬉しい。リッキーが私と同じものを食べて、私と同じようにおいしい幸せを感じてくれて、そうして少しでも気持ちが楽になったとしたら、すごくすごく、嬉しい。
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『オレはこいつの「半分ヒーロー」』で「BL小説大賞」に参加しています。よろしければこちらもご覧ください。
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