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元婚約者

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「ええと、天文館、さん?」
 さやかが言うと、彼女は赤い唇を歪めた。
「ふうん。覚えていたのね」
「ええと、何で私の家に? なんのご用が……?」
「あなたに話があってきたのよ」
 すると彼女は顔を顰めた。
「少し待っててあげるから、その格好改めたら?」
 彼女はさやかの頭越しに、ちらっと部屋を見た。
「まぁ、けっこうなお住まいね。このへん、どこか話ができるところないの?」
 さやかはとまどいながら口にした。
「少し行ったところに、喫茶店がありますけど……」
 すると、彼女は傲然と言った。
「じゃ、そこでいいわ。案内して」

 彼女の押しの強さに逆らいきれず、さやかは寒い中、着替えて外に出た。
 彼女の声には、生まれながらにして人を従わせる圧のようなものがあった。
(なんだろうーーザ•お嬢様って感じ……?)
 さやかのごとき庶民が逆らうなど許されない。そんな雰囲気だった。隣に従うスーツの男も、ガタイがよくて地味に怖い。
(でもなんの話? この人と接点なんて、ほぼないのにーー)
 不安に思いながら、さやかは喫茶店のテーブルについた。適当に注文を済ませると、彼女は斜向かいから威丈高に切り出した。
「それであなたーー私と祐一郎さんの関係のことは、知ってるの?」
 やはり、小鳥遊がらみか。さやかは慎重にうなずいた。
「お知り合いだと、伺いましたが……」
 すると彼女は、唇を歪めて笑った。
「かわいそうに。なにも伝えられてないのね。それなのに、家に泊めたりして、尽くしちゃって」
 さやかはさすがに怖くなった。
「な、なんで彼が泊まったって、知って……?」
 その言葉に、彼女はふんと鼻を鳴らした。完全に、憐んでいる笑みだった。
「ああ、なんてこと。まったく、もうーー」
 彼女は首を振った後、冷たい微笑みを浮かべながら言った。
「ごめんなさいね。祐一郎さんが不誠実な事をして。婚約者として、謝ります」
「ーーーえ?」 
 わけがわからなくて、さやかは呆然とした。
 婚約者? 誰が誰の?
 だって先ほどまで、小鳥遊とさやかは水入らずの時間を過ごして、同棲の約束まで交わしたのだ。
 まるで突然車がぶつかってきたかのような、意味不明の貰い事故をした気分だ。さやかは震える声で、なんとか聞いた。
「あの……何かの、人違い、とかではありませんか?」
 しかし彼女は、つめたくフッと鼻で笑った。
「かわいそうに、同情するわ。あなたーー彼に遊ばれたのよ。まったく困ったものだわ。婚約者がいながら、また他の女性に手を出して」
 そこまで言われて、さやかはやっと、天文館嬢の言わんとすることが理解できた。
(この人が、祐一郎さんの婚約者、ってことーー?)
 さやかは動揺しながら聞いた。
「で、でも、婚約者がいるなんて、聞いてませんが……」
 すると彼女は、ふっと笑った。今度は蔑む笑みだった。
「そんなのーーあたりまえでしょ。浮気相手に本当のことを言うわけないじゃない」
 それもそうかーー。混乱しながらも、さやかは思った。だけど。
(嘘、祐一郎さん、ずっと私に嘘をついてたの? 一緒に住もうって言ったのは?)
 彼の言った言葉も、態度も、全部嘘だったのだろうかーー。そう思うと、さやかは心臓を床におとしてしまったかのように、ひゅんと冷たい気持ちになった。だが。
(本当に、私が遊び相手だとしたら)
 わざわざ週末をつぶして、楽しくもない田舎の実家に来るだろうか。
 一緒に住みたいと、神社でお祈りしてまで切り出してくるだろうか。
(全部嘘だったとは、思えないーー)
 「君を守りたいと思った」と言った小鳥遊の優しい笑顔を、「ごめん、引いた?」と少ししょんぼり傷ついた彼の顔を思い出して、さやかは不安を振り払い、顔を上げた。
「お話はわかりました。天文館さん。おっしゃるように、あなたが婚約者で、私が遊び相手なのかーー祐一郎さんに聞いて、はっきりさせましょう」
 彼女と鉢合わせたブティックで、彼は単に天文館嬢を「知り合い」と紹介した。本当に婚約者なら、これは不自然だろう。
 すると、痛いところをつかれたのか、冷たい笑みを浮かべていた彼女の顔が、わずかに引き攣った。
「もしそれで彼が認めたら、私はあなたに謝罪し、小鳥遊さんとの関わりは断ちます」
 すると彼女は、となりの男に目配せをした。
「そうは道理が通りませんよ、亀山さやかさん」
 彼は持っていた書類カバンから、一枚の書状を取り出した。
「申し遅れました、私弁護士の相原と申します。今回、亀山さんが小鳥遊さまと円満にお別れいただくよう、麗美お嬢様からおおせつかりまして」
 さやかは目が点になった。
(は……? 弁護士? お別れいただくって……)
 そんな手まで使って、さやかと小鳥遊を別れさせたいのか。さやかは恐ろしさを感じながらも、そのとんでもない提案を遮った。
「ちょっと待ってください。そういったことは、まず本人に確認してから決めます。お互いにとって、その方がいいと思いませんか」
 弁護士というからには、相手もきちんとした大人のはず。話せば道理をわかってもらえるだろう。そう思って冷静に伝えたさやかだったがーー次の瞬間、相原は激昂した。
「いいかげんになさい!」
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